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あなたの隣にある沖縄 第11回 わが郷里で「もうひとつの沖縄戦」があった 学童集団疎開/澤宮 優

 私の郷里の熊本県八代(やつしろ)市はプロローグでも記したように、沖縄との関係が深い。沖縄で多く見られるブーゲンビリアの花が咲くし、沖縄から移り住んだ人も少なくない。私は小学校のとき宮城くんという1歳下の男の子とよくソフトボールをした。夏休みは何度も川で泳いだ。
 お姉さんは目が大きな沖縄の女性の顔立ちの美人だった。宮城くんと沖縄の話はしなかったがどちらにしても沖縄との縁は、戦時中に沖縄から学童疎開者が八代に多くやってきたことにあるようだ。
 昭和19年の8月から、沖縄が激しい戦闘に巻き込まれるという恐れから九州の各地へ疎開が行われた。中でも八代市が1000人以上という九州内でもっとも多くの人を受け入れた。その事実を知ったのは、学童集団疎開の体験者や関係者に話を伺ってからである。
 今でも記憶に残るのは、平成30年9月に南風原町(はえばるちょう)の南風原文化センターでの出来事である。南風原国民学校の学童集団疎開の資料が展示されており、八代市日奈久(ひなぐ)温泉の写真が展示されていた。そこには幼いころに家族で行った温泉町の風景と変わらぬ雰囲気があった。疎開児童は日奈久小学校で学んだと記してあった。私の母も母の兄も戦後すぐにこの小学校で学んだ。沖縄の子供たちとはすれ違いだったが、そこに沖縄と私の家族との縁を感じないわけにはゆかなかった。
 さらに調べてみると、疎開児童は戦争が激しくなったので2次疎開を行い、日奈久から球磨川(くまがわ)の中流域に場所を変えている。その地域は祖父と祖母の実家がある場所で、親戚が多く住んでいた。私の子供のころ、目に焼き付いていた風景と同じものを、疎開した人も見ていた筈(はず)である。その思い出を沖縄の人たちと共有している思いがした。
 そして沖縄取材を重ねてゆくと、学童集団疎開が「もうひとつの沖縄戦」と呼ばれていることを知った。
 沖縄戦は太平洋戦争の末期、多くの住民を巻き込んだ地上戦で、非戦闘員の住民が9万4000人(当時の県民の4人に1人の割合)亡くなっている。これらの戦闘と別に疎開を「もうひとつの」と呼ぶようになったのは元沖縄国際大学教授で沖縄県史編集委員会委員長を務めた吉浜忍である。
 吉浜は語る。
「私は地上での戦闘に巻き込まれたものだけが沖縄戦とは思いません。学童疎開や一般疎開を含め、戦争がなければ行う必要のなかったものも沖縄戦に含まれるのではないかと考えます。本土への疎開のため親元から子供を離すという親の苦渋の決断、疎開地での子供たちの飢えや寒さの苦しみ、故郷を思う切なさ、これらは沖縄戦があったから起こったのです」
 学童集団疎開と言えば、対馬丸(つしままる)事件はよく知られているが、同じように疎開船で九州へ行き、終戦の後も生活した子供たちがどのような体験をしたのかはこれまで語られることはなかった。
 吉浜は各地域から学童集団疎開が行われたという記述を資料で見たとき、この件についてまったく知らないのも同然だった。これは記録として残さなければいけないと調査に着手したのが、平成2年である。
「もうひとつの沖縄戦」には、沖縄戦のおりのひどい食糧難をあげることもできる。沖縄では戦時体制が敷かれてから、村では配給制が始まり、食糧難に陥った。とくに渡名喜(となき)島や粟国(あぐに)島での食糧難は深刻で、ソテツを食べて飢えを凌(しの)いだ。これも戦争がなければあり得なかったことである。このようないろいろな事実も沖縄戦に含まれるのではないかと吉浜は考えた。
 吉浜が編集した『もうひとつの沖縄戦 南風原の学童疎開』(南風原町教育委員会・平成3年)では、南風原の児童が疎開した熊本県と宮崎県に行き、当時の同級生や先生に聞き取りを行ったことが記されている。
「南風原の子供たちは、対馬丸の船団と一緒だったんですね。対馬丸の場合は殆(ほとん)ど亡くなられていますが、無事に疎開先に着いた子供たちには、現地でのいろんな状況があったと思いました。生きている人たちの体験は非常に貴重だなと思い、明らかにする必要性を強く感じました」
 そこでわかったのが、証言者によって戦時下の航海の危険性などの情報把握に違いがある点だった。疎開地では沖縄からの情報がどのように子供たちに伝えられたのかも人によって違った。情報統制の中で県の上層部から漏れた噂(うわさ)が徐々に広がり、地域によって違いがあったのだろう。戦時中の情報とはそうしたものである。
 このような事情により、どうしても不明な点は残るが、はっきりしたのは「もうひとつの沖縄戦」があったことである。それも私の郷里であった出来事だった。  

沖縄から九州へ
 学童集団疎開については、国が昭和19年3月3日の「一般疎開促進要綱」と同年6月30日の「学童疎開促進要綱」を出しており、早くから全国規模で検討されていた。沖縄でこの動きに拍車がかかったのが、同年7月7日にサイパン島が玉砕してからである。米軍はこの島からじきに日本本土を空襲することになるだろう。まず標的になるのが、サイパン島に近い沖縄県である。国はすぐに緊急閣議を開き、沖縄県の老幼婦女子を、本土に8万人、台湾に2万人移動させる決定をした(台湾に疎開したのは、宮古〈みやこ〉、八重山〈やえやま〉列島の住民が中心で、沖縄本島の住民は殆ど九州へ疎開した)。
