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【刊行直前特別連載!】鶴は戦火の空を舞った 第一章 1/岩井三四二

5月21日に集英社文庫から岩井三四二さんの『鶴は戦火の空を舞った』が発売されました。
近代を舞台にした歴史時代小説の新地平!
この日本の戦闘機パイロットの最初期を描いた、胸が熱くなる書き下ろし小説を期間限定特別公開。
第一章を公開中ですのでぜひお楽しみください!

第一章 死と隣り合わせの任務 

 埼玉県のところざわには、陸軍が造った“日本初”の飛行場がある。
 もともと芋畑だった二十三万坪の敷地の中に幅五十メートル、長さ四百メートルほどの滑走路をそなえ、三階建ての気象観測所や格納庫、兵舎なども設けられている。
 ここには五機の飛行機がおいてあるが、そのうちの一機、アンリ・ファルマン式飛行機がいま、滑走路に引き出されていた。
「やっぱりたこのお化けとしか思えねえな」
 陸軍“初”の操縦訓練生であるにしきおりひでひこ工兵中尉は、いまだにそういう感想を抱く。
 仲間たちは「行灯あんどん」というあだ名を奉っているが、それは褒めすぎだと思う。
 行灯ならばまだ骨組みの四方に紙が張られているのに、アンリ・ファルマン機の胴体は、木の丸棒を細長い箱形に組んだ骨組みだけの素通しなのである。そこに布張りの上下二枚の主翼と垂直・水平尾翼、そして機首に前方しょうこうがついている姿は……、
「どう見ても行灯よりも凧の親戚筋だ。ちげえねえ」
 滑走路に立つ英彦はつぶやいた。
 凧とちがうのは、全長が十二メートル、幅は十メートルほどと大きいことと、胴体の中央部にグノーム式五十馬力の発動機を積んでいることだ。これでプロペラを回し、空気を後方に押して前進、それによって翼に揚力を発生させて空を飛ぶ仕組みになっている。
 木と布でできた機体はなんとも華奢きゃしゃで頼りないが、明治四十五(一九一二)年七月半ばの現在では、これが世界でもっとも実用的な機体とされている。
「何をしておる。うしろに乗れ」
 という徳川とくがわ好敏よしとし大尉の指示に、英彦は「はっ」と短く答え、縦横に走る張線を引っかけないよう気をつけながら、アンリ・ファルマン式飛行機の下翼に足をのせた。
 ──いよいよ飛ぶのか。
 生まれて初めて空に舞いあがるのだ。ついに飛ぶ。胸は高鳴っている。
 大尉の背中とグノーム式発動機のあいだには、五十センチほどの隙間がある。英彦はそこに長身で細身ながら筋肉質の体をすべりこませた。せまい上に前席より一段高くなっているので、前を向くと徳川大尉の背中に覆いかぶさるようになる。
 徳川大尉はやさしい目つきで鼻も高い公達顔きんだちがおだ。それもそのはずで、江戸時代にさんきょうと呼ばれたみず徳川家の八代目当主である。しかし軍人らしく声は大きく鋭い。
「よし、発動機始動!」
 大尉の命令に応じて整備員がプロペラを両手でつかみ、力いっぱい押し下げた。すると英彦の背後の発動機が爆音を発すると同時に青い煙を吐き出し、プロペラがとんでもない勢いで回転しはじめた。
 間歇かんけつ的だった爆音は、すぐに数千匹の蜂の羽音のような切れ目のない騒音に変わる。同時に細かいが力強い振動が英彦を襲う。
 主翼と尾部には合わせて六人の整備員がとりつき、機体を押さえている。機体にはブレーキなどないので、こうしないと勝手に前進してしまうのだ。
 徳川大尉は右手に操縦かんをもち、左手にスロットル・レバーを握っている。操縦席の前には手すりも柵もない。長く突き出した木製の棒の先に、前方昇降舵があるだけだ。
 大尉はしばらくじっとしていたが、発動機の音が一定に落ち着くと、左右を見まわし、機体を押さえている整備員に視線を送ってから、さっと左手をあげた。
 整備員たちが手をはなし、わらわらと横に走り散ってゆく。
 解放された機体が前進をはじめた。
 ファルマン機は、滑走路上で徐々に加速してゆく。数十メートルも滑走したところで、徳川大尉は操縦桿を手前に引いた。
 すると機体がふわりと浮いた。
「うわあ、飛んだ!」
 英彦は思わず叫んだ。
「そりゃ飛ぶさ」
 大尉がつぶやく。
 機首が上を向いているから、前方には青空が見える。機体が地面から離れてゆくと同時に、左右の景色が斜めになって動いてゆく。
