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あなたの隣にある沖縄 第10回 佐喜眞美術館と「沖縄戦の図」/澤宮 優

 突然の戦争と住民の虐殺がイスラエルで起こったと耳にしたのは10月7日の朝だった。パレスチナ自治区のガザ地区を実効支配するイスラム武装勢力のハマスが、突如イスラエルに奇襲攻撃を仕掛けた。ハマスは情け容赦なく、数時間のうちに多くの住民を殺害した。火炎瓶で人を焼き、赤ちゃんがいる家族も殺害し、市民の首を切断したという報道もある。10月10日までに1000人に近いイスラエルの人々が亡くなった。戦時国際法では、戦闘員は民間人の命を保護しなければならないと定めてあるが、法はまったく無視されている。それが戦争の持つ残虐性というものだろう。
 イスラエルの首相の「ハマスが拠点とするあらゆる場所を廃墟にする」というメッセージにも恐怖を感じたが、予感は的中し、イスラエルはガザ地区に無差別空爆を行った。双方の死者は10月下旬の段階で5000人を超えた。ガザ地区の死者には多くの子供たちも含まれていると言われる。そして12月の今も戦闘は続いている。
 これからも双方の歯止めの利かない戦いのために、どれほどの住民が犠牲になるのだろうか。ニュースを見るたびに、私には、宜野湾(ぎのわん)市の佐喜眞(さきま)美術館で見た「沖縄戦の図」が思い出された。太平洋戦争下では、日本の侵略地を除けば、唯一の地上戦が行われ、多くの非戦闘員の女性や子供たちが犠牲になったのが沖縄戦である。「沖縄戦の図」は、画家の丸木位里(まるきいり)、妻の俊(とし)によって描かれ、住民が集団自決などで、死んでゆく姿を描いている。その殆(ほとん)どは女性と子供、老人である。
 戦争の本質とは何か。「沖縄戦の図」とこの絵を展示する佐喜眞美術館の願いから、このことを探ってみたい。

米軍基地に隣接した美術館
 佐喜眞美術館は、普天間(ふてんま)飛行場に隣接した場所にある。飛行場建設で土地を奪われた人々もいて、基地の周辺に不本意な形で住む住民も多い。ところが佐喜眞美術館は逆に普天間飛行場の内部に食い込む形で作られている。この歪(いびつ)な構造は何を意味するものだろうか。
 この美術館は、基地に奪われた館長の佐喜眞道夫(みちお)の先祖代々の土地(500坪)を米軍から取り戻して作られた。美術館の敷地内には佐喜眞家の大きな亀甲墓(きこうぼ)もある。
 美術館はかつてあった沖縄の光景を甦らせる試みもなされている。普天間飛行場が作られる前は、この地には住居とともに普天間神宮と首里(しゅり)城を結ぶ普天間街道が通っていた。その両側には暑さを凌ぐための大きな宜野湾並松が植えられていた。しかし日本軍によって塹壕(ざんごう)の柱にするためまず切り倒され、残った並松は戦後普天間飛行場が作られるときに切られ、今は一本も残っていない。そこで美術館の敷地内から建物の入り口までの間の片側に、再現された12本の宜野湾並松が植えられている。美術館の回廊にその松と向き合うように12本の円柱が立てられている。
 美術館の屋上に天に向かって昇るような6段と23段の階段が設けられており、沖縄の慰霊の日である6月23日の日没線に合わせて作られた階段の最上段にある壁には、丸い穴が空いている。慰霊の日の日没の太陽がその穴と重なるように設計してあるという。そこからの太陽の光が、階段全体を照らす。
 展示室は一直線に第一展示室から第三展示室まで並んでいるが、奥に行くに従って部屋が広くなっている。それは沖縄戦のとき住民が避難した自然壕(ガマ)を意識している。ガマの入り口は狭いが中は広い。訪れた人にガマの感覚を知って欲しいとの思いもある。もっとも広い第三展示室の奥の壁に常設展の「沖縄戦の図」が展示されている。
 佐喜眞美術館は「生と死」「苦悩と救済」「人間と戦争」をテーマに展示が行われている。これまでに草間彌生(やよい)、ケーテ・コルヴィッツ、上野誠などの作品展を行った。また令和4年にはパレスチナ自治区・ガザの画家たちの作品を展示した「上條陽子とガザの画家たち 希望へ……」やロシア・ウクライナ戦争で多くの命が奪われる中で、戦争をより深く考えるための企画展示「――戦争と戦争の狭間で――」が行われている。
 館内で中心的な存在がやはり「沖縄戦の図」である。この絵は世界平和文化賞を受賞した「原爆の図」で知られる丸木位里、俊の晩年の大作である。位里は水墨画を得意とし、主に風景画を描いた。俊は洋画家で人物を描くのを得意とした。作品はそんな2人の合作である。
 沖縄戦は、米軍によって撮られた写真は存在するが、日本側が写したものはない。米軍の写真には戦闘中の住民を撮ったものはない。それだけに沖縄戦で深い傷を負った住民の側から描いた「沖縄戦の図」は貴重なのである。
 館長・佐喜眞道夫と丸木位里、俊夫妻との運命的とも言える出会いなしには「沖縄戦の図」は語ることができない。双方の出会いと人生を追うことで、「沖縄戦の図」の本質が見えてくる。

今ある沖縄は仮の姿
 私が初めて佐喜眞美術館を訪れたのは、令和元年の6月だった。対馬丸記念館で、ここに「沖縄戦の図」が展示されているので見ておいたほうがいいと言われ、訪問したのだった。そのとき館長の佐喜眞と雑談する機会があり、彼の出生地が熊本県だと知った。しかも甲佐町(こうさまち)であるという。私が通った宇土(うと)高校の近くで、ここから多くの生徒が登校していた。不登校だった私を立ち直らせてくれた恩師が甲佐町在住でもあった。これには驚いた。あまりにも私に近いところに佐喜眞は住んでいたのである。
 私はそんな縁で佐喜眞美術館が身近に感じられ、興味も持ち、次回の取材の約束を取り付けたのだった。コロナ禍もあり、念願叶(かな)って取材できたのが、令和5年3月だった。
 そのとき改めて佐喜眞の生い立ちを聞いた。
