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加藤友朗/僕が外科医を志した理由(文庫版『「NO」から始めない生き方』収録インタビュー)

★文庫版『「NO」から始めない生き方』刊行記念★
作品の中から、インタビュー記事を特別公開します。

本の詳しい内容はこちら↓
「NO」から始めない生き方 先端医療で働く外科医の発想

不可能と言われた困難な手術を数多く成功させ、移植外科医としてアメリカで確固たる地位を築いた加藤友朗医師。医師を目指すきっかけになった少年期の思い出や、日本を飛び出して言葉もわからないままアメリカで奮闘した日々――。
「NO」から始めない、という考え方の礎となった、自身の半生を振り返っていただいた。
                       聞き手・構成/浅野智哉


人と積極的に関わりたい

 僕の父は哲学者だった。出版物では岩波書店の『アリストテレス全集』の翻訳を手がけていた。その仕事では、老舗ホテルに缶詰めになっていたらしい。
 家には文学全集や外国語の本など、分厚い本がたくさん置いてあった。子どもの頃から、本を読む環境が整っていた。父は子どもたちによく「本を読みなさい」と薦めた。
 僕には兄ひとり、妹ふたり、弟がひとりの兄妹たちがいる。大概は親の影響をすんなり受けて、よく本を読んでいた。
 でも、僕はあまり読まなかった。
 他の家庭の子どもよりは多少読んでいたかもしれないけれど、本にどっぷりの文学少年として育ったわけではない。
 哲学など小難しい学問は正直、そんなに好きではなかった。
 正確には半分好き、半分嫌いといったところだろうか。
 僕の印象という前提で述べるが、人文科学や哲学は、世間一般とは少し離れたところにある学問だと思う。もちろん人間の考え方や生き方を扱う大切な学問なのだけれど、僕自身の嗜好は、もっと俗世間に寄っていた。

 僕は人と、ふれ合いたい。
 世間と離れたところで物事を考えるのではなく、たくさんの人と積極的に交わる生き方の方が、面白いと考えていた。

 医者は、たくさんの患者と接する、究極的に俗世間の仕事だ。

 兄妹たちは成人してから、みんな文系の仕事に就いた。医者になったのは兄妹のなかで僕ひとりである。
 もっとも父の実家は医者で父の兄弟には軍医で戦死した年の離れた兄と開業医をしていた兄がいた。僕の従兄弟には医師がたくさんいる。そういう意味では、父ももともと医者には関わりの深い人間だった。

リウマチ熱で3カ月の入院

 中学、高校時代は、部活にも熱心だった。
 中学のときは卓球部に入った。2年の途中で、チームスポーツをやってみたくなって、バレーボール部に移った。特にバレーボールが好きだったわけではない。たまたま部員が足りなくて、先生に誘われたという、軽いきっかけだった。
 しかしやってみたら、とても面白かった。高校に入ってからも、バレーボールは続けた。ポジションは補助アタッカー。攻撃でがんがん攻めていくより守備を固めるのが、僕の得意なプレースタイルだった。
 バレーボールは充実していたが、実はサッカーをやってみたかった。男子の憧れる、チームプレーのスポーツといえば、やはりサッカーだろう。
 しかし両親にサッカーは止められた。子どもの頃に大病をしていて、あまりコンタクトの激しいスポーツは身体に障ると心配されたのだ。それもあって中学では、部活に卓球を選んだ。
 実際のところバレーボールがサッカーよりハードではないとは考えづらい。両親の杞憂だったのだが、身体を心配されるのも無理はない、大変な病気だった。
 小学生の頃、僕は溶血性連鎖球菌(溶連菌)の感染でおこるリウマチ熱にかかった。リウマチ熱は関節リウマチとはまったく無関係で、感染をきっかけに起こる炎症反応が引き起こす小児の病気である。
 今では喉を綿棒でぬぐった液で迅速に溶連菌を検出できるキットがあるので、抗生物質をすぐに投与して治療することでリウマチ熱になることは日本ではあまりないが、今でも途上国にはよく見られる病気だ。
 リウマチ熱の治療は、基本的に抗生物質治療だが、炎症によって引き起こされた病態に対する対症療法も必要になる。僕の場合は心内膜炎と心臓弁膜症も疑われていたのでステロイド治療も組み合わせねばならず、通院では治療ができなかった。
 僕は学校を長期間休み、入院生活を送らねばならなかった。
 当時のドクターからは、僕の症状は「リウマチ熱の影響による僧帽弁の閉鎖不全」だと説明された。超音波検査や、心音を聞いた診察で、そのように診断したらしい。閉鎖不全から逆流が起こるようになると重篤な病態になる可能性があるが、僧帽弁の逆流も起こっていると言われていた。
 ステロイド治療で、顔はパンパンに膨れた。ひどい症状はなかったが、弁膜症が、何とか抑えられるまで、入院期間は3カ月もかかった。
 その後も弁膜症は残り完治したわけではない。軽微の逆流もあると言われていた。中学、高校に進んでからもまた溶連菌に感染するとさらに悪化するかもしれないと言われて予防的に抗生物質を飲み続けていた、不安な状態だった。
 ずっと後になって自分が医者になったとき、あらためて精密検査を受けてみた。僕の心臓には、軽い僧帽弁の逸脱症があったが、逆流はまったくなかった。逸脱症自体は50人に1人に見られるもので、医学的には、あまり問題のない良性の病変だ。これがリウマチ熱をきっかけに起こった可能性は十分にありえるが、もしかするとそもそも、弁膜症ではなかったのかもしれないとも思う。
 まず溶連菌の陽性反応が出て、心音を聞いたら雑音が聞こえ、「これはまずい」と判断され、ステロイド治療の措置が決められたのかもしれない。
 最初から特に治療が必要な状態では、なかったのかもしれない。だが、所詮は想像だ。当時の治療記録を調べることはできないし、いまの技術との差もあるだろう。
 いずれにせよ、僕にとって3カ月の入院生活は、さまざまな意味で大きな体験だった。
 身体の方は辛かったけれど、実はけっこう楽しかったと覚えている。
 それまでは割と大人数の家族にべったりの生活だったのが、病室でのひとり暮らしになった。入院前は嫌でわんわん泣いていたけれど、ひとりの独立した時間は、とても豊かだった。
 看護師さんは母親とは違い、僕に「個人」として接してくれた。また病院内で仲良くなった入院患者たちも面白いヤツばかりだった。
 僕より少し年上だった男の子には、ポーカーを教わった。けっこうな「ませガキ」で、僕が知らなかった、いろんな遊びを教わった。
 また、入院生活で、自立心を養えた。「独立して生きる」「個人の足で立つ」姿勢の基本が、身についたような気がする。もし入院していなかったら、精神的な自立にはもう少し時間がかかっていたかもしれない。

