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『沖縄密約 ふたつの噓』文庫版書下ろし 追章 冒頭部分特別公開!

諸永裕司さんの『沖縄密約 ふたつの噓』が集英社文庫より4月19日に発売されました。
1972年、政府の隠蔽を告発し、国家によって葬られた西山太吉氏の足跡を追ったルポである本書。文庫化に当たり、単行本の刊行より約10年の時を経て、その後の顚末を大幅に書き下ろし、追章として収録しています。
その一部を、noteにて特別公開。
本書の概要はこちらの特集ページから。

追章 欠  落

 沖縄密約情報公開訴訟の劇的な一審判決から三回目の春を前に、西山啓子は七十八年の生涯を閉じた。骨髄腫だった。
「ちゃんと死なせなきゃ」
 ことあるごとにそう口にしていただけに、夫を残したまま旅立つのはどれほど心残りだったろう。
 それから十年になろうとする年の瀬、九十一歳になった太吉は自宅近くの老人ホームに入った。腎臓や心臓が悲鳴を上げ、支えなしでは歩くこともままならず、ひとりで暮らすことが難しくなっていた。
 入所する前日、私が自宅を訪れると、応接間には書類や資料が床を埋めるようにあふれていた。あとで整理させてもらってもいいか、とたずねると、太吉はベッドに腰を下ろしたまま、言った。
「あんたの好きにすればいい」
 もう自宅に戻ってくることはできないと、どこかで予感していたのかもしれない。
 年を越し、松の内があけると、私は再び、北九州に足を運んだ。
 主のいなくなった家の玄関を息子さんに開けてもらう。だれもいない家は冷え切っていて、板の間から冷気が立ち上ってくる。足早に廊下を進み、暖房のスイッチを入れる。それから、応接間に足を踏み入れた。
 真ん中には啓子をまつった祭壇があり、おだやかな表情の遺影の下に遺骨が置かれていた。亡くなったあとも、太吉は墓に入れず、手元に置きつづけていた。啓子が好んだルノワールの名作「二人の姉妹 テラスにて」の複製画も壁にかかっていた。
 ただ、床には書類が散乱し、四つの引き出しの両脇に扉がついたタンスの上や本棚の前にも紙袋が積み重ねられている。ふすまが開いたままの押入れからは、いまにも紙の束が落ちてきそうだった。
 膨大な資料や紙の束を前に気後れしながらも、一つひとつ取り出しては目を通していく。二〇〇五年以降、太吉が起こした裁判に関連する資料、太吉の執筆した原稿が載った雑誌や新聞の切り抜き、メディアとのやりとりに使った文字の薄れたファックス用紙、市民からの講演を依頼する手紙などが次々とでてきた。
 ただ、かつての事件にまつわるものといえば、色褪せた裁判記録くらいだった。歴史的な価値のあるものがでてくると期待していたわけではなかったが、かすかに拍子抜けしたような思いがした。
 書類の合間から時折、広告やチラシ、ときにはレポート用紙の切れ端などがこぼれ落ちる。筆跡はどうやら啓子のものらしい。文字の列を追うと、ときに抑えきれない叫びのようなものが記されている。思わずたじろぐほど強い言葉が走り書きされたものもある。心の声が迫ってくるようだ。
 私は腰を上げ、となりの部屋に向かった。かつて啓子が使っていた空間は物置のようになっていて、すでに使われなくなった掃除機や家電などが雑然と置かれていた。奥に小さな棚があり、『手しおにかけた私の料理』といった本の背表紙が見える。「マリア・カラス」「ショパン」「アヴェ・マリア」などのCDも並んでいる。
 啓子はここで寝起きし、暗闇に閉ざされたような日々をしのいでいた。この北向きの六畳間だけが、ひとりになれる空間だった。
 そういえば、太吉からの唯一のプレゼントだったという真珠のネックレスはあるだろうか。結婚七年目の贈り物はタンスの引き出しにしまってある、と聞いていたことを思いだす。探してみたが、どこにも見あたらない。
 まもなく、ビニールひもくくられたノートの束が部屋の隅に置かれているのが目に入った。束はふたつ。いちばん上に重ねられたノートの表紙には、年月日が記されている。どうやら啓子の日記らしい。そう気づいて、あわてて紐をほどいた。