 彼は昭和21年に両親の疎開先だった熊本県甲佐町で生まれた。父親は軍医をしており中国などにいたが、後に内地勤務で熊本に移り、戦後は甲佐町で医院を開業していた。佐喜眞が初めて沖縄の地を踏んだのは、昭和30年の小学校2年生のとき、一家で一週間ほど帰郷したときである。
 驚いたのはそれまで両親に聞かされていた沖縄の美しい姿は、戦争によって灰燼(かいじん)に帰し、見る影もなかったことだった。木は一本もなく、珊瑚礁の岩が真っ白にむき出しになり、大きな軍用道路を米軍のトラックが次々と走ってゆく光景が広がっていた。軍用道路をおばあちゃんたちが頭に大きな荷物を抱えて、米軍車両を避けるように歩いている。
 佐喜眞はその驚きを語る。
「焼け野原でしたね。もう大変なショックでした。これまでに聞かされた沖縄はシャガールの絵のような美しい海や山、川、橋がある風景のイメージが自分の中に作られていました。しかし現実に見た沖縄の光景は哀れで、滑稽な姿でした。だからこの目で見た沖縄の姿よりも、両親から聞かされた私の中のイメージの沖縄の姿がほんものだという思いが今もあるんです」
 彼が沖縄に行って感じたことがもう一つあった。沖縄では父親の姉妹である4人の伯母、叔母と一緒に過ごしたが、彼女たちが語る沖縄戦は、これまで熊本で聞いた戦地帰りの教師たちの武勇伝とはまったく異質だった点である。地上戦の中で生きるか死ぬかの瀬戸際で逃げた過酷な体験は初めて耳にするものだった。この地上戦の過酷さは、佐喜眞の胸に深く刻まれた。
 熊本に戻ったあと、佐喜眞が中学生のとき、母親を病気で失った。体が弱かったのと、慣れない疎開生活で無理が祟(たた)ったのだろう。以来、母の仏壇の横には広隆寺にあるような弥勒菩薩像が置かれた。佐喜眞は寂しくなると、弥勒菩薩像を眺めるようになった。そうすると心が和らいでくる。そこから仏教に関心を持つようになり、熊本市の仏教青年会(浄土真宗)に参加し、親鸞の「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」や「歎異抄(たんにしょう)」の輪読会にも参加するようになった。仏教への関心は続き、佐喜眞は上京して日蓮宗の大学の立正大学に進学し、東洋史学を学ぶことになった。しかし、そこで沖縄への差別を経験する。
 佐喜眞が上京した当時は、学生運動の真っ盛りで、学生たちは飲み屋などでさかんに議論をした。ベトナム戦争もあり、学生たちの社会への問題意識は強かった。議論をすると、近くにいた若いサラリーマンも輪に入ってくる。そのとき佐喜眞が面白い意見を言うと、サラリーマンが「お前の名前は? 出身はどこか?」と聞いてくる。自分の名を言って、沖縄が出身地と言うと、彼は途端に態度を豹変させ、言葉使いも横柄になった。
 佐喜眞は語る。
「沖縄と言っただけで、こいつは差別していい人間だと態度を変えるんですね。上から目線です。そのころの私は腕っ節も強かったので、この野郎と思って叩(たた)きのめすこともありました」
 佐喜眞は静かに語った。
「日本は怖い国だなと、私は腹を立てながら心底思いました」
 ただ彼は沖縄というフィルターから世界を見ることで、社会と日本、人間のありようを考えることに思考が繋(つな)がってゆくことを感じるようになった。ベトナム戦争も、出撃する米軍機は嘉手納飛行場から飛んで行く。そのため沖縄では米軍基地に反対する運動も、戦争反対の運動も凄(すさ)まじかった。
 佐喜眞は学生運動にも参加したが、その主張から感じたのは彼らが沖縄を自分たちの手段としてしか考えていないことだった。
 東洋史学を勉強していた佐喜眞は、学生運動がやがて衰退してゆく中で、近代科学がものごとを細分化し、全体を見失っているのではないかと感じるようになった。そのため人間を一つの宇宙と見る東洋医学に魅力を感じた。彼は大学院の東洋史学専攻を修了すると、関東鍼灸(しんきゅう)専門学校に進み、鍼灸師になるための勉強を始めた。 

丸木夫妻との出会い
 沖縄は昭和47年5月15日に日本に返還された。しかし依然として米軍基地は残り、核が米軍によって沖縄に持ち込まれていると噂(うわさ)もされた。沖縄が置かれた状況は何一つ解決されてはいなかった。そこで政府が沖縄の人々を籠絡する方法に使ったのが、金だった。
 その一つが軍用地料(米軍基地に土地を奪われた人々への借地料)を約6倍に引き上げたことである。また日本復帰運動に関わった教師の給料も大幅にアップした。それまでは、沖縄の教師の給料は、本土の3分の2程度でしかなった。給料を引き上げたことで、問題の本質から目を逸(そ)らさせようとしたのである。
 佐喜眞の先祖からの土地も普天間飛行場内にあったので、軍用地料も6倍になった。佐喜眞はこれらの金を「シャブ漬け」と嫌悪して使わなかったが、ある日新宿の小田急デパートに行ったとき、自分の感覚が変わっていることに気づいた。
 佐喜眞はその驚きを語る。
「私は東京の四畳半で生活していましたが、お金がどんどん貯(た)まるわけです。日本に復帰して3年、4年経(た)ってデパートに行ったら、自分に品物が近づいてくる錯覚を持ちました。確かにこれらはどれも自分の金で買えます。このときぞっとしました。自分が何を買うかは自分の精神が決めることなのに、品物から近づいてくる。自分の精神は物資に流されているのではないか。自分という人間が今試されていると思いました」
 そのころ日本各地で、開発で大金を手にして人生を狂わされた人々の話がマスコミでも報道されていた。
 佐喜眞は自分の精神にも油断があったことに驚いた。一体自分は何を望んでいるのだろう。社会的な意味を持ち、お金も活(い)かされ、自分の内心を豊かにするためにはどのような使い方があるのだろうと考えざるを得なかった。
 そのとき思ったのが、自分が大好きな絵のコレクションをすることだった。それも庶民の生活を豊かに表現した浮世絵を集めようと思った。なぜ浮世絵なのか。佐喜眞は語る。
「自分が美術品を判断する物差しは、庶民の文化を豊かにしたのは何かという感覚でした。そこから浮世絵にたどり着いたんです。明治政府は浮世絵という平民の文化の素晴らしさがわからず、値打ちのないものと決めつけたので、浮世絵はずっと馬鹿にされていたんです」