 僕は治療を受けるなか、医師や看護師たちを、自然に観察していた。
 自分の知識や技術で人の命を助ける仕事に取り組む先生が、とても格好よく見えた。
 来る日も来る日も、病院のベッドで過ごすうち、「医者になろう!」という将来の夢が、強くなっていったのだ。

学校の授業をきっかけにした研究者への思い

 実は医者の夢は、小さい頃から描いていた。読書よりも人体図鑑が好きで、しょっちゅう眺めていた。物心ついた歳には、なりたい仕事は「お医者さん!」と親に言っていたそうだ。
 先ほども書いたように父親は、医者の家系である。祖父をはじめ父以外はみんな医者か医療系の技術者として活躍していた。そんななかひとりだけ、哲学の道へ進んだ父親は、家族のなかで多少の肩身の狭さを感じていたらしい。
 僕が「医者になりたい」と言ったときは、少し複雑な気持ちと同時に、自分の行かなかった道を進んでくれる誇らしさを感じていたのだろう。「頑張りなさい」と、応援してくれた。
 医者と同じぐらい、研究者の道も真剣に考えていた。
 中学校の理科の授業で、初めてDNAについて教わった。塩基配列によって人間の身体の組成や遺伝情報が決まっていく、デオキシリボ核酸(DNA)の構造が、すごく面白かった。
 その授業で、サイエンスの魅力に目覚めた。分子生物学の先駆者、ジェームズ・ワトソンやフランシス・クリックの本などを、夢中で読んだ。
 僕のなかでの研究者像には、お手本がいる。母方の伯父だ。
 伯父は、築地のがんセンター病院の分子遺伝学の研究者だった。当時、伯父が関わっていたのは白血病の遺伝子解明だった。伯父はノーベル賞候補になるような大きな発見をしたわけではないが、世界各国でしのぎを削っていた遺伝子解明の研究分野では、最高クラスの研究者だった。
 小さい頃から僕を可愛がってくれていて、伯父のことは大好きだった。
 僕が将来、研究者にも興味があると言うと、とても喜んでくれた。
 必要な勉強とか進路の決め方など、丁寧に教えてくれた。研究者の道を真剣に考えたのは、伯父からの影響も大きかった。

手探りでつくった演劇と映画

 中学時代は、将来への夢と、文化活動の目覚めの時期でもあった。
 3年生のときは、友だちと8ミリ映画を制作した。夏休みを使って、撮影期間にあてた。
 撮影の大部分はロケーションだ。照明機材は本格的なものが揃えられないので、太陽が出ているうちに、大急ぎで撮っていった。夕焼けのシーンを撮るときは、みんなで学校に集まり、日が落ちる直前を見計らってカメラを回した。
 物語上どうしても「岡本家」の墓を撮影しなくてはいけないシーンがあった。そのときは青山墓地に行って、友だちと手分けして岡本家のお墓を探した。何とか見つけた、どこかの岡本さんのお墓に、手を合わせてから撮影に使わせてもらった。勝手に使ってはいけないので、申し訳ない思い出だ。
 極力お金を使わず、ありもので撮影を続けるために、中学生なりに知恵を出し合った。暑い夏のさなか、仲間たちとカメラを担いで都内を動き回った。
 映画の主題歌も自分たちで手がけた。バンドを組んで、オリジナルの曲をつくると決めた。スタッフのメンバーは誰ひとりバンド経験がないのに、無謀だった。
 僕はクラシックギターをやっていたので、エレキギターを担当した。もうひとりギターのメンバーが作曲をやり、ドラムは監督が引き受けた。
 試行錯誤しながら、インストゥルメンタルのテーマ曲をつくった。レコーディングは友だちの家で行った。下手くそな曲だったけど、僕らだけで映画をつくっている! という興奮に満ちていた。
 完成した映画は、短編だ。クオリティはお世辞にも、たいしたことはなかったと思う。でも、友だちと一緒に物語をつくり、映像にまとめあげたクリエイティブ作業は、すごく楽しかった。
 そのノウハウを活かして、高校では演劇に挑戦した。
 男子校だったので、上演作は男ばかり出てくる作品でないといけなかった。選んだのは、武田泰淳の名作『ひかりごけ』。役者はもちろん、舞台の演出や照明など、すべて仲間たちと割り振って行った。台本をもとに熱心に稽古した。高校生でも、稽古を重ねるうちに芝居がうまくなっていくのだ。
 舞台『ひかりごけ』は、文化祭で上演した。自分たちなりに仕上げた作品だ。上演後の観客の拍手と、仲間たちとひとつのものをつくりあげた達成感は、いまでもいい思い出だ。
 エンターテインメントの作品をつくる喜びを、10代で味わった。もし多少なりとも、創作に自信を持てていたら、映画作家や小説家を目指す道も、まったくゼロではなかっただろう。

