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あなたの隣にある沖縄 第9回 海の底にいる子供たちへ~「対馬丸事件」を追う~/澤宮 優

 今も不明な点だらけの対馬丸事件
 那覇港に近い那覇市若狭(わかさ)に巨大な白い船をイメージした2階建ての建物がある。これが昭和19年8月に米軍潜水艦によって撃沈され多くの子供たちが犠牲になった疎開船「対馬丸事件」の記念館である。ここには乗船した人の遺品や写真、関係資料が展示されている。この記念館は事件から60年経った平成16年に、犠牲者の鎮魂と、事件を正しく後世へ伝えるため、子供たちに平和と命の尊さを伝え、未来に継承するために開館された。
 対馬丸は学童疎開船のイメージが強く、報道などでもそう伝えられるが事実は違う。家族で疎開する人も多く乗った一般疎開船でもある。そのため子供の両親や老人、赤ちゃんなど多くの命が海の底に沈んだままになっている。そのことをまず伝えたい。
 館の入り口は2階になっており、道路からタラップを上がるように階段で2階の受付へ行く。展示物は2階から1階へという順序で見学する仕組みになっている。実際の対馬丸の構造を意識して作られたからである。船は海からタラップを登って甲板に行き、そこから下りて寝床の船倉へ行くようになっていた。記念館の高さは、対馬丸の海面から甲板までの高さとほぼ同じである。実際の対馬丸をイメージできるように設計されているのが特徴である。来館者に対馬丸を理解してもらえるように工夫されている。
「対馬丸記念館」のすぐ近くには、旭ヶ丘公園があり、事件の犠牲者を祀(まつ)った小桜の塔がある。

 「対馬丸事件」が起こったのは、昭和19年8月22日の夜10時12分ごろである。疎開先の九州(長崎港)へ向かっていた対馬丸は、鹿児島県トカラ列島の悪石島(あくせきじま)付近で、潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受けた。攻撃は凄(すさ)まじく10分ほどで対馬丸は沈没した。皆が寝ている夜でもあったため、海に飛び込めた人は少数で、殆(ほとん)どの人が船内から出られず、船内にいたまま海底に沈んだ。
 いったいどれくらいの人々が犠牲になったのだろうか。じつは正確な数字は今も不明なのである。参考となるのが、「対馬丸記念館」のホームページに書かれたデータである。
 令和5年10月時点で、「対馬丸記念館」が公表している乗船者の数字は、疎開者(学童集団疎開、一般疎開)が1661名。船員や船舶砲兵隊を含めると、1788名になる。ただし出航当日の朝になって急きょ乗船を取りやめたり、逆に嫌がる子供を無理やり乗せたりした親がいたので、正確な乗船者数は把握できない。従ってこの数字は、これまでの関連資料を参考にしたものであり、目安に過ぎない。
 犠牲者(氏名判別者数)は学童疎開者が784名、訓導(教師)・世話人が30名、一般疎開者625名、船員24名、船舶砲兵隊21名で、合計が1484名。ただ事件直後に被害の実態調査がなされなかったので、これも正確な数字ではない。今後も遺族から申告があれば増える可能性もある。
 そのため乗船者数-犠牲者=生存者数という図式が成り立たない。ただこれまでの資料から目安として280名ほどが救助されているという。しかしこれだけの大きな事件であるにもかかわらず、正確な数字が出てこないというのも不思議である。
「対馬丸記念館」常務理事の外間邦子は理由を語る。
「対馬丸には乗船名簿が存在しないので、確かなデータというものがないのです。しかも当時は戦争も激しく被害の実態調査もなされませんでしたので、ご遺族からの申告などで人数を把握するしか方法がないのです。生存者も申告された人の人数なので、中には助かっても申告されない方もいて、正確な数字が掴めないのです」
 例えばどこの小学校から何名疎開したという「疎開者名簿」などもあったのかもしれないが、「対馬丸事件」のあった約2か月後の10月10日に沖縄空襲があり、那覇市は灰燼(かいじん)に帰し資料があったとしても焼失したことになる。しかも翌年の沖縄戦で沖縄全体が壊滅的被害を受けたので、当時を知る資料はさらに無くなった可能性が大きい。
 生存者の自己申告にしても名乗り出る人がいないのは、やはり自分だけが助かってしまったという後ろめたさもあるという。とくに児童に疎開を勧めた教師はそうである。だから余計に生存者の行方は掴めない。それ以外にも謎の部分がある。
 それは対馬丸に乗船した子供たちの荷物が、同時に出航した「和浦丸(かずうらまる)」「暁空丸(ぎょうくうまる)」に置かれていた点である。後者の2隻の乗船者に取材すると、「じつは対馬丸に乗る筈(はず)だったけど、直前で変更になって、船員に別の船に行けと言われた」と述べている。なぜ直前になって乗る船が変更になったのか、突然の変更は何だったのか。その理由も不明のままだ。
 従って、和浦丸、暁空丸に乗った子供たちは身一つでこれらの船に乗り移ったので、荷物は対馬丸に置かれたままの状態だった。出港時にかなりの慌ただしさがあったことを思わせる。