 事件直後の日記は見せてもらっていたが、これほどの分量を書きためていたとは知らなかった。
 はたして、太吉が目にしたことはあったのだろうか。
 たずねたくても、老人ホームに入って以降、話をすることはできなくなっていた。
 施設内にコロナウイルスが広がり、太吉も感染したため、個室に隔離されたのだ。スマホはおろか携帯電話も持たないうえ、共用電話のある食堂への行き来も禁じられている、と聞いていた。
 息子さんからの差し入れのオレンジジュースやヨーグルトを受け取り、世話をしてくれる施設の職員と短く言葉をかわす以外、ほとんど口をきくことはないという。
 片づけは三日ほどで終わった。
 文字どおり孤独な時間のなかで、何を思っているのだろう。何度かはがきを送ったが、返事はないまま時がすぎた。
 二〇二三年二月二十四日の朝、息子さんから電話が入った。
「父が亡くなりました」
 ベッドの上で息絶えているのを、見回りにきたホームの職員が見つけたという。入所から二ヵ月、啓子が旅立ってからちょうど十年と二日。まだ暗い、夜明け前のことだった。
 晩年は、啓子が案じたとおり過酷な日々を送っていた。
 そばにいてくれた妻が消えてしまってからは、眠れなくなった。真夜中に起き上がり、遺骨を置いた部屋のあかりをつけ、遺影に語りかけるが、言葉は返ってこない。記憶にある声をたどれば、喪失感が押し寄せる。
 悲しみを紛らわせるように酒をあおった。耐えきれなくなると、深夜でも知人の電話を鳴らした。そうしてなんとか夜をやりすごすと、朝からボートレースに出かけた。
 気持ちをつなぎとめていた裁判が終わると、講演に招かれることも少なくなり、メディアへ登場する機会も減った。ほとんど唯一といっていい熊本の旧友も亡くなった。
 それでも、本の執筆はつづけた。『決定版 機密を開示せよ──裁かれた沖縄密約』『検証 米秘密指定報告書「ケーススタディ沖縄返還」』『記者と国家──西山太吉の遺言』など、七十五歳から書いた著作は六冊にのぼる。最後に世に送り出したのは亡くなる二ヵ月前、評論家のたかまこととの対談をまとめた『西山太吉 最後の告白』だった。
 最後の三年ほどはコロナウイルスの蔓延まんえんと重なり、なかなか人と会うことがかなわなかった。虚勢を張ってでも強気なふりをする太吉が、みずから「淋しい病」と口にするようになっていた。
 国家の嘘に翻弄され、世間から指弾され、それでもなんとか生き延びてきた、メディア史に刻まれる事件の主人公はひっそりと旅立った。葬儀のあと、火葬場で骨を拾ったのは親族を含めてわずかに七人だった。
 亡骸なきがらを見送り、私が思い浮かべたのは、天上で再会しているかもしれない啓子のことだった。その半生を『ふたつの嘘』として二〇一〇年にまとめて以降も、解けない疑問があった。
 なぜ、太吉と別れなかったのか──。
 事件後は、戦う相手である国を喜ばせるだけだ、と踏みとどまった。
 ただ、最高裁で負け、裁判が終わったあとならば、いつでも離れられたのではないか。
 ギャンブルに明け暮れるばかりか、乱暴な言葉を投げつけ、ときには手を上げた。心を通わせることのできない夫とは、事件から長い時間が流れても別れなかった。
 別れられなかったのか、別れきれなかったのか。
 最初にたずねたとき、啓子は首をかしげてみせた。
「なんででしょうね。私にもわからないわ」
 その後、何度か同じ問いを投げかけたこともあったが、答えは変わらなかった。
 単純に割り切れるようなものではないのかもしれない。入り混じる思いを言葉にするのも簡単ではないだろう。
「きっと、死ぬまでの宿題ね」
 そう言ったまま、啓子は最後まで凜としたたたずまいを崩すことなく彼岸へ渡ってしまった。心の内に渦巻いていた思いとはどんなものだったのか。
 もしかしたら、その答えとなるものが日記に記されているかもしれない。ノートを数えてみると八十二冊あった。
 啓子の心の軌跡に立ち入る前に、密約をめぐる裁判のすうについて報告しなければならない。画期的な判断が示された一審判決後、司法はどのような結論に達し、国はどのような決着を図ったのか。
 啓子と並ぶもう一人の主人公である弁護士、小町谷育子の目を借りて振り返ることにしよう。

