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本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第三話(下)

【前回】

         *

 山崎金兵衛に頼んだ絵双紙は、明けて安永五年(一七七六)の一月に形になった。題して『青楼せいろうじんあわせ姿すがたかがみ』である。
「よし。今回も、いい仕上がりだ」
 深い紺色の表紙が、厚みも手伝って落ち着きを醸し出している。多色刷りになった北尾と勝川の絵を見ると、うきうきした気持ちが湧き上がってきた。山崎金兵衛との談判では悔しい思いもしたが、手掛けた本が形になったのを目にすると、その悔しさも帳消しになるかのようだった。
「こいつぁ売れる。間違いなし」
 さっそく、と店先に山積みにする。人気絵師二人の名も手伝って、この絵双紙は上々の売れ行きを見せた。
 その実入りが大きかったのか、北尾が尾張屋で遊ぶ回数は少し増えた。時には勝川を伴って来ることもあり、重三郎はさらに二人と昵懇じっこんになってゆく。
 九月半ばのある夕暮れ時、その二人が連れ立ってひく茶屋・蔦屋を訪れた。重三郎は間借りの見世を離れ、挨拶しようと近付いて行く。
 すると、こちらが挨拶する前に勝川から声をかけられた。
「重さん、こんばんは。今日は、あんたに会いに来たんです」
「おっと。こりゃまた、どうなさいました」
「大事な話がありましてね。早いとこ、お耳に入れとこうと思って」
 何だろう。もしや、また何か考えてくれということだろうか。思いつつ傍らの椅子を手繰り寄せ、二人の前に座った。
 北尾が勝川を見て軽く頷く。勝川も同じように返して、おもむろに口を開いた。
「ちょっと前に、北尾さんと喜三二さんに聞いたんですけどね。通油町とおりあぶらちょうまるさんから地本の株を買い取ろうって考えてるそうじゃないですか」
「え? ああ、まあ。でも」
 朋誠堂喜三二から勧められ、資金をめてはいる。だが買い取りには五百両の大金が必要なのだ。一月の絵双紙で大きく潤いはしたが、その額にはまだ遠い。
「まあ……あと四、五年はかかると思いますよ」
 そう返すと、勝川は不安そうな顔になり、首を横に振った。
「それじゃあ遅いです」
「と、言いますと?」
「私と北尾さんは丸屋さんからも絵を出してんですけどね。私が今日お伺いしたら、向こう三年で見世を畳むって言われたんですよ」
 この間まで請け負っていた仕事が片付いたから、また何か描かせてもらえないかと言って訪ねたところ、今の話を明かされた上で断られたという。丸屋には、戯作者や絵師と既に約束している仕事が向こう三年分ある。これが終わったら商売をやめて隠居するつもりだと。
「うわ」
 眉が寄る。北尾が渋面で溜息をついた。
「その面ぁ見たところ、ずいぶん足りねえみてえだな。今、幾ら持ってる」
「二百七十と少し」
「参ったな。俺と春草さんが少し貸してやってもいいんだが……。喜三二さんも乗ってくれるだろうけど、そこまで入れても精々が百ってとこだ」
 やはり足りない。そして丸屋があと三年で商売を畳むなら、遅くとも二年後までには話を付けなくてはならないのだ。先んじて丸屋から売り出した本をどうするか、丸屋の奉公人をどうするか、彫りと刷りの職人への面通し、取次への紹介など、済ませねばならないことは山ほどある。
「私としてはね、是非とも重さんに地本の株を持ってもらいたいんですよ」
 春草は真剣な面持ちである。仕事の相手を摑んでおきたいという思いもあるだろうし、気心の知れた版元なら仕事がしやすいという思いもあるだろう。
「どうだい。やり様、何か考え付かねえか?」
 北尾の問いに、重三郎は唸った。
「打つ手がない訳じゃあありません。乗るか反るかのばくには、なりますけど」
 言いつつ、しかし重三郎ははらを固めて眼差しを引き締めた。
「でも、やってみます。勝負しなきゃ楽しくないですから」
 北尾が「お」と目を細めた。
「出たな、それ。いい面構えだぜ」
「ついては、北尾先生にお願いがあるんですけどね」
「分かってらあ。まず、丸屋におめえを信用してもらわにゃ話にならん。俺と春草さん、それから喜三二さんで口利いてやるよ」
 春草も大きく頷いた。
「重さんがその気になってくれて嬉しいですよ」
 丸屋と話し合う機会を作るから、半月ほど待ってくれ。二人はそう言って、いささか慌ただしく帰って行った。