 お帰りなさい学びやへ
 様々な点が不明である背景には、対馬丸の船体が、今も海底に乗船者とともに沈んでいるという現実がある。以前から対馬丸の遺族など関係者は、国に遺骨収集をお願いしていたが、国の反応は芳しいものではなかった。
 平成9年にようやく調査が実現され、約870メートルの海の底に朽ちかけた対馬丸が眠っていることが判明した。しかしこの深さまで人は潜ることができない。船にワイヤーをかけて引き上げる方法も検討されたが、船体の「対馬丸」という文字が剥げ、船体も崩れる可能性があった。そうなると船内の遺骨も散乱してしまう。そのため船の引き上げを断念せざるを得なかった。
 そこから別の方法で「対馬丸事件」を後世に伝えるために記念館が建設されることになった。そのとき関係者の脳裏に浮かんだのが、今海の底にいる犠牲者に、ふるさとの学びやに戻ってきてほしいという願いだった。その思いを込めて、教室を再現した展示が作られた。
 2階展示室には古いランドセルが置かれてある。「みっちゃんとえっちゃんのランドセル」と書かれ、一つは赤茶色のランドセル、もう一つは黒色のランドセルだ。対馬丸に乗った学童の遺品だった。その色の消えかけた古いランドセルが目に焼き付いた。そして持ち主だった「みっちゃん」「えっちゃん」の姿を想像した。
 1階展示室へ下りれば、すぐに対馬丸に乗船した児童の氏名が学校ごとに記されているのが見える。その展示コーナーの上に大きな文字で「おかえりなさい学びやへ」「おかえりなさいふるさとへ」と、児童に呼びかけるメッセージが書かれてあった。
 外間は語る。
「最初はどのように展示をするかイメージが思いつきませんでした。そのとき浮かんだのが、対馬丸には一つの学校から100名から200名ほど乗っていたことでした。この子たちの魂が沖縄の学びやに戻って来るならば、私たちの心に平和のために働きかけてくれると信じたのです。一般疎開された方には、ふるさとへ戻ってくださいという意味を込めて、それぞれへのメッセージを作りました」
 1階中央には対馬丸事件のあった昭和19年当時の教室が再現されている。黒板と教壇、並んだ木の机。机にはノートや教科書が置かれている。きっと犠牲になった子供たちの魂は、今この教室で楽しく学んでいるのだろうと思わせられる。その他学童集団疎開の資料も多く展示されているが、その中に私の郷里の熊本県八代(やつしろ)市日奈久(ひなぐ)町の温泉街やそこに疎開した子供たちの写真があったことに驚いた。私の郷里へは沖縄から多くの学童が疎開したが、対馬丸に乗船した人たちの疎開先の一つが私の郷里の八代市日奈久町であると初めて知った。対馬丸と私の郷里は繋(つな)がっていたのである。もう一か所の疎開先は宮崎だったと言われている。
 教室の背後に広がる壁一面に、犠牲になられた人々の顔写真が飾られ、名前、年齢が一人一人書かれている。そこには多くの学童に交じって、あどけない赤ちゃん、幼児、子供の父親、母親、大人、祖父、祖母と思われる人たちの写真があった。もちろん引率した教師の顔もある。一家揃(そろ)って犠牲になったことも写真の名前からわかった。老若男女にかかわらず「対馬丸事件」が一瞬にしてこの人たちの命を奪った。
 外間は述べる。
「拘(こだわ)ったのが、犠牲者の年齢です。名前だけだと悲惨さがあまり伝わりません。年齢を記すことで、戦争のむごさが伝わってくると思いました。ここには0歳児が27名います。1歳児は24名です。赤ちゃんが生きた証(あかし)も残しておきたい。皆、死ぬためにこの世に生まれたわけではありません。生き抜くために生を受けたのに、それが無念にも絶たれてしまった。その思いに拘って年齢を入れました」
「対馬丸記念館」の1階出口から出るときに、私はもう一度2階にあった遺品のランドセルを見たくなった。再び階段を上がってゆくと、ランドセルには那覇市の泊(とまり)国民学校の児童で10歳と8歳の姉妹のもので、姉が外間美津子、妹が外間悦子と名前が記されていた。
 外間という名前が気になって再度外間に尋ねると、ランドセルの持ち主は、彼女の姉2人だとわかった。彼女も対馬丸事件の遺族であった。 