 沖縄県では7月26日に「県外転出実施要綱」が作られ、推奨という形で疎開が進められ、各学校には「学童集団疎開準備に関する件」が沖縄県内政部長から県内の学校長に通達された。
 九州では熊本県、大分県、宮崎県が受け入れることになった。いずれも空襲などの恐れがまずない地域であった。疎開は家族単位の一般疎開と、学校単位の学童集団疎開の2種類があった。どちらも疎開の目的は、住民の安全を確保するということだが、老幼婦女子は沖縄戦が始まったら戦いの足手まといになるので移すということと、子供たちの安全を確保することで、後に戦時の人的資源(兵隊、勤労動員など)を確保することだった。そして、約10万人の疎開者と入れ替わりに、同じ人数の兵力を沖縄に投入し、兵隊の食糧を確保するためであった。疎開者は口減らしでもあった。
 学童集団疎開は、希望が原則で、国民学校3年生から6年生までが対象だったが、付き添いがいらなければ1、2年生でも許可された。
 8月15日に第1次学童疎開が行われ、その次が8月19日、以後昭和20年3月まで5586人が学童集団疎開をした。
 各地域の疎開者の受け入れ人数は、宮崎県で学童2643人と関係者(引率教員、世話人など)が477人。熊本県が学童2602人と関係者452人、大分県が学童341人と関係者48人である。
 熊本県の受け入れ先は、阿蘇(あそ)市、山鹿(やまが)市、八代市、芦北町(あしきたまち)、水俣(みなまた)市である。県内の地域別に疎開者数を見ると、八代市への学童疎開者(引率など関係者も含む)の人数は1144人でもっとも多く、二番目が阿蘇市の736人で、山鹿市も663人、芦北町は203人、水俣市306人である。八代市が多いのは、ここには県内屈指の温泉街である日奈久温泉(当時は葦北〈あしきた〉郡日奈久町)があるので、温泉町の旅館で収容者を多く受け入れることができたからである。 

不安だらけの航海
 ここで与那原(よなばる)の小学校の体験者の話を記したい。与那原は、那覇(なは)市から東へ約9キロ離れた中城(なかぐすく)湾に面した町である。与那原から八代市に学童集団疎開した新垣庸一郎に話を聞いた。彼は教師を定年退職後、現在は町史編纂委員を務めている。昭和9年生まれで、疎開時は与那原国民学校4年生だった。
 町の会議室で新垣は調査の手を止め、遠くを見つめながら思い出をたどるように話してくれた。
「沖縄が戦場になるかもしれないから、学童や家族での疎開をするように指示があったんです。各自すぐに家族会議を開きました。家族が全滅しないように家を継ぐ者が一人でも残ったほうがいいので長男と次男は疎開しようと決めたんです」
 新垣の家は8人兄弟姉妹で、長女の次に長男の新垣がいて、次男に1年生の弟がいた。その下に2人の弟と1人の妹がいたが皆幼かった。そのため新垣と次男の弟が疎開することになった。疎開期間は2、3か月と聞かされた。本土では大きな汽車に乗れる、桜や雪も見られるので不安よりも憧れが大きかったという。
 与那原の疎開予定者は、町の中心地にある親川(エーガー)という井戸のある拝所(うがんじゅ)に集まった。この地は与那原の人々にとって神聖な場所である。そこから那覇へ向かう。那覇市の旅館で出航を待つため1週間ほど待機することになったが、そこで衝撃的な知らせを親たちは耳にした。本土から那覇に戻って来る船が米国の潜水艦に撃沈されたというのである。制海権も奪われたことを知った父母たちは慌てた。いつ潜水艦に襲われるかもしれない海路を通るのは大変危険だ。こんなことなら疎開に行かせるわけにはゆかない。子供たちを家に連れて帰ると言い出す家族も出てきた。どうせ死ぬのなら沖縄で家族と一緒のほうがいいという考えに変わったのである。
 新垣の家も、航路の危険性を考え、弟の疎開中止を決断した。航海中に攻撃され、弟を助けようとする兄が死んでしまうことを心配したのだった。新垣か弟か、どちらかが生き残れば家を継ぐことができるからである。そのため長男の新垣だけが疎開することになった。当初は学校で200名近くいた希望者も80名ほどが疎開を中止した。新垣は言う。
「校長先生や引率する先生方は役所から一人でも多く疎開に連れて行くように指示があったようで、家族を説得するのにとても苦労したみたいですね」
 学校側からは事前に救命用の筏(いかだ)を作るために材料になる竹の竿(さお)や棒を持って来るように言われた。その指示を聞いて、船が沈没する可能性があると信じて、さらに疎開を取りやめた人もいた。
 結局与那原国民学校からは、児童95名、関係者を合わせると119名が疎開することになった。出港日は事前に教えられず、急遽(きゅうきょ)8月21日の夕刻に決まった。対馬丸、和浦丸(かずうらまる)、暁空丸(ぎょうくうまる)の3隻に疎開者は乗船する。港では県の役人が疎開する児童の前で激励した。
「お前たち、ヤマトンチュに負けないように頑張るんだ」
 疎開船は沖に停泊しているので、児童は艀(はしけ)のような小さな船でそこまで移動した。
「僕は身長が小さかったので、艀に乗ると船の縁が高くて岸壁が見えないんですね。祖母や姉が港で見送っていましたが、見えませんでした。船が沈められたときのために筏に結ぶ縄を準備するように教師から言われましたので、自分がここにいることを知らせるために持参した縄を岸壁に向けて懸命に振って家族にさよならの挨拶をしました」
