#044 ソフィーはなぜ90歳のおばあちゃんなのか?
以前に書いたNOTEの記事『#014:なぜインターネットは「呪い」に満ちてしまうのか?』で「呪い」について色々と書きましたけど、その続編です。
この記事では「人が呪いにかかっているとき、その呪いは本当に他人にかけられたのか?」という論点について考察します。論考の題材にしているのはスタジオジブリのアニメ映画「ハウルの動く城」のソフィーです。ソフィーの呪いは本当に「荒地の魔女」にかけられたものなのか?
前回の記事を読んでいない、という人もおられるでしょうから、簡単におさらいを書いておきます。そもそも「呪い」とは
人から選択肢を奪う言葉
と定義されます。
ある種の言葉を人からかけられる、あるいは自分でかけることによって、その人から選択肢を奪ってしまう、身動きが封じられてしまう。そのような言葉のことを「呪い」といいます。
で、前回の記事では、次の点を確認しました
「呪い」は情報でできている
だからインターネットと「呪い」はとても相性がいい
現実世界で呪いをかけると社会資本が毀損するけど、ネット上では匿名で「呪い」をかけ放題
しかし言葉には暗示の力があるので、他人にかけた「呪い」は必ず自分にもかかる
一方で「呪い」の真逆の「祝い」もまた情報なので、ネットは「祝い」とも相性がいい
ネットを「呪い」に使うか「祝い」に使うかで、長い時間で天地の開きが生まれる
では「呪い」にはどんな種類があるのか?僕のみるところ、呪いには次の5つがあるように思います。
自己規定の呪い
他者規定の呪い
規範の呪い
人生観の呪い
世界観の呪い
それぞれ、順に典型例を挙げていきます。
自己規定の呪い
例:私って〇〇じゃないですかあ
例:私、○○が苦手なんです
例:この年じゃあもう遅すぎる
例:私には〇〇の才能がない
例:凡人の私が高望みしてはいけない
他者規定の呪い
例:この子は〇〇が苦手
例:あの人が私を助けてくれるはずがない
例:女性は地図を読むのが苦手だ
例:エリートはたいがいサイコパスだ
例:アメリカ人の味覚はガサツで和食の機微を味わえない
規範の呪い
例:逃げてはいけない
例:他人に迷惑をかけてはいけない
例:一度始めたら途中で放り出してはいけない
例:人は自立すべきであり、他者に依存してはならない
例:女性は家事と育児に専念するべきである
人生観の呪い
例:努力は報われる
例:偏差値の高い学校に入れば幸福に生きられる
例:有名大企業に入れば人生は安泰だ
例:年収が上がればもっと幸福になる
例:特別な才能に恵まれない人は幸福にもなれない
世界観の呪い
例:社会は残酷であり、競争に勝たなければならない
例:世の中はどんどん悪い方向に変化している
例:人間の本性は悪であり、基本的に信頼できない
例:人間は怠惰で放っておけば必ず怠けるので管理が必要だ
こういった呪いは単独で成立しているだけでなく、さらには組み合わせられて行動を封じ込める呪いとして作動します。たとえば、次のような組み合わせです。
この三つが組み合わされると
という「合成の呪い」を生み出すことになります。
よく「なんでこんな酷い状況になるまで助けを求めなかったの!?」という人がいますが、こういう呪いにかかっていれば助けを求めるという選択肢が封じ込められてしまうのは仕方がありません。責めるべきは本人ではなく、本人が信じている信条を呪いとして与えた人や社会なのです。
受動と能動のあいだ
さて、これらの呪いは、自分でかけているのでしょうか?それとも他人にかけられているのでしょうか?普通に考えれば、これらの信条は、他の誰でもない、自分自身の信条なのですから、であれば「自分で呪いをかけている」ということになるわけですが、ではここで考えてみたいのが、その信条は、何もないところから自分でゼロから生み出したものなのだろうか?という問題です。
もちろん、そういうことではないわけですね。これらの信条は、人生を生きていく中で他者から与えられたものがほとんどでしょう。では他人にかけられているのか?というと、そうとも言えない。もちろんキッカケにはなったわけですが、多くの呪いは「呪いをかけてやる」という特段の意図もないままに発した言葉によって発動しています。
つまり呪いというのは能動的にかかるわけでも、受動的にかけられるわけでもないのです。能動と受動のあいだ、必然と偶然のあいだのどこかに存在しているのが呪いです。
これは「呪いの解除の厄介さ」を考える上で大事な点だと思います。もし能動的に自分でかけているのであれば、話は簡単です。自分でその呪いの元となっている信条や認識を改めればいいだけの話です。逆にもし受動的に誰かにかけられているのであれば、これもシンプルで、その誰かによる言葉の正しさを論理的に検証することで解除に大きく近づくことができるでしょう。しかし、そのどちらでもない、自分と他者の汽水域にあるからこそ「呪い」の解除は難しいのです。
ソフィーはなぜ90歳のおばあちゃんなのか?
宮崎駿監督による「ハウルの動く城」という映画があります。ここではまず物語の冒頭部分の流れをざっくり説明します。
まだ観ていないという人はぜひ観ていただきたいのですが、冒頭部の説明からわかるように、これは「呪い」に関する物語です。あらすじを素直に読めば、ソフィーの呪いは荒地の魔女からかけられたことになるわけですが、さて本当にそうなのか?
