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あなたの隣にある沖縄 第12回 グスクから見える平和への希求/澤宮 優

 私がグスクという沖縄の城に興味を持ったきっかけは、高校時代の体験まで遡る。
 高校の裏山に、宇土(うと)城という関ヶ原で破れた武将の小西行長の城があった。江戸時代に廃城になって石垣も殆(ほとん)ど残っていない。高校時代に所属した考古学部でこの城の発掘調査に関わるようになって、私は「天守のない城」に興味を持つようになった。
 熊本と言えば、加藤清正が築いた名城の熊本城が有名だが、豊臣秀吉の時代は、肥後(ひご)の北半分を加藤清正が、南半分を小西行長が治めた。2人とも秀吉子飼いの武将だったが、清正は武断派、行長は行政手腕に優れ、資質も対極にあったため、性格も水と油で、互いに嫌っていた。
 2人は関ヶ原の合戦では、西軍と東軍に分かれた。戦いに敗れた行長は、京の六条河原で斬首され、領地は没収、改易された。
 そのため行長の居城の宇土城は、幕府の命によって天守も石垣もすべてが破却された。私の高校時代は誰も見向きもしない荒れ野になっていた。
 私は放課後に一人で城跡に上り、雑草におおわれた本丸跡に立ち、城の在りし日の光景と城主小西行長の哀しみを想像した。そこから天守のない城にもいろんな逸話があることを知り、廃城を回るようになった。そのとき沖縄にも城があることを知った。沖縄の城には天守は存在しない。読み方も、「城」と書いて「グスク」と読む。城内に拝所(うがんじゅ)が必ずあるのも、本土の城と違う点だ。本土と違った文化の背景にある城のようだ。グスクに立って、いろんな城の歴史を思い浮かべることで、沖縄独特の文化を知ってゆくことができるのではないかと思った。 

グスクをゆく
 沖縄は本土と違い、琉球独自の成り立ちを経て、歴史を作り上げてきた。沖縄では平安時代後期から室町時代までのころを「グスク時代」(11世紀末~16世紀ごろ)と呼ぶ。グスクはこの時期に作られたものだ。
 地方の首長である按司(あじ)は、農業や交易を中心に富を得て支配者になったが、彼らはグスクを作り、貿易の利権や支配地を拡大しようとした。交易は東アジアや東南アジアにまで及び、陶磁器などを入手し、勢力を広げてゆく。14世紀中ごろには、北、中、南と三山の鼎立(ていりつ)という時代を迎え、それぞれの王は北山(ほくざん)は今帰仁(なきじん)城を、中山(ちゅうざん)は浦添(うらぞえ)城を、南山(なんざん)は島添大里(しましーおおざと)城を拠点とし、三つの王国が鼎立した。半世紀後(1429年)にこれらを統一したのが南山にいた尚巴志(しょうはし)である。 
 グスクは、琉球弧と呼ばれる奄美(あまみ)大島や沖縄本島、宮古(みやこ)八重山(やえやま)諸島までの島々に、約400以上築かれたと言われている。
 グスクの語源は、グは石、スクは聖域を意味するという説もあれば、御宿(ごしく)、御塞(ごそこ)が転化してグスクと呼ぶようになったという説もある。グは御という敬語で、スクは朝鮮古語の村を意味するものという説もある。呼び方も地域によって違い、沖縄本島、奄美諸島ではグスクと言い、宮古列島ではジョウ、石垣島ではスクと呼ぶ。
 グスクは平成12年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」で世界遺産に登録された首里城(しゅりぐすく)跡、今帰仁城跡(国頭〈くにがみ〉郡今帰仁村)、勝連城(かつれんぐすく)跡(うるま市勝連)、座喜味城(ざきみぐすく)跡(中頭郡読谷〈よみたん〉村)、中城城(なかぐすくぐすく)跡(中頭郡中城村・北中城村)らがよく知られている。
 首里城は、15世紀初頭に尚巴志によって本格的な整備がなされた。15世紀半ばに作られた「琉球国図」には石積(石垣)を表した内郭と土塁が見られる。本土で本格的な石垣を持った城が作られるのは、16世紀後半の織田信長の安土城からなので、首里城は本土よりもはるかに早い時期に石垣の技術を取り入れていた。
 首里城は内郭と外郭の二つの城域があり、内郭は15世紀前半の第一尚氏の時代に作られ、外郭は15世紀後半から16世紀前半の第二尚氏の尚真王(しょうしんおう)が在位した時代に作られた。
 首里城は東西約400メートル、南北約200メートルの楕円形の広さで、王国の城にふさわしい敷地を持つ。内郭と外郭の石積が二重に並んで、屈曲しながら続くさまは、ヨーロッパの城壁を思わせる壮麗さがある。アザナと呼ばれる物見台が内郭の西と東に作られている。監視のためと鐘を打って時刻を知らせる役目を持つ場所である。ここの石積は高さ6~15メートル、厚さが3メートルと幅も広いのが特徴だ。
 石積は、自然石を積み上げた野面積(のづらづみ)、横方向に目地が通るように作られた布目積(ぬのめづみ)があるが、多角形に加工した石を亀甲文様に隙間なく組み合わせた相方積(あいかたづみ)も見られる。とくに相方積はかなり高度な技術を要する積み方である。
 城郭の西側に作られた西(いり)のアザナに立てば、首里城の西側に広がる住宅街が一望でき、那覇港、那覇市街まで見渡せ、この城が標高約130メートルの高台にあることがわかる。海の先には慶良間(けらま)諸島も見える。
