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「四号警備 新人ボディガード久遠航太と隠れ鬼」試し読み(4)/安田依央

【前回】    【登場人物紹介】

きょうの警護、香の声を護る……」
 奈良はそう呟きながら放心状態で顔を覆い、カップやサイフォンを片付けている一色に「お客様、本日は閉店でございますが」と追い出されていた。
 その後、奈良は今回の警護チームから外れることになった。別に冷静さを保てそうにないから外されたとかではなく、本人から申し出たそうだ。いわく「考えに考えたんやけど、やっぱり自分には畏れ多くて、香のお側には寄ることができません」ということらしい。
 香の素顔はもちろん、プライベートな姿まで垣間見る可能性のある仕事だ。それを見て、万が一にも幻滅するようなことにはなりたくなかったようだ。
「四人で回せるか? うちから何人か引っ張るか」というそうびに、烈は首を振る。
「ありがたいが、多分大丈夫だと思うぜ。二十四時間ぶっ通しでの警護要請があるわけではないんでな。空きの日も結構あるようだし、あとは航太が頑張ってくれれば十分さ」
「え、あ、はい。頑張ります」
 いつまでも研修中の新人だからと甘えているわけにはいかない。一人前とはいかなくともせめてマイナスの員数にはならないようにしなければと気を引き締める。
 任務内容を聞いた感じでは二十四時間体制の警護が必要ではないかと思ったが、烈の言う通り、今回、警護に就くのは音楽関係の現場へ向かう日のみと決まっているそうだ。行き帰りの道中と現場での警戒が主になる。
「いいかい。明日の君は就活生だ」
 夕方、社内で通りすがりに突然宣言され、ぽかんとする航太に烈は愉快そうだった。
 香の行動は基本シークレットのため、ビルの界隈にあまり仰々しい姿の警護員が立っているのもまずいので、就活生を装うことになったのだ。
「就活……ですか」
 複雑な気持ちで呟く。
「そうだぜ。カフェで時間を潰そうという頭も回らないほど緊張してる初々しいタイプの学生な。間違っても一色みたいなふてぶてしい存在感は出さないでくれよ。まあ、君はあんなタイプじゃないが」
「誰がふてぶてしいのでございますか?」
 気配を消して背後に立っていた一色に言われ、振り返った烈は「おっと」と肩を竦めた。
「新卒採用面接で老舗デパートに行かれた際、控え室を清掃なさっていた清掃員のご老体にわざわざ話しかけに行かれ、何故か意気投合して盛り上がり、面接で再会したところで、なんだ君が社長だったのかい? などと喜んで話の続きを始め、これほどの大物は見たことがないと重役たちの顔色を失わせたあなたの話でしたでしょうか?」
 デパート? 何それ本当に? と思ったのだが「いいじゃないか。結果的に採用されたんだから」などと言い合いながら二人でどこかへ行ってしまったので真偽は不明だ。
 というわけで警護初日、航太がいるのはラジオ局の裏口が見渡せる場所、片側一車線の車道と遊歩道を挟んだ反対側だった。
 ラジオ局の建物は裏口が大きく開いており、地下駐車場に直結する構造だ。芸能人は大抵ここから車で出入りするらしい。
 今回、香がここへ来たのは人気深夜番組の収録のためだ。サプライズゲストとして登場することになっている。何となくマスメディアには一切出ないのかと思っていたが、ラジオには結構出演しているようだ。来年の四月からは冠番組を始めることも決まっていると聞いて、またしても奈良が悶絶していた。
 ただし現在のところ生放送の出演はNGだ。何しろそこに香がいることが電波に乗って広まってしまうのだ。出演後の香を一目見ようとする人々が集まって収拾がつかなくなる恐れがある。そんなわけで事前に収録したものをオンエアするらしい。
 香とマネージャーは、既に烈が運転するユナイテッド4の車でラジオ局の中に入っていた。車には一色が同乗しており、降車後は烈と一色の二名を配置し、安全を確保する手はずだ。本日は彼ら二人と航太の三名体制だ。