疎開の発端はサイパン島陥落
 沖縄から本土への疎開が決められたのは、昭和19年7月7日に南方、絶対国防圏のサイパン島が米軍の手に落ちてからである。サイパンから沖縄までの距離を考えると、沖縄が近いうちに戦場となることは明らかであった。そのため日本は10万の兵力を沖縄に投入することを決めた。必要なのは兵隊の食糧確保である。従って戦いの足手まといにもなる子供や女性、老人などを沖縄以外の場所に疎開させる必要があった。沖縄の人々の安全確保という目的もあったが、どちらが優先事項だったのかわからない。
 同年7月下旬に政府は沖縄(宮古〈みやこ〉、八重山〈やえやま〉諸島含む)、奄美(あまみ)大島、徳之島(とくのしま)などの南西諸島に疎開命令を出し、沖縄からは学童を中心に一般住民など10万人を本土と台湾に移すことになった。親たちは子供たちの命を守るため、疎開をさせようとしたが、すでに海は安全な場所ではなくなっていた。このころ、沖縄周辺の海では17隻の沖縄関係者を乗せた船が米軍によって沈められていたのである。もちろんそうした情報は多くの親には知らされていない。海が危険だとわかれば、疎開をさせない親が出てくるからである。しかし噂(うわさ)のレベルでは薄々知っている人もいたようだ。
 そのような状況で8月中旬から疎開が始まり、8月21日に対馬丸は同じ疎開船の暁空丸、和浦丸とともに3隻で長崎港を目指して那覇港を出港した。3隻には護衛艦の蓮(はす)と宇治(うじ)の2隻がついた。疎開船は3隻とも貨物船であった。
 対馬丸は、他の2隻に比べると見栄えは立派だったが、もっとも古く作られたので、速度が一番遅かった。そのため船団の最後を進むことになり、敵の潜水艦の標的にされてしまった。
 事情を知らずに対馬丸に乗る予定の子供たちは、疎開を喜んだ。国民学校4年生(9歳)の平良啓子(令和5年7月死去)は、67歳の祖母、国民学校6年生の兄の壮吉、高等女学校の17歳の姉、東京にいる長兄の婚約者の女性、従姉妹(いとこ)の時子の6人で一般疎開として乗船することになった。
 啓子の疎開先は熊本県八代市日奈久町である。彼女は昭和9年沖縄本島北部の国頭村安波(くにがみそんあは)生まれである。当時彼女の父親は仕事の関係で東京にいて、母親は幼い弟と妹がいたために疎開ができず、沖縄に残ることになった。従姉妹で同じ年の時子は、疎開する予定はなかったが、啓子とどうしても一緒に行きたいと願い、乗船することになった。
 啓子の心の中では、ヤマトへ行けることへの憧れが強く、列車に乗れること、雪合戦ができるかもしれないことで楽しみのほうが大きかった。疎開の案内が来たとき、母親は東シナ海は危険水域らしいと村の戸主会で噂されていたのを知っていたので、反対したが、それを押し切っての疎開決行であった。当時国頭村安波の人口は600人ほどだったが、疎開したのは40人ほどだった。
 村人40人は夕方に村を出て、たいまつをともしながら約18キロの山道を歩いて、西海岸の辺土名(へんとな)に行く。翌朝に那覇港行きの小型の船に乗ることになっていた。
 家を離れるときに、母は啓子たちに別れの言葉を伝えていた。
「来年の3月には(沖縄に戻って)きっと会えるからね。それまで辛抱するんだよ。辛(つら)くても泣くんじゃないよ」
 啓子は母の言葉を胸に刻み、忘れることはなかった。

  もう一人事件の生存者に取材をすることができた。当時那覇市垣花(かきのはな)国民学校4年生の上原清(昭和9年生まれ)である。上原は言う。
「九州への疎開は学校からの命令ではなく、『行きますか』という打診でした。仮に断っても非国民と言われることもなかったでしょう。僕は子供だから学童疎開がなぜ急に決まったのか知らないし、むしろ見知らぬ土地に行く喜びがあって、雪を見て、好きな柿を食べられる楽しみのほうが強かったです」
 学童集団疎開は、兄弟姉妹の多い家は、半分が疎開し、半分が沖縄に残るところが多かったという。家の存続を考えれば、疎開に行って万一亡くなったら、地元に残った兄弟姉妹が家を継げるように。沖縄が戦火に巻き込まれ、万一そこで子供たちが死ぬことがあっても、本土にいる兄弟姉妹が無事ならば家名は残ると判断したのである。
 平良啓子は対馬丸の印象を語る。
「高すぎて絶壁のようでした。それに古くて黒い船だったことを覚えています。海もどす黒かったですね。不気味なほど揺れて浮かんでいました。私たちは船底に押し込められました」
 上原清も、那覇港沖に浮かぶ対馬丸は小山を思わせる大きさに思え、初めて見る巨大な船であった。子供たちは港から小型の船に乗り込み、対馬丸の傍(そば)に着くと、タラップにつかまって乗り込んだ。とにかく船内は蒸し暑かった。電気もつかず中は暗い。便所も汚く、船内ではその臭いが広がっていた。 

出港――
 対馬丸は、出港の2日前に上海から第62師団の兵隊を乗せて那覇港に到着していた。そこで兵隊を降ろすと、急遽疎開船に変えられた。後の記録によると、対馬丸は上海を出たときから、ボーフィン号に目をつけられ、その後も雷撃の機会を狙われていたという。
 そんな実情を疎開者やその家族は知らず、次々と乗船して、8月21日午後6時35分に那覇港を離れた。
 しかし対馬丸の乗船員は海が安全ではないということを知っていたので、潜水艦の魚雷を避ける航法をとって進むことになった。船は直進するのではなく、まず左に進み、次は右に進むというジグザグ航法を選択した。目的地まで時間はかかるが、敵潜水艦の攻撃をかわすための方法だった。
 出港した1日目(8月21日)は無事であった。2日目(22日)の夕方は船内が蒸し暑いので啓子は、祖母と時子と一緒に甲板で涼みながら海を眺めていた。そのとき突然彼女たちは船倉に下りるように兵隊に指示された。そこで3人が見たのは、皆が救命胴衣を着けている姿であった。船員たちに、対馬丸が潜水艦に追跡されているようだという噂が広がっていたからだと後になって知った。啓子たちは救命胴衣を着けると、甲板に行くように船員たちから指示された。
 甲板で、啓子は他の乗船者と一緒に整列させられた。その前で兵隊は注意した。
「紙くずを海に投げるな、鼻紙を投げるな、サトウキビを齧(かじ)っている者もいるが、食べかすを海に投げるな。そして静かにしていろ、学校の先生は今晩は寝ずに生徒を見張っていろ」
 船の上からものを捨てると、潜水艦に居場所を教えることになるからだ。一体何が起こったのだろう。不安になりながらも、夜になっていたことと船内は暑かったので、啓子と時子は祖母の両膝に寄りかかって眠ってしまった。
 上原清の記憶は、若干違っている。1日目は船倉で寝たが、とても暑かったので、2日目は友人と3人で甲板に出て眠ることにした。風が心地よくてすぐに眠れたという。
 上原は甲板に並ばされたとは話していない。これは、なぜなのだろうか。甲板に出て兵隊の指示を聞いたのは、全員ではなく、一部の乗船者だけだったのか。上原は船員からの集合を聞いていなかったのか。すでに事件から80年ほどが経ち、完璧に記憶を再現するのは困難だ。
 ただ言えるのは、対馬丸では組織的な統一した行動が取れるほどの余裕がなく、船員や兵隊たちの指揮系統も混乱していただろうということである。
 このころ、一緒に出港した和浦丸と暁空丸は潜水艦を察知して、速度を上げて進んだため対馬丸は他の2隻から取り残されてしまった。2隻の護衛艦も、先を行く2つの船に寄り添った。対馬丸は海上で孤立した。 