 首里城は、すでに14世紀に首里王国の城として作られたことがわかっている。明治維新の廃藩置県で日本政府に渡されるまでは、琉球王国の政治、文化、外交の中心地であった。江戸時代に島津氏が琉球の島々を武力侵攻し、圧政が行われても沖縄の人々は首里城のもとで苦難を耐え忍んだ。
 沖縄戦でも首里城の地下に第32軍司令部が置かれ、激戦の舞台となった。太平洋戦争で、首里城は米軍によって攻撃され、建物は全焼。これまでの姿は消えて、平成4年に復興された。首里城は何度も本土の支配に翻弄され、江戸期にも複数の火災に見舞われながら、不死鳥のように甦った。それはこれまで理不尽な苦難に遭遇しながらも、そのたびに立ち上がった沖縄そのものの歩みと重なる。
 それだけに令和元年10月31日に首里城の正殿、北殿、南殿など建物8棟が全焼した火災は沖縄の人々に大きな衝撃を与えた。首里城が本土で見られる史跡や観光地としての城以上に、もっと沖縄の人々の精神の奥深くに根ざした、アイデンティティを支える存在であることが改めて知らされた。今首里城は、絶望の淵から徐々に復興へと力強く進んでいる。
 中城城は、護佐丸(ごさまる)という尚巴志の有力家臣で築城の名手が築いた。勝連城の武将阿麻和利(あまわり)が首里城を狙っていたので、その牽制(けんせい)のために作られた。結局、護佐丸は阿麻和利の攻撃を受けて、中城城で自刃するが、一代限りの城という点でも人々の哀感を誘う。
 中城城は、6つの郭を持つ。とくに二の郭から一の郭に行く石積の門はアーチ形で目を惹く。一の郭の北側にある城壁は13メートルの高さを誇る。
 嘉永(かえい)6年(1853)にペリー(ペルリ)が浦賀に向かう途中に、琉球に立ち寄ったが、このとき中城城の美しさに感銘して、城内の絵や測量図を残した。ペルリは自著の『ペルリ提督 日本遠征記』(岩波文庫・1948年)で記す。
〈すばらしい構造の石畳であった。その工事にはとくに二つの注目すべき点があった。その一つはアーチが二重になっていて、下の段はほとんど抛物状に切られた二つの石からなっている。中央で相合し、その上に楔石で規則正しいエジプト式アーチがつくられている。〉
 座喜味城跡でもアーチの石門が見られるが、アーチがかみ合う表と裏面の中央上部に二等辺三角形や台形のくさび石が入れてある。これはアーチの強度を高めるために入れられた石である。このようなくさび石は他のグスクでは見られない。
 今帰仁城は、標高100メートルに築かれた城だが、10の郭を持つ壮大なグスクである。特筆すべきは、主郭の北側に大きく広がる大隅(うーしみ)郭である。ここは城兵の屯所、練兵場であった。主郭よりも低い場所にあるため、主郭の北方の一段高いところにある御内原(うーちばる)という女官の屋敷があった場所から、大隅郭を囲む城壁のラインを見下ろすことができる。
 この郭を取り囲む石積が、今帰仁城でもっとも高い城壁となっている。地形の起伏にそってゆるやかな曲線を描く幅4・5メートル、高さ6メートルの石積の姿は、長く美しく万里の長城を連想させる。
 グスクでは今帰仁城に代表される屏風(びょうぶ)を立てたように折り曲がった石積を「折れ」という。これは戦闘を意識した作りである。
 勝連城は、太平洋を望む場所に作られ、もっとも低地の四の郭には井戸が5か所あり、グスク内の貴重な水場であったことがわかる。この水場を守るために東の郭もあり、籠城に備えた要塞としての機能を感じさせる。
 沖縄南部有数の規模を持つ糸数城(いとかずぐすく/南城市)は、14世紀前半から15世紀前半に作られたと推定され、標高180メートルの中央台地の断崖に築かれている。三方は崖になっており天然の要害でもある。ただ廃城になってから樹木や雑草が茂り、城の規模や縄張りや石積の状態が不明のままだった。
 昭和50年末に村が中心となって、伐採作業を行った結果、大きな石積や城門が鮮やかに姿を現した。これまで謎だった城の全貌が明らかになったのである。見事な石積が現れたときには村の人たちはあまりの凄(すご)さに息を呑(の)んだ。
 糸数城では野面積が多く使われているが、城門と3か所のアザナの要所には切石の布目積で精巧に作られている。当初は野面積だったのが、後にその要所に切石を取り入れたのだろう。石積の高さは6~7メートルあり、規模も中城城や今帰仁城に次ぐと見られている。ただし門は中城城のようなアーチ形でなく、櫓門(やぐらもん)のような形式である。
 糸数城も、信仰の場となっており、東門の方角は夏至の日の出の方角と一致する太陽信仰の影響を受けている。他のグスクでも夏至の日の出の方角に一致するように城門を作ったケースが多い。
 グスク内に「糸数城之嶽(たき)」と呼ばれる拝所がある。ご神体(イビという)の周囲を低い石積で囲み、入り口には香炉と灯籠があり、廃城後に、村の人々はここで祭祀(さいし)を行っていた。
 今帰仁城にも廃城後の18世紀初期に、主郭には「火之神の祠(ひのかんのほこら)」が建立され、参拝地となった。また主郭北側の御内原には、城内にある拝所の中でももっとも霊験の高い御嶽(うたき)がある。