学生時代に縁のあった有名クリエイター

 実は中・高校時代に、プロのクリエイターになる人と、すれ違っている。
 中学校の放課後、よく友だちと溜まり場にしていた喫茶店があった。駒場東大前のぐりむ館という店だ。あの頃は僕らと同じく、東大の学生さんたちの溜まり場にもなっていた。
 当時、学生演劇のメンバーとちょっとだけ仲良くなった。リーダーだった学生さんに「おいお前。こんど芝居で学生服を使うから、集めてくれないか?」と頼まれた。僕はクラスの友だちに頼み、何着か用意した覚えがある。
 そのリーダーこそ、野田秀樹さんだった。
「夢の遊眠社」を立ち上げ、すでに演劇界では注目の新進演出家だった。
 野田さんと共に集まっていた学生たちは、「夢の遊眠社」の初期メンバーだった。なかには店でウェイターのアルバイトをしていて、その後有名になった役者さんもいた。
 その後、野田さんたちは目を見張る活躍で「夢の遊眠社」は、演劇界の中心となっていく。野田さんは、いまや日本最高の演出家である。
 最近、ニューヨークで野田さんと再会する機会があった。野田さんはイーストビレッジのラ・ママ実験劇場という伝統のあるオフブロードウェイのシアターでイギリス人の役者さんたちと舞台をしに来ていた。
 観劇のあとでご挨拶をさせていただいた。野田さんは学生時代の僕のことは覚えていないようであったが、楽しくお話をさせていただいた。
 高校のひとつ下の後輩には、片岡飛鳥氏と岩本仁志氏がいる。
 片岡氏はフジテレビの『めちゃ×2イケてるッ!』などを手がけた敏腕プロデューサーで、岩本氏は『ナースのお仕事』ほかドラマを多数ヒットさせたプロデューサーだ。現在は、日本テレビからフジテレビに移籍している。ふたりとも、高校卒業後はまったく交流がないので僕のことを覚えておられるかはわからないが、それほど人数の多い高校ではないので名前ぐらいは覚えているかもしれない。
 このようにほんの少しだが10代の頃に、演劇・映像のクリエイターになる人たちと、ご縁を得ていた。
 当時は、彼らが後に第一線で活躍するなどとは、まったく想像もしていなかった。僕自身も海外で医師をやっている将来なんて、中学時代には思いもつかない。人生は本当に、不思議なものだ。

大学進学を導いてくれたふたりの師

 中学時代にバレーボールを始める前後には、生物部にも入っていた。やはり根っからのサイエンス少年だったようだ。
 顧問の先生が愉快な人だった。生物部の活動といえば普通、生体解剖とか、図鑑を参考にした実験ばかりやっているイメージだが、僕たちの先生は、ほとんどフィールドワークが中心だった。
 僕たちの学校は、筑波大学の付属中で、校舎は筑波大の農学部に隣接していた。筑波大の農学部は林業研究のための演習林を長野の八ヶ岳山麓に持っていた。
 生物部は、特別に研修林を貸してもらうことができた。先生に連れられて、鬱蒼とした森林に分け入り、草木を触りながら植生の勉強をした。
 少し高い山へ登るトレッキングも楽しかった。落葉樹が針葉樹へ、そして岩場に変化していく生態系を、足を使って学んだ。
 八ヶ岳に登ったときは、先生の指導のもとで、イワナ釣りをした。
 この先生が元来の釣り好きで、一番人気の活動がフィッシングだったのだ。
 生物部も、本当に楽しかった。ここで過ごした経験も、研究者を目指した理由のひとつになっているかもしれない。
 文化祭で、生物部は自由研究の展示物をまとめることになった。取材のため、僕たち部員は顧問の先生の紹介で、三菱化学生命科学研究所に伺った。
 そのときお相手をしてくださったのが、研究室長の中村桂子先生だった。優しくて美人で、お話も面白くて、魅力的な先生だった。
 後に中村先生は大学教授、大手企業の顧問などとして活躍され、著書も多数発表された。やがて女性の生命科学研究者のパイオニアとして一般にも知られる有名人となられた。
 知的で聡明な中村先生との出会いも、研究者になりたい意欲を高める要因だった。
 進学先に決めていた大学は、最初から東大だった。伯父が東大の理学部出身で、中村先生も同じく理学部の卒業生だった。
 伯父は僕に、「研究者をもし極めたいなら、その分野の大ボスのいる大学へ行かないとダメだ」と言っていた。その当時の僕にはよくわからなかったが、研究者の世界でも学閥が大きいということを教えたかったのかもしれない。
 東大以外の大学に行くつもりは、あまりなかった。こんなことをいうと怒られるかもしれないが、東京にある国立の総合大学は東大だけなのだ。そういう意味では地元の国立の総合大学を第1志望にする場合は東京では東大になってしまうのだ。幸いにも高校までの成績では東大は合格圏内だった。
 1982年、僕は東大に入学した。
 研究者の基礎を学ぶ大学生活が、いよいよ始まった。

医者になりたかった本心に気づく

 僕が入学したのは、薬学部だった。本当なら理学部でもよかったのだが、伯父に「薬学部教授の水野傳一先生のもとで学びなさい」と勧められていた。水野先生は薬学博士。マンチェスター大学細菌学教室への留学経験があり、国立予防衛生研究所所長などを務められた。生物科学研究の分野では、国内外に強い影響力を持つ人だとのことで、学会への発言力が強いという。将来を見すえた場合、薬学部を選択するのが合理的だと、伯父に教わった。
 伯父は、がんセンター病院で活躍していた腕利きの研究者だった。しかし本心では、学者として東大に残れなかった悔しさも、抱えていたのだと思う。東大内で研究者の道を進んだとき、甥の僕には政治的に少しでも有利になるよう、アドバイスしてくれたのだ。
 僕が薬学部を選んだのは、医者ではなく、将来的に生命科学の研究のプロになるためだった。当時としては、合理的な判断だったと思う。

新幹線のアナウンスで医者への転身を決意

 大学では、薬学部に行って分子生物学を学ぶつもりだった。子どもの頃から「人を相手にする仕事がしたい」と思っていた。それが医師になりたいと思った理由のひとつだ。医師ではなくても医療に関係のあるこの研究分野であればよいのではないかと思っていた。しかし薬学部の実習が進んでいくと、研究者の仕事はあまり人と関わる仕事ではないことに気づいてきた。
 研究の過程で他のチームメンバーと話し合うことはあるけれど、研究者の仕事はかなり孤独である。直接仕事で相手をするのは人間ではなくDNA、つまり「物」である。
 分子生物学に限った話ではない。自然科学の研究の世界は似たりよったりで、人を相手にするのではなく、動物や物体を相手にする仕事なのだ。僕の性分には、どうも合っていなかった。
 大学の1、2年生の講義は、医学部に進む学生と一緒だった。医者を目指して勉強している人たちを見て、「そういえば僕も医者になりたかった」という本心を、少しずつ取り戻していった。