 富国強兵策の中で浮世絵など庶民の文化は忘れ去られ、江戸期からの文化が途絶えた。その浮世絵がヨーロッパで評価され、モネ、ゴッホなど印象派の画家たちに影響を与えたことはよく知られる。庶民の文化を軽視した軍国主義の中で太平洋戦争が起こり、激しい沖縄での地上戦が行われ、庶民が犠牲になっていたのも明治以来の必然的な時代の流れだったのかもしれない。
「私は専門が東洋史でしたから、歴史の面からものを考えます。一つの文化を破壊することがどんなに恐ろしいことか、浮世絵を通して考えようと思ったんですね」
 やがて長崎の原爆を描いた木版画家の上野誠やドイツの版画家、彫刻家のケーテ・コルヴィッツなど収集の範囲は広がった。
 ケーテは20世紀前半のドイツを代表する芸術家である。彼女の「亡き子を抱く母親」(1903年制作)に佐喜眞は銀座の画廊で出会った。この絵は母親が死んだ子供を強く抱きしめて泣いている絵である。胸いっぱいに抱きしめている姿は、子を失った母親の極限の悲しみ、慟哭(どうこく)を描いている。
 ケーテの目は常に弱者に向けられたが、ナチスが台頭すると退廃芸術と見なされ、芸術家としての活動を禁じられ、第二次世界大戦の終結寸前に亡くなった。以後佐喜眞は東京や千葉で鍼灸院を開業しながら、ケーテのコレクションをし、彼女の「戦争」シリーズ、「農民戦争」シリーズ、「死」シリーズなど59点を収集した(現在佐喜眞美術館に収蔵)。
 佐喜眞の運命を変える出会いがあったのは、昭和58年秋の「朝日新聞」の記事を読んだときだった。そこには「丸木位里、丸木俊、沖縄を描く」と見出しがあり、2人が「沖縄戦の図」に取り組んでいる姿が書かれてあった。このときの感動を佐喜眞は語る。
「記事を読んで爆発的な喜びがありました。自分が言いたかったことが全部この絵にあると思い、本当に嬉(うれ)しかったんです。丸木さんにお礼がしたいとまで思いました」
 彼は以前から、沖縄戦に対して悔しい思いがあった。それは学生時代に遡る。佐喜眞が沖縄戦の悲惨さを本土の人間に話すと、必ずそっぽを向かれたからである。
「戦争で沖縄だけが酷(ひど)い目に遭ったような話をするな」
 どう言葉を重ねても沖縄戦をわかってくれようとしない。沖縄は、本土が体験した空襲だけではなく地上戦が行われた。その悲惨さを伝えても、彼らは理解しようとしなかった。
「本土でも沖縄でも同じ戦争だと思っている学生に、当時の私はどう違うかを説明する知識がなかったのです。だから悔しさだけが残りました。そういう精神状況を引きずっている中で、あの一流の画家の丸木夫妻が沖縄戦を描いたことが、無条件に嬉しかったんですね」
 記事によれば、丸木位里、俊が沖縄の絵に取り組む決意を固めたのは、世界各国に「原爆の図」を持って巡回で展示したことが始まりだった。各国の展示会の実行委員と話すと、世界での戦争とは地上戦であり、その過酷な体験から平和論が語られていた。しかし帰国してみると、日本の平和論は地上戦には触れない形で語られていることに気づく。そのとき丸木位里は「地上戦の持つむごさを日本人は知らない」という感覚を持った。「これは戦争に対する考え方が甘い。こういう国はまた戦争をするかもしれない。もし戦争をしてしまったら日本社会はもはや取り返しがつかなくなる」と丸木は述べていた。また海外ではこんな批判も受けた。
「ヒロシマを忘れるなというのなら、自分たちも忘れてもらっては困ることがある」
 日本軍が占領地で犯した海外での残虐行為を指摘されたのである。沖縄の地上戦では、日本軍による住民への加害性も存在する。戦争の闇を考える丸木夫妻にはぜひとも挑戦しなければならないテーマが、沖縄戦を描くことだったのである。
 丸木夫妻は、昭和57年から沖縄県佐敷町(さしきちょう/現南城〈なんじょう〉市)に約1ヶ月半滞在して、「沖縄戦の図」に取りかかった。記事には東京神田のYMCAで丸木夫妻の講演会が行われる告知もあった。佐喜眞はさっそく講演会へ出かけた。
 講演会場は満席だったが、そこで見た丸木位里は飄々(ひょうひょう)とした雰囲気を持ち、俊は童女の面影を残したおしゃれな白髪のおばあさんだった。講演の最後に丸木俊が聴衆に尋ねた。
「この中に沖縄の人はいますか。いらしたら手を挙げてください」
 会場の何人かが手を挙げ、佐喜眞も手を挙げた。そのとき丸木俊は、深々と頭を下げた。
「私は日本人として沖縄の人に謝らなければいけません。私は明治政府が沖縄に何をしたかまったく知りませんでした。今度の戦争でも日本は沖縄を盾にして戦争を続けた。戦後も迷惑ばかりかけている。私は日本人だけど、この事を何も知りませんでした」
 このとき佐喜眞は彼女の態度に驚いた。戦後の日本は沖縄に関心を持っているかのごとく、映画やテレビでも取り上げた。とくに「ひめゆり学徒隊」は、昭和28年に『ひめゆりの塔』というタイトルで映画化され、その後も何度も映画化された。主演した女優は「沖縄は可哀想」と言って撮影中も泣いてばかりいたというエピソードがあった。だがそこには沖縄に対する違和感があるのも事実である。佐喜眞は言う。
「ひめゆり学徒隊の原因を作ったのは誰なのか、あの戦争をやった原因は何なのか、日本人はいまだに考えていないと思います。涙を流せる自分の優しさに酔って自分たちの罪責を洗っているんですね。いまだにひめゆりの扱い方はそうだと思います」
 沖縄のことを同情するのはたやすい。しかしそれは表層的な部分でしか沖縄をとらえていない。歴史的に見て、なぜ沖縄が差別されたのか、沖縄戦を含め、その根に踏み込む必要があるが、本土の人間は目を向けようとはしない。そこに丸木夫妻の激しい怒りがあったのだろう。