 現在でもグスクのある今泊(いまどまり)集落では旧盆に「ウンジャミ」の祭祀が行われ、ノロという祭祀を司る女性と共に、グスクの北殿跡、主郭の「火之神の祠」などの拝所を回り、グスク周辺の拝所、今帰仁城に向かって祈りを捧げている。
 本島南部のもっとも高い丘陵に立てられたのが、玉城(たまぐすく)城(南城市)である。琉球の開闢神(かいびゃくしん)とされるアマミキヨが築城したと言われている。アマミキヨは、神の世界であるニライカナイから現世に降りて、琉球の国作りを行ったと言われている。グスクの頂上には、アマミキヨが作ったとされる拝所がある。そのような信仰と一体になっている点に、城ではあるが、本土にはないグスクの特色を見ることができる。 

グスクとはなにか
 グスクが本土の城と違うのは、グスク内に拝所(御嶽/うたき)が置かれている点だ。御嶽は琉球古来の神々が降臨する場所である。このことからグスクの本来の目的は戦うための施設ではなく、先祖の墓や集落が発展し、聖域や祭祀の場となり、そこから城塞化したのではないかという見方も根強くある。そのためグスクとは何なのかという、「グスク論争」は以前からよく見られた。
 そこから見えてくるのは、軍事性だけでなく人々の祈りや精神性が本土よりも強く現れている点である。そこに琉球独特の文化があるのだろう。
 しかしグスク研究の第一人者である考古学研究者の當眞嗣一(とうましいち)は、違う見解を持っている。彼は約400のグスクの踏査を行って、その形を確認し「縄張り図」に残した。その成果は『琉球グスク研究』(琉球書房 2012年)として刊行され、現在のグスク研究の土台になっている。彼は開口一番こう答えた。
「グスクはやはり城でしょうね」
 當眞は、「グスク論争」をするには、グスクそのものの調査数が絶対的に足りないことを上げ、議論以前にグスク自体を丹念に調べてゆくことが、先決だと主張する。
「私は考古学が専門なので、遺構や遺跡を丹念に見ます。あの山がグスクだと思ったら、文献史学者が行かない所にも登って、図面を取ります。現実にはグスクそのものの研究が進んでいないので、グスクに対する観念的な見方が出てきて論争になっているのが現状です。それよりもグスクを実地調査し資料化することで、そこから考えることが大事です」
 グスクの起源について、地域の先祖の墓を取り込んでグスクにした、あるいは聖域をグスクに発展させたという意見もある。しかしその墓はグスクのどこにあるのか、聖域の核になるものはどこにあるのか、これらを証明する遺物は見つかっていない。祭祀遺跡の遺構も祭祀具も出ないのでグスクは祭祀の場から始まったとの証明もできない。
 となるとグスクが作られたのは、農耕などもっと現実的な生活の利害に根ざしたところに関係がありそうだ。争いが起こっても、水田を開発し、開拓するときに、土地を巡る問題が隣村との間に生まれ、そこで集落同士の利害の衝突が生じる。
 そのとき施設を作って一方が逃げ込む場所にして、領民を守ることから始まったのが初期のグスクだったと考えられる。
 衝突がエスカレートして、地域の人々の生命、財産を奪われる可能性があると、その防御施設のためにグスクが必要になったのだろう。土地の奪い合いはあったとしても、相手の領土を占領するほどの大きな戦闘はなかった。本土の城は、他国の領土を奪い、侵略するための軍事施設である。グスクにはそこまでのものはない。
 後に琉球は、海外との交易が盛んになるが、グスクは異国から村を守るための役割もあった。領民を守り、村落を守る守護神としてグスクに拝所が作られたのだろう。そこからグスクは本土の城と違って、ひたすら防御に特化した施設であることがわかる。
 初期のグスクは高台に丸太を並べて柵にする簡素な作りで、石積は無かった。14世紀ごろから石積が導入されるが、なぜ本土よりも早く石積の技術が発達できたのだろうか。
 本土では近江(おうみ)坂本の穴太衆(あのうしゅう)という石工集団が、寺院建築の石垣築造に力を発揮した。その技術を織田信長は、城作りに利用した。しかし、沖縄にはそのような専門の石工集団は見られない。
 當眞は語る。
「勝連城や今帰仁城の石積は古く見ても14世紀の前半のものだと思われます。ただ城内に見られるアーチ型の門は座喜味城から始まったと言われ、若干時代が新しくなります。14世紀後半から15世紀に入る時期です。アーチは高度な技術ですが、どうしてグスクに石積みやアーチなどの技術があったのか、今の日本史、世界史の研究では解明が難しいですね」
 アーチはグスクの虎口(こぐち/出入り口)に作られた城門だが、座喜味城跡だけでなく、中城城跡や勝連城跡など沖縄の他のグスクにも多く見られる。
 私はカーブを描いた石積の頂上を歩いたが、その幅は3メートルから4メートルあり、その広さに驚いた。頂上の外側には、さらに人の胸の高さまで積み上げた石積が作られている。グスクの外側から見れば、人の姿を隠す役割を担っている。これを胸壁という。
 當眞は語る。
「グスクの石積は、軍事的に優れた築城技術をもつ中国や朝鮮半島からの影響を受けて作られたと思います。グスクの石積の特徴として、直線の城壁の部分が少なく、曲線が多い点にありますね。城壁がまっすぐだと、その真下が見えないので、防御に死角ができてしまいます。敵は城壁の真下から登って攻めてきますが、城壁が曲線ならば、側面に立てば登ってくる敵が見えるので、横矢を射かけて防御できるんです」