雷撃、そして漂流へ
 異変が起きたのは皆が眠りに落ちた午後10時すぎである。前触れも無く、船を揺るがす大きな轟音がして、人々が一斉に目を覚ました。爆発音は3回も続き、そのたびに揺れは激しくなる。船内にいて潜水艦に雷撃されたことに気づいた人々は甲板へ出ようと梯子に向かって殺到したという。
 平良啓子は語る。
「ボーンという爆発の音で目が覚めたんです。気づいたときは3発目が当たっていました」
 このとき甲板で眠っていた彼女はどのようにして海に飛び込んだのか、気が動転していたため記憶が消えている。
 気がつくと海に投げ出されていた。波は高く、周囲の海面では船から投げ出された子供たちが「お母さん助けて」と泣き叫んでいた。啓子は目の前で燃えて沈没しかける「対馬丸」の姿を見上げた。大きく傾いた帆柱に掴まって赤子を背負う母親が「兵隊さん助けて」と叫んでいる。しかし船とともに母親は沈んでいった。
 啓子は、このときの子供たちの泣き叫ぶ声や母子の叫びが今も耳を離れないという。彼女は一緒に乗った家族の安否が気になったが、姿は見えなかった。
 彼女は浮いていた一斗入りの醤油樽(しょうゆだる)に手を伸ばして掴まった。そのとき水に浮いていた時子とぶつかった。彼女は啓子の顔を見ると「怖い」と泣き叫んだ。啓子は時子を醤油の樽に掴まらせ、「絶対に離さないで」と励ました。しかし大きな波に襲われると、すぐに時子の姿は消えてしまっていた。啓子は近くに浮いている筏(いかだ)に泳ぎついた。船には非常用に筏をいくつも積んであった。そこには10人ほど乗るのが限度のところに30人ほどが乗っていた。筏には我も我もと漂流者が押し寄せて奪い合いの状態だった。啓子が筏に掴まると、背後から来た大人の男が足を引っ張って筏から引き離して自分が乗ろうとするので、何度も足で蹴って筏から離れないようにした。ただこれでは筏に乗ることは難しいと思った啓子は意を決して、筏の下を潜って反対側に行き、上手く人々の隙間を縫って乗ることができた。すぐさま筏の中央に行き、真ん中に陣取って、小さくなってうずくまっていた。そのとき竹を縛っている紐(ひも)に指を突っ込んでしっかりと握り、その場を離れないようにした。
 筏の奪い合いは続いたが、大人の男が乗ってくる女性や子供を容赦なく海に投げ捨てる光景も見た。啓子も何度も海に投げられたが、それでも諦めず再び筏に上がった。あたりを見回すと、絶望的に広がる真っ暗な海が見えるだけだった。
 一方、上原はどういうふうに行動したのだろうか。彼は甲板で熟睡していたが、激しい爆発音で目が覚めた。爆発音が2度、3度と続くと、ただ事ではないと感じた。船内からは悲鳴が上がっている。階段はこっちだという叫び声もする。船内は真っ暗になっており、甲板に出るための階段の場所がわからず人々が混乱しているのが、甲板にいる上原にもわかった。
 このとき船底には魚雷で破壊された穴から一気に海水が流れ込んでいたと後で知った。次に彼の記憶にあるのは、甲板で救命胴衣を着けさせられて大勢の児童と並んでいるときである。このとき前に立っていた兵隊はメガホンで注意をした。これから海に飛び込むが、船が沈没するときに発生する渦に巻き込まれないように、できるだけ遠くに飛ぶようにすることを伝えた。
 ただ上原が甲板から海を見下ろすと、崖の上にいるような高さがあり、恐怖を感じた。それでも兵隊の号令で、上原は勇気を振り絞って海に飛び込んだが、足がすくんで飛び込めない子供もいた。このとき船から投げ出された人たちでいっぱいの海に、たくさんの夜行虫が青白く神々しい光を放ちながら浮いていたのを覚えている。
 上原は友人3人とともに筏を見つけ、そこに乗って漂流をすることになった。小さい筏だから夜は体を寄せ合って眠った。落ちないように手には筏についたロープを握りしめる。昼見えるのは水平線ばかりで、護衛艦2隻から対馬丸遭難者は見捨てられたことを知った。
 筏の上で彼は出発の時の祖母の言葉を思い出していた。彼女は「お母さんが見守ってくれているからね」と言った。上原は3歳の時に母親を病気で亡くしているが、母の霊(沖縄ではマブイという)が守ってくれるという思いが大きな支えになっていた。
 しかし筏の上では激しい飢餓のために幻覚に悩まされた。昼間の起きている最中に、水道の蛇口から腹いっぱいに水を飲む姿や、家族とともに食卓を囲む風景が現れた。近くに島が見えるときもあった。他の3人も同じ幻影を見たという。やがて正気に返り、現実を知る。そしてまた幻覚に戻る。その繰り返しで、飢えもあり、彼らの精神は変調をきたしていた。
 友人の一人は突然目を見開き、自分のシャツを食いちぎった。飢餓による幻覚で極限状態に来ていたのだ。もうだめかもしれないと皆が絶望的な気持ちになった。
 漂流して6日目の朝、彼らの目の前にうっすらと島影が見えた。その島は奄美大島だった。4人は幻覚でないことを確信した。筏は岩場に漂着し、漁船に救助された。