この問いを「呪いの効力」という観点から考えてみましょう。これはつまり、同じように呪いをかけられても、本当に呪いにかかってしまう人と、呪いにかからない人がいるのは何故なのか?という問題にもつながります。
映画の後半においてソフィーの呪いは解け、元の少女に戻るわけですが、不思議なことに、劇中において二度、ソフィーが魔法にかかる以前の少女に戻っているシーンがあります。
つまり呪いが解除された状態になっているのですね。この二つがどういうシーンかというと、一つは「とても怒っている」ところ、もう一つは「寝ている」ところなんですね。共通項は両方とも「理性がバイパスされている」というところです。
別の言葉で言い換えれば、普段はアタマに支配されて前に出てこないココロが、寝ていることでアタマのスイッチがオフになったり、激怒してアタマがバイパスされたりすることで前に出てくる時、ソフィーの呪いは解除される、ということです。
面白いですね。すでに指摘したように「呪い」は情報でできています。人間というシステムの中で情報を扱うのはアタマですから、「呪い」というのはアタマにかかるわけです。一方でココロは情報を扱いません。だからココロは「呪い」にかからないのです。
映画の後半、もう大詰めというところで、窮地に陥った仲間を救うため、ソフィーが三つ編みに結った髪をバッサリと切って、それをカルシファーに食べさせるというシーンがあります。このとき、当然にソフィーの髪はバサッとほどけるわけですが、宮崎駿監督自身による絵コンテを確認してみると、このコマの横に小さく「ヒロインようやく登場!」とあるのが読めます。
この映画の主人公は言うまでもなくソフィーですから、普通に考えればヒロインは映画冒頭から登場しているのですが、しかしそうではなく、宮崎監督は映画の大詰め、後半になってはじめて「ヒロインようやく登場!」とビックリマークまでつけて強調しているのです。これはどういうことなのでしょう。
ヒロインを広辞苑で引くと「勇気と気高さを備えた女性の主人公」とある。宮崎アニメの典型的なヒロインといえばナウシカということになるでしょうか。主人公は自分の人生を主体的に生きる存在です。能動体で生きているといってもいい。
つまり、ここでわざわざ「ヒロイン登場!」と断っているということは、それ以前のソフィーはヒロインではなかった、主体的・能動的に勇気と気高さを持って生きる存在ではなかった、ということをわざわざ言っているわけです。
なぜソフィーは主体的・能動的になれなかったのか?それはいうまでもなく「呪い」のせいだということになるわけですが、ではこの呪いは、本当に「荒地の魔女」によってかけられたものであったのでしょうか?
もちろん、きっかけではあったでしょう。しかし、呪いにかけられたのちも、ふとした瞬間にソフィーが呪いから解除されているシーンがいくつか挿入されていることからもわかる通り、この呪いの半分はソフィーが自分自身に対してかけているとも考えられす。自分の思考や行動の可能性を縛る言葉を自分で生み出している時、魔女のような人々はそれを巧みに意識の上に顕在化させ、呪いとして発動させているのです。
この呪いが解除されたことを象徴的に示しているのが、ソフィーがカルシファーに食べさせるために自分の三つ編みの髪を切って与える、というシーンです。三つ編みはそれ自体が人を縛る鎖を連想させます。そして結った髪を切れば、それは解(ほど)けます。自らを縛る何者かを断ち切ることで「ほどける」のです。そういえば禅でも「ほどけるはほとけに通じる」と教えますね。自分を縛っていた固定観念が解除されて彼我一如の境地に達することを「解ける」というわけです。
私たちは観念の海を泳ぐようにして生きていますから、「呪い」から完全に自由でいられる人は誰もいません。誰もが多かれ少なかれ、何らかの「呪い」にかかっている。しかし「呪い」はその人の可能性をとても小さくしてしまう。では、どうやって「呪い」から私たちは自由になれるのか?
ちょっとこういうことを文字にするのは面はゆいのですが、やっぱり喜怒哀楽の感情・・・もっと言えば「愛」ということになるんじゃないかと思うのです。
ソフィーが劇中で90歳のおばあちゃんから元の少女に戻るのは、ハウルを戦争に参加させようと画策するハウルの師匠、サリマンと対峙した時です。サリマンに抗弁する言葉は穏やかですが、ここでソフィーは明らかに激怒しています。
みなさん、激怒してますか?
激怒というのはできることなら押さえたほうがいい、ネガティブな感情だと考えられがちですが、僕に言わせれば、激怒できなくなった人はもはや人ではありません。だって激怒できるということは、その裏側に何かとても深い愛があるからですよね?激怒できないということは、その人がすでに深い愛や共感というものを失っているということです。トマス・アクイナスですよ。
そう言えば、NOTEの記事「#037どうやって「意味のイノベーション」を起こすか?」で、僕は、人が何らかの対象に深い関係性を感じるようになるきっかけは「敵が同じ」か「味方が同じ」と感じた時だ、という指摘をしましたけど、この時のソフィーもまさにそうですね。
ソフィーは、サリマンと、サリマンが象徴しているシステムに対して「こいつらは敵だ」と感じて激怒している。「ハウルの敵」が自分にとっても同じように敵だと感じた瞬間に、ソフィーはハウルという人を深く理解したわけです。
このシーンは非常に象徴的に閉じます。どんどん若返っていくソフィーをみたサリマンが「ハウルに恋してるのね」とソフィーに声をかけた瞬間に、ソフィーは何とも卑屈な表情をした90歳の老婆に戻ってしまいます。魔法使い、恐ろしいですね。
ということで、まだまだ考察が甘いのですが、とり急ぎ結論めいたものをここで述べていくとすれば、人の思考や行動から自由度を奪う「呪い」から自らを解除するには、自己あるいは他者に向けた喜怒哀楽の感情の回復、なかんずく「愛」の回復が重要なのかな、と。
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