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とりあえず叩く、の精神

 武田砂鉄さんはいつも一歩先の視点で世の中を皮肉る。『群像』の連載を読んで改めてそう思った。『不祥事をした人物を叩き、飽きたら別の人物をまた叩く。この流ればっかだよね。』という見解に対してに自身の考えを語っていた。砂鉄氏が例にあげるように佐村河内氏、小保方氏、野々村氏と2014年に現れた数々のスキャンダル有名人がその流れを如実に表している。このお三方は今でもネットを賑わし今だにネタにされることもある。しかし、砂鉄氏は次々と批判をばかりをしている人を対象に叩くのもまたおかしいという。元々は、”批判されるようなことをしている”方が問題なのである。本当にその通りだ。マスコミ側も注目を集めるものだからこのような人たちを徹底的に取り上げる。なので、なんだかこの批判の繰り返しになり、いつのまにか「また批判しているよ」という目線になりがちだ。ただ、そのようなスキャンダルが起こってしまうことに目を向けなければならない。特に例に出てきたお三方は昨今のスキャンダルに比べればまだ笑える方だと言われてるが、小保方氏に関しては関係者が自殺までしている事態になっていて笑える話にはなっていない。小保方氏もいつの間にか被害者のようになって、瀬戸内寂聴と対談なんかしていた。どこかで懺悔しなければならないとは思うが、裏側に少しでも話題にして注目をさせようとする人の影がちらちらする。

 自分ももう批判の繰り返しはもういいよ。と思っていたからこの砂鉄さんの指摘は新鮮だった。『紋切型社会』を読んでから、アイロニカルな視点の中にも常に先を見ていて、なおかつ、忖度せず具体例の著者を引き合いにだして批判するのは痛快だ。有名になるのも分かる。

 笑える、笑えないの視点で言えばおそらくそのニュースが自分にとって当事者になっているかどうかだと思う。佐村河内氏など最悪耳が聞こえていても聞こえていなくても関係者でない限りどちらでも良い。が、統一教会などの洗脳に関しては自分や周囲の人がいつマインドコントロールされるかわからないと言う点では脅威だ。コロナしかり対象が自分に及んでくると途端に笑えない話になってくる。そう言う意味では確かに、令和に入ったぐらいから笑えない話ばかりかもしれない。

 自分もこの世の中に対してなんてクソなんだと思う方だ。でなければ、こんなにたらたらと文章を書いていない。The Smithなんか聴いてない。ただ、いざここまでの閉塞感を覚えるとこの世も終わりだ、と言い続けるのも良くない気がしてくる。根があまのじゃくなのだ。ただ、せめて、創作の中だけでもしょうもない戯言やポジティブな言葉を紡ぎ出していっても良いのではないかと思う。いしだ壱成氏が自身の頭髪をツイッターでいじられたときに「言霊って日本語知っている?だまれ若造。」と言った。最近ネットでなにかが問題になるたびに『もうおわりだよこの国』と書かれている。たとえそれが流行りの言いたいだけの言葉でもそれを言い続ければ本当に沈みゆく国になっていくかもしれない。まだ無敵の人になっていない限り、もう少し同じ島国出身として現実をいい方向へ持っていきたいところである。

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