 最初に近づいた船の傍(そば)に鉄製の桟橋が設けられていた。そこから巨大な船を見上げると、縄梯子(なわばしご)が吊(つ)るされていた。これが対馬丸だった。このとき船上から大人の男性が叫んだ。
「もう一杯だから他の船に回れ」「対馬丸には那覇の人を乗せるから、田舎の人は小さい船に行け」
 などと言われたため、新垣は和浦丸に回された。この変更は与那原国民学校だけではなく、南風原国民学校の児童も一度は対馬丸に乗りながら、降ろされている。
 ここでの急な変更にはどんな事情があったのか、今もわからない。
 和浦丸も3階建ての建物のような威圧感があった。甲板から船内へは鉄の梯子を下りてゆく。中央は広い貨物置き場で両側は、上段と下段に分かれ、上段が男子、下段が女子と決められた。そこが船室だったが、中はとても暑かった。
 船は暁空丸、和浦丸、対馬丸の順に出発した。暁空丸には主に一般疎開の人たちが乗り、対馬丸は那覇市内の児童を多く収容した。それ以外の児童が和浦丸に乗った。
 やがて甲板には児童全員が集められ、教師や船員が、船が攻撃された場合の対処方法を話した。「退船準備」のブザーが鳴り、緊急の場合は救命具をつけて飛び込むように、飛び込んだら船から離れること。沈没する船は渦を巻いて周囲の人を吸い込んでしまう。浮き上がった筏や木材などが猛烈な勢いで人の骨を砕くかもしれないからだという。
 救命具の使い方も教わった。しかし実際に救命具を手に取ると、テントの布のようなもので作られ、中に綿が入っているだけだった。飛び込むときは両手で救命具を押さえて、顎を引いて歯を食いしばる。救命具が顎に当たると失神するからだが、この救命具では、水を吸って長くは持たないだろうと思われた。しかも救命具は長い間使用された痕跡が無かった。
 甲板から下を見るだけで怖くて震えた。3隻の船団は潜水艦の魚雷攻撃を避けるために、5分おきにジグザグに進んだ。本来は鹿児島を目指して行く予定だったが、潜水艦がいるかもしれないので、遠回りして長崎へ向かうことになった。
 8月22日の昼間までは穏やかな気候だったが、のどかな光景が一変したのは、22日の夜だった。新垣ははっきりとは覚えていないがと前置きして語った。
「夜の10時ごろに退船準備のブザーでたたき起こされました。それで甲板に上がって救命具を着けたまま整列し、飛び込む準備もしていた。命令待ちの間に、和浦丸の後方で明かりが見えた記憶があります。魚雷でやられた炎の色だったのかもしれません。しばらくすると対馬丸がやられたという大人の声が聞こえました。ただそれが誰の声だったのかはっきりしません」
 ある者は船が炎を吹き上げて沈没する様子を見た。水が大きく噴き上がり、魚雷が走る様子も見た人もいる。ただどれだけの人が対馬丸が攻撃を受けたことに気づいたのかはっきりしない。対馬丸の沈没を見た者は、すぐに船員たちから「対馬丸が沈んだことは絶対に言うな」と指示された。
 攻撃を受けたとき慌てた暁空丸が和浦丸に接触し船体が傾くアクシデントも起こった。以後、和浦丸も夜になるといつ攻撃されるかわからないという恐怖に包まれ、乗船者は生きた心地がしなかったという。安心という言葉からはほど遠い航海だった。 

八代での生活
 和浦丸、暁空丸が長崎港に着いたのは、出港して3日後の8月24日だった。新垣は無事に上陸したとき、「九死に一生を得た思い」と感慨を語るが、岸壁には対馬丸に乗った児童の荷物が置かれていた。それは那覇市の天妃(てんぴ)国民学校の児童の荷物だったと後で知る。
 和浦丸に、なぜ対馬丸に乗った児童の荷物があるのか。乗船者と荷物が別々の船だったという理由もわかっていない。ただ出港間際まで3隻の船は混乱状態にあり、命令系統がしっかりしていなかったことが窺(うかが)える。そのとき新垣は持ち主の到着しない荷物を見て心が痛んだ。
 新垣たちは長崎で1週間過ごすが、興味深かった点が二つある。町が静かで戦争の気配のないのどかさがあるのと、蝉(せみ)の鳴き声が沖縄と違っていたことである。
「沖縄の蝉はジーワ、ジーワって鳴くんです。長崎ではツクツクボウシと、鳴き方が全然違うからびっくりした覚えがあります」
 沖縄にはツクツクボウシは生息していなかったようだ。
 1年後、長崎に原子爆弾が落とされ、凄惨な状況になるとは、新垣には想像もつかないことだった。市内を走るチンチン電車にも目を奪われた。やがて児童たちは長崎駅から汽車で熊本県の日奈久に向かった。出発は夜で、日奈久駅に到着したのは翌朝である。
「乗った列車がものすごく豪華だという印象を受けましたね。大きくて窓も広くて。席もビロードでしたね。沖縄の軽便鉄道とは造りがずいぶん違いました」
 日奈久駅では朝10時に沖縄から来た15校(島尻〈しまじり〉郡の安里〈あさと〉、真壁〈まかべ〉、兼城〈かねぐすく〉、摩文仁〈まぶに〉、楚辺〈そべ〉、南風原〈はえばる〉、大里〈おおざと〉、与那原、玉城〈たまぐすく〉、中頭〈なかがみ〉郡の津覇〈つは〉、美東〈びとう〉、北玉〈きたたま〉、具志川〈ぐしかわ〉、伊波〈いは〉の各学校、首里〈しゅり〉の男子師範学校附属)の児童が一斉に降り立つ。疎開児童は、日奈久国民学校の講堂に集められて、同校校長の池田正の歓迎の言葉を受けた。このとき池田は沖縄の児童を見て「たまがった」と言った。熊本弁で驚くという意味だが、彼らは半そで半ズボンの国民服を着て、靴下と帽子もきちんと身に着けていたからだ。
 新垣は言う。
