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205.

14:30。

「 ──── じゃ、行ってきます。あとはよろしく」
「行ってらっしゃい! ──── って、あれ?」伝票の整理をしていた和哉は、怪訝な顔をする。「瞬さんは?」
「出先で捕まってるみたいで。結局現地集合になったんだ」
「なるほど。忙しい方ですもんね」
「そう ──── あ、イシャーン達、17:00入り・・になるってマネージャーさんから連絡来てたから。圭介の出番が終わり次第戻るよ」
「了解です!」伝票の整理をしていた和哉は、微笑みながら手を振った。「来たら来たで何とかするので、ごゆっくり!」
「ありがとう。もし予定より早く来たら連絡してね?」
「承知しました!楽しんでいらしてください!」
「うん。動画撮ってくるよ!」
「銘ちゃん、たっくん、行ってら!」皿を洗っていた優は、咄嗟に付け加える。「あ、出店で何か美味そうなのあったら、買ってきて!」
「わかりました!」グレーのフーディーを着た拓海は、笑顔を向ける。「行ってきます!ありがとうございます!」






小樽で潤から貰ったコンパクトカメラを首から下げ、ボディーバッグを斜め掛けにした拓海を伴い、階段を上がって地上に出ると、日はすでに傾き始めていた。土曜の午後、しかも芝浦大学の学祭初日という事情もあってか、家族連れや学生、中高生の集団など、多くの人々がももよ通りを行き交い、その両側にずらりと並んだ街路樹はすっかり紅葉し、左手にある建物が路上に長い影を落としている。

「11月に入ったら、すっかり秋になっちゃったな」銘はサングラスをかけ、高い青空を見上げて嘆息する。「この前まで真夏みたいに暑かったのに」
「そうですね」拓海はいつになく上機嫌な様子で、うんうんと頷く。「でも僕、秋って大好きなんです。いい思い出しかなくて」
「あ、わかるなぁそれ。俺も春と秋は好きだよ。暑くも寒くもなくて過ごしやすいし」
「ですよね。っていうか銘さん、歩きで大丈夫です?」
「大丈夫だよ。このぐらいの距離なら」銘は、くすくす笑った。「芝大はすぐそこだしね。ほら、演奏してるのがここからでも聴こえるよ?」
「あっ、ほんとだ!」
「そういや俺、芝大の学祭に行くのは初めてだな?こんなに近いのに」
「そうなんですか?」
「うん。他の高校や大学のイベントに仕事として出演したことはあるけど」
「あ、でも。近いとそういうものかもしれないですね?僕も慶應の学祭行ったことないですし」
「そうかもね ──── ていうか、マーカスのHYLIFEってるし!これは学生さんかな?」
「ですね。圭介の演奏は15:00開始ですから」
「今回は前半がアルトで、後半はテナーだって言ってたな。選曲も学生さん達に全部任せたらしいし」
「そうなんですよ。まあでも圭介、暗譜は得意ですから」
「ああ、あれはほんと凄いよなぁ?セッションは勿論、本番でも一切譜面見ないもんな!」
「あの、でも、銘さんもそうじゃないですか?全然譜面見ないですよね?」
「ベースはそんなに難しくないからね。サックスやトランペットは俺達みたいに視覚に頼って音出せないし、メロディーは勿論、コードも全部頭に入れておかないとアドリブ取れないから。数倍大変だと思うよ?」


華やいだ雑踏の中、メインの会場へ向かうにつれ、どんどん人が増えていく。PAブースのテントに気付いた銘は真っ先にそこへ向かい、背後から話し掛ける。

「 ──── 大滝さん、お疲れさまです」
「はいよっ!お疲れ!」白い髭を蓄えたいかつい男は、振り返って笑顔を見せる。「 ──── うおっ?銘かよ!何でまたこんなとこに?」
「芝浦は俺のホームですし、今日、圭介が出演するって聞いたので。バイトさんに店任せて、抜けてきたんです」
「マジかよ?」大滝は目を丸くし、ステージを指差す。「だったらお前、飛び入りで弾いてやりゃいいじゃねえの?みんな喜ぶぞ?」
「そうはいかないですよ。六本木の一件以来、タダで弾くな!って知念さんからこっぴどく叱られましたし、とっくにメンバーは決まってるんですから」
「まあなぁ。ああ、トラのベースの子はまだ2年生だけど、リハ聴いた限りでは、割とちゃんとしてるぞ?」
「トラ?」
「あ、聞いてねえのか?部長の北山が、結核で入院したって」
「えっ?」銘は、ぎょっとして彼を見る。「嘘でしょ?先週うちのセッションに来てた時は、もの凄く元気だったのに!」
「幹部としては最後の学祭だし、相当無理してたんだろ」大滝はちらりと、ステージの脇を見る。「それで急遽、あいつが弾くことになったって訳。知ってるか?」
「いえ」銘はエレキベースを抱えた青年を見て、首を横に振る。「見覚えない子なので、最近うちに来たことはないと思います」
「さっきその話で盛り上がってたけど、お前、学生から相当怖がられてるみてえだな?」大滝はけらけら笑い、彼の肩を叩く。「Riotはプロの巣窟で、敷居がたけえってよ!」
「いや、そんなこと! ──── ええと、ありますかね?」
「あるある!だからこういう機会にちょっと営業してきな!未来の顧客になるかもしれねえんだしよ?」
「まあ、そうなんですけど」銘は、不安そうな顔をする。「俺の方から近付いたら逆に、煙たがられませんかね?」