 講演で丸木俊は、朝起きると目やにがべっとりついて、目が開かないのだと語り、目医者に行ってもよくならないと言った。佐喜眞は鍼灸師の立場で分析した。これはしっかり眠ることができれば改善すると考えた。丸木俊は筋肉質で気力も体力もある。そのため限界がすぎても頑張ってしまう。すると背中が張って睡眠が浅くなる。そこから筋肉の凝りが全身に広がり、動眼筋にも及び、目の症状が出る。佐喜眞は丸木夫妻と親しい知人に自分の見立てを話すと、俊はぜひ鍼(はり)治療を受けたいと言い、佐喜眞は2人の住む埼玉県東松山市まで往診に行くようになった。3回ほど診療したら、俊の目は劇的に回復した。俊は、「〝沖縄戦の図〟を描いたら、沖縄の青年がやって来て、目を開けてくれた」と大喜びして、位里も佐喜眞の診療を受けることになった。以後往診は11年間続いた。
 丸木夫妻が最初に手がけたのは、「久米島の虐殺(1)」「久米島の虐殺(2)」「亀甲墓」「自然壕(ガマ)」「喜屋武岬」「集団自決」「暁の実弾射撃」「ひめゆりの塔」など「沖縄の図 八連作」と呼ばれるものである。
「久米島の虐殺(1)」は、沖縄戦末期から終戦直後に行われた日本軍守備兵による島民への虐殺事件である。このとき20余名の島民が殺されたが、絵の右側には男性が日本刀を持って若い母親を切ろうとする姿が大きく描かれる。母親は背中に幼い2人の子供を背負って必死に助けを乞う。男は日本兵である。瞳のない無感情な表情で日本刀を振りかざす。ほかにも目隠しをされた人、体を縄で縛られた女性、亡くなった人が何人も描かれている。
「久米島の虐殺(2)」ではガジュマルだろうか、木に登った日本兵が朝鮮半島出身の島民の男性を勝手にスパイと見なし、首に縄をかけ引きずって絶命させている。その遺体に取りすがって泣く男の子がいる。殺された男性は谷川昇さん(日本名)で、もちろんスパイではない。
 逃げる島民が日本兵に竹槍で背後から突き刺される。幼子の首を絞める母親の姿もある。見るに堪えられず、両手で顔を覆い泣き叫ぶ女性がいる。これらの虐殺は日本の降伏の5日後にも行われた。住民が米軍に寝がえれば、ひとたまりもないと疑心暗鬼になり、日本軍が行った行為である。
 日本軍はガマでは老人も殺害した。銃弾で殺すと音がして米軍に見つかるので、針金で体を縛りつけて刀で突き刺した。その後、島民の家は燃やされた。
 佐喜眞が「沖縄戦の図」を見たのは、昭和59年春の東京都美術館の展覧会だった。このとき佐喜眞が見たのは「沖縄戦の図(9)」で、現在佐喜眞美術館に常設展示してある絵である。近くで絵を見ると、沖縄が戦争でめちゃめちゃにされており、全く救いがないとの思いにかられ、衝撃を受け、その凄まじさに彼は一歩一歩後ろに後退していた。
 佐喜眞は言う。
「ぽかーんとなって、10分くらい眺めていました。そして再び絵に近づいてしっかりと見直しました。このとき最初に受けた衝撃とは違って、薄墨で描かれた絵の奥にいろんな戦場が見えてきたんですよ。折り重なった死体、海を血に染めて死んでいる人々、逆さまに吊(つ)るされて死んでいる娘などの哀しい光景です。しかし細かく見るほど、あたたかく励まされる思いがしました。ただこの日は自分の中で感想をまとめ切れずに複雑な思いを抱いて帰りました」
 丸木家では若い美術評論家や洋画家、政治学者などが集まり、夜中まで酒を飲みながら侃々諤々(かんかんがくがく)の議論をする。佐喜眞も治療が終わると、その中に入って議論した。位里が酒を用意して、俊が一升飯と味噌汁を用意してくれる。刺身や天ぷらは誰かが持ってくる。
 議論になると、そのやりとりを、聞き役に徹した丸木夫妻は笑みを浮かべて眺めていた。輪から外れている青年がいれば「彼に酒を注(つ)いでやってくれ」と誰にも目配りを欠かさなかった。位里はどんな人でも分け隔て無く大事にする人だった。
 ある日位里は佐喜眞に「自分の母親は熱心な浄土真宗の信者で、小さいころは経を唱えないとご飯が食べられなかった」と思い出を語った。仏教青年会に入っていた佐喜眞は「お経は正信偈(しょうしんげ)ですか」と聞くと、位里だけでなく、寺に生まれた俊も彼のことに驚いた。
 丸木の許(もと)には市民運動をやる多くのリベラルな青年が来たが、理屈で考える姿勢に位里は物足りなさも感じていた。その中で佐喜眞のように、もっと広い視点に立ってものを考え、浄土真宗の「正信偈」の話をする青年は希少だった。「正信偈」を通じて、彼と夫妻との縁がさらに深まった。 

沖縄戦の図
 佐喜眞は丸木夫妻と親しく接するようになって、「沖縄戦の図」にはその奥に祈るような平和への思いがあることに気づいた。一連の「沖縄戦の図」は昭和62年まで描き続けられるが、佐喜眞は丸木夫妻が、「沖縄戦の図」を描くにあたって、沖縄戦に関する本を2、3年かけて160冊以上読み、学者や研究者にレクチャーを受けたことを知った。
 さらに沖縄に長く滞在して、戦争で生き残った人々と現場を訪れて、体験談を聞いた。沖縄戦の体験者にとって、思い出したくもない辛(つら)い過去である。しかし丸木夫妻の誠実な姿勢に心を開き、人々はいつしか胸襟を開いて語るようになった。証言を心に染み入らせるように聞く夫妻は、あまりにもむごい話にショックを受け、黙ってしまうこともしばしばだった。
 体験者であるおばあちゃんの額に傷が残されていた。「その傷はどうしたんですか」と丸木夫妻が尋ねると、集団自決のときの傷だとわかった。
「夫が自分の頭に鍬(くわ)を振り下ろしたんです。それが頭に当たってバウンドして、私が抱いていた赤ちゃんに当たりました。赤ちゃんは顎の骨が外れて死にました」
 このことは彼女は今まで胸にしまって一度も話していないことだった。
 絵には風呂敷包みを頭に置いた女性が登場する。おばあちゃんに聞くと、風呂敷には一番いい着物が入っていたという。
「自分はこのまま死ぬだろう。それならあの世でご先祖様と会うことになる。そのときにちゃんとした格好をしていなければならないから死に装束を用意したのです」
と語った。逃げるおじいちゃんは紋付き袴(はかま)をつけている。これも死に装束である。死に装束を着て逃げたのである。