  平良啓子も挫(くじ)けそうなとき、母親の「来年の3月にはきっと会えるからね」という言葉を思い出して、母に会うまでは絶対に死なないと誓った。彼女が乗った筏は10人に減っていた。漂流して3日目に40代の女性2人の姿が消えた。飢えにも苦しみ、4日目に乳飲み子の赤ちゃんは母親の乳が出ないので衰弱死した。ある日、啓子は20メートルほど先に浮かぶ竹筒を泳いで取りに行った。竹筒には小豆ご飯が入っていた。皆で分けたが、一人の老婆がご飯を啓子に渡してくれた。
「私の分はいいからあなたが食べなさい」
 彼女は2人分のご飯をむさぼるように食べた。老婆は目を細めて食べる様を見ていたが、翌日、目を開けたまま筏の上で死んでいた。
「やはり自分の命が長くないと思って、若い私に食べさせてくれたんですね」
 彼女はそう語った。筏の上では、昼は真夏の太陽に照らされ、皮膚は爛(ただ)れる。夜は波を被(かぶ)るので寒い。眠ってしまえば、海に落ちる。遠くでサメが漂流者を一瞬のうちに襲う光景も見た。
「本当に恐怖でした。天の神様、海の神様助けて下さいと祈るしかありませんでした」
 5日目に60代の女性が海に落ちていなくなった。漂流して6日目になったころ、啓子は波の音がこれまでと違うことに気づいた。このとき彼女は直感した。
「私はいつも母の言いつけで太平洋側の海で海水を汲(く)んでいたんです。豆腐を作るのに海水の塩を入れるとよく固まるからです。そこの浜辺で聞いたさざ波の音に似ていました」
 翌日の夜明け近く、筏の進行方向に島がうっすらと姿を現した。奄美大島近くの枝手久島(えだてくじま)という無人島である。枝手久島に辿(たど)りついたのは、筏に乗った10人の内で5人だけだった。
 啓子は漁船で奄美大島の字検村(うけんそん)の診療所に連れて行かれ、そこで静養する。数日後、村の海に突然軍艦がやって来て「遭難者を匿(かくま)っている者は軍に差し出せ」と大声で命令した。彼女は弱った体のまま浜へ連れて行かれ、軍艦に乗せられた。生存者は奄美大島南端の古仁屋(こにや)に運ばれ、一括収容された。「対馬丸事件」が外部に洩(も)れないように一か所に集められたのである。
 しばらくすると収容場所から解放され、父の友人が啓子を引き取ってくれて、母親に無事を知らせる電報を打ってくれた。翌年(昭和20年)2月に啓子は父の友人の漁船で沖縄に戻った。港ではやつれた母が啓子の前に立っていた。
「沖縄に着いたとき母はあちこち見ながら啓子、啓子と呟いているんです。何を見ているのか視線も定まらないのです。ようやく目が合って抱き着いたとき、母は嬉しさのあまり激しく泣きました」
 しかし時子の母親である叔母は、彼女を責めた。
「あなたは時子を海に置いて来たの?」
 これまで自分は「対馬丸事件」の被害者という意識だったが、生き残った自分は遭難者を見捨てた加害者としても見られることを知った。
 この事件で姉と、兄の婚約者は無事だったが、兄と祖母、時子は戻ってくることはなかった。 

 上原たちは軍部の命令で、奄美大島の古仁屋に集まり、古い木造旅館で1か月ほど過ごした。そこには軍部の人たちが来て、すぐに箝口令(かんこうれい)が敷かれた。また旅館の外に出ないように周りには私服警官や憲兵隊がいるのがわかった。しかし生存者は自分が生きていることを家族に知らせたい。そこで那覇の疎開団長の発案で電報を打った。文面は〈五円送れ〉だった。金を請求することは生きていることを伝えることになるからだ。
「対馬丸事件」の生存者は箝口令を敷かれたが、それはなぜなのだろうか。対馬丸には県の職員や学校の先生なども一緒に乗って、疎開の模範を示そうとしたのに、船が沈んだことが知れると学童集団疎開は危険だとわかってしまう。そうなれば子供や女性を沖縄から追い出し、10万人の兵隊を沖縄に投入する軍部の作戦が遂行できなくなるからだった。
 上原は9月末に沖縄に戻ったが、極秘の帰郷だったので、那覇港では出迎えの者もいなかった。港で待っていた警察官に帰郷者全員が旅館に連れて行かれ、警察の幹部は厳しく命令した。
「このことは極秘だから、体験したこと、見たこと、聞いたことを口外するな。話したら罰する」
 上原は軍部や警察にとって生き残った者は招かれざる存在なのだと思った。事件を隠すことが軍部にとっては生存者よりも大事なことなのだと思うと、何ともやりきれなかった。彼は一人で家まで歩いて帰った。 