 警護対象者が女性の場合もっとも近い場所にはそうびが立つことが多いが、香の場合どこへ行くのも女性マネージャーがぴったり隣に張りついており、その必要がないと言われている。マネージャーがどうしても同行できない場合のみそうびが配置される予定だ。
 航太は向かいに立つビルを見上げた。八階建ての瀟洒な建物だ。ビル内はクーラーが効いていて涼しそうだなと思うが仕方がない。
 航太に与えられたポジションはラジオ局の外周。不審な人物や車がないか見張る役割だ。それにしても暑い。時刻は午後二時を回ったところ。九月も中旬というのに真夏のような日ざしが遠慮なく降り注いでくる。基本通りスーツを着用しているので暑さ倍増だった。
 香を乗せた車が来る四十分前から航太はここにいる。もっとも就活生を装うといっても特別な用意をしたわけではない。就活の時に使っていた鞄を今も通勤に使っているのでそのまま肩から斜めがけし、スマホを手にして、時間を潰しているように見せているだけだ。
 緊張に関しては何の問題もなかった。装うまでもなく本当に緊張しているからだ。一応注意すべき点などは昨日烈に教えてもらっているし、このような任務に就くのも初めてではない。ただ、一人でポジションを担当するのは初めてだ。その辺に潜んでいるパパラッチを自分が見逃したことで香が危険にさらされては大変なので気が抜けなかった。
 香がこの放送局の番組にゲスト出演することは公にされていないし、当然収録日時も秘密だ。それでもこの仕事に絶対はない。どこからか情報が漏れることだってあり得る。警護員たる者、常に最悪のケースを想定しておかなければならないと教えられていた。
 航太はガードレールに腰かけて、スマホと腕時計を交互に見ては、ラジオ局の建物や周囲に目を配り、内心ではラジオ局に面接に来たアルバイト志望ぐらいには見えるだろうかなどと考えている。
 あ、まただ――。
 ここへ来て、もう一時間は経っている。さりげなく周囲の人物を観察しているが、今のところ特に怪しい人物はいない。斜め向かいにある公園のベンチで弁当を食べているサラリーマンや車を停めて昼寝をしている工事関係者風の男性たちは勝手に疑って申し訳ないと思いながらも一応、気をつけて見ていた。
 問題は、これでもう何回目になるのか分からないこの人物の登場だ。
 ああっ、もう――。我慢できなくなってガードレールから立ち上がり、声をかけた。
「あの、大丈夫ですか? 何かお困りですか」
 びっくりしたように顔を上げたのは老婦人だ。元々小柄な上に腰と背中が曲がっていて航太の身長の半分ぐらいしかない。服装にも違和感があった。この暑い日に長袖のセーター、足もとは裸足、左右不揃いの運動靴だ。
 先ほどからこの女性が航太の目の前を何往復もしているのに気づいていた。任務中だ。気を散らしてはいけないと分かってはいるが、どうにも気になって仕方がなかった。
 彼女は目を泳がせ、もう一度航太の顔を見上げると、恐る恐るといった様子で口を開く。
「私はどこへ帰ればいいんでしょうか」
 ああ、やっぱりそうかと思った。前の警備会社でショッピングモールの巡回をしていた際、一度認知症の老人と出会ったことがあった。その時と雰囲気がよく似ていたのだ。
 それにしても困ったなと思う。自分はこの場所から離れることができない。
「ここへは歩いてこられたんですか? お家の方はご一緒ではなかったですか」
 膝を曲げ屈み込むようにして目線を合わせ訊くが、困ったように首を傾げるばかりだ。
「もしお家の電話番号がお分かりでしたら、俺が電話をかけますけど……携帯とか何かお持ちではないですか?」
 やはり答えが返ってこない。何か手がかりになるものはないかと色々質問を変えながら、スマホで近くの交番を検索してみるが、今いる場所から三百メートルも離れていた。