「たまげたという言葉は、沖縄での〝たまがい〟という言葉に似ていて、それは人間が亡くなったときの霊のことを言います。だから何という意味なのだろうと思いました」
 それにしても服装を見て驚くというのも奇妙である。
「着物だとか南洋の服だとかと思ったのでしょうか」
 日奈久で第一級の旅館の金波楼(きんぱろう)は傷痍(しょうい)軍人宿舎になっていたので、それ以外の22軒の温泉旅館で児童は生活することになり、9月1日の新学期から日奈久国民学校に通うことになった。
 日奈久では1000人あまりの人数を一度に温泉地で受け入れたため、学校は、午前中を地元の児童が、午後からを沖縄の児童が使用することになった。翌週は午前と午後を入れ替えるという二部授業制だった。そのため地元の子供と沖縄の子供との接点は殆どなかった。
 与那原の児童の宿泊場所は泉屋旅館の本館と別館だった。別館の奥の間には皇族が来られたときに泊まる部屋が作られていた。教師は児童たちに「皇族の部屋だから絶対に入ってはいけない」と注意したが、沖縄の言葉で「ウーマク」(腕白)だった新垣は、かえって興味が増した。
 彼は教師の目を盗んで友人数名と障子をあけて部屋に入った。窓は広くそこから見える街の様子は絶景だった。しかし教師に見つかってしまい、こっぴどく叱られたことがある。
 だが日常はひもじさとの戦いだった。
「食事の合図がでると雷が落ちたみたいに足音を轟(とどろ)かせて我先にと皆で階段を降りてゆくんです。座ると竹のお椀を持ち上げます。竹の節が膨らんでいれば、ご飯が余計に入っていると思い、膨らんだお椀を探して座ります。ただ高等科の生徒は下級生のご飯を奪う習慣がありました。お椀の蓋にご飯を少し入れ、食卓の下から彼らに渡しました。少ない自分のご飯がさらに減りました」
 教師や沖縄から付き添いできた世話人はなすびや大根の買い出しに行って、味噌(みそ)汁に入れてくれた。しかし次第に食糧事情も悪くなり、昼には小さいサツマイモが多くても2個、大きめのサツマイモだと1個だけという具合になった。おかずは沢庵(たくあん)ひと切れになった。
「もう年がら年中ひもじいんです」
 新垣は話す。学校の周囲は八代平野の田園地帯である。畑も多い。空腹のあまり、こっそりと畦道(あぜみち)に生えている大豆をかすめ取って食べたこともあった。実はまだ青かった。それを生で食べた。農家の軒下に干してあった大根を見つけたときもある。翌日に行くと根は切られていたが、葉は残っていた。それを盗んで食べた。枯葉を食べるようで、味も素っ気も無かった。
 そのような行為は次第に地域に知れ渡り、現地の人から「沖縄の奴らは盗んで食べる」と苦情が来るようになった。そのたびに引率の教師たちは謝るしかなかった。
 私は彼らが疎開した温泉街に取材したが、当時を知る人たちはとくに思い出はない、と語るか、顔をしかめてこう語る人もいた。
「いい噂は聞きませんでした。とにかく沖縄の人間は悪かこつをするという話でした」
 あるいは、「温泉に入れば、沖縄の子供は服に虱(しらみ)がたくさんいて、脱いだ服を重ねると、そこから移る」とも大人たちは苦情を言っていたという。
 それでも中には教室の机の中にイモをいくつか入れ「お腹が空(す)いているでしょう。食べて下さいね」と手紙を添えてくれる地元の児童もいた。
 疎開して2か月が経(た)ち秋も深まったころ「沖縄が大空襲を受けたらしい」という知らせがどこからともなく疎開児童の耳に入った。「10・10空襲」であるが、那覇市街地の大半が焼失し、沖縄本島でも民間人だけで330人の死者を数えた。当時の児童によると情報はどこからともなく流れてきて、教師によっては「熊本日日新聞」の記事を持ってきて説明してくれたところもあるという。酷(ひど)い空襲の知らせは彼らの気持ちを弱らせた。さらに追い打ちをかけるように、彼らにとって初めての本土の冬が来た。 

やーさん、ひーさん、しからーさん
 疎開児童は、異郷でのつらさをウチナー口で「やーさん、ひーさん、しからーさん」と表現した。「ひもじい、寒い、家族と故郷から離れて寂しい」という意味だ。
 疎開は2、3か月と言われていたから、彼らには冬服の用意がなかった。だが戦況は酷くなるばかりで、沖縄に戻れる気配は一向にない。しかもその年は60年ぶりの寒波が熊本を襲った。殆ど雪の降らない熊本で、積雪は10センチになり、零下7℃という信じられない寒さを記録した。疎開児童は念願の雪を見ることができたが、寒さに苦しんだ。
 新垣は辛(つら)さを語る。
「本土の冬は沖縄では経験したことのない寒さでした。僕らは冬服もなく寒さには無防備でしたからね。手はポケットに突っ込んで耐えることができましたが、足だけはどうにもなりません。半ズボンなので肌が出て、とても寒かったです。靴下も擦り切れ、靴も親指のところに穴が開きましたが、予備がないので、そのまま履くしかありません。足が冷えて仕方がなかったです」
 上着を全部つぶして、布を半ズボンに足して長ズボンにしたが、それで寒さを防げるものではない。そのころは各家の傍には防火用水が置かれていたが、その水が厚く凍っていた。表面に人の頭ほどの石を置いてもびくともしない。
 寒さに耐えかねて、子供たちの足の指が腫れてきた。新垣も重度のしもやけで、左右の指十本が倍ほどに膨らんだ。痒(かゆ)くてこすると、紫色に変わった。次第にすべての指から膿(うみ)が出始めた。膿で指が靴下や靴にくっつき傷口が痛んだ。新垣は言う。