 あるとき、新幹線に乗って移動中のことだ。
 座席で寛いでいると、車内アナウンスが流れた。
「○両目に急病の方がいます。お客さまのなかに、お医者さまは、いらっしゃいませんか?」
 という。そのとき、パッと動き出せない自分が、ひどく悔しかった。
 病気で助けてほしい人がいたら、すぐ助けに行く。僕はそういう仕事をやりたかったんじゃないのか? 自分の声が、心に刺さった。
 あのアナウンスは、決定的なきっかけだった。答えは、もう決まっていた。
 研究の仕事も魅力的ではある。しかし作業のほとんどは単独で行う。95%は他人と関わらず、孤独に過ごす時間が求められる世界だ。

 僕はやはり、患者さんの手を取り、顔を見て話をする仕事がしたい。

 分子生物学の勉強を途中で辞めるのは後ろめたかった。けれど、気持ちは切り替わった。薬学部から、医学部への転身を決めたのだ。

留年中に東大の外でフランス語を学んだ

 薬学部の単位を履修しながら、医学部へ入り直す。再び受験生活を過ごすことになった。門戸は広くはないが、諦めるつもりはなかった。

 東大では、1、2年生の間の成績上位者には、医学部へ進学が認められる制度があった。おおよそトップの10人ぐらい。僕は学部内では上位の成績だったけど、残念ながら上位10人には、ほんの少し届かなかった。1度目のチャンスでは落ちてしまい、留年をしてもう一度トライすることにした。成績上位者といってもあくまで医学部を希望する人の中での成績上位者なので年によって最低ラインが変わるからだ。

 一年留年する間に新しく単位をとって平均点をあげることもできるが、実際には平均点をあげるのは簡単ではなく、逆に大きな失敗をして平均点を下げてしまう可能性の方が高かったため、大学の単位はほとんど取ることはなく1年間時間が空いたので、語学の勉強を始めた。なぜかフランス語を学びたくなり、アテネ・フランセに通った。

 フランス語を勉強する一方、教室では仏文学にやたら詳しい人や、フランスで料理人を目指している人など、面白い人にたくさん出会えた。東大生とは、また違うタイプの若者たちと交流できたのは、留年中のいい経験だった。

 結局、2年目もトップの10人に入ることは叶わず薬学部に2年間、通うことになった。その時点で医師になることを諦めることもできたのだが、医学部への気持ちは逆にどんどん強くなっていった。東大の薬学部を卒業してすぐに医学部を一般の受験で受けることもできたが、大阪大学の医学部には学士入学という制度があってそこならば3年生に編入できる。

 というわけで阪大の学士入学の試験を目指すことにした。薬学部の卒業研究と学士入学の受験勉強を両立させるのは結構大変だったが、薬学部の先生も僕の目標を理解して協力してくれた。そして学士入学試験に合格して、卒業後、関西へ移ることが決まった。

 東大薬学部を卒業して、晴れて、念願だった医学生生活を、大阪でスタートさせた。

大変な仕事だからこそやりがいがある

 子どもの頃に、僕は父親から教えられた。

 世のなかには3つ、守秘義務の課せられている仕事がある。神父、弁護士、そして医者だと。なぜ? と聞くと、

「3つとも、人間に深く関わるからだ」

 と答えられた。僕が成人してからも、ずっと覚えている話だ。

 3つとも、相手の情報を他言したり、相手の同意なく他者と共有することは禁じられている。日本ではこれは刑法上にも定められた義務である。

 例えば神父は、告解(懺悔)に訪れた誰かが「殺人を犯しました」と明かしても、通報する義務はない。その本人がもし捕まって裁判に掛けられても、「殺人したと自白しました」と証言に応じる責任は、ないのだ。

 もちろん、弁護士も医師も依頼人や患者の情報を他言することは許されない。

 だからこそ、人間の一番深い本質に迫ることができる。「人とふれ合う」究極の仕事だと思う。

 その重責に耐えられない人もいるかもしれない。しかし僕は、「人間に深く関わる仕事」だと聞いたとき、逆にそこにやりがいを感じた。

 医者という仕事は、僕の天職だと思う。

「物」を観察することでは得られない直接人と関わる医師という仕事の魅力。大学の研究者時代に、あらためて確認した。

 人と関わることの大変さと責任を背負って、患者と共に病と闘うのが、僕の生き方なのではないかと思ったのだ。

解剖実習は医師になるまでの重要なステップ

 阪大では粛々と、医学の勉強を積んでいった。東大を経てきた経歴は、ここではあまり役に立たない。学士入学といえどスタートは、年の若い学生たちと、同じなのだ。毎日、懸命に課題と実習に励んだ。

 解剖実習に進んだとき、ようやくここまで来られたという感慨があった。医者を志す者は誰しも、初めてご遺体にメスを入れる解剖実習は、医師になれるかどうかの資質が問われる関門だろう。実際、ここで適性が合わず、医者の道を諦める学生もいると聞く。

 僕の場合は、まずホルマリンの匂いがきつかった。献体されたご遺体は特殊な方法でホルマリンに浸した状態で、実習に使わせていただく。肌触りもサイズも、実際の手術で接する人の身体とは、だいぶ違うものだ。

 学生たちはご遺体に、深く手を合わせて、メスを入れさせてもらう。阪大では当時はグループで2体のご遺体を解剖することになっていた。4人のグループで2人ずつに分かれて1体目は2人が上半身、他の2人が下半身。そして2体目で交代する。僕が使わせてもらったご遺体の中には手術の痕のあるものもあった。

 解剖実習では内臓だけを見るのではない。実際は、筋肉や全身の神経の方が構造は複雑で、調べる数も多い。内臓よりもこれらの組織を調べる方が、実習にかける時間は長かった。