 さらに夫妻は、そのときの状況を詳しく知るためモデルにもなってもらうよう頼むこともあった。緻密な部分にまで拘(こだわ)ったことで、今まで誰も描かなかった地上戦を再現した作品ができあがった。
 佐喜眞は言う。
「作品は歴史的証言ですね。丸木夫妻のお仕事は日本の文化論的に偉大なものだと思います。ごまかさないんですね。90歳を過ぎても位里さんはものすごくお元気でした。先生お元気ですねと言ったら、わしには怒りがあると仰いました。それは戦争する日本に、戦争を賛美する日本に対してでした。わしには怒りがあるけんのうと言われていました」
 丸木夫妻は証言者に感謝し、「これは皆で描いた絵です」と語り、感謝の気持ちを持ち続けた。
 その後も「沖縄戦の図」は描かれ、そのたびに沖縄に滞在して作品に取り組んでいたが、このころから、丸木位里は「沖縄戦の図」を沖縄に置いてもらえないだろうかと口にするようになった。昭和59年のことである。佐喜眞もこの絵が沖縄の美術館で見ることができればいいなと考えた。しかし位里は淋(さび)しそうに笑った。
「〝原爆の図〟は広島に、〝沖縄戦の図〟は沖縄に置きたいと思っているが、広島も沖縄もどこも手を挙げてこないんじゃ」
 その間も丸木夫妻は「沖縄戦の図」を描き続け、昭和58年(1983)の12月から那覇市首里に家を借りて2ヶ月滞在して制作を始めていた。このとき沖縄のスケッチも多く描いている。翌年、400センチ×850センチの「沖縄戦の図(9)」が完成した。これまで描いた8枚の作品のテーマを活かし、さらに主題を凝縮させて大作にしたものだ。
 そして丸木夫妻は2年後の昭和61年に「沖縄戦―きゃん岬」「沖縄戦―ガマ」を制作し、この年の7月に有楽町朝日ギャラリーで開催された「第1回臥竜展」に出品された。
「沖縄戦―きゃん岬」では、岬から海を挟んで慶良間(けらま)諸島が見える。浅瀬には岬の上から飛び降りた多くの人々、海には死体となった人々が浮き、赤く染まっている。岬で白旗をあげている投降日本兵がいる。それを日本兵が軍刀で切ろうとしている。背後から銃を向けて撃とうとする2人の兵隊もいる。降伏する者は「裏切り者」として殺そうとする日本軍の残虐性が露わになった瞬間である。岬の上には多くの蝶々が飛んでいる。人は死んでも魂は生きており、蝶々に生まれ変わるという沖縄の言い伝えに込めて、丸木俊が描いたものだ。
 丸木夫妻は昭和61年12月から最後の三部作「沖縄戦 読谷(よみたん)三部作」の「チビリガマ」「シムクガマ」「残波大獅子」を描くため、翌年2月初旬まで読谷村で取材、制作を行った。読谷村は、米軍が沖縄本島に最初に上陸した場所だ。作品は翌62年3月の東京都美術館の「第13回人人展」に出品された。これで「沖縄戦の図」全14作品が完成した。
「沖縄戦 読谷三部作」の「チビリガマ」は、昭和20年4月に米軍が上陸した際、住民が読谷村のチビリガマに逃げ込んだときの作品で、地元の人たち10人ほどがモデルになってくれた。
 ガマには139名の住民がいたとされ、米軍は投降を呼びかけたが、そこにいた元日本兵が「出て行けば殺される」と脅したために、住民は絶望し、母親が娘や息子の首を包丁で刺すという過酷極まる集団自決が行われた。従軍看護師の女性は親類や知人に毒薬を注射した。元日本兵がガマに火をつけると煙が充満し、多くの人々が炎と煙で亡くなった。自決者数は80名を超えて、死亡率は約6割に達し、その過半数は子供だった。
 ガマの中に溢(あふ)れるほど人が多くいて、死体が転がっている。これが地上戦という現実である。丸木夫妻は、モデルとなった女の子にこう語ったという。
「ここは大変な阿鼻叫喚(あびきょうかん)が起こっています。その様子を見て考え込んでいる女の子の顔をして下さい」
 その女の子は証言などを聞いてゆくうちに、次第に考え込んでいる顔になってゆく。位里が「いい形になってきた」、俊も「ああいいね。それでお願いします」と言って描き進んでいった。これが阿鼻叫喚の図を見てたたずんでいる人の姿になった。
 佐喜眞は言う。
「戦争が起こると群集心理や熱狂などで、自国の文化を守れ、領土を守れと言って敵愾心(てきがいしん)を煽(あお)り立てます。丸木作品には異常な熱狂の中で、距離を置いて立ちすくみ、狼狽(ろうばい)しながらも冷静に見つめる人物が描かれています。この人物はこれは本当に人間のあるべき姿なのか、正しいのだろうか、と皆に問いかけます。こういう人がいることが大事なんだと作品は訴えているんです」
 丸木夫妻の作品には、たとえば戦いの様子、空襲や土地の荒廃、軍隊など、為政者から見た視点は描かれていない。ひたすら逃げ惑う子供を抱えたお母さんなどか弱い住民の立場から描いている。その視点から戦争を見なければいけないという強い思いがある。そこから見えてくるのは、戦争をする権力や人間たちに対する強烈な怒りである。
 そして、強く伝わるのは沖縄の「ヌチドタカラ」、命こそ宝という思いである。沖縄戦では何十万というかけがえのない命が奪われたが、それゆえに命の重さが絵から伝わる。
「丸木さんが沖縄の重要性に目を向けて描かれたことは日本にとってもとても大事なことだと思います。〝沖縄戦の図〟は、戦後の日本が曖昧にしたものを全部描いています。日の丸、君が代の問題、海外侵略の問題、日本が起こしたアジア侵略の結末としての戦争だったという感覚で描かれています」
 佐喜眞はそう述懐する。 

「沖縄戦の図」を沖縄へ
「沖縄戦の図」を沖縄で引き受けようとする美術館はやはり現れなかった。丸木位里は悔しそうに言った。

「あれだけの体験をした沖縄が受け取らんという。本来あの絵は沖縄に帰るべきなんじゃ」
「沖縄戦の図」は沖縄で描かれ、地元の多くの人々が勇気を出して証言をしてモデルになってくれた結果、できた作品である。そのテーマからも、制作の経緯からも沖縄に戻り、沖縄にあってこそ生きる作品なのだ。佐喜眞は正月に沖縄に帰省したときに、「沖縄戦の図」を収める美術館を沖縄に作ってもらえないかと、県と宜野湾市に相談したが、自治体にはその気持ちは全くなかった。また県の平和祈念資料館でも、昭和50年代に描かれた「沖縄戦の図」は収集資料の対象外だという理由で断られたことも知った。