見るからに気難しそうな大滝が長身の青年と笑顔で話していることに気付いた魚住うおずみは、何気なくPAブースを眺め、すっと視線を横に外し、何かの間違いかと思って何度か首を捻り、もう一度視線を遣り、それが誰であるかを認識した瞬間、文字通り椅子から飛び上がる。

「 ──── うわあっ!」
「ちょ、おま、びくった!」右隣で進行表を睨んでいた田淵は、一緒に飛び上がる。「いきなり何だよ?」
「た、た、た、田淵さん!」彼はその背をばんばん叩き、テントを指差す。「あの、あ、あそこに!郁崎いくざきさんが!」
「 ──── はっ?マジで?」

学生達と目の合った銘はサングラスを外して胸ポケットにしまい、微笑みながら右手を振ってくる。面識のある田淵はたちまち笑顔になり、逃げようとする魚住の腕を引っ掴むと、そのままぐりぐりとテントまで引き摺っていく。

「うわぁ、銘さん!お疲れさまです!わざわざ来てくださったんですか!」
「お疲れさま!この前北山くんに誘って貰ったから、和哉くんと従弟に頼んで、ちょっとだけ顔出しにね」
「ああそうだ、圭介くん、控え室にいますよ?ご案内しましょうか?」
「ありがたいけど、もうすぐ本番でしょ?時間大丈夫かな?」
「大丈夫ですよ。今のバンドが押しそうなんで、もうちょっとしたら強制終了かけますが ──── 」そこで彼はようやく、真っ青な顔をしている後輩に気付いた。「あ、こいつ、2年のベースです。実は今日北山が出れなくなったんで、1週間前にトラ頼んだんですよ」
「そうなんだってね。さっき大滝さんから事情聞いたよ。彼、大丈夫なのかな?」
「ああ、はい。普通に元気です。先月ぐらいからみるみる痩せてきたんで、本人はダイエットの成果が出た!って喜んでたんですが」田淵は、眉根を寄せながら説明する。「いやそれ絶対病気だぞ?ホケカン行け?ってみんなで説得して行かせて。でもまさか結核だとは思わなくて、大騒ぎになりました」
「そりゃそうだよ。サークルの人達は大丈夫だった?」
「はい。みんな検査受けて、幸い陰性で ──── 」


黒のVネックシャツにシルバーのネックレス、その上に羽織った淡いブルーのダンガリーシャツ、細身のブラックジーンズと赤いバスケットシューズ、185cmの長身と抜けるように白い肌、ベーシストらしいがっちりとした腕と長く美しい指、風に靡く艶やかな黒髪と榛色ヘーゼルの瞳に、魚住は嫌でも釘付けになってしまう。うわぁうわぁ、ちょっと待って!これ、本物だよ!本物の郁崎さんだよ!雑誌とか音楽番組とかDVDとかでしか見たことない世界的なレジェンドが、今、普通に、俺の目の前にいるんだけど!マジ、どういうこと?これ、どういう状況?

エレキベースを抱えてフリーズしている学生を目の端で捉えた銘は、微笑みながら声をかける。

「 ──── 君が、今日のベース担当するの?」
「あっ、そうです!」青年は、震える声で答える。「魚住うおずみ亮人りょうとです!初めまして!」
「こちらこそ初めまして」頷きながら、右手を差し出す。「郁崎銘です」
「あっ、はい!お疲れさまです!」魚住は右手をチノパンツの右脇にごしごしと擦りつけ、震える手で握手に応じる。「おおおお噂はかねがね!」
「芝浦3丁目にあるRiotって店のオーナーやってるんで。もしよかったら今度、遊びに来てね」

いや、いやいや、いやいやいやいや!知ってますって!何なら、オーナーが薫さんの頃から知ってますって!プロは勿論アマチュアでも、仮にもベースやる人間なら、郁崎さんのこと知らない訳ないですって!つうか無理ですって!ジュリーニョの最後の愛弟子が常駐してる店で同じ空気吸うなんて!うわぁ、どうしよう!そんな凄い人の右手に俺なんかが触っちゃって、バチ当たりそう ────

「 ──── こら、亮人!返事!」

左隣の田淵にどつかれ、魚住は慌てて頭を下げる。

「あっ、はい!勿論です!あの!近いうちに、行か、いkかかかせていただだきます!」
「レジェンドの前だからって噛んでんじゃねえよ。ほんとわかりやすいよな?」田淵は苦笑しつつ、銘と拓海を見る。「あ、拓海くんも来てくれたんだ!嬉しいなぁ!」
「すみません、僕、音楽関係者でも何でもないのに ──── 」
「いいよ、大丈夫!こちらへどうぞ!」