「僕は体が弱いほうでしたから、よく風邪もひきましたし、欠席も多かった。風呂に入ると、指のかさぶたがまた開くんですね。治るまで相当時間がかかりました」
 ようやく一冬を越したが、昭和20年春になると、日奈久の地も戦地で負傷した兵隊(傷痍軍人)が温泉で療養するために、次々にやって来た。子供たちの宿泊する温泉宿は傷痍軍人が優先して使うことになった。そのたびに児童たちは別の所に移らなければならなかった。また日奈久から数キロ離れた八代の中心街にも米軍機の空襲が多くなり、日奈久も安全ではなくなったので、昭和20年6月15日に山間部に2次疎開することが決まった。2次疎開先は、主に八代市から奥地に入った球磨川中流域の八代郡坂本村(現八代市坂本町)や八代市の北にある山間部の八代郡種山村(現八代市東陽町)などである。このとき内地に身寄りのある者は、親戚に引き取られるケースもあった。
 与那原国民学校は、八代郡下松求麻村(しもまつくまむら/後坂本村、現八代市坂本町)の下松西部(さいぶ)国民学校に行くことになった。このとき新垣の親戚は、東京から大分県に疎開していたので、心配して日奈久まで訪ねて来てくれた。
「もう親戚を見たら、僕はくっついて離れなかったらしいんです。それで仕方なく一緒に大分まで連れて行ってもらいました」
 2次疎開に行く前の昭和20年5月、新垣は大分県豊後竹田(ぶんごたけた)の近くの松本村に行くことになった。彼は級友たちと別れて、大分の親戚の家で疎開生活を送ることになった。
 児童たちが寝泊まりした旅館は、傷痍軍人の保養所となり、日奈久国民学校は兵舎となった。 

2次疎開
 2次疎開では沖縄の児童は学校ごとに各村に割り当てられ、村のお寺や学校などに宿泊し、国民学校に通った。日奈久とは違ってここでは各クラスに沖縄の児童が編入する形になったので、一緒に学び遊ぶことができた。
 この地に2次疎開をした南風原国民学校の赤嶺英助と中村清はまず日奈久に疎開し、山間部に移った。彼らが通った八代郡上松求麻村(現八代市坂本町)にある上松求麻第一国民学校は後に藤本小学校となったが、平成15年に統廃合され、現在は無人の校舎とグラウンドが残っている。
「やはりひもじかったけど、学校では皆一緒だったから友達もできてね、日奈久よりは良かったかもしれない。最近まで坂本町の人と文通もしていましたからね」
 夏は地元の子と球磨川で泳いだこともある。地元の子供たちと一緒に学び、運動会にも参加した。徒競走では沖縄組が速かった。沖縄の児童は学力も高かったので、級長には中村清が選ばれた。
「沖縄の子供は学力は高かったと思います。担任の先生からも可愛がられました。先生の自宅でご飯を食べたこともあります。分数計算を地元の子供に教えたこともありました」
 坂本村の学校で机を並べた地元の児童にはどう映っていたのだろうか。当時5年生だった本田進はしばらく沈黙すると口を開いた。
「ここらは、よそとの交流はないわけです。同じ日本人だけど、顔の雰囲気や生活スタイルも違うから、外国人みたいな違和感がありました。言葉もまったく違いますからね。だからお互いの意思疎通ができないこともありました。トラブルもありましたよ。彼らの気持ちを大きな心で受け入れるほど、私たちは慣れていませんでした」
 生活スタイルの違いと言えば、球磨川に水を汲(く)みに行くとき、沖縄の子供たちは頭に桶(おけ)を乗せて水を運んでゆく。その姿を見た地元の子供たちは、奇妙な格好に驚き、からかう。彼らを「琉球人(りゅうきゅうじん)」と呼ぶ声も本田は聞いたことがある。食糧難の時代だったから、大切な食べ物が盗まれれば「琉球人のせいだ」と疑いをかけられる。盗んだのは兵隊たちだったが、濡れ衣も着せられた。
「彼らは嫌な思いや苦労をして沖縄に帰ったのではないか、いい印象は残っていないのではないかと考えさせられます」
 本田の率直な思いである。2次疎開は地元との交流が深かったゆえに、摩擦も生まれた。排他的な地域での彼らの苦労がしのばれる。
 中城村の津覇国民学校の児童は、八代郡東陽村河俣(かわまた/現八代市東陽町)に2次疎開でやってきたが、彼らが生活した瑞宝寺でお世話をした水本ヤスノの心情が人としての正直な気持ちだろう。
 ヤスノは当時小学校を卒業したばかりの10代だった。
「沖縄の人を最初見たときはびっくりしました。外国人のようでした。やはり顔つきが違いましたからね。言葉もわかりませんでした。可哀そうでねえ。2年生から6年生までいて、親はついていないし、皆栄養失調で、痩せてね、腹いっぱい食べさせてあげたいけどと思ったものでした」
 後年、河俣小学校が閉校になるとき、彼女の許(もと)をかつての児童たちが訪れてくれた。今も彼らはこちらでは珍しいだろうからとマンゴーを送ってくれているという。
 2次疎開では地元との交流も深まり、疎開児にとっては思い出も多かったと思われるが、一方では地方特有の地縁性、排他性にも悩まされることになった。 

熊本県芦北町への疎開者の証言
 新垣と同じ与那原国民学校の山内敏春も今、町史編纂(へんさん)に関わる元教師である。彼も4年生で1歳上の兄の茂助と疎開することになった。乗船予定は8月だった。山内は語る。
「家を出るときは遠足気分ですよ。周辺のおばあちゃんが、鹿児島に行くと富士山が見れるねと言ってくれました。本当は桜島なんですけどね。ところが急遽、先生たちに潜水艦に攻撃されるかもしれないから全員親の承諾を取って欲しいと言われたんです」