 佐喜眞は、自治体も美術館も芸術に対して本気で理解する姿勢がないことを知らされた思いだった。懸念すべきは、丸木位里が90歳になっていることだった。位里が生きている間に何としても沖縄入りを実現させたかった。残された時間はあまりない。
 佐喜眞は以前から沖縄で小さな美術館を建てて、自分で集めたコレクションを見てもらう施設を作りたいと願っていた。それはもっと先の夢だったが、「沖縄戦の図」を契機に、予定を早め、沖縄に美術館を自ら作り、そこに「沖縄戦の図」を収蔵したいと考えた。
 丸木位里にその意思を伝えたとき、「やってくれるか。君に全部任せる」と言ってくれた。もう後戻りはできないと佐喜眞は覚悟を決めた。
 佐喜眞はこれまでに全国の個人美術館を150館ほど訪れていたので、どういうものがいい美術館なのか自分なりの物差しができていた。それは地域の歴史や風土を取り込んだ美術館であることだった。その大切さを教えてくれたのは、長野県上田市に窪島誠一郎が作った「信濃デッサン館」(現KAITA EPITAPH 残照館)だった。小さいが質実な建物で、ブロックとスレート葺(ぶ)きの屋根の美しい美術館である。
 佐喜眞が「信濃デッサン館」を訪れたとき、明治時代から大正時代に画家として活動し、22歳で夭逝した村山槐多(かいた)が描いた「信州風景」が展示されていた。信州の山村を舞台に茅(かや)葺きの家とあぜ道に子供を背負った少年の後ろ姿などを描いた作品である。鉛筆画で全体的に薄暗いが、畠には稲穂が見える。秋なのだろう。少年は家が困窮して、子守奉公に出されたのだろう。茅葺きの家を見て、自分の家を思い出しているのかもしれない。佐喜眞は言う。
「秋でしたね。館内に寒風が吹き込んで来るんですよ。こっちはぶるっと震えながら見てね、いい絵だなとしみじみ思いました」
 信濃デッサン館を出てから、別所(べっしょ)温泉までの1時間の道のりを彼は歩いた。田舎のあぜ道を歩いているときに、村山槐多が描いた風景の中を歩いている思いにとらわれた。不思議な感覚だった。土地の風景と一体になった美術館という思いがした。地域の風土を美術館がすべて取り込んでいたのである。それが彼が美術館を作るときのポイントになった。
 佐喜眞は風水に詳しい沖縄の建築家の真喜志好一を紹介してもらい、2人は8年間にわたって美術館の設計について語り合うことになる。とくに真喜志は地形を読む力に優れていた。彼は、「もの想う空間を作りたい」と願う佐喜眞にこう提案した。
「沖縄戦の図」を収蔵するにふさわしい条件として、「心を癒やす深い緑があること」「沖縄の心と祈りを伝える御嶽(うたき)、拝所(うがんじゅ)、亀甲墓の近くであること」「揺さぶられた魂を静めるため、屋上からは海が見えること」などがコンセプトだと語った。方向性は決まったが、場所を探す段階で困難が待っていた。いい場所だと思って不動産屋に話を持って行くと、交渉のたびに土地代を吊り上げてゆく。結局3年経っても見つからなかった。
 民間の土地では無理だと知ったとき、佐喜眞は破れたフェンスから普天間飛行場に入り先祖の土地に立った。亀甲墓が残っており、ここからは海も見え、風水もいい。最適の場所だった。
 さっそく佐喜眞は那覇市の防衛施設局に行って奪われた土地の返還交渉を願い出た。対応した管理職の職員は、交渉をするにはいくつもの会議を経て、日本政府の外務大臣、防衛庁長官(現防衛大臣)、アメリカの国務長官、国防長官の順序で承認されなければならないことを教えた。気が遠くなるほどの煩雑な手続きだが、佐喜眞は怯(ひる)むことなく願い出た。
 しかし進捗状況を聞きに行くたびに、防衛施設局は「米軍に伝えているが、返還を渋っている」と答えるばかりだった。3年半殆ど動いてくれなかった。「門前払い」の国の態度を感じないわけにはゆかなかった。
 佐喜眞は別の方法をとることにして、宜野湾市長の桃原正賢(当時)に「美術館は公共性の高いものだから力を貸してくれないか」と相談した。桃原は米軍に顔の利く若手の企画部長比嘉盛光を紹介してくれた。
 比嘉は普天間飛行場の司令官が代わるたびに、自宅でパーティをするなど交友関係も広く、電話一本で米軍関係者とパイプを作れる人間だった。比嘉の尽力で佐喜眞は在沖米国海兵隊基地不動産管理事務所のポール・ギノザ所長に会うことができた。事前に比嘉から詳細な説明を受けていたポールは言った。
「宜野湾にミュージアムができたら、宜野湾市はよくなりますね。我々は問題ありません」
 あっけなく土地の問題が解決した。そこまで10年近い歳月が経っていた。
 その間、佐喜眞は丸木位里に相談することもあったが、位里は事を性急に進めようとする佐喜眞に対して、いつも「さて」というのが口癖だった。位里は「さて」と言うことで、そう急ぐな、時間を置けということを教えていた。佐喜眞はそういう丸木位里の人間としての大きさを感じていた。 

美術館開館
 平成6年(1994)に佐喜眞美術館の開館が決まり、丸木美術館へ「沖縄戦の図」を受け取りに行くと、丸木位里は「あの絵はわしらが精魂を込めて描いた絵だ。間違いの無い絵だから自信をもってやってくれ」と語った。その年の11月23日に美術館は開館した。オープニングには丸木位里、俊夫妻が姿を見せてくれたが、このとき位里は93歳、俊は82歳になっていた。
 位里は壁に展示された「沖縄戦の図」を見て、「これはええのう。誰が描いた絵じゃ」と冗談を言った。そして「これはうち(埼玉県丸木美術館)にあるより、こっちにあるほうがはるかにいいね」としみじみと言ってくれた。やはり沖縄戦のあった場所に、この絵は置くべきだという思いを、展示された絵を見て位里は強く感じたのだろう。