 110番することも考えたが、間もなく収録を終えた香が出てくる予定の時刻だ。入口に警察官がいては注目を惹いてしまうだろう。それはまずい。だからといっていつまでもこの女性を放置しておくわけにもいかなかった。困りながら公園脇の自動販売機でお茶を買い、飲ませようとしたところで声をかけられた。
「お兄さん、優しいな」
 ちょっと高めのハスキーボイスに振り返るとスレンダーな少年が立っていた。
「あ? え?」
 少年といっても高校生ぐらい、あるいはもう卒業しているのだろうか。何とも不思議な透明感がある。
 話しかけるだけ話しかけておいて、当人は空を見上げガムを噛んでいた。髪は短い。野球部なのかと思ったが、多分そういうのではない。ふわっと毛先がカールした髪の色はグレーというか銀色みたいだ。耳にはピアスが沢山ついている。だぼっとしたカーゴパンツに白のこれまたオーバーサイズのパーカー。何気ない服装なのに妙におしゃれだった。身長は航太よりかなり低いが、高校生ではなくきっとモデルとかダンサーとかなのだろうと理解した。あまりそういった人たちと交流がないのでよく分からないが、何かしら気が向いて通りすがりに話しかけてきたに違いなかった。
「お名前を聞かせていただけますか」
 こくこくとお茶を飲んでいる老婦人に聞くが、困ったように首を傾げるばかりだ。
 香が出てくる時刻が近づいてきている。周囲を見回し、つい焦って時計を見てしまう。
「お兄さん、就活中? これから面接?」
 そっけない口調で訊かれ、そちらを見ると彼はガムを膨らませているところだった。甘いブルーベリーの匂いがする。
「まあそんなところです」
「じゃあそっち行きなよ。僕がこのおばあちゃん交番まで連れてってやるからさ」
「え、いいんですか?」
「いいよ別に」
 助かりますと頭を下げる航太に少年は手をひらひらさせてから老婦人の手を取った。
「んじゃ、おばあちゃん行こうか」
「どこに行くの?」
「んー? 交番。お巡りさんにおばあちゃんのお家探してもらおうな」
 怯えたような老婦人に少年はマイペースを崩さず、それでいて少しだけ優しい言い方をして彼女の歩幅に合わせて歩き始める。
 二人が角を曲がるのを見送ったところでスマホのバイブが振動した。一色からだ。
 異状がない旨を報告すると、間もなく駐車場から車が出てきて、航太の前を通り過ぎる。
 運転席には烈、後部座席には香とマネージャーの姿があった。香は長い髪を隠すように目深にキャップを被り、マスクをつけてシートに深く凭れている。
 ほっとして、持ち場を離れた。
 このまま地下鉄で会社に戻る予定だったが、少し遠回りをして交番を覗いてみる。老婦人が座り警察官が聞き取りをしているのが見え安堵したが、少年の姿はないようだ。老婦人を託して立ち去ったのだろう。ちょっと変わってたけどいい子だったなと思いながら、ハンカチを取り出して額に浮かぶ汗を拭った。
 香の警護がスタートして一週間。その間、航太は何度か香と会っているが、一度も肉声を聞いたことがなかった。それどころか顔もほとんど見ていない。彼女はいつも人目を憚るようにキャップをかぶりマスクをして俯いているし、車中や待ち時間などには目をつぶっていることも多く、スタッフの誰かが話しかけたとしても答えるのは隣にいるマネージャーの女性なのだ。あの力強い歌声の持ち主がこんなにも物静かであることに驚く。
 マネージャーの名は小川おがわ可也子かやこ。恐らく五十代だと思われるが、何というか年齢不詳だ。シャープに切り揃えたおかっぱの髪にパンキッシュなメイク。いつも派手な幾何学模様の個性的な洋服を着ている。マネージャーというよりはデザイナーとか言われた方がしっくりくるようだ。この人の存在感が強すぎて、ますます香の影が薄くなってしまう。一瞬、実はこちらが本物の香なのではないかと考えたほどだ。
