「スジの悪い人間関係」の断捨離

これまで何度か、NOTEでは「スジの悪いシリーズ」の記事を挙げてきました。

ということで、今回は「スジの悪い人間関係の断捨離」という、いささか不穏なテーマで考えてみたいと思います。題材になっているのは、ポジティブ心理学の開祖であるエイブラハム・マズローによる研究です。

自己実現した人は友達が少ない

有名なマズローの欲求五段階説は、知っていますよね。一番下の欲求に「生理的欲求」があり、一番上の欲求に「自己実現欲求」があるという、あのピラミッド型の図式です。この枠組みはとても有名で、科学的な証明の企みがすべて失敗しているにもかかわらず、多くの人がキャリアや人生を検討する際に枠組みとして用いています。

これは以前の記事にも書いたことですが、マズローは、欲求の第五段階である自己実現を果たした多くの歴史上の人物と、当時存命中だったアインシュタインやその他の人物の事例研究を通じて、自己実現的人間の全体的特徴として15の特性をあげています。

この15の特性は、かなり意外なものもあって非常に興味深いものです。ちょうどNOTEに紹介記事があるので、興味のある向きはこちらをご参照いただければ、と思います。

マズローが指摘する「自己実現を成し遂げた人に共通する15の特徴」のうち、ここで取り上げたいのは「少数の親しい人と深く付き合う」という項目です。

一般に、友人・知人は多いほどいいと考えられていますね。一年生になったら友達百人できるかな?という問いが歌になるくらいで、この価値観は社会人のみならず幼児の世界にまで浸透しているわけですが、では本当に「友達は多いほうがいい」のか?

これはなかなか回答の難しい問題ですが、少なくともマズロー自身は、人間の究極の欲求である「自己実現」を成し遂げた人の多くが、むしろ「友達は少なく、ごく少数の人と深い関係を築いている」傾向があることを指摘しているわけです。

トモダチは人生にプラスなのか?

余暇の時間を無為に食いつぶす、最悪の元凶が「スジの悪い友人」です。「スジの悪い友人」は、愚痴を通じた共感を糧にして粘着しているので、このネットワークに絡めとられると、いつまでたっても「愚痴を語って溜飲を下げる」という、残念な人々のグループから抜けることができなくなります。

仕事に、成長や出世につながる「スジの良い仕事」と、まったく逆の「スジの悪い仕事」があるように、友人関係にも、成長や出世につながる「スジの良い友人関係」と、まったく逆の「スジの悪い友人関係」があります。友達は大事にしよう、というナイーブな主張は、両者をひっくるめて全部、大事にしようという意見ですが、私は後者の友人、ここでは以下クソダチとしましょう、からの誘いはできるだけ忌避する方がいいと思っています。

理由は三つあります。それは

  1. バカになる

  2. 運が悪くなる

  3. 徳が下がる

です。このうち、どれか二つ(一つならギリギリ我慢します)に該当すると思われるケースでは、どんなに熱心に誘われても、基本的に飲み会や会食はお断りします。

こういうと「飲み会くらい行けばいいじゃないか」と思われる向きもあるかも知れませんが、これは経済学者のリッカートが言うところの比較優位の問題であって、クソダチから誘われているイベントが人生にもたらす価値と、それを断って得られる価値との比較で考えることが必要です。

あ、ここで注記しておきたいと思いますが、私が言っている価値のなかには、懐かしい仲間とのバカ話に久しぶりに盛り上がる、というレベルの効用も含まれています。人間にはノスタルジーが必要で、私などはそのノスタルジーのためだけにいろんな努力をしているのですが・・・

まあ、それはともかくとして、改めて確認すれば、友人と懐かしい話をしてスッキリする、という行為は、それはそれで人間が社会生活を営んでいく上で、必要なものだろうと思っています。

逆切磋琢磨の状態に陥らない

問題なのは、必要以上にベタベタと接触し、ある意味での談合のような状態を形成している友人関係です。

例えば、定期的に仲良しで集まってお酒を飲んでいるという人に聞きたいのですが、中核的なメンバーの一人が「お酒はもう止めた。ということで会合にも今後は参加しない」と言われると、一種の「裏切られた感」を覚えるでしょう。