引率教師の苦しみ 遺族の悲しみ
 厳重な箝口令が敷かれたが、「対馬丸事件」は噂として人々に徐々に広まり、子供の親や大人たちも知ることとなった。子供が帰って来ない親たちは心配して、役所や学校に殺到して問い合わせをすると、役所は「対馬丸事件」を隠し通すことができなくなり、事件の存在を渋々認めた。
 ただ噂から出回ったので、地域によって伝達の早い、遅いはあるし、どのような内容が伝わったのかも違いはある。国からの正式な報告がないので、沖縄の人たちがきちんと事件の全貌を知ったのはいつなのか今も不明である。
 そして戦後になっても生き残った人たちは苦しみ続けた。那覇市の天妃(てんぴ)国民学校教師(当時は訓導)で24歳の新崎美津子は、子供たちの家を訪問して疎開を勧めた。沖縄県の学務課から急いで子供たちに疎開を勧めるようにと言われたからでもある。新崎も引率教師として対馬丸に乗船したが、彼女は船が雷撃されたとき、海に投げ出された。
 筏に掴まって漂流し、助かったが、彼女を苦しめたのは、出航前の親御さんとの約束だった。親は彼女の許(もと)へやってきて、「子供をよろしくお願いします」と次々に頼み、彼女は「わかりました」と答えた。その約束を果たすことができなかった。しかも自分は生き残り、教え子は亡くなった。新崎は沖縄に戻ることなく、教職を辞め、栃木県の僻地(へきち)で家族とともにその後の人生を過ごした。事件から60年以上経って彼女は心境を書きとめている。
〈「誰にも見られたくない、自分を隠しておきたい。何かに隠れていたい」という気持ちは今でもあります。親御さんたちとの約束を果たせず、子どもたちを守れなかったことで私が自分を責めているのを知って、「あなたに責任はない。助けようとしたって助けられるものではない」と言ってくれる人もいましたが、そう言われても私の気は晴れません。〉(『学童疎開船対馬丸 引率訓導たちの記録』) 

 同じく那覇の甲辰(こうしん)国民学校教師のYさん(女性)は、「対馬丸事件」で命を取り留めたが、戦後は教職を辞めて京都で暮らした。あるとき所用で沖縄に帰ったとき、教え子の遺族にずいぶんと非難された。親の気持ちを思えば、生き残った自分が責められるのは仕方がないと思ったが、やはり遺族の言葉はひどく胸に突き刺さった。その傷は事件から65年以上経っても彼女を苦しめた。その頃の手記である。
〈戦後、対馬丸の話は家族にも誰にも話していません。ひたすら思い出さないようにして生きてきました。〉((『学童疎開船対馬丸 引率訓導たちの記録』)
「対馬丸事件」の生存者で戦後も教師を続けたのが糸数裕子(みつこ)である。彼女は那覇国民学校の引率教師だったため、国策に従い疎開に不安を持つ両親を一人一人疎開に行くように説得して回った。このとき彼女は師範学校を卒業したばかりの20歳だった。彼女は13人の教え子と対馬丸に乗船したが、教え子は皆死亡し、自分だけが助かった。
 船が出た後で、一人の児童が盲腸になり、甲板にある医務室で看病をしていた。そのため海にすぐに投げ出され、筏に掴まって一命を取り留めたのである。
 彼女は自責の念に苦しめられたが、師範学校を出たばかりだったので、教職を続けたいという強い意思があった。しかし彼女の父親までも「あなたの娘が子供を殺した、娘を返せ」と責められたという。糸数が事件について口を開いたのは、対馬丸で亡くなった子供たちの三十三回忌が済んでからである。回忌も済み、子供たちも神様になったから許してくれるだろうと思い、船が沈んだ悪石島へ遺族とともに行った。 