 現在、香は来週行われるライブのためのリハーサルにかかりきりだ。ほとんど毎日、スタジオと事務所への往復で終わる。
 これについては少し不思議な気がしていた。事務所から自宅への移動には警護をつけなくていいのだろうかと思ったのだ。
 リハーサルが行われているのは海沿いの倉庫街にあるスタジオだ。倉庫のような建物内にいくつかスタジオがある。今回、香が使っているのはもっとも広いリハーサル用のスタジオだ。百畳ほどの広さがあり、本番さながらのリハーサルができるそうだ。もっともスタジオ入口のぶ厚い二重扉から先への立入りが許されているのは烈と一色だけ。航太は基本、外周の配置なのでほとんど建物の外にいる。
 二度ほどスタジオの前まで入ったことがあるが、その際に垣間見たのは、強いエネルギーを感じさせるマネージャーと、待合用のテーブルに所在なげに座る香の姿だった。
 香はあまり生気がないというのか、実体が薄いみたいだ。ちょっとマネキンのようにも思えた。ほとんど動かない香とは違い、可也子は忙しそうに周囲を見回しスタッフに頭を下げているか、話をしている。
「あの人はマネージャーであり、香のプロデューサーでもあるそうだ」
 十一時過ぎ。彼女たちを送り届けた後、海の方を見て眩しそうに目を細めて烈が言う。
「全然別の仕事のような気がしますけど」
 よくは知らないが、プロデューサーというのは何となく偉そうに机でふん反り返っているイメージだ。対するマネージャーはタレントのスケジュールを管理したり、身の回りの世話を焼く仕事のように考えていた。
「だよな。俺も驚いたが、路上で歌っていた香を見出してあそこまで売り出したのはすべて彼女の手腕だそうだ」
 香を売り出すための戦略を立てているのも可也子だという。
「じゃあ、今回のU4への依頼も?」
「もちろんさ」
 ということは、香の顔を出させないのも戦略の一つなのかも知れない、なんて考えた。
 あれ? と思って足を止める。海に沿ってぐるりと建つ波よけ壁の上に誰かが腰かけているのが見えた。俯いて動かない姿にちょっと心配になり、烈の許可を得て近づいてみる。
 様子を見て何事もなさそうならそのまま通り過ぎるつもりだった。キャップをかぶった少年だ。ふさぎこんでいるように見えたが近づいてみるとどうやら熱心に海を覗き込んでいるだけのようだ。安堵し、さりげなく後ろを通り過ぎようとしたところで彼が顔を上げて振り向いたので、ばっちり目が合ってしまった。
「あれ? この前のお兄さん」
 びっくりした。耳に沢山のピアス。先日の銀髪ベリーショートの少年だ。だぼだぼしたパーカーとボトムによく見ると今日もガムを噛んでいる。確かに先日のラジオ局からさほど遠くない場所だ。ゆりかもめに乗れば十分もかからない。それにしてもすごい偶然だった。ともあれお礼を言う機会があってよかったなと航太は単純に喜んでいた。
「この前はありがとう。助かりました」
「別にいいよ。面接どうだった?」
 そっけない感じで訊かれ、言葉に窮する。
「えーと。あ、まあ、おかげさまで……」
 嘘を重ねるのが心苦しくて歯切れの悪い返答になってしまった。
「今日も面接?」
 少年が航太のスーツを見ながら訊く。
「あー。まあ……」
 まさか本当のことを言うわけにもいかない。困ったなと思う航太に少年は海側に下ろしていた足を上げ、波よけ壁の上にあぐらを組んで座り込むような姿勢になった。
「優しさって、どこから来るんだろうな」
 唐突な言葉に、は? となる。
「だってお兄さん、優しいじゃないか。この前のおばあちゃんもだし、今だって僕が海に落ちるんじゃないかって心配して見に来たわけだし」
 どうやら読まれていたらしい。くらげが浮き上がってくるのが面白いんだと海面を示され、航太は恥ずかしくなった。
「特別優しいってこともないと思うんですけど」
「いいや。優しくされるってことは、僕もあのおばあちゃんみたいに何か足りてない、かわいそうな人に見えたってことだろ。まあ、ある意味当たってるんだけど」
