【刊行直前特別連載!】鶴は戦火の空を舞った 第四章 3/岩井三四二
(第四章 ヴェルダンの吸血ポンプ)
三
英彦は、高度二千メートルで東に向かっていた。
乗機のヴォワザンV型機の前席にはクーディエ中尉を乗せている。
晴れてはいるが、白い綿雲があちこちに浮いている。いまのところ風は穏やか。危険な積乱雲もない。
「ムーズ川を越える。気をつけろ」
クーディエ中尉がふり返って怒鳴り、手で地上を指さす。背後の発動機──ヴォワザンV型機は機首に偵察・爆撃員席があり、そこに回転式の機関銃を備えている。英彦がすわる操縦者席は後方にあって、さらにそのうしろに発動機とプロペラがある──の音がうるさく、声だけでは伝わらないことがあるので、手の合図は欠かせない。
ムーズ川はフランス北部を南から北へと流れているが、ここだけは東から西へ流れを変えている。そしていま、この川がドイツ軍との境界線となっており、川向こうはもうドイツ軍の支配地域だ。
中尉は機関銃の安全装置をはずし、銃把をにぎって数発試射をした。
英彦がクーディエ中尉の出した課題をことごとくクリアする飛行をしたあと、中尉は、
「まあ度胸はあるし、最低限の腕もあるようだな」
と言ってしぶしぶと英彦の操縦する機に乗ることを承諾した。
そして翌日、ドイツ軍が陣地の後方に新たに作った補給基地への偵察を命じられ、最初の飛行に出た。強風が吹き時折雨も降る悪天候を冒しての飛行だった上に、クーディエ中尉が写真撮影のために低空に降りるよう命じるので、激しい対空砲火も受けてかなり危うい思いをした。
それでも収穫はあった。帰投後、クーディエ中尉の態度が豹変したのだ。
「おまえの腕を見誤っていたようだな」
と笑顔で言うのだ。
「おれは操縦士の腕をいろんな点から見ている。まず出撃までの準備だ。下手なやつは機体の点検もおざなりで、天候の確認もいい加減だ。だがおまえはしっかり時間をかけて点検し、自分で天気図を見て気象予報官と話をしていた。スロットル・レバーや操縦桿のあつかいも無理がなく的確だ。おかげで離陸も着陸もじつに快適だった。とても新人とは思えん」
「だからもう二百時間飛んでいると言ったでしょうが。新人じゃないんですよ」
英彦が言うと、中尉はさらに、
「ああ、それがよくわかったよ。上空でも落ち着いていて、おれの命令を苦もなく実行した。対空砲火があるのに降下するのは、かなりの古強者でもためらうが、おまえは顔色も変えずに降りていったからな。こっちが面食らったくらいだ」
と言ってなれなれしく英彦の肩をたたき、
「これからもよろしく頼むぜ、少尉。おまえはいいパルトネール(相棒)になりそうだ」
と笑顔でのたもうたのだった。どうやら中尉の信用を勝ちとったらしい。
勝手なものだと内心で苦笑しつつ聞いてみると、これまで中尉は幾人もの操縦士と同乗したが、運よく生き延びてきたのは、操縦士の腕前を見極めて下手な者と同乗するのを極力避けてきたからだそうだ。
それでも何度も危うい目に遭っていて、墜落の経験こそないものの、不時着の際に打撲や骨折などの怪我をしているという。それで不時着のテストなど、不思議な課題を出してきたわけだ。
──なるほど。実戦を生き抜くにはそれなりの知恵が必要だってことか。
と得心したのだった。
クーディエ中尉の信頼を得たおかげで、中隊長のメナール大尉をはじめ、操縦将校のドーラ中尉など中隊の将兵たちの中に溶け込めて、隊の中での居心地がぐんとよくなった。いまでは中尉に感謝している。
今日は中尉との三度目の飛行だった。
さあ、いつドイツ機があらわれるか、と英彦はいっそう注意深く前方を見張りながら飛行をつづける。
「五度左へ。そう。そのまま直進」
クーディエ中尉が英彦をふり返りつつ指を五本だし、左方をさして指示する。いまは地上を見ながら進路を決める地文航法で飛んでいるが、その進路決めは前席のクーディエ中尉がおこなう。英彦はもっぱら前方と上方を見張りながら操縦している。
ムーズ川を越えてしばらく飛ぶと、下方から爆音が聞こえ、機体が小さくゆれた。機の下をのぞきこむと、丸くかたまった黒い煙がひとつ、ふたつと生じている。対空砲火だ。