「対馬丸事件」で子供を亡くした親はどのような気持ちで過ごしたのだろうか。
 前述したように外間邦子は姉2人を失った。長女の美津子は那覇市の泊国民学校の5年生(10歳)、次女の悦子は3年生(8歳)だった。悦子は疎開に行くとき、姉と一緒に本土に行けると弾んだ気持ちだった。このとき外間は5歳と小さかったので沖縄に残った。
 そして2人は対馬丸沈没後、戻ってくることはなかった。姉2人の疎開先は宮崎だったと思われる。対馬丸の出港日より早い時期に外間の叔母が、学童集団疎開の引率教員として先に宮崎に行っていた。そこへ後日2人のランドセルや布団などが送られてきた。叔母は2人の荷物を見て「これは姪のものだ。大切な遺品だ」と思い、疎開先で大事に保管した。戦後帰郷するとき、沖縄に持ち帰ってきたのである。それがいつ外間の家族に手渡されたのか、彼女は知らない。それ以前にランドセルの存在を、彼女は長い間知らなかった。外間は語る。
「両親がこのランドセルのことを語らなかったからです。語れなかったのでしょう。母にとっては見たくもないほどに辛い思い出ですので、家族の目にまったく触れないように家のどこかで箱に入れて仕舞ってあったんです。子供たちは戻ってこなかったのに、ランドセルは戻って来たという激しい葛藤があったと思います」
 外間がランドセルのことを知ったのは、姉2人の三十三回忌のときだった。このとき母親が法事の席でランドセルを出して見せてくれた。同時に琉球漆器のお盆を作って、そこに美津子を表す大きな貝殻、悦子を表す小さな貝殻の絵を描いた。母親にとって年月も経ち、最後の区切りという思いがあったのだろう。
 ランドセルの中には2人が使った帳面、筆箱もあった。戦争末期でもののない時代だったので、筆箱はアルミのような質感で粗末なものだった。筆箱からは鉛筆が出てきた。ランドセルや学用品は大事に保管されていたので、帳面には漢字の書き取りが残っていた。子供の字で一行ずつ「激突、激突」、「戦車、戦車」、「飛行機、飛行機」と書かれてあった。
 仏壇には昭和18年に姉妹3人で写した写真も飾られた。真ん中にいる外間はキューピーを横に立たせ、4人で並んでいるように写っている。彼女は言う。
「当時は写真を撮るとき、3名だと真ん中にいる人には災いが降りかかると言われていました。それでキューピーを人の代わりにして一緒に写したんです」
 外間の家にはいつ「対馬丸事件」が伝わったのだろうか。姉2人が亡くなったことはどうやって知らされたのだろうか。
「正式な連絡は箝口令のためなかったと思います。私も子供でしたので、両親も一切話しませんから、親がいつ知ったのかわかりません。この当時は街中を子供の名前を呼んで歩く親御さんがいたとか伝え聞きました。ただ噂を聞いて校長先生にうちの子供はどうしたのかと聞いても、最初のころは学校もわからなかったようです」
 ただ外間の推測によると早い時期に家族は2人の姉の死を知っていたのではないかという。というのも祖母は孫たちを目に入れても痛くないほど可愛がっていたが、ある日胸を掻(か)きむしって畳の上で泣きわめいている姿を外間は見ているからである。これは姉たちに異変があったに違いないと思ったことを覚えている。
 また外間の父親が後年取材で語ったことである。「対馬丸事件」が起こったころに、夢の中にずぶぬれになった美津子と悦子が手を繋いで、家の門から縁側に歩いてくる姿が出てきたという。父親は足を悪くして休職中だったので、娘が疎開するときに那覇港まで一緒に見送ることができなかった。そんな後悔もあったのだろう。夢に出てきたときに、すぐに目が覚めた。そのとき胸騒ぎがしたが、母親にもその話はしなかった。2人の魂が家に帰りたがっていたのだろうと父親は感じたという。
 家では姉たちの話をしてはいけないという雰囲気があって、外間も口にすることはなかった。母は陽気な笑顔を見せることはなくなった。外間や父親がはしゃいだりすることを母親はとても嫌がった。母親は厳しかったという思いが彼女にはある。
「母は戦後に撮った写真では笑顔は全くありません。母はとても辛かったんじゃないですかね。どの親御さんも戦争で子供を亡くしたことは計り知れない哀しみがありますね。母はよかれと思って船で送り出したのに、親として命を守れなかった悔いは想像以上のものがありますね」
 遺品のランドセルは、「対馬丸記念館」が出来たときに、犠牲になった子供たち皆のランドセルという思いで飾りたいと願い、展示されることになった。 

 その後、3人の引率教師はどう生きたのだろうか。
 新崎美津子は平成18年11月に栃木県下都賀郡大平町(しもつがぐんおおひらまち)(現栃木市地域自治区)の中央公民館であった「戦争体験を聞く会」で対馬丸の体験を初めて人前で話した。このとき86歳。それまではこの事件を語ることが怖く、口をつぐんでいたが、自分が話さなければ死んでいった子供が可哀想だと決心し、勇気を出して話した。娘の上野和子は、このとき母親が教師だったこと、60年以上も「対馬丸事件」の苦しみを抱え続けたことを知った。新崎が話す決心をした理由である。
〈子どもたちのことを忘れさせたくない。世の中のだれも対馬丸が沈んだことを知らず、対馬丸に乗っていた子どもたちのことを知らない、と思うと辛いのです。以来、あちこちから講演依頼が来るようになって、私は「これも供養」と出かけていくようにしています。〉(『学童疎開船対馬丸 引率訓導たちの記録』)
 新崎は平成23年に90歳で亡くなった。没後、ノートに記された800首の短歌があり、「対馬丸事件」を綴った歌も60首あまりあった。
〈親を呼び師を呼び続くるいとし子の花かんばせの命の惜しき〉
 京都にいるYさんは、「対馬丸記念館」に寄付をすることがあったが、「自分は子供たちに合わせる顔がない。子供たちに申し訳ない」と来館は頑(かたく)なに拒み、来ることはなかった。
 糸数裕子は、外間の中学1年生の担任だったことが判明した。数学の教師だった。糸数は担任していたとき、一言も「対馬丸事件」のことを話さなかったので、外間は生存者だとは知らなかった。
 平成26年6月27日に明仁天皇、美智子皇后(当時)が「対馬丸記念館」へ慰霊のために訪問された。両陛下は7名の生存者と8名の遺族一人ひとりと懇談された。このとき記念館から糸数にも参加して頂けませんかと依頼がきたが、「私は遺族に合わせる顔がない。表に出る立場ではない」と固辞したという。せめてもの気持ちとして彼女は亡くなった子供たちのためにテーブルクロスと編み物を館に託した。
 白いテーブルクロスは、小桜の塔の献花台に敷かれ、その上に香炉が置かれ、両陛下をはじめ皆がここで焼香した。編み物は「対馬丸記念館」内の両陛下の休憩所の脇台に敷かれた。円形のレースの編み物だった。これに目を留められた皇后陛下が、後日宮内庁を通じてこのレースの編み物を所望された。おそらくこの編み物が置かれた経緯を何かでお知りになったからだろう。
 糸数は令和4年9月に97歳で亡くなった。
 2人の生存者はその後をどう生きたのだろうか。平良啓子は小学校の教師になった。
「教師になったのは、〝対馬丸事件〟の体験を通じて平和を語り継ぎたいという思いがあったからです。以来私は教え子たちが、戦争が起こって銃を持つ人にならなくて済むように平和の意義を伝え続けてきました」
 在職中から講演で全国を回り、定年退職してからも講演を続けた。その回数は800回を超えた。自身の体験を『海鳴りのレクイエム』に著し、「対馬丸事件」と平和教育について綴っている。
 上原清も教職に就くが、50歳まで教え子にも周囲にも「対馬丸事件」の当事者であると話すことはなかった。
「この体験を説明するのは非常に難しいです。辛かったというよりも、正しく話が出てこないんです。苦しくて話せない人もいますが、僕はそうではない。人間の心には多くの部屋がありますが、その一つが対馬丸の部屋で、そこに私は鍵をかけていました。その理由は自分でもわかりません。この事件のことを正しく伝えるために、後に『対馬丸沈む』という本を書くことになり、この部屋をようやく開けることができたのです」
 彼の無意識の中にはどのような混とんとした思いがあったのだろうか。上原と同様に、「対馬丸事件」の生存者はあまりこの件について話そうとしないという。そこには多くの人たちが犠牲になりながら、自分だけが助かったという申し訳なさや後ろめたさがあるためである。生き残ったことを喜ぶことができないのが、生存者のその後の苦しみだった。 