 ひとり言のような少年の言葉に、気を悪くさせてしまったのかと思った。
「いや別に、かわいそうな人だと思ったわけじゃないんですが」と言いながら航太自身首を傾げている。あの老婦人にしたってかわいそうだと思ったわけではないのだ。ただ、航太自身が相手を放っておけないだけだ。
「もし気分でも悪かったら大変だなと思っただけで。気に障ったならごめんなさい」
 潔く頭を下げる航太に少年は驚いた様子で身を引いた。
「へ? いや、こっちこそ何かごめん。別に君を責めるつもりで言ったんじゃなかったんだけど……ってか、素直な人だな」
 少年は照れたように横を向いてしまう。その顔が赤くなっているのを見て、君の方が素直なんじゃ? と思ったが言わずにおいた。
 喜んで会話に入って来そうな烈はと見るといない。ヤバい。
「あ、じゃあ、俺もう行くんで。海に落ちないように気をつけて下さい」
「落ちない」
 走り出し、烈を探す航太の後ろ姿を追いながら少年がガムをぷうっと膨らませた。

「あなた、ユナイテッド4の人?」
 不意にスタジオ入口で声をかけられ面食らった。可也子だ。今日は一色がライブ会場の下見に行っており、烈とそうびが香の身辺に付き添っている。そうびは香の着替えに同行しており、烈はユナイテッド4の車を駐車場へ回すために不在だ。
 そうですと頭を下げると、可也子がずいずいと値踏みするような目で迫って来る。
「あの、何か?」
「今、香は浦川さんが見てくれてるから安心でしょ。ちょっと付き合ってくれる?」
「は、はい……」
 一体何を言われるのだろうとどきどきしながら、廊下の隅にある喫煙ブースに連れて行かれた。他に人はいない。
 本日は香のリハーサルスタッフだけでもかなりの人数がいる。バンドメンバー、コーラスやダンサーに音響機器や照明からセットを組む担当者まで、だだっ広いスタジオの中には多くの人員がいるのだ。この業界は喫煙率が高いと聞いた。実はスタジオの中が喫煙可能とされていると知って納得した。
「タバコ、君もどお?」
「ありがとうございます。ですが私は吸いませんので、小川様どうぞ」
 カチリとライターの音がして、ふーっと煙を吐き出した可也子が口を開いた。
「私が初めて香に出会ったのはあの子が路上で一人でギターを持って歌ってた時」
 頷く航太に、可也子は壁に沿って立ち上る煙の行き先を眺めるようにして続ける。
「昔は私もシンガーだった。時代に合わなくて全然売れなかったけど。言いたいことは香と同じ。曲だってそんなに悪くなかったはず。だけど、アタシらの時代って、女の子は可愛いもの、小難しいことなんて言わないものとされてたから。そこからはみ出すと生き辛いだけじゃなくて損ばかりする。それでも自説を曲げないで来た。ま、異端だよ」
 早くに生まれすぎたな、と可也子は笑う。
「最初に出会った時の香は怒ってた。あの子は多分、世の中と、そこにうまく収まらない自分に苛立ってた。内側の怒りを吐き出すようにして歌ってた。ほとばしり出てくるって感じでね。これはとんでもないと呆れた」
「そうなんですね……」
 彼女は濃い化粧に縁取られた目を細めた。
「あの子の声はすごいから、最初はみんな足を止めるんだ。だけど聴いてる方が苦しくなるような歌ばかりで、しまいには誰もいなくなって、それでもあの子は一人で歌ってた」
 意外だった。絵理沙を探して校内を走りながら聴いた曲のイメージとは随分違う。
「人間はさ、年を取るのも悪くないと思えることがいくつかある。その一つがうまくやれるようになったこと」
「うまく、ですか」
「そう。人間関係をうまくやるとか、正攻法ではダメだと思えば搦め手を考えるとか、そういう知恵が身についてくる」
 この人が香を売り出すための戦略すべてを考えているんだったなと考える。
