#017 能力主義はなぜ間違っているのか 書評:マイケル・サンデル「実力も運のうち」
世界的に拡大する格差の問題を解消するための手段としてユニバーサル・ベーシック・インカムに関する議論が盛り上がっています。僕も2020年に上梓した拙著「ビジネスの未来」において日本におけるユニバーサル・ベーシック・インカムぼ導入に向けてポジティブな議論を展開しました。しかし、この議論については根深い反対が存在することもまた確かです。
根っこにあるのは能力主義、つまり「地位や所得などの報いは能力や努力に応じて与えられるべきだ」という考え方です。これは評者自身も実際に経験したことですが、ある講演会において「自分は高額の報酬のために必死に努力している。そうやって稼いだお金を、努力もしないで無為に過ごしている人に対して与えろ、という貴方の主張はどう考えても正当化できない」という反論をいただいたことがあります。
この、一聴すればそれなりに真っ当に思える主張、全世界の分断を推し進める巨大なエンジンとなっている主張に対して、私たちにどのような反論が可能なのでしょうか?マイケル・サンデルによる本書「実力も運のうち」の内容が、まるごとがその回答になっている、と評者は思います。
著者のサンデルは本書を通じて読者にある「問い」を突きつけます。それは、
1:生まれた家によって地位や報酬が決まる社会
2:生まれた家に関係なく、本人の才能と努力によって地位や報酬が決まる社会
の、どちらが公正な社会だと思うか?という問いです。
おそらく、いまこの書評を読んでいる読者のほとんど全ては直感的に「後者に決まっているだろう」と思うのではないでしょうか。そもそもからして、この問い自体をナンセンスだと思う人も少なくないでしょう。しかし、あらためて考えてみると、この問いはこれからの社会のあり方を考える上で、重大な論点を提出していると思うのです。
少し踏み込んで考えてみましょう。なぜ「生まれた家によって地位と報酬が決まる社会」と「自分の才能と努力によって地位と報酬が決まる社会」で、多くの人々は後者の方が公正だと感じるのでしょうか。おそらく返ってくる答えは「生まれた家は運によって決まる。運だけでその人の社会での地位や報酬が決まるのは不公正だ」というものでしょう。
なるほど、しかしでは、次のようには考えられないでしょうか。つまり、ある人が才能や努力できる性格特性に恵まれたとして、その才能や性格特性もまた運によるものではないだろうか?と。
社会的に高い身分の家格に生まれるという「運」と、所属する社会で高く評価される才能や努力できる性格特性に生まれたという「運」とで、前者によって得られる地位や報酬は不公正である一方、後者によって得られる地位や報酬は正当なものであると考えることは、それ自体が不公正ではないのか。この見解について、本書においてサンデルは次のように指摘しています。
能力主義の信奉者であっても「生まれた家」と「生まれつきの才能」が両方とも「運」に左右されることは渋々ながら認めざるを得ないでしょう。
しかしでは、「努力」についてはどうでしょうか?「努力」は自らの意思によって払われるものであり、これを運に帰することはできません。だからこそ、本人が払った努力に応じて地位や所得が傾斜して与えられのは公正だ、と能力主義者であれば反論するかも知れません。この反論について、サンデルは米国の政治哲学者、ジョン・ロールズの論考を引いて再反論します。
勉強の習慣や努力が報われるという信条もまた、その人が育った家庭や社会という環境によって育まれる、ということです。ここは本書の中で、おそらく読者をもっともモヤモヤさせる箇所だと思います。評者としてもサンデルの主張を全面的に与するものではありませんが、努力が、一般に考えられているほど、本人の自覚によって発動される行為ではないという指摘は、これまで他の多くの論者によって指摘されてきたことは知っておいて良いと思います。
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