「おおー」
 つい声が出る。それがかんにさわったのか、
「こら、操縦をよく見ていろ」
 と徳川大尉に𠮟られた。といっても徳川大尉は右手に握った操縦桿を前後に動かしているだけなのだが。
 とにかく自分は宙に浮いている。信じられないが、現実である。
 上昇した機は水平飛行に移った。高さはおそらく百メートル程度だろう。速度は数十キロか。みな目分量でしかない。この飛行機には計器などいっさい付いていないのである。
 眼下に広がるのは、緑と茶色のつづれ織り。武蔵むさしの林と畑だ。歩いている人が人形のように小さく見える。
「どうだ。これなら敵陣もよく見えるだろう」
 と徳川大尉が言うのは、軍で飛行機の任務と期待されているのは偵察だからだ。
 たしかに遠くまでよく見えるが、この風圧と揺れでは、地上のようすを紙に書き留めようとしてもむずかしいだろう。それどころか、地図を開くことすらできそうにない。
「高いのは結構でありますが、風が強いのが困りもので。工夫が必要と思います」
 と返事をすると、
「そうだな、何ごとも工夫だ」
 と徳川大尉はうなずいた。
 そうして三分も飛んだだろうか。
 空を飛ぶとは、なめらかで快適なものだろうと想像していたが、まったくちがった。機体はがたがたと細かく揺れ、ときどき大きな上下動が加わる。しかも正面から風が吹きつけてくるから、顔にかかる風圧も相当なものだ。快適とは言いがたい。そう思っていると、
「よし、左旋回」
 と徳川大尉が言って、操縦桿を左に倒した。
 機体が少し左に傾き、ゆっくりと旋回する。
「主翼を見てみろ」
 と言われて見ると、主翼後方についているじょよくが動いている。
「あれで機が左右に動く」
 と徳川大尉が説明してくれる。
 補助翼はファルマン機に特有の仕組みだった。ほかの機体は主翼をたわめて左右に曲がるようになっているが、補助翼のほうが利きがよく、簡単に旋回できる。そのためいずれみな補助翼を使うようになっていくだろうと、世界中で評価されている。
 旋回した機は飛行場へもどってゆく。下方に細長い滑走路が見えた。
「着陸する。しっかりつかまっていろ」
 大尉の声もうわずっている。着陸は飛行術の中でも一番むずかしいと言われているだけに、教官でも緊張するようだ。
 英彦も両手で座席をつかみ、歯を食いしばった。
 地面が近づいてきた。滑走路に進入してゆく。機の前面に、ところどころ草の生えた茶色の地面が迫る。頭から地面に突っ込んでゆく感じだな、とはらはらしていると、大尉が発動機を切った。とたんにうるさかった蜂の羽音が消えて、あたりが静かになる。
 その直後、下から突き上げるような衝撃があった。
 英彦は「うわあ」と声をあげた。着陸に失敗したと思ったのだ。
 機体は反動でまたふわりと上昇する。ふたたび下降し、衝撃があり、また小さく上昇。そして三度目の衝撃で機はようやく滑走に移った。尻の下から細かい衝撃が伝わってくる。
 数十メートル走って、機は止まった。
 ほっとしていると、整備員や同期生たちが、わらわらと駆け寄ってくる。
「おめでとう。これで貴様も航空兵だな」
 そんなことを言うやつがいる。
 飛行機が初めて日本に入ってきたのは一年半ほど前だ。以来、飛行機に乗って空を飛んだ者は、陸海軍と民間を合わせても五十名もいないだろう。その希少な人間のひとりに、英彦も加わったのである。
「どうでしたか、空を飛んだ気分は」
 と問いかけてくるのは、訓練生仲間のたけろう少尉である。小柄、丸い童顔で陽気な男だ。
「気分か。気分は……、爽快だな」
 と言ったものの、どこか期待外れといった感がある。空を飛ぶとは、もっと夢見心地になるような、素晴らしいものだと決め込んでいたのだ。だが実際の乗り心地は案外とがたついた厳しいものだった。
「爽快ですか。そうでしょうね。いいなあ」
 武田少尉は、そう言って白い歯を見せた。
 また発動機が始動した。今日は、陸軍の航空機操縦将校の訓練生第一期として選抜された者たちが、みな初飛行する予定である。つぎに乗るのはむらすずろう中尉のようだ。八の字ひげを生やした顔に不敵な笑みを浮かべている。
 ──自分で操縦したら、また気分がちがうかもしれんな。
 英彦はそんなことを思いつつ、木村中尉を後席に乗せてふたたび滑走をはじめたファルマン機を見ていた。 