 さらに教師たちは、2メートルの太い竹と縄を持ってくるように指示した。救命用の筏の材料である。なぜそんなものが必要なのか。不安は親たちに一斉に広がり、疎開を取りやめた家も相次いだ。山内の両親も心配を隠さなかった。
「父親は、これでは子供たちを行かせるのは危ない、困ったものだと考え、行くことをやめさせたんです」
 山内は家に戻ったが、9月に入ると沖縄を巡る情勢が日ごとに悪くなる。日本軍人の姿も多くなり、各地に壕も慌ただしく作られていく。それは激しい戦いが起こることを予感させた。懸念した県の行政サイドは9月15日に第2次疎開を設定する。これが学童疎開の最後になるだろうと説明されたので、山内の両親も渋々同意した。
 9月15日に山内が那覇港から乗った船は室戸丸(むろとまる)という8千トン級の大型輸送船で、行き先は鹿児島港だった。与那原国民学校からは40名、家族単位の一般疎開者も交じっていた。対馬丸事件もあったからだろう、48隻の船で船団を組み、1隻が沈没しても別の船に乗り移れるように配慮された。駆逐艦2隻が護衛に、日本軍の水上飛行機も安全確認のためときおり偵察に来た。ただし山内は対馬丸事件のことはこのとき知らない。
 室戸丸は敵の潜水艦を避けながらの航海だったので本来なら2日で鹿児島港に着くところを10日もかかってしまった。鹿児島港に着くと、列車で9月30日に湯浦(ゆのうら)村(現芦北町湯浦)へ移動した。
 そこには大里村(現南城市)、真和志(まわし)村(現那覇市)、本部(もとぶ)町(国頭郡)、具志川村(現うるま市)の国民学校の児童もいた。
 地元の人たちは沖縄の人を見るのも初めてで裸足でやって来ると思ったらしく、草鞋(わらじ)を編んで用意していたという。実際は児童は真っ白い運動靴や革靴を履いてきれいな服を着ていた。湯浦の人は「東京の子供のごたる(ようだ)」と驚いたという。
 山内は葦北郡湯浦村の寿旅館に宿泊し、そこから湯浦国民学校に通った。引率教諭は津嘉山朝吉という教師だった。
 疎開して一か月ほど経ったころである。配給があるというので沖縄の疎開児童が中庭に集められた。厳しい物資の状況にもかかわらず、そこには砂糖や子供の洋服、油、味噌が豊富にあり、児童に配られた。なぜ多くの物資があるのか、山内は疑問に思ったが後に判明する。
「今考えてみると対馬丸の遺品だったと思いました。対馬丸以外にも輸送船が沈められたことは後で耳にしましたが、自分の乗った室戸丸は無事に着きました。しかしこの船も潜水艦に狙われていたかもしれないと思うとぞっとしました」
 ここでも対馬丸に乗った子供たちの荷物が暁空丸か和浦丸に積んだままになっていたことがわかる。
 湯浦でもご飯は竹製のお椀に入れられた。イモご飯や沢庵が主で、味噌汁には具がなかった。そのため児童たちは、味噌汁を「太平洋」と呼んだ。島がほとんどない太平洋に、具のない味噌汁をなぞらえたのである。
 ひもじさは日奈久と同じで、児童たちは農家の畑などで盗み食いをする。そのたびに農家から苦情がくる。怒鳴り込んでくる人もいたが、津嘉山は事情を話してただ詫(わ)びるばかりであった。やはりここでも「沖縄ん者は泥棒」、寒さで皮膚が爛(ただ)れるから「皮膚感染症である疥癬(かいせん)病み」と呼ばれることもあった。そんな状況を知っている津嘉山は、児童が盗み食いをしても強くは叱れないのだった。物資も窮乏していたので、児童の制服にある真鍮(しんちゅう)製のボタンを軍部に供出しなければならなくなった。津嘉山はハサミで制服のボタンを切ったが、切るたびに「堪忍してくれな」と声をかけた。ボタンは木製に変えられた。
 冬になっても寝るときに使えるのは毛布一枚だった。この地も寒波に襲われ、寒いので兄の茂助と一緒に抱き合って寝た。やがて近くの水俣町(現水俣市)や湯浦村をグラマン機が襲うようになった。水俣町は日本窒素肥料(現チッソ)などのある工業地帯だったからである。
 そんな中で楽しい思い出は、地元の子供と全校で雪合戦をしたことだった。やはり沖縄の子供たちにとって雪という存在は本当に貴重な思い出だったのだろう。
 彼らも昭和20年6月15日に空襲の危険から身を守るために、山間部の葦北郡の大野村(現芦北町)に2次疎開をすることになった。 

2次疎開先での交流
 与那原国民学校の2次疎開の場所の大野村は、湯浦村からさらに10キロ弱奥に入った所である。移動には曲がりくねった山道を歩くから、想像以上に子供たちには辛い道のりだった。
 大野村には親戚に引き取られた9人を除いて、31人が行くことになる。移動日は雨だった。子供たちは林道の坂道を、3、4台の荷車を皆で押しながら、山越えをする。非力な子供たちだから交代で荷車を押しながら、道を登ってゆく。彼らが目的地に着いたのは夕暮れどきである。半日がかりの行程で、体は雨でびしょ濡れになっていた。
 宿泊所は光勝寺で、そこから近くの大野国民学校に通う。食事は配給だが、それ以外に農家から買い出しをして不足分を補った。児童も農家に行って稲刈りなど農作業を手伝って食事を分けてもらう。そのため当時では豪華な猪(いのしし)の肉や卵が食卓に乗る日もあった。
 山内は語る。
「大野村では地元の人たちと一緒に学校に行けたのが嬉(うれ)しかったですね」