         *

 安永五年十月の始め、重三郎は日本橋通油町の丸屋を訪ねた。北尾と春草、喜三二があらかじめ話を通しておいてくれたため、店主の丸屋小兵衛こへえは六畳の応接で先に待っていた。
「初めてお目にかかります。新吉原、耕書堂こうしょどうの蔦屋重三郎です」
「どうも。ご足労、ありがとう存じます」
 白髪頭に乏しいまげ、痩せた顔である。穏やかなこうこうといった人であった。
「早速ですが、蔦屋さん。うちの株を買い取りたいってお話でしたが」
「はい。是非に、お願いしたく存じます」
 丸屋は「はは」と笑った。
「いや、ありがたい。何しろ手前も六十を数えましてね。跡取りもいないもので」
 地本問屋株を売った金で余生を送ろうと思っていたが、誰に売ろうか悩んでいたのだという。番頭に売って商売を譲っても良かったが、その場合は大きく値引いてやらねばならない。ここ数年の商売が巧くいっていなかったため、それでは先々の暮らしに不安の種を抱えることになってしまうから、と。
「かと言って、商売もしないのに株を持ったままってのは、ねえ?」
「仰るとおりです」
「そこに、あなたから申し入れがあった。北尾さんたち、お三方のご紹介なら間違いはないでしょうし、喜んでお譲りしますよ」
 こちらの手持ちが買い取りの相場に満たないことを、丸屋は知らない。北尾にも、そこは伏せて欲しいと頼んでいた。十分な金を持っていないと知らせてしまえば、丸屋は今日の席に着くことを渋ったはずだ。
 大事なところを明かさぬままの話し合いは、言ってしまえばだまし討ちに近い。それでも今、どうしても仕掛けねばならぬがゆえ、えてそうしたのだ。
 重三郎は肚を据え、畳に両手を突いて切り出した。
「喜んで譲ると仰っていただけたこと、痛み入ります。ですが」
「ん? どうしました」
「手前には今、株を買い取れるだけの金がありません」
 そのひと事に、丸屋はあっに取られている。然る後、面持ちが沈んでゆくのが分かった。残念だ。せっかく喜んでいたのに――そういう顔をされるのは、渋い顔や怒った顔よりも居たたまれないものがあった。
「申し訳ありません。騙すつもりはなかったんです。けど」
「いえいえ。ただ、それじゃあ株を譲る訳にはいきませんなあ」
「お待ちを。続きがあるんです」
 きょとん、とした眼差しが返された。そこに、真っすぐな眼差しを向ける。
「五百両、分けてお支払いするのでは如何でしょう」
「分けて?」
 重三郎は平伏して、熱心に言葉を継いだ。金は足りない、しかし心は足りているのだ。それを分かってくれと。
「手前はどうしても、本の商売で勝負したいんですよ。本は読む人を動かせる。力がある。その力で本当にいいものを流行らせたい」
 自分が儲けたい気持ちは、もちろんある。それと同じくらい、良い本や絵の流行りを作って世の中を楽しい方に押し流してやりたい。そうすれば――。
「浮世、憂き世なんて言いますがね。楽しんで生きられたら憂さなんて感じないで済むんです。手前はそのために、人生賭けて勝負したいんですよ」
「こりゃまた、大きく出ましたね」
「ええ。ちまちました望みじゃ、人は大きくなれないって思いませんか? 手が届かないくらいの望みを持って、それに向かって懸命に歩いてったら、だいぶ近くまでは行けるはずですから」
 丸屋から思案の気配が漂っている。平伏していても、それと分かった。
 ここだ、仕掛けろ――その心に衝き動かされて、重三郎はなお語る。だからこそ、金を分けて支払ってでも株が欲しいのだと。
「今、二百七十両あります。その中から百両、手付としてお渡しします。残り四百両につきましては、毎年六十両ずつ、十年にわたってお支払いしましょう。もし払えなくなったら――」
「え? いや、ちょっと」
「――払えなくなったら株はお返しします。その時は誰に売っていただいても構いません。売り先を探すお手間は、かけてしまいますが」
「いやいや、お待ちくださいな」
 丸屋の苦笑が聞こえた。軽く頭を上げると、穏やかに「お手もお上げなさい」と笑みを向けられる。
 こちらが居住まいを正すのを待って、丸屋は首を傾げた。
「蔦屋さん。あなた、さっき何て仰ったか覚えてます? 手付に百両の次です」
「はい。残り四百は毎年六十ずつ、十年に亘ってお支払いすると」
「そこですよ。それだと、手付と合わせて七百になる」
 まさか、そんな簡単な計算もできないのか。或いは硬くなって間違えているのか。もしもそうなら、悪いことは言わないから商売はやめておけ。そういう面持ちだった。
 重三郎は「いいえ」と首を横に振った。
「間違いでも何でもありません。だって、もし手付の百で承知していただけるなら、手前は丸屋さんに四百両を借りていることになるじゃありませんか」
 金を借りれば利子が付くのは当然である。その分も支払わなくては道理が通らない。そう言うと、丸屋は寸時ぽかんと口を開けた。そして。