田淵の後ろに拓海が続くのを見た銘は、怯えている魚住に向かって再び手を伸ばす。

「 ──── へっ?」
「よければその楽器、弾いてみてもいい?」
「あああ、はい!こんなのでよければ、どうぞ!」

恐る恐るネックを手渡すと、銘は立ったままストラップをかけ、ごく自然に楽器を構え、ステージ上の演奏にぴたりと合わせて弾き始める。周囲の学生達も遠巻きにその様子を眺め、ぽかんと口を開けている。一通り鳴らしたあと、銘は小さく頷きながらストラップを外し、にっこりと微笑んだ。

「いい楽器だね。調整もしっかりしてあって、凄く弾きやすいよ」
「はぁ」エレキベースを受け取った魚住は、恥ずかしそうに言う。「すいません、ステッカーだらけの汚い楽器で。兄貴のお下がりなもんで ──── 」
「いえいえ。ていうか魚住くん、本当はコントラバス弾く人でしょう?」
「えっ?」
「指見ればわかるよ」
「えっ、えっ?」彼は慌てて、自分の両手を見る。「そういうものなんですか?」
「同業者だからね。どれくらい弾けるかもわかるし」銘は笑いつつ、彼の肩をぽんぽん叩く。「エレベだとタイミングの取り方がちょっと難しいかもしれないけど、周りの音を聞けてれば絶対大丈夫だから。頑張って」

魚住ははっとしたような顔をして、銘を見上げたまま、何度も小さく頷いた。それを見て満足したのか、銘は近くに立っていた澤田に向かって尋ねる。

「あ、すみません。控え室って、あっちでよかったです?」
「はい!」彼は直立不動で答え、右掌を向ける。「ご案内いたします!」
「ありがとう。君もサックス奏者なんだね?」
「一応そうなんですけど」澤田はストラップに触れ、苦笑する。「小3から始めてもう大学4年なのに、圭介くんの足元にも及ばないですよ!」

2人が仲良く談笑しつつステージの裏側へ去ったあと、魚住はごくりと息を呑み、エレキベースを抱え直す。いや、すっげえ。びっくりした。安物のフェンジャパで、しかもアンプラグドの生音なのに。弾く人が弾くと、あんなクリアな音が出せるんだ ──── 俺、学生なのに、ただのアマチュアなのに、初対面のレジェンドから同業者・・・って言って貰って、何だかまだ頭がふわふわしてるし、たった数分の出来事なのに、永遠にも感じられたよ?







「 ──── 失礼します!お客さまお連れしました!」
「あ、どうぞ!」

澤田に続いて控え室用のテントに入ると、圭介は楽器の調整を終え、楠上と田淵、拓海と共にパイプ椅子に座り、ペットボトルのお茶を飲んでいるところだった。

「どうも、お疲れさまです!」
「郁崎さん、お疲れさまです。おはようございます」楠上はさっと立ち上がり、恭しく一礼する。「本日は、わざわざありがとうございます」
「いえ、とんでもない。たまには外に出ないとと思って ──── 」
「わー!銘さーん!お忙しいとこすいません!」圭介は勢いよく立ち上がり、握手を求めてくる。「滅茶苦茶嬉しいですー!」
「ごめんごめん、本番直前にお邪魔して!」銘は握手に応じ、勧められた椅子に座る。「どう?調子は?」
「リハからもう、どっっっちゃくそ楽しいです!」圭介は、満面の笑顔で答える。「学生さん達、この日のためにめっちゃ練習してくださってたみたいで!すっごいいいメンバーだし、いいサウンドでしたよ!」
「そうか、よかった。ついさっきエレベの子と少しだけ話してきたけど、彼、上手いだろ?」
「そうなんですよ!」圭介は、ぶんぶんと頭を縦に振る。「エレベ苦手って言う割にはどんな曲も暗譜でばっちり弾いてくださって、大滝さんも褒めてらっしゃいました!」
「俺にも言ってたくらいだし、あの人が褒めるならよっぽどの腕前だよ」銘は微笑みながら、Apple Watchで時間を確認する。「ああ、そろそろ瞬くんも来るし、後ろに行って見てるよ。終わったらそのまま帰るけど、気にしないでね」
「いえ、全然!来てくださっただけで嬉しいです!」
「明日は店休みだから、間違って来ないように」席を立ちながら、銘はふと思いついて訊く。「これ終わったら新宿直行だったっけ?」
「ですです。ベースがゼカさん、ドラムがブライアン、ピアノがマッテオ・レオーニです!」
「へえ、さすがコロッセオ。いいメンバーだな?」銘は、感心したように言う。「マッテオにもしばらく会えてないから、よろしく言っといて」
「わかりました!」
「すっげえ ──── 」それを聞いた澤田は、思わず唸った。「新宿コロッセオって、俺、金払って聴きに行くところだと思ってたよ?」
「そこからしてレベチなんですよ」田淵は、真顔で囁く。「このお2人は」



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