       ◆

 沖縄密約情報公開訴訟で焦点となっていたのは、ある密約文書だった。
「議論の要約」というタイトルが付され、沖縄返還に際して米軍用地の原状回復補償費四百万ドルを日本が肩代わりすることに日米間で合意したものだ。吉野文六・外務省アメリカ局長とリチャード・スナイダー米駐日公使がそれぞれイニシャルで署名している。
 情報開示請求に対して、外務省は「不開示(不存在)」という決定を下した。
 しかし、米側はその「議論の要約」文書をすでに米公文書館で公開している。日本側の当事者である元外務省アメリカ局長の吉野は「密約はあった」と証言し、歴史的な資料もそれを裏付けている。
 そうであれば、外務省も同じ文書を保有しているに違いない。
「不開示」という決定を取り消せ──。
 そう求めた裁判で、二〇一〇年四月、東京地裁の杉原則彦裁判長は、国は国民の「知る権利」をないがしろにしたとして、文書の開示を迫る判決を下した。直後の記者会見で、訴訟を率いてきた弁護士の小町谷育子はこう語っていた。
「全面的な勝訴については、感激とか、驚きとかいうものを超えているような気持ちでおります」
 とはいえ、決して浮かれているわけではなかった。むしろ、判決前からこう口にしていた。
「あまり勝ちすぎるとよくないのよね」
 画期的な判断というのは、これまでに積み上げられた常識から離れたものになるだけに、簡単に受け入れられるとは限らない。その後、高裁や最高裁で覆されることも珍しくない。そのため、「勝ちすぎは要注意」というのが法曹界の常識なのだ。
 国は即日、控訴した。

