学習する大統領、ケネディ

当記事は下記の記事と対比となっていますので、当記事を読まれる前に、こちらを読んでください。

核のポーカー

1962年10月16日の朝9時を少し過ぎた頃、任期二年目を迎えたケネディ大統領が、弟であるロバート・ケネディ司法長官から衝撃的な報告を受けます。

その連絡の内容とは「CIAの諜報活動により、ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設中であることがほぼ確実となった」というものでした。

この瞬間から、世界はソ連と米国による「核のポーカー」を固唾をのんで見守るはめになります。

その日の午前11時46分、緊急招集された多数の米政府高官に対して、CIAから正式な事情説明が行われました。

多数の写真が提示され、地図と指示棒を手にした情報の専門家たちは、キューバのサンクリストーバル近くの原野にミサイル基地が建設されつつあることを説明しました。

おそらくは「考えもしなかった」というのが本音だったのでしょう、当時の会議の模様を回想する関係者は「驚きのあまり皆が茫然としていました」と述べています。

まさかソ連が米国のひざ元であるキューバに、核ミサイルを配備しようとは。

再び集結するメンバー

この日の朝、閣議室で会合したメンバーの殆どは、この後の12日間、殆ど眠ることなくぶっ続けで会議を行い、基本方針が決定した後の6週間も休むことなく連日で会議を開くことになります。

このグループ、後に「エクスコム=Executive Committee of the National Security Council」と呼ばれることになる会議には次のメンバーが参加していました。

国務長官 ディーン・ラスク
国防長官 ロバート・マクナマラ
CIA長官 ジョン・マッコーン
財務長官 ダグラス・ジロン
司法長官 ロバート・ケネディ
大統領顧問 マクジョージ・バンディ
大統領顧問 セオドア・ソレンセン
国務次官 ジョージ・ポール
国務次官代理 アレクシス・ジョンソン
統合参謀本部議長 マックスウェル・テーラー
中南米担当国務次官補 エドワード・マーチン
ソ連問題顧問 リュウェリン・トンプソン
国防次官 ロズウェル・ギルパトリック
国防次官補 ポール・ニッツ

事態は極めて深刻であり、かつ時間の猶予は限られています。米国として、キューバに起きつつある事態を見過ごす事が出来ないのは明白でしたが、どのような行動をとるべきなのかについては、そう簡単に決定できるものではありません。

何と言っても、キューバから核ミサイル攻撃を受ければ、ほぼ確実に八千万人の米国人を死においやることになるのです。歴史上かつてこれほど賭け金の高いゲームはなかったと言っていいでしょう。

学習する大統領、ケネディ

このメンバーが対応策を協議するに当たって、ケネディ大統領はいくつかのルールを設定しました。

最初に設定したのが、ケネディ大統領自身は会議に出席しない、というものでした。

理由は「安全保障について深い知識と経験を持つ諸君の議論について、自分が影響を与えることのないよう、また特別に自分に気を使ってもらうことのないように」というものでした。

結果的に、これは極めて賢明な判断でした。個性の強いこれらの人物も、ケネディ大統領が出席するとどうしても人柄を変えて大統領におもねるようになり、大統領にとって耳触りのよいと思われる前提の上に議論を組み立ててしまうことがしばしばあったのです。

次に大統領が指示したのが、会議中は通常の行政組織の序列や手続きを忘れて欲しい、ということでした。

大統領は、自分の管掌部門の代弁者として会議に参加することを禁じ、その代わりに「米国の国益を第一に考える懐疑的なゼネラリスト」になる様に命じ、各自が自分の専門分野のみに発言を限定してしまい、自分よりも専門知識を持つと思われる人に対する反論を控える様な官僚的態度で問題に取り組む態度を戒め、米国の安全保障という全体問題に取り組む様に指示しました。

次に、大統領はもっとも近しい腹心である司法長官のロバート・ケネディと大統領顧問のセオドア・ソレンセンの二人に「悪魔の代弁者=わざと批判的に難癖をつける困った人」の役割を果たす様に命じました。