 阪大の医学部の解剖実習は、本校舎から離れた建物で行われていた。ひとクラス100人で、20数体の検体が、解剖教室に安置されている。

 解剖は、パートナーの学生と一緒に作業していくが、全員が同じペースで進むわけではない。あるとき僕とパートナーの組だけが、たまたま教室に居残りになって、先生も退室してしまった。

 最後に教室を出るのに、電気を消すのだが、真っ暗ななかに20数体の動かない検体が、ぼんやり浮かんで見えるのは、ちょっと怖い。まだ青い、医学生の時代の物語である。

 学生時代はすべてアルバイトで生活費も学費もまかなうという苦学生だった。それでもいろいろな人に助けられて、それなりに遊びもできて楽しい学生時代を過ごすことができた。

 そして、医師国家試験に合格した。その後、1991年から、阪大病院で1年研修をしてから兵庫県の市立伊丹病院で研修医となり、本格的に医者を目指す人生のスタートを切った。

研修医時代にアメリカの医師ライセンスを目指す

 研修医として勤め始めた頃には、すでに「外に出たい」気持ちが高まっていた。病院勤務が嫌なのではない。日本ではなく、海外に出たかった。

 高校時代から、おぼろげではあるが、海外で仕事をしたいという気持ちはあった。その後大学に入ってからも、先に述べたようにフランス語を学んだり、大阪でもNOVAの講師のアメリカ人と友だちになってみたりなどしているうちにその気持ちは強くなっていった。

 海外で成功するというより、日本語圏の外に飛び出ていくのが、僕の性格に合っていると感じていたのもあったのかもしれない。

 阪大に学士入学することになって、東京から大阪へ拠点を移すのは東京生まれで東京育ちの僕には少し抵抗があった。

 こんなことを言うと大阪の人には怒られてしまうが、東京生まれの人間が大阪に行くことは「都落ち」と言う人もいて、何か引っかかるものがあったのだ。そんなことを多少なりとも思っていたときに、ある先輩に言われた。先輩は親指と人差し指で1センチぐらいの間隙を作って、

「アメリカから見たら、大阪と東京の差なんて、これっぽっちしか違わないんだぞ」

 と言った。その通りだった。

 アメリカは大きな国で都市ごとに時差があることもあるし、移動はかなり長時間の作業だ。

 しかし日本からアメリカに行くとしたら、東京から行こうと大阪から行こうと、ほとんど関係ない。

 アメリカに行くんだったら、日本のどこで医者になろうと、同じだ。

 そうか、僕はアメリカに行けばいいんだ。

 海を越える距離のスケール感を頭に描いたとき、迷いが消えた。

 大阪から、さらに外へ出たい、アメリカに行きたいと、強く思ったのだ。

 日本の医者は、アメリカの医大の研究室では、大いに歓迎されていた。それは研究能力が高いということに加えて、安く雇える、お手軽な人材だと思われていたからだ。しかも大概は2年間の留学期間を終えたら日本に帰国するので、就職を世話する面倒がない。アメリカの医大としては都合のいい「臨時スタッフ」だ。実際、日本から留学した医者は2年間、リゾート気分でアメリカ暮らしの思い出をつくるだけで、あっさり帰ってくる人が多かった。

 僕は、それでは嫌だった。行くからには、アメリカでも研究ではなく一人前の医者の仕事がしたかった。

 気持ちを示すため、そして自ら気合いを入れるためにも、僕は日本でアメリカの医師ライセンスを取得すると決めた。

 アメリカのライセンスを取ったからといって臨床留学ができるという保証はない。

 ただ、ライセンスを取っておきさえすれば、機会が巡ってくるかもしれない。そう考えていたのだ。

 やるかやらないか、迷ったときは、やるという選択を、必ず取る。

「NO」と言わない僕の生き方の基本は、すでに研修医時代から固まっていた。

運転免許失効がきっかけでライセンス試験に合格

 伊丹病院で研修医として働くかたわら、英語も猛勉強した。そして研修医2年目に、アメリカの医師ライセンス試験に合格できた。

 試験の内容は日本の医師国家試験と、ほとんど変わらない。ハードルは、全問を英語で回答できるかどうかだ。

 本編でも述べたことだが、僕の合格した秘訣は、運転免許の失効だ。

 研修医の1年目に更新を忘れてうっかり運転免許を失効してしまい、教習所通いをしなければならなくなった。普段の仕事に加えて、免許の講習まで加わった。本当に忙しくて、家に帰る時間がまったくなく、病院の医局に寝泊まりしていた。

 夜間はすることがない。近所に遊びに行ける店など誘惑も、まったくない。夜中は存分に、英語の試験勉強に集中できた。

 免許の失効がなければ、そこまで詰めて勉強はできなかっただろう。自分のうっかりのお陰で、アメリカの医者の資格を獲得できた。「Everything happens for a reason(起こること全てに理由がある)」。これはアメリカでよく言われる言葉だ。免許の失効のうっかりミスにもちゃんとした意味があったのかもしれない。

 ライセンス取得は、簡単ではなかったけれど、2回試験を受けて合格した。

 留学先など、何も決めていなかったのに、ひょんなご縁を得て、マイアミから留学の声がかかった。

 1995年、マイアミ大学の医学部にクリニカル・フェローとして、勤めることになった。本当の意味で、僕個人の力が試されるチャレンジだった。

アメリカに来て「役立たず」では終われない

 本編にも書いたように、渡米してから苦労したのは、まず英語だ。

 病院のなかで、患者さんと接する最前線では、僕の身につけた程度の英語力では、まったく太刀打ちできなかった。

 そのうち「加藤はダメだ」「使い物にならない」と指導医から言われて、クビになる寸前だった。

 日本にいれば、そこそこ英語の得意な医者として、偉そうにしていたかもしれない。しかし実際は、アメリカ人と会話するどころか聞き取ることさえ覚束ない、まるっきり「役立たず」のレベルだったのだ。