どうしてそういう感覚を覚えるかというと、自分の行為に対して、一抹の罪悪感を覚えているからです。本当に「楽しい上に正しい」と思っている活動から、仲間が「抜けたい」と言い出した時、多くの人は冷ややかに反応するだけです。

少し例えが不適切かもしれませんが、日本赤軍やオウム真理教といった、幼稚な教義を掲げて求心力の礎にしている組織で、往々にして脱会志望者へのリンチが常態化するのは、とりもなおさず、メンバーの多くが教義に対して一抹の疑いを持っているからです。

人は、完全に信じてやまないような命題については、それを疑う人に攻撃を加えたりはしません。攻撃というのは不安や焦りの裏返しですから、つまり、リンチが行われるということは、もう教義がギリギリのところまで来ている、ということの裏返しなのです。

これと同じことが、日本の多くの組織においても起きている。一般に、トモダチは多いほど良いと考えられていますが、筆者は全くそう思いません。日本のサラリーマンの友達関係は、そのほとんどが談合みたいなもので「俺が頑張ってクソ上司の下で卑屈になる以上、お前もそうしろ」という、いわば「逆」切磋琢磨の関係にあるからです。このような逆切磋琢磨の関係は、二つの側面からあなたの人生を破壊します。

一つ目は、このような逆切磋琢磨の関係にある友人と付き合っていると、「あいつもあんなにヒドイ上司の下で頑張っているのだから、俺も」といったように、スジの悪い努力を続けてしまう言い逃れになってしまうという点です。スジの悪い努力をつい続けてしまうのは、決して「頑張っている」からではなく、なんとなく惰性でそのようにしてしまうのがラクだからです。

このラクさに甘んじていると、どんどん人生は行き止まりの袋小路に入ってしまうのですが、こういう逆切磋琢磨の関係にあるスジの悪い友達(以下、クソダチと略します)は、それに何となく気づきながらも「一緒に袋小路にはまり込んで行こうよ」と誘ってきます。

よく、決して悪い人ではないのですが、何となく芯がしっかりとしていないために、本当の悪人に巻き込まれて悪事を働くことになって人生をおかしな方向に持っていってしまう人がいますが、こういう構図は日本の会社の中では驚くほど多発しています。昨今多発している粉飾や偽装なんかはその最たるものでしょう。こんな仕事に長年携わっていたら本人のキャリアはズタズタになってしまうわけですが、なぜか声を上げるでもなし、逃げ出すでなし、周囲に同調して貴重な人生をダラダラとドブに流し捨ててる。

二つ目は、このような逆切磋琢磨の関係にある友人と付き合っていると、あなたがある日思い立って「こんなことしてたら人生の袋小路だ。俺、悪いけどイチ抜けた」と宣言して「スジの悪い努力」を断捨離するという時、このような友人は「夢なんか見るな、お前には無理、人並みが一番」などと、冷水をぶっかけるようなことばかり言ってくるからです。

なぜこんなことを言ってくるかというと、こんなスジの悪い努力を続けていても、人生の袋小路に入り込んでいくだけだ、ということに自分でも薄々気づいているからです。

気づいているのであれば、そこから抜け出るための「本当の努力」をすればいいのですが、そこまでの責任感(自分の人生に対する)も胆力もないので、何となく会社や上司や社会へのグチをこぼしながら、人生のどん詰まりの袋小路に向けてトボトボと歩いている、というのがこういうクソダチの状態です。

そして、ここがポイントなのですが、こういう状態は非常に辛いので、多くの人は「気づいていないふり」をします。つまり「こんなことを続けていたらいずれはどん詰まりの人生の袋小路に入ってしまう」ということに、薄々気づいていながら、それにどう対処するべきかを考えるのが嫌なので「気づいていないふり」をしているわけです。

ところが、仲間から「こんなこと続けててもラチが開かないや。俺、悪いけど抜けるよ」と言われると、忘れたふりをしていた恐ろしい事実、つまり「こんなことをしていても人生の袋小路に入り込むだけだ」という事実を再確認させられます。これは非常に恐ろしいことなので、仲間が抜けようとすることを必死で防ごうとするのです。誠に痛々しいとしか言いようがありません。 

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