 とくに大野国民学校は小規模だったので、疎開児童も地元の子供と親しくなり、彼らもよく寺に遊びに来る。山内は沖縄の手ゴマを作るのが上手かったので、コマ遊びを地元の子供たちに見せた。小さいコマを作って紡績糸のような細い紐(ひも)で巻き、一気にコマを投げる。自分の手の上でコマが回転した。皆はあまりの上手さに声を上げて感激する。地元の子供たちが、コマの回転に見入っていると、山内は一人一人にコマを作って渡した。女子は沖縄の歌や踊りを地元の子に教えた。
 光勝寺では演芸会を開いて、地元の大人たちに沖縄の踊りや歌を披露するときもあった。大人たちは、持参した野菜や煮つけなどを見物代として置いて行ってくれた。
 一緒に学校で学んだ芦北町の一丸広治は当時5年生だった。
「山内君とは仲が良かったから、正月にうちでついた太い餅をチリ紙に包んで持たせたことがありました。彼は友人と一緒に食べたのですが、他の人の前で食べることができず、お堂の下で隠れて食べたと言っていました」
 光勝寺での日々は全寮制の生活と似ていたので、引率教諭の津嘉山の指導もよく、皆勉強し学年末表彰では疎開児童のほうが多く選ばれた。山内もその一人である。彼が印象に残るのは、授業が熊本弁で行われることだった。沖縄では皇民化政策で標準語を強制的に使わせられたため、標準語は沖縄の児童が上手だった。山内は言う。
「何で方言で授業するのかなと思っていました。わからなかったので、隣の席の子供に通訳をお願いしました」 
 大野村には空襲もなく、時折敵の戦闘機が上空を旋回する程度である。ただ地元の子供たちからの虐(いじ)めはあったようだ。これを熊本の人たちは「地域根性」と呼ぶ。よそ者を排除する地縁的な風習である。意地の悪い上級生は、疎開児童を校庭に呼びつけて脅す。
「わっどま(お前たちは)沖縄で空手ばしよるとだろうが。だったらこの板ば割ってみろ」
 沖縄の子供は、命令されたとおりに割って見せたが、手は痛さで表情は歪(ゆが)んでいた。その話を当時耳にした地元の同級生の福田一馬は述懐した。
「地元に受け入れられようと無理しよるとじゃなかろうか。戦争で疎開して子供ながらに可哀そうじゃろうと思いました」
 彼らが大野村に来て間もなく、沖縄での組織的な戦闘が終わった6月23日を迎えるが、詳しいことは子供たちに知らされていない。8月の中旬頃に、沖縄から出向している学童疎開担当の役人が寺を訪れ、津嘉山に日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をしたことを告げた。
 この地にはラジオの電波も届かなかったので、子供たちは玉音放送も聞いていない。17日の朝、本堂に皆が集められて教師から日本が負けたことを伝えられた。山内は回顧する。
「残念だなあと思いましたね。日本は勝つんだと思っていましたから」
 戦争が終わっても先行きの見えない疎開生活は続けられた。いつ沖縄に帰ることができるのかもわからない。昭和20年12月に本土での二度目の冬がやってきた。また寒さに耐えなければならない。光勝寺の現住職の徳尾眞徹は言う。
「すごく寒かったでしょうね。当時の寺の障子は破れていましたし、泥壁で隙間もありましたから風も入って来ていました」
 昭和21年の夏も終わりに近づいたころ、ようやく帰郷できるという知らせが入った。 

兄との死別
 沖縄への帰還は、昭和21年10月初旬で、長崎港から出港することになった。しかし帰郷目前の9月25日にある児童に異変が起こった。それは兄の茂助だった。
 この日は沖縄への土産物などを買うために、山内は友人たちと人吉(ひとよし)市に出かけることになっていた。しかし茂助は栄養失調で体調を崩し、誘っても「僕は今日は行けないから」と断った。それが最期の会話になった。その後症状が急変し、その日のうちに亡くなったのである。
 人吉からの帰路、峠から大野村が見えたとき、友人が山内の許に駆け寄ってきて茂助の死を告げた。山内は茫然(ぼうぜん)と立ち尽くした。1週間後に沖縄に戻れることを楽しみにしていた兄が死ぬとは信じられなかった。彼は荷物もその場に放り出して、一目散に光勝寺へ走った。寺で静かに横たわっている兄の遺体を見たとき、山内の目に涙が溢(あふ)れ出た。
 この当時は食料も薬も不足し、近くに医者もいなかった。十分な手当てもできず、戦争がなければ助かった命だった。山内は語る。
「これだけは今でも思いますが、兄はちゃんと食べていれば死ぬことはなかったです」
 翌日が葬儀である。9月だったがこの日は肌寒く、空は暗く雨が降っていた。このとき引率教師の津嘉山は傍(はた)から見ても気の毒なほど肩を落としていた。
 最後の野辺の送りは光勝寺の近くの田で行った。村の人たちが丸太を積んだ。一番上に畳を敷き、茂助の遺体を丁寧に寝かせる。全校生徒、地元の人たちが取り囲み、その光景を見ていた。
 山内がゆっくりと火を点ける。遺体の周りには竹しばが積まれて、すぐに燃え出した。火が消えるまで、皆が手を合わせる。こうして茂助は異郷で荼毘(だび)に付された。野道には彼の霊を慰めるように野萩の花が咲き誇っていた。
 茂助の初七日を大野村で済ませると、10月3日の未明に疎開児童たちは大野村を出発することになった。空はまだ暗く、山道も心配だ。地元の児童や村の人たちがたいまつを燃やして、道案内をしてくれた。そして彼らの姿が見えなくなっても地元の人たちは、「さよなら、元気で頑張って」と声の続く限り励ましていた。
 後日談だが、戦後20年目に疎開児童たちは光勝寺を再訪する。このとき本堂に行くと自分たちが寝ていた畳の場所を覚えており、そこに座ったまま暫(しばら)くは動かなかったという。それほど彼らにとっては忘れがたい土地であった。 