ケネディは、彼ら二人に、討議の最中で出された提案について、その弱点とリスクを見いだし、それを自分と提案者に対して突きつける様求めたのです。 

最後に、委員会に対して、提案を一つにまとめるのではなく、複数の提案を作成し、グループごとに提出する様に求めました。

これらの「ルール」が、結果的にこの委員会の意思決定のクオリティを、これ以上ないほどに高めることに作用することになります。

白熱する議論

 議論開始当初、ミサイルによる先制の空爆しかないのではないか、と思われた選択肢に、隔離あるいは海上封鎖のアイデアが加わったのは議論開始一日目の夕方でした。

翌17日(水)にはマクナマラ長官も海上封鎖支持に回り、メンバーは「先制攻撃」支持派と「海上封鎖」支持派で真っ二つに分かれ、議論は白熱します。

この状況は、前年のピッグス湾事件でしばしば指摘された、「外見上だけで意見が一致しているような、なにか奇妙な雰囲気」とはまったく異なるものでした。

さて、海上封鎖支持派の論拠はこうです。

まず、最終的に何らかの武力的手段を講じなければならないとしても、最初から着手する必要はない。
また統合参謀本部によれば、仮に「ミサイル基地のみ」を先制攻撃で破壊したとしても軍事的には無意味で、結局はキューバの全軍事施設に対して攻撃を仕掛けるために侵攻作戦まで発展させざるを得ず、そうなると全面的な戦争状態が避けられない。
もし、キューバ(=ソ連)との間で、こういった武力衝突を回避できるかもしれない望みがまだあるのであれば、先制攻撃を行うべきではない。

一方の先制攻撃支持派はこうです。

既にミサイルがキューバに運び込まれている以上、海上封鎖をおこなってもミサイルの撤去が実現するとは思えないし、ミサイル基地の設置作業がストップすると考えるのも難しい。
加えて、海上封鎖によってソ連の船を停船させることは、キューバと我々の問題という構図に、直接的なソ連との対決をも持ちこむことになる。

特に、統合参謀本部のメンバーは、一致団結して即時の軍事行動に入ることを大統領に進言しました。

彼らは、海上封鎖は無意味であると繰り返し主張し、武力攻撃が絶対に必要だと迫ったのです。

この進言に対して大統領は、米国による武力攻撃に対して、ソ連はどのように対応してくるかと質問すると、空軍参謀総長のルメーは「恐らくなにも反応しないだろう」と保証しましたが、大統領はこれを一蹴しました。

一方、ロバート・ケネディとマクナマラ長官は海上封鎖を支持しました。

彼らは、これがベストの案だと確信したというよりは、封鎖の方が武力攻撃よりも柔軟性があり、「取り返しのつかない事態を回避できる可能性が高い」と考えていました。

そして、何よりもキューバにミサイルの雨を降らせて、何千何万という市民を殺すというアイデアをどうしても受け入れることができなかった様です。

 

フラットな議論

10月19日の朝、大統領はメンバーを「武力攻撃支持派」と「海上封鎖支持派」の二つのサブグループに分け、それぞれの勧告を大統領に提案するように指示しました。

勧告は、作戦の内容だけでなく、大統領による全国民への演説の概要、その後とるべき作戦行動の内容、起こり得る事態に対する対応策が含まれていました。

そして同日の昼過ぎから、サブグループごとに勧告案を交換し、互いのプランの案を精密に審査した上で、相互に批判するセッションが開催されました。

このセッションの後、それぞれのサブグループは、批判を受けて案をブラッシュアップする作業に再び入ります。

特徴的だったのは、こういった提案と批判のやりとりの中で、各メンバーが極めて対等な立場で発言する態度を貫き通したことでした。

資格や役職、専門領域にとらわれることなく、合衆国の中で最も頭脳明晰でかつ愛国心に溢れる人々が「米国と世界にとってより良い決断は何か?」という問いに対して全力で答えを出そうとしていたのです。

皆に平等に発言の機会が与えられ、発言は全員の耳に入るよう配慮されていました。これは、階層が厳格な政府機関では極めて珍しいことでした。

最後の決断

10月20日の午後、これまでの検討を受けた勧告に耳を傾けていたケネディ大統領は、海上封鎖を支持する決断を下しました。

この決断の後も、閣僚や議会の指導者たちは、たびたび感情的になって先制攻撃の必要性をケネディに対して訴え続けています。

しかしケネディ大統領は次の様なコメントを残して反対意見をすべて退けました。

私は、合衆国の安全を守るために必要とあらば、いかなる措置をもとるつもりだが、最初から海上封鎖以上の軍事行動に出る正当な理由があるとは思わない。
米国が攻撃の火ぶたを切れば、相手側はミサイルの一斉射撃で反撃することが予想され、そうなると何百万人という米国人が殺されることになる。
これは非常に大きな賭けであり、自分としては、他のすべての可能性を徹底的に検証し尽くさないうちに、この賭けに乗り出すつもりはない。

 

優れたリーダーは「決める」のではなく「決め方を決める」

ここまで読まれた読者は、ピッグス湾事件におけるケネディの行動とキューバ危機におけるケネディのそれとが大きく変わっていることに気づいたはずです。

ジャニスの提唱した集団浅慮の四要因について、それぞれの事件の違いをみてみましょう。

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