「見つかったな。しかし上がるな。この高度で飛んでくれ」
クーディエ中尉が怒鳴る。了解、と英彦は怒鳴り返した。
──対空砲火など、当たるものか。
青島の戦いでもさんざん地上から撃たれたが、陸海軍ともそれで撃墜された機はない。ときに機関銃弾はくらったが、時限信管で爆発させる大砲の弾など、飛行機に当たるはずがないと信じている。
案の定、しばらく飛ぶと射程の外に出たのか、対空砲火は十個ほどの黒雲を残しただけで終わった。
だが問題は、このあとだ。見つかったならば、敵の飛行場に連絡がゆくはずだ。そして……。
「おお、あれだな。四十二センチ砲でまちがいない」
クーディエ中尉は、手許の地図を見ながら叫んだ。どうやら目的の重砲を見つけたらしい。ヴェルダン要塞の重要な防御施設であるヴォー堡塁に、巨弾を降らせる元凶である。
「ひとまわりしてくれ」
手を回すクーディエ中尉に言われて、英彦は左旋回にかかった。
機体を左にかたむけたときに地上を見たが、四十二センチ砲は見つけられなかった。うまく擬装してあるのだろう。訓練をうけた偵察員でないと見分けられないようだ。
クーディエ中尉は機体に取りつけられたカメラで、しきりに地上の写真をとっている。撮影が終わると言った。
「爆撃するぞ。高度を下げろ。左へ三十度。そうだ。もうちょい左。よし、直進」
爆撃するためには、敵の重砲の真上を飛ばねばならない。
指示にしたがって操縦しつつ、英彦は周囲の見張りを怠らない。そのとき突然、機体がゆれた。頭上を見ると黒く丸い雲が湧いている。対空砲火がはじまったのだ。
二発、三発と頭上や前方で爆発が起きる。さらに光の粒が、列になって地上からいくつも飛んでくる。機関銃弾だ。
照準器が改良されているので、爆撃の命中精度はあがっている。だがその分、さらに正確に当てようと欲を出して高度を下げるので、地上からの砲火に曝される危うさも高まっていた。
「投下!」
クーディエ中尉がレバーを引く。と、三十キロ爆弾二発を投下した機体は小さくゆれ、ひょいと浮き上がった。英彦は操縦桿をわずかに動かして機体を安定させた。
「くそっ、それた。当たらない」
とクーディエ中尉は舌打ちした。
「よし、帰投する。二千五百まで上昇。方角は六時!」
どうやら命中はしなかったようだ。となれば長居は無用。早く基地にもどって、四十二センチ砲のありかを味方の砲兵隊に教えねばならない。基地に着陸して一時間後には、このあたりは着弾の土煙で真っ暗になっているだろう。
英彦はスロットル・レバーを前に押して速度をあげた。
帰途の見張りは、上方と前方だけでなく、うしろにも注意を払わねばならない。とくにうしろ下方があぶない。上体をねじって見るだけでなく、ときどき機体をかたむけて、左右のうしろ下方をよく見張る必要がある。
また対空砲陣地の上を通る。往きのときとちがって、左右に黒煙の花が咲く。今度の砲火は正確だった。信管の作動時間を調整して、こちらの機の高度に合わせたようだ。
当たるものかと思いつつも、たまらず上昇した。
対空砲陣地を通過すると、はるか下方にムーズ川が光る太い線となって見えてくる。あそこを越えれば、まず安心だ。
そのとき、左後方に黒い点を見つけた。
いや、最初は見えたというより、空の一部分に違和感を感じた程度だった。だが注意して凝視していると、白い雲を背景にして、はっきりと黒い影が見えた。
「敵機、左後方、距離五千!」
英彦はクーディエ中尉に叫んだ。中尉は了解したというように手をあげ、それから地図と地上を交互に見比べた。
「このまま逃げ切れ。ムーズ川まであと五キロだ」
「了解」
敵機はおそらく軽快なフォッカーだろう。戦うとなると、二人乗りで鈍重なヴォワザンV型機では分が悪い。英彦はスロットル・レバーをいっぱいに開き、全速を出した。
だが最高でも百キロちょっとしか出ないヴォワザンV型機に対して、フォッカーは百四十キロ以上も出る。みるみるうちに機影が大きくなる。
「どうします。戦いますか」
