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ペンが書けなくなるまで

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長編小説、「ペンが書けなくなるまで」の一覧。
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記事一覧

「ペンが書けなくなるまで」1-1

「ペンが書けなくなるまで」1-1

【第一章】足早

 東京、冬。
 バケツをひっくり返したような雨が降ったので、大学に行く途中、古臭い喫茶店に駆け込んだ。
 店先で雨粒を払い、ヘッドフォンを上着で拭きながら店に入る。雨はカーテンのような帯状で激しく降っていて、そんな2月の雨は、指先の感覚を殺すのには十分だった。
 店の客はまばらで、店内はトーストの焼ける香りと珈琲の深い香りに包まれている。
 この店は、カウンターで薄汚れた綿入りの

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「ペンが書けなくなるまで」1-2

「ペンが書けなくなるまで」1-2

 いつから俺はこんなに世界に置いていかれたのだろうか。勉強はそれなりにできる方だったし、熱心に取り組んでいたものがあった。しかし、高校進学と共に東京に出てきてみれば、どこか息苦しそうに、そして忙しなく流れる時間と人々に揉まれ、いつしか俺も早足で、早口で、早く早くと1日をすぎるようになっていた。
 夢を見ることを忘れ、自分と言う人間をどこかに置いてきてしまった俺は、自分でも自分がつまらないとわかって

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「ペンが書けなくなるまで」1-3

「ペンが書けなくなるまで」1-3

 バイトは池袋にあるありふれたチェーンカフェ店のウェイターだ。店は小洒落たSNS映えするようなカフェでもなければ、今日行った趣のあるような喫茶店でもない。メニューも一周回って擦り切れたようなものしか置いていないし、店内はなんともこれと言って特徴のない内装だ。
 俺はこのカフェに、まあ、なんというか、同情してしまう。特筆すべきところがない。まるで俺のようだ。
 無駄に重いドアを押し開け、無理やり作っ

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「ペンが書けなくなるまで」1-4

「ペンが書けなくなるまで」1-4

「お疲れっしたー」
「ちょっと待てよ冬真君。この後……」
「行きませんよ」
「なあんだよ、いいじゃん。冬真この前やっとハタチになっただろう。これで堂々と飲める!」
「いや、それはそうなんすけど。すんません。さっき通知見えちゃったんですけど、その飲みって合コンっすよね。俺無理ですって」
「ええー、なんだよ冬真のケチ! あ、コラ、帰るなよ!」

 トミザワさんには申し訳ないが、なんとか合コンなどという

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「ペンが書けなくなるまで」1-5

「ペンが書けなくなるまで」1-5

 最寄駅、すぐ近くのコンビニでカップラーメンと缶ビールを買って夜道を歩く。月が出ているらしい。ビルの角が柔らかく光っている。
 しかし何度も言うようだが東京の空は狭く窮屈だ。せっかくの月も低く傾いてしまえば、観ることができない。上京するまで日課だった、月を親指で隠すアポロ13の真似も、ここでは難しいというものだ。
 なんだか寂しいなと思っていると、ジーンズの尻のポケットの中でスマートフォンが震えた

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「ペンが書けなくなるまで」1-6

「ペンが書けなくなるまで」1-6

 俺はコートを着たまま、玄関で朝を迎えた。腕時計は朝の六時を指している。俺はぐったりと、身体にも心にも力が入らずまるで大きな人形のようになっていた。
 もはや先刻受けた母の死も頭にはなかった。何も考えてすらいない。涙は乾ききって、頬で枯れている。
 重い瞼を擦り上げると、ヒリヒリと痛んだ。しかし、これだけ泣いたと言うのに、全くスッキリしない。悲しさという悲しさや、寂しさという寂しさは寧ろ、重くのし

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「ペンが書けなくなるまで」1-7

「ペンが書けなくなるまで」1-7

 翌日、俺はJRを乗り継いだのち、総武快速線で千葉を下って行った。
 平日、下りの電車は空いていて、グリーン車を取るまでもなかった。関東には珍しく雪が降ったので、真昼間でも特に冷え込んでいた。俺は温かい缶コーヒーとちょっとした菓子を、駅のホームのNewDaysで買ってから乗車した。
 自宅から実家まで合計して、片道二時間弱そこらの道のり。普段ならヘッドフォンで音楽を聴いて暇を潰したり、なんとなく、

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「ペンが書けなくなるまで」1-8

「ペンが書けなくなるまで」1-8

 母さんの葬式は滞りなく行われた。親族という親族はそう多くないが、俺と違って社交的だった母さんの葬式には、「中島家」という表札を辿って、雪の降る中、母さんの旧友と思われる人たちが、それは沢山参列し、早すぎるとその死を悼んだ。
 母さんの死にすすり泣く人もいれば、一人息子の俺を憐れむ人もいて、抜け殻のような父さんを見ていられないといった様子で、また涙する人もいた。
 それもそうだ。父さんは相変わらず

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「ペンが書けなくなるまで」1-9

「ペンが書けなくなるまで」1-9

 母さんの死からしばらく関東には雪が降っている。珍しく一週間ほど降り続いた雪は、母さんの初七日に降りやんだ。
 その初七日の会食には、わずかな親族と、東條家、母さんの特に仲の良かったらしい友人がが参加した。皆顔馴染みの会食ではあるが、会食といっても浮かない顔をした人たちの集まりだ。どうも飯を食う気分になどなれない。そんな浮かない空間には長い間、居たいものじゃない。

 その日の夜は綺麗に晴れていて

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