 それから約一年半。
 東京高裁の判決は二〇一一年九月二十九日に言い渡されることが決まった。
 このとき、小町谷は所属する弁護士事務所を一時的に離れ、司法研修所の教官(民事弁護)になっていた。司法試験に合格した司法修習生たちが実務家になるための研修機関だ。
 名誉と責任のある仕事とはいえ、任期は三年で、通常の弁護士業務のような報酬が払われるわけではない。業界内では「懲役三年、罰金一千万円」ともささやかれていた。
 小町谷はそれまでも誘いを受けていたが、断っていた。だれかに教えられるほどの仕事を残しているわけではない、と思っていたからだ。それが、専門とする情報公開をめぐり、注目を集めた裁判(一審)に完全勝訴したことで心境の変化が生まれ、引き受けたのだった。
 ただ、高裁の判決日には司法研修所の講義が入っており、判決は仕事を終えてから知った。
〈原判決を取り消す〉
 文書は存在しないため、ないものはない──。
 逆転敗訴だった。
 外務省は国内外の公館を含めて四千冊あまりのファイルを調べ尽くしたものの、密約文書は見つからなかったとする主張が認められ、小町谷らが全身全霊で勝ち取った一審判決は覆されてしまったかに思えた。
 ただ、気になることを耳にした。
 青柳あおやぎかおる裁判長は判決を言い渡す際に次のように言い添えた、という。
「判決を読んでもらえれば、わかりますから」
 裁判長はなぜ、そんなセリフを口にしたのだろう。
 小町谷は、あらためて判決を読み直してみることにした。
 高裁判決はまず、焦点となる密約文書については「第一級の歴史的文書」と位置づけたうえで、交渉の経緯を記した記録などから、「密約はあった」としていた。一審判決につづいて、密約そのものは認めていた。
 次に、原告の立証責任を軽減する判断についても、一審と同じように認めていた。
 つまり、外務省に「過去に文書はあった」ことを立証できれば、外務省は「その後も継続して文書をもっている」とみなされる。逆に、外務省が「文書は存在していない」というのであれば、文書を廃棄したり、別の場所に移管したりしたことをみずから示さなければならない、と指摘していた。
 一審で半分開いた扉が閉ざされたわけではなかった。
 ではなぜ、勝訴から敗訴へと真逆の結論に至ったのか。
 判決はこう書いていた。
〈かつて外務省においては(略)本件各文書1(注:米軍用地の原状回復費四百万ドルの肩代わり密約文書)を秘匿する意図が強く働いていたことがうかがわれる〉
〈情報公開法の制定により、(注:外務省は)情報公開請求に応じて(略)公開しなければならなくなり、それまでの外務省の説明が事実に反していたことを露呈することを防ぐため、その施行前に(略)秘密裏に廃棄し、ないし外務省の保管から外したという可能性を否定することができない〉
 つまり、情報公開法が施行されると文書を開示しなければならなくなり、「文書はない」としてきたそれまでの説明は嘘だったことが明らかになってしまうため、外務省が情報公開法の施行前に廃棄したか、保管からはずした可能性を否定できない、というのである。
 訴訟のなかで、外務省は「廃棄した」と認めたわけではなく、どのように管理されていたかは「わからない」としていた。それでは、きわめて重要な文書がいつのまにか失われたことになってしまう。そのため、青柳裁判長はさらに踏み込んだ判断を示したのだろう。
〈これらの文書は、通常の管理方法とは異なる方法で、通常の場所とは異なる場所に限られた職員しか知らない方法で保管された可能性が高(い)〉
 いつ、どこに、どのように移されたのか。事実関係は示されていないものの、国に責任があると示唆していたのだ。
 判決を要約すると、文書は「第一級の歴史的文書」にあたり、密約はあったと認められる。そのうえで、国は隠そうとする意図をもって通常とは異なる形で保管している可能性が高い。そのため、外務省内に文書はない。ただ、裁判で争われているのは、外務省が密約文書を「不存在」とした決定が妥当だったかどうかだ。その点でいえば、外務省内に文書はないため決定は妥当であり、敗訴ということになる。
 よく読んでもらえばわかるという言葉どおり、判決は「逆転敗訴」という表層的な評価とは裏腹に、国の隠蔽にまで言及するものだったのだ。
 事件の発端となった外務省の機密電信文には、〈問題は実質ではなくAPPEAR─ANCEである〉と記されていた。この表現を借りれば、高裁判決を次のようにとらえ直すことができる、と小町谷はいう。
「見かけは『負け』だが、実質は『勝ち』に近いとも言える」