上体をうしろ向きにねじって、迫ってくるフォッカーをじっと見ているクーディエ中尉のひげ面に、英彦は問いかけた。フランス軍の支配地に入ったからといって、敵が追いかけるのをやめるとは限らない。
敵のフォッカーに迫られたときの応手は、以前から考えていたが、昨夜、あらためて考え直し、いくつかの策を立てていた。くるならこい、と思っている。
しかしクーディエ中尉は首をふった。
「いや、この任務は偵察だ。基地に四十二センチ砲のありかを報告しなければならん。なんとか振り切れ」
「了解」
そんなやりとりをしているうちに、ヴォワザンV型機はムーズ川を越えた。スピードを出すために降下しながら、一目散に飛行場をめざす。
後方を見ていると、フォッカーとおぼしき敵機はムーズ川の手前でゆっくりと左傾し、宙に大きな円を描きはじめた。しばらくして機体が水平にもどると、進行方向は百八十度変わっていた。
ドイツ領内に去ってゆくフォッカーを見ながら、英彦はほっとしていた。
無事に着陸すると、偵察の成果を報告するため、クーディエ中尉は司令室へ駆け出した。
英彦はメカニシアンとともに機体を格納庫まで押してゆき、その中で機体を点検した。
「ああ、ここに穴が」
とメカニシアンが言う。見ると尾翼に直径三センチほどの穴がふたつあいていた。機関銃弾が突き抜けたのだ。
穴の周囲を調べたメカニシアンが口笛を吹き、言った。
「あと少し後方を撃たれていたら、昇降舵が壊れていた。少尉は運がいい」
英彦はその穴を見つつ、返答した。
「大丈夫だ。昇降舵が使えなくなったときの操縦方法だってある」
そのくらいで墜落してたまるか、と思っていた。メカニシアンは肩をすくめて、
「ああ、その意気ですよ。とにかくピロットには生きて帰ってもらわなきゃ」
と言ったが、顔は呆れ顔になっていた。
地上の激戦に比例するように、ヴェルダン上空では敵味方の多くの飛行機が舞ったが、ここでフランス軍飛行隊は、ドイツ軍のフォッカーEⅢ型機に痛撃をくらった。
フォッカーEⅢ型機は、単葉一人乗りの小型機である。操縦席の前に支柱をたてて主翼を吊っているその姿は旧式で、とても強力な兵器には見えない。
実際、主翼に補助翼をもたず、旋回するには主翼端を張線で吊り上げて撓めるという古い方式を採用しているので、軽量で速いという利点はあれど、旋回性能はさほどでもなかった。
しかしその機体が昨年夏ごろから、英仏軍の飛行機を襲ってはばたばたと撃ち落としていった。被害のあまりの大きさに、英国の新聞が「フォッカーの懲罰」と書き立てるほどだった。
フォッカーEⅢ型機のこの活躍は、同調機構つき機関銃という新兵器による。
それは機首にとりつけられた機関銃が発動機と同調していて、プロペラが銃口の前にない時にだけ弾を発射する、という機構である。
この機構をそなえた機体では、操縦士は目の前の機関銃を操作するので、狙いが正確になり、命中率が一気に高まる。
狙われる側から見れば、回転するプロペラを透かして機関銃弾が雨あられと飛んでくるので、おどろいてしまう。
同調機構の登場以前には、プロペラを避けて主翼の上に機関銃をつけ、操縦席から狙いをつけて撃っていたが、照準がつけにくく、命中率は高くなかった。
ついでフランス軍のテスト飛行士がプロペラに鉄の防護板をつけて、そのうしろから機関銃を撃つ、という仕組みを発明した。プロペラに機関銃弾が当たったときは防護板がはね除けるので、プロペラは無事、飛行に支障はないという理屈である。
これはある程度成功し、ドイツ軍に脅威となった。
そして墜落したフランス軍機を調べてこれを知ったドイツ軍が、さらに改良を重ねて同調機構を造りあげたのだ。
小型で快速の機体に命中率のいい機関銃がついたので、いまやフォッカーEⅢは空中戦で無敵の強さを発揮している。
今日は追いかけられただけですんだが、いずれフォッカーと戦わねばならないだろう、と英彦は覚悟していた。
(次話に続く)
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