 本土の城の石垣はグスクの石積のようにカーブを描かず、直線的に折れ曲がっている。だから屈曲した石積と違って視界が悪い。カーブのほうが何倍も視界に優れているのである。
 そして前述した胸壁だが、城兵は胸壁に守られて、弓矢や鉄砲を撃つことができ、敵の弓矢がくれば、城兵は胸壁に隠れることになる。石積の上の幅が3~4メートルと広いのも、ここで戦闘ができるように広く作られた。このような構造を見ると、グスクは限りなく軍事性を持った施設と呼ぶべきように思われる。 

沖縄の交流力
 グスクを例にとっても言えることは、沖縄の文化を築き上げたのは、異国との広い交流を持っていたことから可能だったことが伝わってくる。しかも、それは国家どうしの政治的な外交ではなく、庶民レベルで他者との信頼関係を礎に自由な形で交易が行われた点にある。
 當眞は語る。
「網野善彦さんも言われていますが、中世には庶民どうしの交流や活躍がありました。沖縄でも、中国、朝鮮半島と広く交流し人々が活躍した時代があって、それが沖縄文明の土台になりました。これらの活動がもっと明らかになるとグスクに石積の技術がどのように導入されたか具体的にわかってきます。中国の皇帝が石工を派遣したとかではなく、双方の国で庶民の交流があって、その中で伝わったと考えられます」
 広い交流を示す事例に、昭和50年に韓国南西部の新安(しんあん)沖で発見された中国の沈没船が挙げられる。「韓国文化財管理局」が9年かけて海底調査を行った。その結果、14世紀の中国の龍泉窯(りゅうせんよう)青磁や名窯の景徳鎮(けいとくちん)の青白磁、白磁などの陶器が2万点以上、中国の銅銭28トンが引き上げられた。また日本刀や日本の下駄、硯(すずり)、「東福寺」、福岡の「筥崎宮(はこざきぐう)」と書かれた木簡が見つかり、この船に日本人が乗っていたことも明らかになった。
 東福寺も筥崎宮も1310年代に火災に遭っているので、その復興資金を得るための交易だったと思われている。沈没船は中国浙江省(せっこうしょう)の海湾都市の寧波(にんぽー)から朝鮮半島の高麗(こうらい)、そして日本の博多までを行き来する、中国の元の時代の交易船だった。中国から博多に向かう途中に沈没したらしい。産経新聞(平成30年3月24日付)はこう記す。
〈中世東アジア諸地域の交流は、海商や僧侶たちが主導。この船は神社仏閣のほか多くの商人が資本を出し合って仕立てた船でもあるようだ。〉
 日本と元は、文永(ぶんえい)の役(1274年)、弘安(こうあん)の役(1281年)など元寇もあり、正式な国交は無かったが、民間レベルでの交流は活発だったことを沈没船は証明している。この沈没船から今帰仁城跡で出土する同類の青磁碗が多く見つかっている。沈没船にも琉球の人々との関わりがあったのである。
 今帰仁城跡からは中国に限らず、タイ産の蓋、褐釉陶器(かつゆうとうき)の壺(つぼ)、ベトナム産の染付雲馬文壺(そめつけうんばもんつぼ)、色絵合子(いろえごうす)、高麗産の象嵌青磁八角杯(ぞうがんせいじはっかくはい)など多くの地域からの文物が見られる。
 今帰仁城から出土した銅印は、中国江蘇省(こうそしょう)の「常熟(じょうじゅく)博物館」所蔵の銅印と同笵(どうはん)印(同じ型から作られたもの)であることがわかっている。
〈沖縄と中国、東アジアの海域の二つの地域に同じ印が存在していたのである。これは驚くべきことではないだろうか。〉
 (石黒ひさ子・王麗「海域学コレクション7・今帰仁城出土銅印をめぐって」「なじまぁNO.13」2023年3月31日)
 印は14世紀ごろのもので、中国で作られ、その一つが琉球に渡ったのではないかという。これは民間レベルの商業的な遠距離航海を保証するための印として使われたようだ。石黒らによれば、この当時には中国へ渡る航路として、博多から中国の舟山(しゅうざん)列島を経由して寧波に行くルート(大洋路)と、九州を南下して、南西諸島を経由して中国福建(ふっけん)省東岸に行くルート(南島路)があった。後者の交易ルートから、大量の中国産陶磁器が琉球列島にもたらされたが、今帰仁城の銅印もこの航路によってもたらされたのだろう。
 14世紀には沖縄地域から硫黄が明朝へ進貢されており、沖縄最北端の硫黄鳥島(現在は無人島)の硫黄が輸出されていた。この島は、本島北部の今帰仁城に近く、城の北に運天港(うんてんこう)という大型の港もあったので、交易関係が結ばれたのだろう。
 當眞は語る。
「新安沖の沈没船には中国人や朝鮮の人、日本人も乗っていました。このころには琉球まで船も行き来していたので、琉球人も交流の中に入っていたと思います。彼らには今の我々の想像以上に世界が見えていた筈(はず)です。東アジアでは民間の人々がうごめいていたことが、沈没船の調査からわかります」
 グスクの石積は、朝鮮半島の高句麗(こうくり)の山城で使われている石垣と、切石の縦の線(縦目地〈たてめじ〉という)がよく似ている。古代の高句麗の時代だから、グスクが作られた時期よりずいぶん昔である。しかし明の時代になっても、朝鮮半島では同じような城作りをしていたのだろう。そことの交流で石積などの技術導入が、グスクに影響を与えたと言えそうだ。