 沖縄タイムスなどの地元紙も、「文化が基地を押し返した」と大きな見出しで載せた。開館すると「沖縄戦の図」のために証言した人やモデルになった人たちが次々に美術館にやってきた。そして絵の前に立つと美術館のスタッフにそのときの体験談を2時間、3時間と語ってくれるのだった。証言者の顔写真が、「沖縄戦の図」と向き合うように第三展示室の壁に一人一人飾られている。真剣な顔、泣いている顔、考えている顔、手を動かし具体的に話そうとする顔など様々だ。そこに人々の沖縄戦と向き合う姿がある。
 またこの絵のモデルになっている人は私の知人です、この人はわたしのおじいさんです、と絵の中に肉親を探しましたという人もいた。
 改めて第三展示室の「沖縄戦の図(9)」について詳しく述べたい。これは一連の作品群の集大成的な存在で、いろいろな光景の沖縄戦が描かれている。そこには女性と老人と子供しか登場しない。戦争決定をした政治家も戦争を行った軍人も描かれない。
 画面の上は渡嘉敷島での集団自決を描いている。親か兄妹かを押し倒して頸動脈(けいどうみゃく)を小刀で切っている少年の姿がある。女性同士、娘と母だろうか、2人が互いに首に縄をかけて引っ張り合い死のうとしている。自ら首に鎌を当てて死のうとする少年。息子の鎌によって殺される母親、そのそばで娘だろうか、両手を合わせて天を見つめている。
 裸の女性2人が宙吊りにされて死んでいる。これはスパイ容疑をかけられ日本兵の拷問にあって、竹槍を刺され死んだのである。海を埋め尽くす軍艦も描かれる。
 絵の真ん中では、凛(りん)として立つ3人の子供がいる。兄は背すじを伸ばしてじつに真っ直(す)ぐに前を見ている。逃げ惑う親子もいる。右下には頭蓋骨が転がる。亜熱帯の沖縄では1週間で死体は腐って骨になる。その中に位里と俊の顔も交じっている。自分たちもこの亡くなった人たちと同じ立場に立ちたいという思いからである。その人物の間を縫うように、べっとりと描かれた赤色が鮮血を表し生々しい。
 これが沖縄戦の真実である。弱い立場にある住民は、戦でどのような仕打ちを受けるのか、絵は真実を伝えていた。
 描かれた人々の皆の目には瞳がない。人間が極限の苦しみ、哀しみに遭遇すると記憶は消し飛ぶ。人としての魂が抜け殻になってしまう。精神を失った極限の状態が瞳を失った姿なのである。丸木夫妻はそれを「記憶の空洞」と表現した。佐喜眞は語る。
「丸木夫妻は沖縄戦の体験者に話を聞いていくと、記憶の空白にぶつかったんですね。その記憶を残しておくと、その先の自分の人生が壊れてしまう。そのため辛い体験をしたとき、人間は記憶を抜くのだそうです。だから瞳を描かずに白で表すしかない。白は絵を見た人が想像力で埋めて欲しいと俊さんは仰っていました。戦場を逃げる人たちの精神状態は白い目で表しています」
 例外として佇(たたず)んでいる3人の子供には、未来に希望を託したいという願いを込めて瞳が存在する。3人の中で少女の着物の柄にはツバメが描かれている。ツバメの衣装を着せることで、沖縄で地上戦を経験したことを世界中に発信しなさいという作者のメッセージが込められている。3人にしっかりとこの凄惨な光景を見て、記憶し、考えなさいという丸木夫妻のメッセージが込められている。
 この絵の左下の隅に、コメントが小さく書かれている。
〈沖縄戦の図 恥ずかしめを受けぬ前に死ね 手りゅうだんを下さい 鎌や鍬でカミソリでやれ
 親は子を夫は妻を 若ものはとしよりを エメラルドの海は紅に 集団自決とは 手を下さない虐殺である〉
 丸木夫妻の「沖縄戦の図」14作品のうち中核をなす作品と言える。佐喜眞美術館ではこのほかの「沖縄戦の図」13作(「沖縄の図[八連作]「沖縄戦―ガマ」「沖縄戦―きゃん岬」「沖縄戦―読谷三部作」)は、時期によって定期的に交替しながら、すべてを展示するという方法をとっている。 

 美術館が開館して間もないころ、入館者が感想を記すノートに、17歳の少女の文章があった。
〈私は今日の今日まで死ぬことしか考えてきませんでした。しかし、あの絵を見て明日から生きていけそうな気がする〉
 字は消え入りそうな小さな字だった。そこから見えるのは彼女の人生の苦しみである。その彼女が「沖縄戦の図」から生きる力を貰った。このとき佐喜眞は美術館を作って本当によかったと思った。
 佐喜眞美術館は、平成7年に国連出版の「世界の平和博物館」に収録される。この年には丸木位里、俊夫妻は「ノーベル平和賞」の最終候補になった。推薦理由は〈丸木夫妻の作品ほど、戦争による死と破壊、対極の平和の必要性のイメージを強烈に表現した作品はない〉というものだった。受賞は逃したが、候補になったことは大きな話題になった。位里はその年の10月に94歳で永眠した。俊は平成12年1月に87歳で永眠した。
 佐喜眞は語る。
「本当は沖縄のどこかに家を作ってあげて、お2人には沖縄で暮らしていただけたらいいなと私は願っていました」
 令和2年1月から新型コロナの感染拡大で、世界中の経済も大打撃を受けたが、佐喜眞美術館も、全国の学校からの修学旅行での来館予定が悉(ことごと)くキャンセルになり、館を維持するのも大変な状況が続いた。だがそのことで文化の力というものを改めて考える機会にもなった。日本では「不要不急」という言葉が使われ、文化や芸術もその範疇(はんちゅう)に組み入れられたが、ドイツではモニカ・グリュッタース文化大臣が「文化は社会に必要不可欠。芸術家は不可欠であるのみならず、生きる上で大切」と方針を表明した。ドイツはフリーランスの芸術家や文化施設に特化した大きな支援政策「ニュースタート・カルチャー」を行った。コロナ禍でも文化は人々の精神的なよりどころになるという価値観がドイツにはあった。
 経済対策に終始した日本と比べ、何という違いだろうかと佐喜眞は思った。どんなときにも芸術行為をやめてはいけない、芸術を理解できる能力が感情や思想を深めることになる。
「寛容な社会をつくるためには、芸術活動をやめてはいけないというドイツの文化大臣の話に、大多数の国民がよしとしたわけですよ。私は何とうらやましい話かと思いました」