 山内たちは肥薩(ひさつ)線の白石(しろいし)駅から汽車に乗り、長崎県の佐世保駅に向かった。佐世保の引揚援護局針尾(はりお)収容所で1週間待機し、そこから船に乗り、那覇港に着いたのは10月25日である。
 沖縄に戻れたものの、那覇の街は荒れ果てていた。皆はDDT(虱などを除去するための殺虫剤)を振りかけられて、消毒され、米軍のトラックで中城村の久場崎(くばさき)収容所に連れて行かれる。翌日、再びトラックに乗って与那原の出発の時に集まった親川のある拝所に戻った。拝所には出発前と違って、湧き水もなく、デイゴの並木も消えていた。ここで疎開児童の家族が待っていた。拝所前で山内は茂助の遺骨を父親に渡した。その瞬間、父も母もその場で泣いた。
 そのときを思い出しながら、山内は遠くを見ながら呟(つぶや)いた。
「連絡の取り様もなかったし、このとき親は兄の死を初めて知ったと思います。父は遺骨を抱きしめて男泣きに泣きました。母は私の足元に崩れ落ちるようにして泣いていました。あの光景は今でもずっと残っています。津嘉山先生も何度も両親に謝っていましたし、その後もうちに来られていつも謝っておられました」
 なお、親川の拝所に着いていくら待っても両親が迎えに来ない家もあった。沖縄戦で父も母も亡くなっていたのである。与那原に限らず、他の地域の疎開児童も、故郷にようやく戻れても戦(いくさ)のために一家が全滅したり、家が焼けてしまったりと、戻る場所のない子供たちがいた。彼らは親戚に引き取られて行くか、あるいは伝手(つて)を頼って再び疎開先の地に戻った人もいた。
 私が小学生のときの宮城くんだけではなく、他にも沖縄で見られる姓の人が何人かいた。そのときは深く考えていなかったが、そこに彼らそれぞれの歴史があったのだろうと今になって思い当たった。
 日奈久から大分の親戚宅に再疎開していた新垣は昭和22年1月に、疎開児童よりも遅くに郷里に戻ったが、街並みは見る影もなく、哀れな姿になっていた。このとき父親が亡くなっていたことをはじめて知った。
 無事に沖縄の土を踏んでも、家族を失い、生活の苦しさもあり、さらなる苦労が疎開児童を待ち受けていた。彼らにとっての戦争の痛みは、さらに続いたのである。
 取材のときに何度か疎開体験者の人から「熊本には感謝しかない。今も熊本に足を向けて寝られん」との言葉を頂いた。いろいろと理不尽なこともあっただろうが、それを飲み込んでの言葉だったのだろう。大変な嬉しさと同時に、私にはある呵責(かしゃく)が残った。
 それは疎開した人たちから感謝されるほどのもてなしを郷里は本当にしたのかという自問自答である。それには私なりに感じた要因がある。戦争中、多くの沖縄からの疎開者がやって来たことを、私は今まで親や親戚から一度も聞かされていなかったからである。そこに郷里の本音があるような気がする。それは沖縄からの疎開を過去のこととして、忘れ去ったのではなく、そこには沖縄への無関心があるのではないかという点である。
 今、沖縄の子供たちが疎開をした小学校の殆どが、統廃合で無くなり、語り継がれる場がない。疎開体験者も高齢化し、鬼籍に入った人も多く、このままでは学童集団疎開が忘れ去られる可能性が高い。吉浜忍は語る。
「これからは疎開された方の次の世代がどう疎開先と交流していくか、そこから学童疎開を学ばなければいけないと思います。そういう芽が生まれつつあります。これからこのことを伝えて行くのは、疎開者自身ではなくて、それぞれの子供たちの役目になるでしょうね」
 私たちの役目は新しい世代の中で学童集団疎開の真実を未来に伝えることである。それは戦争の激しい時期に同じ場所でともに過ごした者の務めであり、疎開を受け入れた側の責任でもある。
 その根幹になるのが、わが郷里で「もうひとつの沖縄戦」が行われたという事実を知ることである。 

参考文献
・吉浜忍編集『もうひとつの沖縄戦 南風原の学童疎開』(南風原町教育委員会 平成3年)
・「広報なかぐすく」254号(中城村役場企画課 2018年6月3日発行)
・「広報なかぐすく」256号(中城村役場企画課 2018年8月3日発行)
・与那原町学童疎開史編集委員会編『復刻版 沖縄のお友達へ 昭和21年9月 大野国民学校』(平成7年8月15日 与那原町教育委員会発行)
・「学童疎開 こどもと戦争14」(「沖縄タイムス」平成6年9月14日付朝刊)
・「集団疎開児に卒業証書」(「読売新聞 西部版」平成5年3月24日付夕刊)
・池田正「思い出の日奈久小学校」(『未来と伝統 日奈久小の百年』日奈久小学校百周年記念事業期成会編集・発行 昭和50年)
・人権NPO法人ちなもい編集・発行『平和と人権のまちづくり 八代の戦跡』(平成20年10月18日)

児童たちが二次疎開で学んだ学校は多くが廃墟になっている(八代市坂本町)
疎開先の小学校には沖縄の土産が今も保管されている。

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プロフィール
澤宮 優(さわみや・ゆう)
1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。

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