 平成21年8月22日は対馬丸事件から65年という節目を迎え、10数年ぶりに対馬丸沈没地点で海上慰霊祭が行われた。参加者は6人だったが、その中に上原もいた。75歳の彼は「年齢からこれが最後の機会になると思う」と語り、千羽鶴やお菓子とともに、手作りのシーサー(高さ約45センチ・重さ約40キロ)を作って、沈没地点に沈めた。犠牲になった子供たちを永遠に守って欲しいという願いがあった。
 上原は犠牲になった子供たちを「小さい命」と呼ぶ。
「多くの子供たちが亡くなりましたが、お腹の大きな女性も戦いの足手まといになるからと対馬丸で疎開しました。その胎内にも『小さな命』があります。そうするとお腹の子供も含めて、千名以上の『小さな命』が沈んだことになります」
 そんな命への鎮魂の思いがシーサーに託されている。 

「対馬丸事件」は今も尚(なお)不明な点が多い。その事実を知るたびに、この事件は現在も終わっていないことを感じさせられる。私たちはこの事件と今後どう向き合ってゆくべきだろうか。今も世界では紛争が続いている。2022年2月にロシアがウクライナに侵攻したが、戦闘は収束の気配もない。ウクライナ、ロシアともに多くの人々が犠牲になった姿を報道で知るたびに、この世界では戦争を無くすことは不可能ではないかと絶望的な気持ちにさせられる。
 それゆえに私たちは戦争がどういうものか、向き合わなければならない。今、「対馬丸記念館」では、学校と広く連携し、子供たちに平和の尊さを伝えることに力を入れている。「対馬丸事件」から学ぶことで、生きられなかった子供たちの思いを今の子供たちは受け止めてほしいという願いがある。犠牲になった子供たちの代わりに未来を精一杯生きて欲しい、展示を見るたびにそんな思いが伝わってくる。外間は語る。
「亡くなった子供たちは無念の思いで海の底にいるのではなくて、自分たちが生きることができなかった未来を、これからの子供たちに託していると信じます。私たちが平和な時代を作ってゆくこと、思いやりや優しさを持つことで平和の種が実ってゆくこと。それが対馬丸の子供たちの祈りであると思います。彼らは、平和の使徒として永遠に生きています」
 そんな私たちは、「対馬丸事件」から何を学ぶことができるだろうか。そう考えたときに、記念館の入り口で見た、残された2つのランドセルに思いを馳(は)せていた。

 参考文献
・公益財団法人対馬丸記念会学芸部編集『対馬丸記念館 公式ガイドブック』(公益財団法人対馬丸記念会 平成28年1月)
・財団法人対馬丸記念会監修『対馬丸記念館 公式ガイドブック』(平成17年10月)
・対馬丸疎開学童 引率訓導証言記録プロジェクト編著・発行(記録監修 財団法人対馬丸記念会)『学童疎開船対馬丸 引率訓導たちの記録』(平成22年2月22日)
・平良啓子『海鳴りのレクイエム』(民衆社 昭和59年)
・上原清『対馬丸 沈む――垣花国民学校四年生 上原清 地獄の海より生還す』(財団法人対馬丸記念会 平成18年8月)
・「対馬丸通信第19号」(編集対馬丸記念会事務局 発行(財)対馬丸記念会 平成21年9月30日発行)
・「対馬丸通信第29号」(編集対馬丸記念会事務局 発行(公財)対馬丸記念会 平成26年10月25日発行)
・「Q+リポート ランドセルが語るもの」(琉球朝日放送 報道制作局 平成26年5月21日 https://www.qab.co.jp/news/2014052154296.html)
・「OKINAWA 2015 死線を泳いだ少女 平良啓子さんの証言(完全版)」(VICE平成27年9月 https://www.vice.com/jp/article/8xdv5p/okinawa-2015-keiko-taira)
・佐喜眞道夫『アートで平和をつくる――沖縄・佐喜眞美術館の軌跡――(岩波ブックレット904)』(岩波書店 平成26年)

対馬記念館の学び舎を再現した展示には、犠牲になった子供たちの魂が戻ってこれるようにとの願いがこめられている。遺影には年齢も記されている。
記念館の1階に展示されている、犠牲になった姉妹の遺品となったランドセル。

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プロフィール
澤宮 優(さわみや・ゆう)
1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。

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