 自分の能力の至らなさを、思い知ったという意味で、やはり「外に出た」のは間違いではなかった。

 足りないところは、改善すればいい。僕は渡米してから、英語と格闘しながら、人よりも時間をかけて仕事を覚えていった。

 きっかけはやってきた。なんとかクビになるのを免れた後、ある夜の手術で力を見せることができたことがきっかけに状況が大きく変わった。

 本編に書いた通りだ。

「ニューヨーク・タイムズ」の一面記事に取り上げられる

 僕が初めて「ニューヨーク・タイムズ」の一面記事に取り上げられたのは、2009年だ。その後も「ニューヨーク・タイムズ」には何回か取り上げられているのだが、一番大きな記事になったのはこの時だ。

 掲載されたのには、ちょっとした経緯がある。その記事が出る前に、僕はNHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』の密着取材を受けていた。実はコロンビア大の広報部は、密着取材に対して、難色を示していた。僕や病院スタッフの仕事の邪魔になると思われたのだ。しかしNHK側が粘り強く交渉して、厳しい時間制限が決められ、取材はスタートした。

 密着当時、ちょうど僕の手がけていた手術は30時間を超える、難手術だった。それが、うまく成功した。撮れた映像には、NHKのスタッフも大満足だった。放送後の反響も、大きかった。

 反響を見て、コロンビア大の広報部の態度が変わった。「日本のNHKだけでは面白くない。こっちのメディアに加藤を売りこもう」と、「ニューヨーク・タイムズ」に持ちこみ打診したらしいのだ。

 そして「ニューヨーク・タイムズ」の記者が、僕に密着することになった。密着の取材時に手がけた手術が、偶然にもまた、30時間を超える難手術だった。タイムズ紙の記者も「すごい手術だ!」と満足したようで、それが一面記事で、掲載されることになったのだ。

 反響は凄かった。僕への問い合わせはアメリカ内外から殺到した。

 僕は、「TIME」誌の選ぶ、2010年の100人にノミネートされた。同時にノミネートされていた日本人は、TOYOTAの豊田章男社長を含めた4人しかいなかった。結局、100人には選ばれなかったので、あまり意味はないのだが、ちょっと誇らしいノミネートである。

 マイアミ大には足掛け13年間勤め、僕は小児移植外科部長、外科の教授となった。

 その間、阪大に戻って移植を手がけるなどもした。現在はコロンビア大学医学部外科学教授の任に就いている。同大附属のニューヨーク・プレスビテリアン病院の肝臓・小腸移植外科部長としても、医療現場に立ち、難病を抱えた患者さんたちに向き合う毎日だ。

 コロンビア大で過ごした11年は、恵まれた環境だった。僕たち大学病院の医師は臨床だけでなく研究分野でも業績を残すことが求められる。マイアミ時代にも多数の臨床研究の論文を書いていたが、コロンビア大では、優秀なラボのパートナーたちと一緒に多数のトランスレーショナル研究にも取り組むことができた。トランスレーショナル研究というのは臨床と基礎の間をつなぐ研究で、臨床から出た疑問をラボで検証したり、逆にラボで得られた知見を臨床に応用するというもので、優秀なラボと活発な臨床業績があることが前提となる。コロンビア大学には理想的な環境があった。

 移植医療の医師としてだけではなく、研究者の実績をしっかり積めたのは、ラボのパートナーたちのお陰だ。

臨床で働く医師ではごく限られた人だけに与えられる称号を得る

 2018年、僕はコロンビア大学からtenureを授けられた。正式にはtenured professor。もとはヨーロッパの大学の制度で、大学への貢献度が著しく高い教授に認められる、教授のひとつランクが上の称号だ。

 tenureになれば基本的に、大学側は解雇できない。クビにならないために研究業績を上げ続けるという研究者としてのノルマから解放される。大学にとって生涯、価値を生み続けるだろうと判断された教授にだけ与えられる、とても名誉ある役職だ。

 tenureになるためには申請期間が限られており、審査は非常に厳しい。しかも教授の在任中に一度しか申請できないのだ。アメリカの研究従事者にとってはハードルの高い役職だが、tenureになれば大学側から最低給料を一生、払い続けられる契約となる。雇用条件が不安定な大学研究者はみんなtenureを目指すが、選ばれるのは限られた人だけだ。僕のように臨床を主にしている人間ではほとんど得ることができないというのがこのtenureである。

 僕の知っているなかに、日本人医師でtenureに選ばれた人は、あまりいない。アイビーリーグの大学では、さらに少ないと思う。

 英語で会話するにも苦労していた駆け出しの頃から考えれば、信じられない話である。

 待遇面でも、名誉の面でも、僕はアメリカでは成功した部類の日本人医師ということになると思う。

「外に出る」チャレンジに、飛び出してよかったと、あらためて思っている。

 ただ、僕は名誉や、安定した報酬が欲しくて、アメリカに来たわけではない。ずっと変わらず根本にあるのは、日本にとどまらずに世界に出て仕事をしたいという気持ちだ。

 アメリカと日本の医療の違いは何かという質問をよく受けるが、圧倒的に違うのは多様性という点である。日本は人種も体型も比較的均一で、病気もかなり一定のものに偏っている。最近では食生活や生活様式の変化で日本の病気もだいぶ欧米型に近づいたが、それでもまだまだ均一であるといえる。医師の国家試験の勉強ではありとあらゆる病気を勉強して覚えさせられるのだが、日本だけで医療に携わっていると、ほとんどの珍しい病気は一生出会うことがない。アメリカはその点、まったく違う。ありとあらゆる国や人種の人たちが世界から集まるアメリカには、ありとあらゆる種類の病気がある。また、体型もまちまちでそれに対応して手術をするのは決して容易ではない。

 ただそんな中で、日本でも必要な患者さんがたくさんいるのに、日本で極端に少ない数しか行われていないのが移植医療だ。

 移植医療をどうすれば日本でも広めることができるのか。今までもメディア等で発言して発信を続けてきたつもりだが、移植医療が浸透するにはまだまだ時間がかかるのかもしれない。