 石積の特徴から、中国との類似を見ることも可能だ。糸数城の北、西、南の3か所にあるアザナは張り出し状に作られ、その構造は中国や朝鮮半島で見られる石垣の出っ張りである「馬面(マーミェン)」によく似ている。
 勝連城跡からはローマ帝国期やオスマントルコ帝国期のコインも出土した。まさに東アジアでは民間人が活躍していたのである。 

土のグスクがあった
 さらに當眞は意外なことを教えてくれた。
「グスクは全部に石積があるわけではないんです。石のない土のグスクも一杯あります」
 グスクと言えば、石積と思い込む人も多く、その美しさが特徴であると私は考えていた。グスクの石積の多くは琉球石灰岩で作られたが、石灰岩が少ない奄美大島から沖縄北部にかけての地域では、石を使わず、土塁(土を盛り上げて作った土手〈どて〉)や堀切(尾根を途中で大きく切って進行を遮断する)、切岸(斜面を人工的に急角度に切り崩して、敵が登れないようにする作り)を使ったグスクが存在する。
 奄美大島では赤木名(あかきな)城(奄美市)が挙げられる。奄美大島北部に位置し、標高100メートルの山中に作られた。すでに12世紀には作られており、15世紀からは内地の中世城郭の影響を受けた形の構造になっていて、堀切、竪堀(攻める敵の横への移動を防ぐため、斜面の縦に長い堀を作る)、帯曲輪(おびくるわ/腰曲輪とも言い、郭を守るため、その周りを帯で覆うような郭)など本土の山城の防御の仕組みを取り入れている。
 グスクのある山は神山とされ、近隣の集落の神社は山の麓にある。グスクの主郭には土塁と石積が見られるが、石積は沖縄のグスクのようには加工されていない。それでノロが祭祀を行う場所だったという伝承がある。
 奄美大島の奄美市の伊津部勝(いつぶがち)城も、切岸、堀切、腰曲輪など、内地の影響を受けた防御方法を上手く取り入れている。
 沖縄本島南部でも琉球石灰岩がないところでは、石を使わないグスクも存在する。當眞とともに土のグスクを歩いた。
 佐敷上(さしきうい)城(南城市)は、標高約50メートルの海の見える丘陵にある。琉球国を作った尚思紹(しょうししょう)、尚巴志親子が住んでいたと言われている。国王となった尚巴志が幼少期、青年期を過ごしたグスクである。佐敷上城は土で築かれたグスクの代表的なものである。最高地点に斜面の崩落を防ぐための石列の痕跡はあるが、他のグスクのような石積はなく、柱を巡らした柵列で構成される。
 切岸が設けられ、土を盛って壁にする土塁が見られる。グスク内には大きな鳥居が建てられ、「月代宮(つきしろのみや)」という施設がある。第一尚氏の誕生の地としての聖地の役割も担っている。丘陵の上部に張り出した尾根が物見台と考えられる。
「月代宮」のある部分が一の郭、拝殿のある場所が二の郭、参道の踊り場付近が三の郭であり、郭の周りに作られた腰曲輪も見られ、これらのグスクを構成する要件から、本土で見られる山城の構造と殆ど同じである。グスクは14世紀初頭から15世紀代に最盛期を迎えて、廃城後は聖地として多くの人々が訪れた。
 北部には名護(なん)城(名護市・「ナングシク遺跡群」ともいう)がある。標高106メートルの舌状台地に築かれ、主郭は頂上にあり、そこから名護の市街地を一望できる。名護を領地とした名護按司の居城で、1471年に書かれた『海東諸国紀(かいとうしょこくき)』にも「那五城」と記載が見える。
 尾根筋東側の緩やかな斜面に、幅約8メートル、同約2メートルの二重の堀切が作られている。また切岸や腰曲輪も残る。平成25年から26年にかけての調査で、13世紀後半の遺物が出土したので、このころに居住が始まったとされる。琉球王国第二尚氏の国王で中央集権体制を確立した尚真王(しょうしんおう)(在位1477~1526)は各グスクの按司を首里に集める政策をとったので、1500年前後に名護城は廃城になったらしい。
 このグスクは名護の発祥の地と伝えられており、グスク内の御嶽は、大兼久(おおがねく)、城(ぐすく)、東江(あがりえ)集落の御嶽として今も参拝されている。
 沖縄本島のヤンバル方面に行けば、さらに土のグスクは多くなる。国頭村の奥間(おくま)城は雑木林の中を歩けば、草むらの中に、堀切や切岸を認めることができる。
 大宜味村(おおぎみそん)の根謝銘(ねじゃめ)城は鋭い切岸、断崖を使って城を防御している。大きな琉球石灰岩もグスク内にあり、これは外から内部を見せないという防衛にも活かされる。 
 土のグスクの多くは雑木林に覆われた山にある。道もなく、目の前に垂れたシダなど雑草や枝を、鎌を片手に切り開きながら前に進む。地面は草に覆われているので、ハブに襲われる危険もある。血清持参でグスクを見てゆくと、雑草に紛れて小さな土塁や切岸、堀切などに出会う。ふつうに歩いていれば見落としてしまう小さな変化であるが、當眞に指摘されて見てみると、確かに人工的な改修を受けていることがわかる。
 このことから琉球では、石の技術は大陸から、土の防御構造は本土からと、グスクの特徴に応じて、使い分けている。そこに様々な地域とまんべんなく交流し、八面六臂(はちめんろっぴ)に活躍する琉球の人々のしたたかに生きてゆく知恵を感じるのである。