「私は随分損もしたけど、世の中を外側から見る目は養われた。その時に考えた、もし自分が今この知恵を持って二十歳に戻れたらきっと時代を席巻するようなシンガーになれるだろうなって。だけど、そんなことできるはずもない。時代を間違えた人間はそのまま消えていくしかないと諦めながら悔しかった」
 可也子はダークな色の口紅で彩られた唇を尖らせ、細く煙を吐く。
「そんな時に香と出会った。あの子は以前の私と同じだ。周囲とぶつかって、ささくれ立って、損ばかりしてる。だからあの子に賭けてみることにした。私の持ってるすべてをあの子に注いで、二人で世界を手に入れようと思った。あの子にはそれだけの価値がある」
 今、自分はすごい話を聞いているのではないかと思った。もし奈良がここにいたらどんな反応をするだろうか。奈良だけではない。香のファンなら誰だって感動するだろう。
「香さんの歌っている曲はどなたが作ってらっしゃるんですか?」
 遠慮しながら訊いた。奈良に言われたからというわけではないが今回の任務に就くことが決まってから、航太は改めて香の曲をダウンロードして聴いている。
 何度聴いても飽きない。最初のインパクトはもちろんすごいものだったが、それが少しも色褪せず聴く度に新たな魅力が見つかるのだ。
 そのようなことを言うと、可也子は頷いた。
「曲を作ってるのは香自身。私の歌を歌わせるつもりはない。ただ、不器用なあの子の曲をそのまま出したんじゃ、お客の腰が引けてしまう。だから人を拒絶し殴りつけるような部分を刈り込んで、安心できるパッケージにして届ける必要がある」
 航太に曲作りのやり方が分かるはずもなかったが、才能をより分かりやすい形で見せるという意味なのだろうかと考えてみる。
「香さんが覆面歌手として活動されているのは何故ですか?」
 航太はすぐに後悔した。可也子の表情が曇ったからだ。訊いてはいけないことだったかと危惧したが、可也子は黒いマニキュアの爪で首の後ろをぼりぼり掻いて溜息をついた。
「あれは香の希望。あの子はシャイなのか何なのか、大勢の観客の前に顔を晒したくないって言うもんだから」
 路上で歌っている時から、香は頭からフードを被るようにして顔を隠していたそうだ。
「君は見たことないかな。ライブの香はそれは綺麗だ。あの目力があってこそ曲の説得力も増す。私はもっとメディアの前で素顔を晒して欲しいんだけど、本人がOKしなくてね」
 これは意外だった。何となく覆面で活動するのも戦略で、たとえば海外デビューと同時にマスメディアに登場するようなサプライズを仕掛けるのではないかと思っていたのだ。
「私と香は共に道を切り拓いていく戦友だけど、友達じゃない。あの子はあんまり自分の話をしなくてね。私はあの子の本当の顔を知らない。ある線から先にはシャッターでも下ろされたみたいで踏み込めない」
 自嘲気味に言う可也子に航太は戸惑う。
「へえ、あの敏腕マネージャーから直々にそんな話を聞いたのか」
 ユナイテッド4の社屋に戻ったところで羨ましそうに烈が言った。可也子が愚痴をこぼすことはまずなく、それどころか内部事情を一切漏らさないことで有名なのだそうだ。
「君は選ばれし民というわけだ」
「は……」
「獅子原。ちょっといいか」
「お。何だい?」
 いや、なんで俺? と思ったが、烈は大園班の誰かに呼ばれて行ってしまった。

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プロフィール
安田依央(やすだ・いお)
大阪府生まれ。『たぶらかし』で第23回小説すばる新人賞を受賞。
他の著書に『終活ファッションショー』、『ひと喰い介護』、「人形つかい小梅の事件簿」シリーズ、「出張料理・おりおり堂」シリーズ、『四号警備 新人ボディガード・久遠航太の受難』がある。
ミュージシャン、司法書士など、さまざまな顔を持つ。
イラストレーション/アオジマイコ


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