File14/諏訪大社上社前宮
薄暮の帰り道、久しぶりで前宮に立ち寄った。10月の末のことである。
諏訪大社は言わずと知れた全国に25,000社近くある諏訪神社の総本社だが諏訪湖を囲んで四つある本宮、前宮、春宮、秋宮の総称であることはあまり知られていない。かく言うボクも東京に住んでいる頃にはよく知らなかった。
諏訪に初めてお越しならば、前宮ではなく門前町の賑わう秋宮や本宮への参拝をおススメしよう。なぜなら前宮の佇まいは他三社とは些か趣を異にしているからである。ボクの知る限りご門前にお土産屋さんや飲食店はない。原初的な信仰の姿を留める風情は通好みと言えるかもしれない。
ここで少し脱線するが千葉県の北部地方は上総に比べて西に位置するのになぜ下総なのかご存じだろうか。答えは三浦半島や川崎から木更津に船で渡ったため上総の方が京都に近かったからだ。今の東京都江東区、江戸川区から千葉県浦安付近は江戸時代に干拓されるまで陸路で通過するのは不可能な湿地だった。
さてそれでは諏訪はどうだろう。
下諏訪は古くから湯宿が立ち並ぶ繁華な宿場だった。中山道の交通要衝であり江戸時代には甲州街道の起点にもなった。上諏訪はその甲州街道を少々「下った」ところに位置する。また下諏訪には遺跡や古墳も多く出土され、五街道が整備される以前から諏訪盆地の中心地であったことがうかがえる。もちろん京にも近い。それなのにどうして「下」なのかという話である。
こちらも答えは簡単である。
諏訪大社上社が南にあるからだ。
それではなぜ南側が上社なのか…それは解明されていない。古事記にも記録のある諏訪大社の鎮座は1500年前とも2000年前とも言われ定かでない。だから以下は参道を登りながら思ったボクの推測ということになる。
前宮は急斜面に建っているので参道は石段と急な坂道が続く。本殿直下まで上りつめると東側の視界が抜けて八ヶ岳の全容が姿を現す。
推論1:上社は八ヶ岳に向かって「上」に位置する。
諏訪盆地から臨む八ヶ岳は神々しいまでに美しい。富士や甲斐駒よりも高く聳えて見える(実際にも山体崩壊以前の八ヶ岳は富士山より標高が高かったと推定されている)。諏訪大社を崇める人々にとって八ヶ岳は古くから聖なる山だったのではないだろうか。
諏訪湖から発する川はただ一つ天竜だけだが流れ込む川は数多い。その中で最大の川は「上川」で八ヶ岳を水源に上社の脇を通って諏訪湖に入る。
上川に沿って御柱(おんばしら)道も走る。諏訪大社の御神木は7年毎に八ヶ岳から伐り出されてこの道を運ばれる。御柱祭りである。
さらにかつて(10年ほど前まで)は諏訪湖が完全結氷すると八ヶ岳下ろしの寒風により「南岸から北岸に向けて」氷が裂けて高さ1mにも達する氷の道が現れた。これを御神渡りと言い、諏訪神社上社の建御名方命(男神)が下社の八坂刀売命(女神)へ渡った道だと信じられていた。
推論2:実際に諏訪盆地の入り口は南からのルートだった。
中山道よりも古く、現在の甲州街道の位置には鎌倉古道が通っていた。諏訪盆地は急峻な山地に囲まれ、西からは山の民や修験者の使う杣道しかなかったと思われる。現実的な交通路、輸送路は南北に通っていた可能性が高い。
開削技術の拙い古代の人々にとって、道とは最短距離周辺に峠を探ってつけられるものではなかった。京から諏訪への道はフォッサマグナの構造線が作る断層に沿って歩くことによって南から開かれた。北へは和田峠付近から安曇野そして糸魚川へと続き、若狭を経て琵琶湖沿いに近畿へ回る環状線が存在したのではないか。
古代へと想像を逞しくしてみよう。フォッサマグナ或いは八ヶ岳の山体崩壊による七里岩の尾根沿いを甲府方面から諏訪にアプローチする。八ヶ岳西麓に広がる扇状地はやがて霧ヶ峰山系と南アルプスに挟まれるように上川沿いに収束してゆく。
諏訪盆地の入り口の最も狭まった河岸段丘の斜面。その中腹に旅人を迎えるように建つ前宮の姿が目に浮かんでくるではないか。