あたらしい結婚のはなし
職場で「結婚しました」と言うと、案外「あら、では大変ですね」と返されることが多い。なにが大変なんだろう?とずっと思っていたけれど、次第にそれは「家事」のことを指しているとわかった。つまり、「あら、では(料理も掃除もしなきゃいけないし)大変ですね」ということだ。
わたしがそれにしばらく気づかなかったのは、まったく家事をしていないからである(!)だからべつになにも大変じゃないのだ。
と言うとなんだかすごくダメな嫁みたいですが、お互いに働いているし、なんなら自分の方が激務なので、恋人のごはんまでつくる余裕などない(!!)し、恋人もそこは理解してくれている(と思う)。
わたしたちの結婚生活は、「ふたりぐらし」というよりは、「ひとりぐらし×2」みたいな感じで、今のところ、進んでいる。わたしがシフト制夜勤をしている関係で、食事は3食別でとる。休みの日だけ一緒に食べる。洗濯をしたいタイミングも違うので、洗濯かごも分けている。掃除は休みの日に分担する。皿洗いはお互いに溜めるときもあるので、なんとなく半々くらい。基本的には、なんでも、自分のことは自分でする。ときどきおすそ分けがある。そんな感じでまわっている。
恋人はひとりぐらし歴6年なので、一通りの家事はできる。放っておいてもごはんは食べるし、片付けもする。ぜんぜん手のかからない子なのだ。むしろ、わたしの方が実家からのこのこ出てきたので、なるべく元あった彼の生活に、差し障りないように、つつましく、自分の生活をしている(出したものは片付ける、とか、汚したら掃除する、とか、そのくらいだけど……)。
つまり我々は連合国家なのである。独立した個人と、個人が、ただ近くで暮らしている。それだけのことである。
じゃあ結婚ってなんだ?
わたしが、実際に結婚してみた感想としては、よくもわるくも「たいした変化はない」だった。なぜなら連合国家だから。相変わらずわたしはわたしだし、彼は彼だった。妻になったから夫の世話をしているわけでもなければ、夫になったひとに家計を支えてもらっているわけでもない。
でも、ひと昔前の結婚は、たとえば自分の両親などは、そうではなかった気がする。わたしの家庭は、おそらく母は母でそれを望み、父は父でそれを望み、男性と女性の役割が完全に分離した家庭だった。母は寿退社したのち、長らく専業主婦をしていた。すべての家事をし、子を育て、子が独立した今は、気晴らしに働いたりもしている。父は仕事に生きていた。今でこそ朝食くらいはつくるらしいが、母がいなければ料理も掃除も洗濯も何もできないようなひとだ。でもきっちりお金を稼ぎ、わたしを大学まで出してくれた。母子を養うことに責任とプライドを持っていた。
自分の家にあった「結婚」が、そのようなものである、という認識はあった。けれど自分が「結婚」をするときに、では両親のようになるのだろうな、とは思わなかった。というよりもむしろ、わたしたちは、たぶんここから、あたらしい「結婚」をつくっていかねばならないのだろうな、という、漠然とした予感があった。
それには、自分が仕事を辞めるつもりがない、というのもあったと思うし、恋人の考えかたもあったと思う。でも、社会的な雰囲気もたぶんあったと思う。
平成も終わろうかという現代、結婚情報誌であるゼクシィが、『結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私は、あなたと結婚したいのです』というコピーを打ち出した。これは革命だと思う。そして現在の「結婚」の実態を、的確に捉えていると思う。
「お嫁に行ったら家事育児!」という時代は、たぶん終わりつつある。女性も働く時代になった。夫婦別姓を主張できる時代になった。女性は男性の「妻」ではなく、独立した個人として、認められる、認められなければいけない時代になった。そもそも「お嫁に行く」という言葉が古いような気すらする。
つまり「結婚」という制度そのものが、おそらくあらゆる角度から、形骸化してきている、ということである。結婚しなくても幸せになれる。これはゼクシィが言い切るくらい確かである。けれどそれは同時に、結婚に期待しなくなるということでもある。つまり「幸せになりたいから結婚する♡」が通用しなくなるということだ(だって結婚しなくたって幸せなんだもん!)。
むしろ昨今は年々の晩婚化、そもそも未婚率の上昇、離婚率の上昇、芸能人の不倫に次ぐ不倫、結婚式場は高いし、保育園は争奪戦だし、世の中は不況だし、いったいわたしたちは、むしろ何を求めて結婚すればいいのでしょうか?
個人的には、この現代においては、もはや「結婚したい」という理由以外に、結婚する理由を見つけるのが難しい気がしている。だからゼクシィはすごいのだ。「結婚しなくても幸せになれるけど、あなたと結婚したい」これなのだ。
結婚したいから結婚したい、ってなんかめちゃくちゃな感じもするけど、でも、それでも成立するくらい「結婚したい」ってパワーな気持ちだ、と思う。祈りに似ていると思う。結婚というのはたぶんただの儀式で、本質はその儀式を経て、ひとを想うことにあるのではないか、と思う。
好きなひとと同じ名字になりたいな♡とか、旦那さんって呼ぶの憧れだな♡とか、ウェディングドレス着たいな♡とか、なんかもうそういうのでいいと思うんだよ。たぶんぜんぜんいいと思う。それってだって「好き」の証明じゃん。気持ちは目に見えない。だからひとは、形にしたくなるんだと思う。書面にしたり指輪にしたり、名前にしたりして。
はじめて結婚指輪を職場にしていった恋人に感想をきくと、「なんか心強かったよ」といっていた。
すくなくとも、われわれの結婚においてもっとも大きなメリットは、こういう気持ち的なところにあったと思う。わたしも、おそらく恋人も心が弱いたちなので、結婚することで「結婚に関するあらゆる迷いから解放された」というのは非常に「良い」と感じている。わたしたち、いつ結婚するのかな?とか、いつか別れるのかな?とか、このひとで大丈夫かな?とか、そういうことを考えなくてよくなった。まあ、いつか行き詰まる日が来るのかもしれないけど。当面は、「このひととどう上手くやっていくか」だけ考えていればいいのはとてもラクだな。
恋人は、恋人であり、友達であり、戦友であり、連合国家だから、いろいろあるけど、一緒にがんばって生きていこうな!と思ってるよ。それぞれに結婚のかたちがあって、だからわたしたちは、わたしたちの結婚を、ここからつくっていくのだと思う。それはたぶんほかの誰ともちがう、きっとあたらしい結婚。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?