「なるほど。いや……。はは、あっはははは」
 幾度か頷き、大口を開けて笑い始めた。何本か歯が抜けているのが丸見えになっていた。
「今のお話なら、手前は何がどうなろうと損をしない。それは、あなたなりの誠でしょうな」
 そう言って、好々爺は「はあ」と息をついた。
「ねえ蔦屋さん。世の中って、頭の回らない人を騙す商売が多すぎると思いませんか?」
 驚いた。この人も、自分と同じに世の中を見ていたのか。重三郎のその顔に向け、なお言葉が続けられる。
「手前は思うんですよ。そういう誠のない商売で儲けるってのは、世の中を悪くするんじゃないだろうか……って」
 だから誠実いっで商売をしてきた。世に送り出す値打ちのあるものだけ売り出していこう、その思いで今までやってきたのだと、丸屋は言う。
 重三郎は「まさに」と力強く頷いた。
「手前も、そのつもりです」
 穏やかな笑みをひとつ、二度の頷きが返された。
「頼もしいね。あなたには商売の誠がある。何より蔦屋さん、二百七十ほど持ってるのに、手付は百って仰ったでしょう」
「あ。いえその、けち臭いことを申し上げましたが」
 すると、好々爺は「いやいや」と右手を横に振る。それで良いのだ、と。
「だって、元手がなきゃ商売はできないんだ。なりふり構わず『あるだけ出す』って言うようなら、問答無用で断ってたところです。いくら北尾さんたちの紹介でも、そんな考えなしの人は信用できないからね」
「じゃあ、株は」
 身震いしながら問う。ゆったりと、大きな頷きが返された。
「あなたは人として信用できる。さっきのお話でお売りしてもいい」
「あ……ありがとうございます!」
 重三郎は改めて、勢い良く平伏しようとした。が、そこに「待った」と声が飛んで来る。
「あなたの人となりは信用しますけど、その上で、ひとつ条件があります」
「条件……。何でしょう」
 すると丸屋は、やる瀬無さそうに溜息をひとつ、自らの膝を軽く叩いた。
「さっき申し上げたとおり、手前は本当に価値のあるものだけを売り出そうと思って、商売をしてきた。でも巧くいかなかった」
「はい。そうお聞きしました」
「で、蔦屋さんは手前と同じ思いで商売をすると仰る。だったら、あなたなら巧くできるって証を見せて欲しいんですよ」
 そして丸屋は、先に重三郎が言ったことを引っ張り出した。
「世の中を楽しい方に押し流してやりたいって、仰ったでしょう? 何かひとつで構いません。それを形にして見せてくださいな」
「でしたら、一月に出した『青楼美人合姿鏡』はどうでしょう」
 あれはできの良い本だったし、売れ行きも上々である。その自信に対し、しかし丸屋は「駄目です」と首を横に振った。
「それは手前も見ましたよ。素晴らしい絵双紙だった。でも、あれは山金堂さんと組んだから出せた本だ。そうじゃなく、蔦屋さんだけで何か大仕事をして見せてください」
「何とも……難しいお話ですね」
「そうでなきゃ、条件になんないからね。向こう二年の間にそれができたら、喜んで株をお譲りしましょう。代金も四百で結構です。手付の百に、毎年三十両を十年。利子は要りません」
「え? でも、それじゃあ」
 余生を過ごす資金に、不安を抱えることになってしまうだろう。その眼差しを受けて、丸屋は大きく首を横に振った。
「つましく暮らせば十分にやってけますよ。それに、そうするだけの値打ちがあるからね」
「それは?」
「手前ができなかったことを、蔦屋さんがやってくれるかも知れない。そいつを見ながら生きてられたら、こんなに楽しいこと、ないじゃありませんか」
 ドスン、と胸に響く。心地好いしびれが背を走り抜けた。
 地本問屋株を持たぬ身が、値打ちのあるものを世に問うて実を上げる。丸屋の出した条件は何とも厳しい。だが目を見れば分かる。意地悪で言っているのではない。これは期待なのだ。
 ならば、返すべき言葉はひとつ――。
「分かりました。世の中と勝負して、きっと勝ってお目にかけますよ。何てったって、勝負しなきゃあ楽しくないですからね」
 丸屋が「お」と楽しげな目を見せる。それを受けて、胸の奥底から凛々りんりんと覇気が湧き出してきた。

第四話に続く〉

【第一話】  【第二話】

【プロフィール】
吉川 永青(よしかわ・ながはる)
1968年、東京都生まれ。横浜国立大学経営学部卒業。2010年『戯史三國志 我が糸は誰を操る』で第5回小説現代長編新人賞奨励賞、16年『闘鬼 斎藤一』で第4回野村胡堂文学賞、22年『高く翔べ 快商・紀伊國屋文左衛門』で第11回日本歴史時代作家協会賞(作品賞)を受賞。著書に『誉れの赤』『治部の礎』『裏関ヶ原』『ぜにざむらい』『乱世を看取った男 山名豊国』『家康が最も恐れた男たち』など。

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