ディスカッションで磨かれたビジネス英語の間合い

 2013年と2017年に、コロンビア大学で二つの修士号を取得した。

 一つ目は国際関係公共政策学部(SIPA)で公共政策学の修士である。これは週末だけの講義に参加して取れる、働いている人のためのコースである。SIPAはもともと国連のための人材を養成するためにコロンビア大学が立ち上げた学部で、今では国連や政府や公共性のある機関で働くことを目指す人が主に通う学部である。

 僕自身は政治家や国連職員を目指しているわけではないが、リーダーシップや公共政策立案に医師として関わるということには興味があり勉強をしてみたかったのだ。僕がとった公共政策学の修士課程で徹底的に学ばされるのがミクロおよびマクロ経済学である。そして統計学、リーダーシップ。すべてが新鮮で面白かった。また、そこに通っているクラスメートとの交流も、この歳になって学生気分を味わうという意味では新鮮だった。

 公共政策学の修士をとって1年間は学校通いはやめていたが、少し物足りない気がして、またすぐにコロンビア大学のビジネススクールで経営学修士(MBA)を取得した。将来を見すえたとき、ビジネスの修士は自分を支えてくれる、新しい能力になると考えたのだ。

 これも週末だけで取れるコースだが、授業時間やその厳しさはSIPAよりもだいぶ上で、かなり大変だった。ビジネススクールで学ぶのは経営学である。リーダーシップの授業はSIPAのものとはまったく違ってどこか自己啓発セミナーのような部分もあるのだが、それがまた新鮮で面白かった。

 会計学やファイナンスといったビジネスの基礎になる勉強や経営戦略やマーケティングといったまさに実践的な授業もとてもおもしろかった。

 手術の実績でも、研究実績でもかなりの業績を挙げてきたけれど、いつかは必ず衰えがくる。アメリカのアカデミアの世界で生き残るには、アメリカで高等教育を受けていないことがハンディキャップになる。そう思ったのである。

 ビジネススクールを選んだ理由は、少し歳を重ねたとき、他人から求められる能力は、マネジメントだと考えたからだ。外科医の場合、現役プレーヤーでいられるのは年齢に限界があり、人を指導する知識を持っていなければ、ある年齢を超えてからはこの世界に留まるのは難しくなる。

 それに僕は、コロンビア大の超エリートの医師たちのなかでは、異色の経歴だ。外国人であり、マイアミ大からのヘッドハンティングで移籍した。英語力も、ネイティブに比べれば、劣ってしまう。コロンビア大では、ほとんどの同僚とは仲良くやっているが、中には敵もいるだろう。

 MBAの高等教育を50歳前後で修めたのは、エリートの層からいつか来るかもしれない「追い出し」に、対抗する策でもあった。

 日本で日本の患者さんのために働きたいという気持ちも強く持っているのだが、まだまだ、僕はアメリカでやりたいことが残っている。

 こんなに長時間手術をして、研究を進め、論文も書いているなか、マネジメントを勉強するなんて……周りの人間には、正気の沙汰じゃないと呆れられた。

 だけど、「いましかない」と思った。

「加藤に、MBAの資格は必要なのか?」とも言われた。

 絶対に必要かどうかでいうと、そうではないだろう。医師としては十分すぎるほどのポジションを与えられ、アメリカの医学界でも名を知られ、ひとまず一生、食うには困らないと思う。

 しかし、先にも述べたように、「やるかやらないか」の選択では、どんなに大変でも「やる」方に動くのが、僕なのだ。これもNOから始めない生き方なのかもしれない。

 ビジネススクールは、さすがに大変だった。まず受験のために、数学の勉強と英語の勉強をしなければならなかった。SIPAの公共政策学修士のコースでは資格試験は免除だったが、ビジネススクールにはその制度はなかった。何とか合格して、僕はまた週末学生の生活となった。

 アメリカの大学では授業中にディスカッションをすることが求められる。ビジネススクールでは特に要求が高かった。自分の意見を言うこと、ディスカッションに積極的に参加することが常に求められるのだ。

 僕は英語力の足りなさに、構っていられなかった。すすんで発言して、ディスカッションを戦わせた。英語のディスカッションで自分の主張を通すというのは正直、医療の現場でもあまり得意ではなかったけれど、ビジネススクールの授業で、だいぶ鍛え直された。

 ディスカッションでの発言には間合いとタイミングが大切である。ちょっとズレたら、同じメッセージでも伝わったり、伝わらなかったりする。その間合いの感覚は、日本語のディスカッションでもあると思うが、英語でその感覚を覚えるのはなかなか難しい。「ここでは言った方がいいな」「いまは待って、あとで機会を見つけて言おう」という微妙な判断力は、ビジネススクールでのディスカッションで相当に磨かれた。これはビジネスの現場で、人をマネジメントする際、とても役立つ技術になったと思う。

 スクールの最後の方は、研究の仕事も一時セーブして、勉強に時間を割いた。

 そして一度も欠課はなく、上位5%の成績で表彰されて卒業して無事にコロンビア大のMBAを取得することができた。

ニューヨーカーのメンタリティー

 他人から見れば、勉強と仕事に明け暮れた僕のこの数年は、過酷な年月だったかもしれないが、まるで苦ではなかった。

 欲しいもの、やるべきことがあれば、何を引き換えにしても努力をし尽くす。それがアメリカ社会で生きていく人間の基本姿勢だ。

 アメリカは、世界でも有数の移民社会だ。移民たちは、頑張らなければ這い上がれない。ひたすら汗をかき、泥仕事をして、わずかの報酬を積み上げて、生きるしかない。泣き言など、言っていられないのだ。

 僕も大学病院では、みんなの嫌がる仕事を率先して引き受け、信頼を獲得していった。地道に、頑張りきった人間には何らかのチャンスと幸運をくれる。それはアメリカ社会のフェアな本質だ。

 ニューヨークの街に暮らしていると、よけいに思う。「やるかやらないか」では、「やる」人間しか、歓迎されないのだ。

 ニューヨーカーのメンタリティは、よく“like it or leave it”と表現される。やって来た人たちは、この街を好きになるか、いなくなるか、どちらかだ。一から人を育てる、温かい気質の街ではない。役に立つ人だけが受け入れられ、チャンスをものにできる。