 古代からの繋がり
 沖縄の交流力の古さは、すでに縄文時代から見られていた。
 昭和50年に読谷村の比謝川(ひじゃがわ)河口近くにある渡具知東原(とぐちあがりばる)遺跡の調査が行われた。そこで縄文時代前期(5000~6000年前)の曽畑(そばた)式の土器片が見つかった。それまで沖縄県で一番古い土器は縄文時代後期(3500年前)のものだった。ところが九州で出土する曽畑式土器が見つかったことで、沖縄の土器文化の編年は6000年前まで遡ることになった。しかも沖縄の土器文化は、本土から流れ着いたものではなく、南方との関係で発展してきた説が有力だったが、それも覆され、本土との関係が強いこともわかった。
 当時の「沖縄タイムス」(昭和50年10月16日付)では、〈「曽畑式土器」と判明。考古学上画期的な発見〉という大きな見出しが出ている。大発見の興奮が伝わってくるようだ。
 曽畑式土器は、土器に滑石(かっせき)の粉末を含むため鈍い光沢を放ち、糸のような細い線刻(鋸歯文〈きょしもん〉や羽状文〈うじょうもん〉、三角組合文など)で飾られており、丸底の深鉢(ふかばち)形、浅鉢(あさばち)形であるのが特徴だ。
 鋸歯文は角形を連鎖して表現した幾何学文様のひとつで、鋸(のこぎり)の歯状に並べたように見えることから命名された。羽状文は鳥の羽のような模様、三角組合文は、三角の文様を組み合わせたものである。曽畑式土器は、西九州から奄美大島まで分布する。
 曽畑式土器のルーツは、朝鮮半島に起源を持つ櫛目(くしめ)文土器である。この土器は北欧やシベリアまで広がっているが、日本には朝鮮半島経由で九州に伝わり、その影響を受けて曽畑式土器が作られたと考えられている。
 曽畑式土器を出土し、その標式遺跡となった曽畑貝塚は、私の通った高校のある熊本県宇土市にある。高校の考古学部のときに何度も貝塚に行き、土器片を拾った場所だった。先輩たちが発掘した曽畑式土器は、視聴覚教室に展示されている。地元の土器が、はるか遠い沖縄まで行っていることを高校時代に知り、その浪漫に心を震わせたことを覚えている。同時に行き着いた先の沖縄で、私の身近にある土器が大発見をもたらした事実に言い知れぬ感動を持った。
 沖縄本島中部の北谷町(ちゃたんちょう)の伊礼原(いれいばる)遺跡からも、平成8年の試掘調査で曽畑式土器が見つかっている。
 令和元年、伊礼原遺跡と渡具知東原遺跡を訪れた私は、なぜ沖縄で、曽畑式土器が見つかったのか理由を知りたかった。そこに私の郷里の人々が移住したのだろうかとも想像した。
 伊礼原遺跡のある北谷町教育委員会で文化財を担当する東門研治は沖縄に曽畑式土器が伝わった理由を語った。
「西九州に住む海遊民族の人々が、航海技術を持って南下したのでしょう。土器の交流は、彼らが生活の場を求めて沖縄へ行ったのではなく、彼らが南には何がある、北には何があるという情報を行った先の地域の人々に伝えることで、あれが欲しい、これが欲しいという要望を聞き、次に西九州の地域の品物を持って、沖縄で物々交換をしていたのです。そこから曽畑式土器は広まっていったと思われます」
 曽畑式土器は、やがて沖縄で在地化し、この地でも独自に作られるようになった。東門は言う。
「曽畑式に類似した土器は、名護市や糸満市、読谷村でも見つかっています。曽畑式と呼んでもいいのですが、在地化したものは曽畑式に類似した土器と言う人もいます。九州から持ち込まれた曽畑式土器は、厚さが5~6ミリと薄いのですが、こちらで作られたものは厚さ1センチ~1・2センチと厚くなります。土器の底も尖底(せんてい)になり、胴部から下の文様がなくなります。土器が簡素化されるのです。また沖縄県内の鉱物を入れたりもしています。曽畑であって曽畑でないという見方もできますね」
 曽畑式土器は沖縄では、自分たちも作ってみようと思わせるほどの魅力に満ちたものだったのだろう。新しい技術をそのまま取り入れるだけでなく、自分たちのものとして改良してゆく姿に、グスクにおける石積の発展を思わずにいられない。北部九州の弥生時代の甕棺墓(かめかんぼ)から沖縄の貝が出土する。男性の骨からは、腕輪に使われた「ゴホウラ」という貝が、女性の骨からは、「イモ貝」の腕輪が装着された状態で見つかった。沖縄など南島の貝は神秘的とも言える独特の光を放つので神聖視され、有力者の呪術の象徴とされたのだろう。
 海遊民族は沖縄まで行くには、黒潮を逆流して行く。そのため逆流する潮に対して波をすべらせるように船に帆を張り、風を受けて、南西諸島の小さな島々を伝って南下した。
 海遊民族は日本各地にいたらしく、北谷町の平安山原(はんざんばる)B遺跡からは、平成28年に東北地方で多く作られた縄文時代晩期の亀ヶ岡(かめがおか)式土器に似た土器が見つかった。
 亀ヶ岡式土器は全国で模倣品が見つかっており、亀ヶ岡系土器と呼ばれる。本来の亀ヶ岡式土器は、表面に漢字の「工」という文字に似た工字(こうじ)文が見られるが、東北では「工」は一段しか見られない。しかし中部、北陸地方の模倣品には複数段見られ、北谷町の平安山原B遺跡では、工字文はやや雑に作られ、胎土(たいど)にサンゴ由来の小さな白色粒が含まれていた。土器片に含まれるガラス成分は、火山から噴出されたガラスだとわかった。アカホヤ火山灰が多く降った西日本の粘土で作られたものらしい。