 アメリカ人のライト兄弟が人類で初めて動力つきの飛行機で空を飛んだのが、明治三十六(一九〇三)年。日露戦争がはじまる一年前、英彦が初めて飛んだ時から九年前である。
 十六馬力の発動機を積んだフライヤー号による人類最初の飛行は、十二秒間、距離は三十六メートルだったとされている。
 それ以来、飛行機は急速に進化してきた。アメリカばかりかヨーロッパの各国でさかんに新型機が作られ、明治四十二(一九〇九)年には英仏間の海峡横断に成功するなど、いまでは何十キロもの距離を安定して飛行できるまでになってきた。
 日本でも明治四十一、二年ごろから、新聞でそうした状況は報道されている。
 そこでこの革新的な機械を軍で使えるようにしようと、「臨時軍用気球研究会」なるものが明治四十二年八月に発足した。陸海軍合同で、空を飛ぶ装置を研究、実用化しようというのである。
「気球」と名がついているのは、空を飛ぶ装置として飛行機はまだその呼び方すら確定していないのに、すでに気球は実用段階にあったためだ。しかし始めてみると、しだいに飛行機の研究が主となっていった。
 研究会はまず所沢で飛行場の建設に着手し、同時に徳川大尉と日野ひの熊蔵くまぞう大尉をヨーロッパに派遣して、飛行術の習得と飛行機の購入にあたらせた。
 徳川大尉は砲兵将校として着弾観測のため気球に乗った経験があったし、日野大尉はすでに独自に飛行機の研究に着手しているなど、ふたりとも実績があったのだ。
 徳川大尉がフランスで飛行機操縦免許をとって帰国したのが、明治四十三(一九一〇)年の秋である。そしてフランスで購入して船で日本に運び込んだアンリ・ファルマン機で日本初の飛行を行ったのが、十二月十九日だった。
 明けて四十四年には、徳川大尉がアンリ・ファルマン機をまねて設計製作した国産機(臨時軍用気球研究会式機、略して会式機と呼んだ)もできたので、研究から実用にうつることとなった。すなわち国産の会式機を二号機、三号機とふやしてゆくとともに、飛行機の操縦者を新規に養成し始めたのである。
 翌四十五(一九一二)年七月一日から、陸軍内で募集した中尉、少尉ら操縦訓練生を気球隊──本部はなかにある──の所属とし、所沢で養成訓練がはじまった。
 最初のうちは、飛行機に乗っても飛ばずに滑走路を走るだけだったが、幾度かの滑走訓練をへて、訓練生たちは今日、はじめて空を飛んだのだ。 

次話に続く)

プロフィール
岩井三四二(いわい・みよじ)
1958年岐阜県生まれ。96年「一所懸命」で第64回小説現代新人賞を受賞し、デビュー。98年「簒奪者」で第5回歴史群像大賞、2003年『月ノ浦惣庄公事置書』で第10回松本清張賞、04年「村を助くは誰ぞ」で第28回歴史文学賞、08年『清佑、ただいま在庄』で第14回中山義秀文学賞、14年『異国合戦 蒙古襲来異聞』で第4回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。他に『鹿王丸、翔ぶ』『あるじは信長』『むつかしきこと承り候 公事指南控帳』、『絢爛たる奔流』、『天命』『室町もののけ草紙』『「タ」は夜明けの空を飛んだ』など著書多数。

岩井三四二さん『鶴は戦火の空を舞った』は
5月21日に集英社文庫より発売!

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