 新型コロナの感染拡大は、各国の文化に対する理解の深度を露呈させることにもなった。

  令和4年6月23日に、「沖縄全戦没者追悼式」が平和祈念公園で開催された。このとき小学校2年生の徳元穂菜(ほのな)さんが書いた平和の詩「こわいをしって、へいわがわかった」を朗読した。この詩は県内の児童・生徒から寄せられた多数の作品から選ばれたものだ。彼女の曾祖父は沖縄戦で亡くなったが遺骨はまだ見つかっていない。
 1年生のとき、家族で佐喜眞美術館に行った。初めて見た「沖縄戦の図」はあまりにも衝撃的で、恐怖のために身をすくめるしかなかった。絵に描かれた子供たちが哀しそうな目で自分を見ていた。〈こわいよ かなしいよ かわいそうだよ〉と穂菜さんは思う。そのとき思わず母親にしがみついた。母親の体のぬくもりに触れたとき、これが平和なのかなと感じたという。彼女は最後にこう書く。
〈せんそうがこわいから へいわをつかみたい ずっとポケットにいれてもっておく ぜったいおとさないように なくさないように わすれないように〉
(沖縄市立山内小学校2年 徳元穂菜「こわいをしって、へいわがわかった」より一部抜粋)
 穂菜さんは絵を見て、戦争とは何か、平和とは何か、を瞬間に読み取った。
 佐喜眞は言う。
「子供たちは自分が感じたことを文章にする力があるんですよ。ここには子供たちがたくさん来ますでしょう。その子たちの感想を読んだり、聞いたりするうちに、丸木さんの墨の向こうに込められている願いを子供たちは感じ取っているんだと思いました」
 丸木夫妻が「沖縄戦の図」を作り上げた過程や、絵の解説、丸木夫妻を知る人たちの証言からなるドキュメンタリー映画「丸木位里 丸木俊 沖縄戦の図全14部」が令和5年6月から全国各地で公開された。監督の河邑厚徳は、初めて「沖縄戦の図」の前に立ったとき、金縛りにあったように言葉を失い、すぐにアートドキュメンタリーを作りたいと思った、と言う。
 この映画では「沖縄戦――読谷三部作」の最後の作品「残波大獅子」の紹介が印象的である。戦争が終わり、読谷の海辺では、若い男女が太鼓を叩き、大人は三線(さんしん)を弾き、踊っている人もいる。子供を膝の上に乗せてその光景を楽しんでいる母親もいる。それを大きな獅子が見守っている。
 あまりにつらかった戦争の後に、庶民が自らの力で生きる喜びを作り出す光景で、命の力が躍動している。「沖縄戦の図」全14作は希望に彩られ、平和への希望を託されて終わる。
 佐喜眞美術館も令和元年に入館者数が100万人を超え、第64回沖縄タイムス賞正賞社会活動部門賞を受賞した。コロナ禍での文化の必要性を考えさせる契機になったと言えるだろう。
 美術館の屋上から見ると、目の前に広大な普天間飛行場の無機質なアスファルトが続いている。飛び立つ戦闘機を見ながら、「沖縄戦の図」の前で説明してくれた佐喜眞の言葉を思い出した。
「証言された人々は、こういう戦争を二度と起こしてくれるなという思いで語られたのです。戦争に私の子供と孫が巻き込まれるのは絶対に許さないという気持ちを丸木さんに託されたのです。それを丸木夫妻は受け止めて描かれた。おどろおどろしい絵の奥に、そういう切実な願いがあるんですね。だから訪れた人たちはその思いを感じるのですね。芸術は凄いと思います」
 ウクライナで、ガザ地区で果てしなく続く紛争に、人類は戦いから無縁ではありえないのかと絶望的な気持ちにさせられる。しかし芸術や文化を愛することで、国家の枠を取り払い、互いを大事な命と認め、そこから人間は寛容になれるのではないだろうか。「沖縄戦の図」を見るたびにその思いを強くする。
 初めて「沖縄戦の図」を見たとき、真っ赤な血の海の中で、親子や仲間が殺し合う姿に、裸体の女性が逆さ吊りにされた光景に私は戦慄を覚えた。絵から目を逸らさないようにするのが精一杯だった。瞳のない住民には気味の悪さも感じた。その意味でこの絵は真っ向からリアリズムで描いた作品という思いがした。
 しかし二度目に伺ったときは思いが違っていた。取材の後この絵を見たとき、私は美しさすら感じた。それは沖縄の海と真っ赤な血が鮮やかなコントラストを彩っていたことにもある。さらに描かれた人々からは懸命に生きようとする叫びのような声を感じた。描かれた光景は残酷だが、それゆえに一人一人の命の重みがあり、かけがえのない命がそこにあると確信した。例外的に瞳を持った3人の子供たちの視線は、このままでは終わらせないという平和への強い意思を、死に装束を風呂敷に入れ、逃げる人々からは、何としても生きようとする強烈な信念を感じた。沖縄の未来を信じようとする精一杯の抵抗と命の輝きを、光を見た思いがした。
 私は絵を見終わって、庭の宜野湾並松や亀甲墓を眺め、歩くことで、自然に脳裏に「ヌチドタカラ」という言葉が反芻(はんすう)されたのである。それが今回佐喜眞美術館に行った大きな収穫だった。

参考文献
・佐喜眞道夫『アートで平和をつくる 沖縄・佐喜眞美術館の軌跡』(岩波ブックレット№904) (岩波書店 2014年)
・岡村幸宣『《原爆の図》のある美術館 丸木位里、丸木俊の世界を伝える』(岩波ブックレット№964)(岩波書店 2017年)
・佐喜眞美術館編集・発行 図録『丸木位里・丸木俊 共同制作 沖縄戦の図 全14部』(2023年)
・監督・撮影 河邑厚徳「丸木位里 丸木俊 沖縄戦の図 全14部」(製作 佐喜眞道夫 DVD 2023年)

質素な佇まいだが、内部に入れば作品の世界に没頭できる雰囲気を醸し出す
慰霊の日の日没線に合わせて造られた屋上階段

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プロフィール
澤宮 優(さわみや・ゆう)
1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。

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