 東北の亀ヶ岡式土器を知っている海遊民族が西日本に移動し、そこで模倣品を作り、別の海遊民族が沖縄にもたらしたことが想像できる。
 日本最北端の有人島である北海道礼文島(れぶんとう)にある縄文時代の船泊(ふなどまり)遺跡からは、沖縄産のイモガイで作られたペンダント、タカラガイの装飾品、マクラガイのブレスレットが見つかった。庶民の活動範囲は、私たちの想像以上の広がりを見せ、モノの交易が行われていた。そこから見えるのは、異なる地域との友好的な関係を土台として交易が始まり、文化が作られ、発展してゆくという平和な社会の構図だった。
 同時に交流の視点からグスクをとらえれば、調べるほどに私に見えてきたものがある。それはグスクの根幹にあるのは、戦争ではなく、揺るぎなく平和を希求する人々の精神だった。

 戦争遺跡とグスク
 グスクは軍事的な建造物だが、調べるにつれ、庶民の技術交流の歴史が鮮明になってゆく。グスク内の拝所から伝わるのは、地域の人々の平和への祈りである。そして地域の先人や人々の命へのかぎりない畏敬である。
 當眞嗣一は、グスク研究とは別に日本の戦跡考古学分野のパイオニアでもある。現代は、考古学の分野でも戦争遺跡は注目され、壕や基地の跡を訪れる人も多く、観光地としても活かされている。しかし當眞はこれらが話題になる以前に、平和を伝えるために戦争遺跡に注目し、調査を行っていた。そこには彼自身の沖縄戦での深い傷があったことが見えてきた。
 當眞は昭和19年に沖縄本島中部にある中頭郡西原(にしはら)村(現西原町)に生まれた。この村も沖縄戦で住民の半数近くが亡くなった。西原村は第32軍司令部のある首里城の防衛拠点だったので、最激戦地になってしまったのである。このとき母親は赤子だった彼を連れてヤンバルに避難したが、逃げ遅れた人たちも多く、防衛隊に召集された父親は戦死した。父親はどこで亡くなったのか今もわからないという。
 當眞が戦跡考古学の調査を始めたのは、昭和59年である。当時は沖縄の戦争遺跡は放置されたままだった。沖縄には避難用の壕や、弾痕の跡の残る建造物、砲台の跡、トーチカなどがあったが、県民に見向きもされず、戦死者の遺骨も放置されたままだった。
 当時考古学は縄文、弥生、古墳などの古い時代を中心に研究され、近代は文献史学による研究が中心で、考古学から目を向ける人はいなかった。當眞はこう考えた。
「新しい時代の戦争遺跡にも、文献史料だけでなく考古学の力も必要ではないかと思いました。父親の遺骨もありません。戦死者がいたら、どんな亡くなり方をしたのか、実測して調査し、今に伝えることも大事だと思いました」
 そのきっかけは、昭和58年度版の「日本史教科書」に、沖縄県史にある日本軍の住民虐殺の記述を掲載したところ、文部省(当時)が「体験談集に過ぎない」と史料としての価値を否定した事件があったからだ。當眞はそこから考古学で証明できるものがあると信じ、戦争遺跡に目を向けるようになった。
 戦争体験を人の証言だけでなく、考古学が対象とするモノからも伝えてゆくことができる筈だとも思った。翌昭和60年に旧西原村役場壕の発掘調査を行った。そこは戦火を避けるために役場の重要文書、公印を置いた場所だった。そのため人骨は出ないと言われていたが、発掘すると頭蓋骨が見つかった。戦闘の末期に日本兵が入って戦いに使い、米兵に撃たれたのかもしれない。これは考古学だから明らかにできた成果だった。
 今後日本では、戦争体験者も亡くなり、証言を聞くことができなくなってゆくのは時代の流れとして必然である。そのとき人からの聞き取りだけでなく、考古学というモノによって戦争を語り伝える重要性も増してくる。これからの戦跡考古学は新たな平和教育の重要な使命を担うことになる。
 グスクと戦跡考古学、一見すれば双方は戦争絡みの遺跡に見えるが、グスクは本来住民の命を守るために領主が作った構築物である。戦跡考古学も人類の愚かな歴史を二度と繰り返さないために記録を残すという目的があり、根底にはともに戦争への憎悪と平和への嘱望がある。
 数年前、沖縄在住のシンガーソングライター佐渡山豊のライブに行ったとき、私は彼から「沖縄の史跡から武器が発見されることは極めて少ない」と聞かされたことがある。北谷町の東門研治も言う。
「グスク時代に女性の背中に刀子(とうす)が刺さった状態で見つかった例はありますが、量的には武器が発見されることは本当に少ないです。三山統一のときに何を持って戦ったのか、武器が出てこないからわかりません。沖縄は神との調和を重んじ、自然と一体になって生きるという信仰があります。幕末にペリーが来航した際も、武器がないので、武器を持たない独立国があることに驚いたそうです」
 それが沖縄という島なのだと実感した。それゆえに縄文以来、沖縄が多くの異国の人々と平和を礎にして交易を行ってきた歴史に目を留めたい。そこから見えてくるのは、武力ではなく外交という方法によって互いに信頼関係を作り、文化を発展させることが可能である事実だ。