 それでも、密約文書の開示を求める原告たちは納得できなかった。そもそも、行政がどんな文書をもっているかを市民が知る術はない。そのうえ、求めている文書を行政がもっていると証明しなければならないというのは情報公開の理念に沿わない、と考えていたからだ。上告して、最高裁の判断に委ねることになった。
 二〇一四年七月十四日、最高裁(千葉かつ裁判長)はついに決定を下す。
 事実認定について疑義は示さず、一審、二審のとおり「沖縄密約」はあった、とする司法判断が確定した。
 一方、主張立証責任については、文書が作成・取得された経緯など個別の事情を考慮しなければ判断できないとした。さらに、
〈特に、他国との外交交渉の過程で作成される行政文書に関しては、公にすることにより他国との信頼関係が損なわれるおそれ又は他国との交渉上不利益を被るおそれがある〉
 という一般論にとどまった。
 あたかも、外交文書は通常ではない管理をしても許されると言っているようにも読め、外務省の「捨て得」を問うことはなかった。
 それでも、五年あまりにわたった争いを、おもしろかったと小町谷は振り返る。
「少なくとも、密約はあった、と最高裁が認めたことに意義はあったと思います」
 一方、国はどう動いたのか。
 岡田克也外相(当時)が設けた「いわゆる『密約』問題に関する有識者委員会」は、「文書が存在しない」ことを理由に「広義の密約」と独自に認定した。
 調査の過程で不自然な文書の欠落が見つかったことから、岡田外相はみずからを委員長とする「外交文書の欠落問題に関する調査委員会」も立ち上げた。四百万ドルの密約文書も「欠落」の一つとされた。
 委員会は、実情を知り得る立場にある事務次官、北米局長(アメリカ局長)、条約局長の経験者六名のほか、条約局長とアメリカ局長の経験者二名からヒアリングをしたものの、吉野文六氏(元アメリカ局長)のほかに文書を見たり、記憶したりしている者はいなかった、としている。
 しかし、委員会が「存在していたとすれば(略)永久保存に分類された」(有識者委員会)とする歴史的な密約文書がなぜ消えたのかについては触れていない。
 岡田外相としては、密約を解明するために手を尽くしたのだろう。だが、聞き取りをした外務省の高官たちは、密約文書を廃棄または保管からはずした当事者である可能性が高い。捜査機関でもない委員会が実態を解明するには限界があったといわざるをえない。
 情報公開訴訟が光を当てた密約文書は、最後まで見つからなかった。それでも、「広義の密約」とする有識者委員会の結論を受けて、メディアは一斉に「密約は認められた」と報じた。そのため、密約問題は決着したかのような印象が広まった。
 結果として、二つの委員会は「密約問題」の幕引きを図るための煙幕のような役割を果たしたように見える。
 小町谷はいま、BPO(放送倫理検証委員会)の委員長という公職を務め、東京・青山にひとりで事務所を構えている。床から天井までつづく書棚には、かつて好んだカエルの代わりに、ミッフィーが並ぶ。
 なかでもお気に入りは、十六世紀のオランダで生まれたデルフト陶器製のものだ。白地に紺というせいな色づかいで知られる。高さ三十センチほど、世界中で親しまれる愛嬌ある顔立ちが静けさをたたえている。その姿に魅せられて、迷った末に奮発して手に入れた。
 ミッフィーの生まれた国には二年あまり滞在していた。アムステルダム大学の情報法研究所で研究にたずさわり、「法律の世界の首都」とも言われるハーグの法律事務所でも働いた。自由で風通しのよい雰囲気が肌にあっていたという。
 オランダに渡る前に教官を務めた司法研修所では、年度末の締めくくりとなる最終講義は何を話してもよいとされていた。小町谷が三度ともテーマに選んだのは「沖縄密約情報公開訴訟」だった。
〈No records, no history〉
 その思いはずっと変わっていない。

(続きは『沖縄密約 ふたつの噓』にてご覧ください)

『沖縄密約 ふたつの噓』

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著者プロフィール
諸永裕司(もろなが・ゆうじ)
1969年生まれ。東京学芸大学卒業。93年朝日新聞社入社。週刊朝日編集部、社会部、特別報道部などに所属し、2023年3月に退社。現在はフリーのジャーナリスト。著書に『葬られた夏追跡下山事件』『消された水汚染「永遠の化学物質」PFOS・PFOAの死角』など。

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