 いい人は旺盛に呼び寄せるけど、追い出すのも早いのだ。

 地元のプロ野球チーム、ニューヨーク・ヤンキースに、よく表れている。他の球団で活躍した若いスターを引き抜いて、力の衰えた選手は功労者でも容赦なく放出する経営スタイルは、ニューヨークという土地柄を象徴しているようだ。

 代わりは、いくらでもいる。そんな冷たさが、この街だ。のんびりリラックスして人生を過ごしたい人には、どちらかといえば住みづらい街かもしれないが、僕の気質には合っている気がする。

 他の誰かにできないことをやってみせる人が、嫉妬されるより、きちんと評価される。

 そういう社会で生きていくことは、僕にはやりがいであふれているのだ。

日本の医療に貢献すること

 アメリカに来た頃、2年で日本に戻るつもりだった。移植技術を持ち帰り、日本の大学病院に根を下ろす。それは当時の僕のリアルな将来だった。

 しかし気づいたら、アメリカ暮らしはトータルで25年だ。日本での医者で過ごした年月よりも、はるかに長くなった。

 たまにインタビューで「日本に帰られる予定はありますか?」と聞かれる。日本に帰るタイミングがなかったわけではないが、今その予定は特にない。

 ただ、日本の人たちの助けになることをしたい、という気持ちは常に持ち続けている。何かしらの形で日本の医療に貢献することも、今後僕のやりたいことのひとつだ。そのために何ができるのか、考えていきたい。

 医療の世界はグローバルではない。製薬会社はグローバル企業だが、医療従事者がグローバルに仕事をするのはきわめて難しい。僕がやっている医療ボランティアのようなことはあっても、医療先進国間で医療従事者が移動するには大きな障壁がある。また患者さんがグローバルに移動するのも難しい。

 でもよく考えてみれば医師も患者も国境をこえて自由に移動することができれば、医療全体のレベルは上がる可能性が高い。自由とまではいかなくとも、ある程度自由に移動することができれば。

 これはSIPAとビジネススクールで勉強する間に一貫して考えていたことである。そのために何をすればいいのか。僕の次の課題だ。

「本物」であることを問われる時代

 ビジネススクールで、Authenticityということをテーマにした授業があった。日本語で言えば「本物であること」という意味だ。

 これからのビジネス社会では、人脈や投資のセンスだけではなく、Authenticityを持つことが、大切だと思う。

 それはつまり自分自身が、本物であること。かつ本物か、本物でないかを見きわめる、眼力を持つことだ。

 いまの時代はSNSで、あっという間に情報が拡散される。発信する側にとっては便利な環境だが、そこにある情報から色々な人に、見測られているということも忘れてはならない。

 偽物は、すぐに見抜かれる。

 そのような時代に求められるのはAuthenticityを持つ人間だ。

「本物」であり続けるということを、怠ってはならない。

 逆に言えば社会は「本物」以外を、淘汰しはじめているのかもしれない。Authenticityは社会で認められるための重要なキーとなった。それを自覚する必要があるということを学んだ。

 僕は本業以外に音楽で英語を学ぶという趣旨のラジオ番組(「イングリッシュ・ジュークボックス」TOKYO FM)や漫画で英語の表現を学んでいく週刊誌の連載(「人生で必要な英語は全て病院で学んだ」週刊新潮)もしている。Authenticityという面でいうと本業と違うことをするのはあまりよくないのかもしれない。

 ただこれには、別の理由がある。アメリカに初めてきた時にはとにかく英語で苦労した。そんな僕も今では堂々とハイレベルの議論が英語でできるようになった。

 英語なんて内容が伝わればそれでいいんだ。と思われる人も多いかもしれない。

 でも、相手の心に響く英語ができるようになることは、国際社会の中で信頼を得るためには必須である。これからは翻訳機の時代だから英語なんか勉強する必要はないと思うかもしれない。でも翻訳機で会話する人間と信頼関係を築くのは難しい。英語はアメリカ人と会話するための手段ではない。国際語である英語を使いこなせるようになることはまだまだ大切だと思う。

 そんなわけで、この活動は今後も続けていくつもりである。

人と出会うことが、もっと大好きになった

 医者の仕事は僕の中心だが、これからもさまざまな挑戦をしていくと思う。

 ただ、あまり各方面に手を広げるとAuthenticityとはかけ離れていくので、気をつけなければいけないとも思っている。

 でもひとつはっきりしているのは、僕は変化を止めない。

 性格的に、走り出したら、止まれないところがある。

 考えながら、走る。

 僕は走りながら、新しい経験を積み重ね、自分にとってのAuthenticityを築いていくのかもしれない。

 ラジオのパーソナリティーも気づけば7年目に入った。ここまでくれば本物の域に近づいているのかもしれない。

 周囲の人には、疲れませんか? と言われるが、大丈夫だ。

 僕は医者の仕事を通して、人と出会うことが、子どもの頃よりもっと、大好きになった。新しい世界に入っていく時、そこでの出会いは刺激的だ。

 やっぱり、何の挑戦をしていても、人と関わり合いたいと強く思う。

 初めての長期入院で出会った、ませた男の子。アテネ・フランセのフランス好きの仲間たち。大阪の友だちに、マイアミの陽気な同僚たち。そして世界中からきた僕の患者のみんな。多様な文化の人たちとつながり、一緒に泣いたり笑ったりすることが、人生で最も楽しいと感じる。もし日本を出ることなく、日本のアカデミアのコミュニティにしがみついていたら、ここまでおもしろい出会いはなかったのではないかと思う。

 振り返れば、映画づくりや演劇に熱中した学生時代、研究者から医者への転身など、根底にあるのは、人との触れあいだ。

 自分のなかで完結するのではなく、他人と一緒に何かをするのが、僕の欲求の根幹なのかもしれない。

 人が、いちばん面白い。常にそう思っている。

 これからも、ひとつひとつの出会いを大切に、人と関わり、生きていきたい。

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