 當眞は、令和5年沖縄を対象にした人文・社会科学分野の史的研究で業績を挙げた研究者に贈られる「東恩納寬惇(ひがしおんなかんじゅん)賞」を受賞した。彼はその記念講演で述べた。
「グスクを理解することで人類の平和構築の足跡をたどることができる。琉球の人々は武器を廃した歴史があり『命(ぬち)どぅ宝』という黄金の言葉を歴史の中で獲得してきた……戦争は外交によってなくすことができる。私たちは歴史に学ぶことが大切だ」
 武力による解決は、悲劇しかもたらさないことを知っているのは、地上戦を経験した沖縄の人たちである。そんな人々の思いと対極に、台湾有事を想定して南西諸島に国は次々とミサイル部隊を配置し、列島を要塞化しようとしている。
 日本の最西端にある与那国島は、私の大学の考古学研究室が毎年のように調査に出かけた島である。私たちの代は行くことができなかったが、研究室の先輩たちは、与那国島の海が青く、地元の人たちも温かく、どんなにいいところか話してくれた。島の人々の手作業でクバ巻きされた泡盛を飲ませてもらったときもある。その島にも近いうちにミサイルが配備される。
 与那国もまた交易を基盤として生きてきた島である。その風景が壊されようとしている。与那国島のまだ見ぬ青い海を想像しながら、日本人は沖縄の歴史から何を学んだのだろうかという問いを自らに発している。そしてグスクと戦争遺跡、この二つから平和を改めて考えてみたい。 

*参考文献
・上里隆史・山本正昭編著『沖縄の名城を歩く』(吉川弘文館 平成31年)
・児玉幸多・坪井清足監修『日本城郭体系 第1巻 北海道・沖縄』(新人物往来社 昭和55年)
・服部英雄編『史跡で読む日本の歴史8 アジアの中の日本』(吉川弘文館 平成22年)
・沖縄県立埋蔵文化財センター編集・発行「企画展・沖縄県内出土の舶載陶磁器展」(平成16年)
・北谷町教育委員会編集・発行「国指定史跡 伊礼原遺跡―時空を旅する 伊礼原―」(平成18年)
・北谷町教育委員会編集・発行「平成30年度企画展・北谷の縄文―交流の軌跡―」(平成30年)
・當眞嗣一「いわゆる「土より成るグスク」について―沖縄本島北部のグスクを中心に―」(「沖縄県立博物館紀要 第23号」沖縄県立博物館 平成9年)
・當眞嗣一「グスクの縄張りについて(上)」(「沖縄県立博物館紀要 第18号」沖縄県立博物館 平成5年)
・當眞嗣一「グスクの縄張りについて(下)」(「沖縄県立博物館紀要 第20号」沖縄県立博物館 平成6年)
・土岐耕司「沖縄で出くわした「亀ヶ岡」」(「文化遺産の世界」ネット 平成30年2月2日配信)
・石黒ひさ子・王麗「海域学コレクション7・今帰仁城出土銅印をめぐって」「なじまぁ13号」立教大学アジア地域研究所 令和5年3月31日
・金武正紀「今帰仁タイプとビロースクタイプの年代的位置付けと貿易港」『13~14世紀の琉球と福建』(熊本大学 平成21年3月)
・柴田圭子「中国龍泉窯探訪記」(「紀要愛媛」公益財団法人愛媛県埋蔵文化財センター 平成28年)
・毎日新聞「沖縄戦を発掘する 戦争遺跡を考古学の対象にする必要性」(令和元年8月29日ネット配信)
・琉球新報「當眞嗣一 東恩納寬惇賞記念講演 グスク考古学と戦跡考古学」(令和5年3月30日付)
・琉球新報「戦争の記憶「継承する人の存在が不可欠」グスク研究の第一人者・當眞嗣一さん 沖縄戦記憶継承プロジェクト」(令和5年6月26日付)
・産経新聞「水中考古学へのいざない(21) 韓国・新安沖の海底沈船 日中韓 三国貿易の構造示す」(平成30年3月24日 ネット配信)
・南日本新聞「自衛隊は歓迎したけど……「ミサイルは話が違う」「標的になる」日本最西端・与那国島、配備計画に戸惑い広がる」(令和5年7月22日 ネット配信)
・沖縄タイムス「「曽畑式土器」と判明――読谷村の貝塚から出土―考古学上画期的な発見」(昭和50年10月16日付)
・沖縄タイムス「姿見せた糸数城跡」(昭和51年1月9日付) 

高度な石積みの技術を誇る糸数グスク(南城市)
熊本の曽畑式土器が出土した渡具知東原遺跡(読谷村)

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プロフィール
澤宮 優(さわみや・ゆう)
1964年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。
青山学院大学文学部卒業後、早稲田大学第二文学部卒業。2003年に刊行された『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手、吉原正喜の生涯を描き、第14回ミスノスポーツライター賞優秀賞を受賞。著書に『集団就職』『イップス』『炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』『バッティングピッチャー 背番号三桁のエースたち』『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』『暴れ川と生きる』『二十四の瞳からのメッセージ』などがある。

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