短編小説『悪魔の証明』
―佐藤保―
僕には嫌いな人間がいる。そいつはクニキダという名前だ。世界的に有名な科学者で、僕の先輩でもある。僕は今まで、自分がそこそこ優秀であると自負していたが、クニキダの前では無意味であった。僕のすることすべてにおいて、クニキダはより優秀であった。しかしクニキダは決して僕を嫌っていない。あるいは見捨てないというべきか。僕が彼の立ち上げた研究室に呼ばれたのは、なんのきっかけも持たない程に唐突だった。大学の同期であり、悪友であった僕を真っ先に呼んだのは他でもないクニキダ自身だ。
クニキダの研究は遺伝子研究であった。生物の遺伝子解析、ヒトゲノムの人為的な変動、そういった研究を常に行っていた。そこまではよかった。僕がクニキダを嫌いな理由はその優秀さに嫉妬しているからではない。行き過ぎた好奇心が嫌いなのだ。そもそもクニキダには倫理観が欠如している。科学者として、その好奇心を持てる人間は貴重であると僕は思うが、彼はその好奇心を表面化し過ぎているのだ。それがなんというか、気味が悪い。そのせいで今や研究所の研究員は当のクニキダと僕の二人のみとなってしまった。それでも研究に支障がないどころか、無駄な作業や提案がない分スムーズに進んでいる気もするから不思議だ。そして、僕たちが現在研究しているのは、ヒトゲノムの構築である。クニキダの思想は「より上位の種を作り出すこと」だ。「上位の種」とは純粋なもので、猿より人間が優れているように、進化した新たな種のことを指している。なぜこの研究に僕も参加しているのかというと、面白いからだ。僕もクニキダ同様にどこかおかしいのかもしれない。こんな研究に自ら好んで参加するなんて、自らを優秀だと宣っていた自分からは想像もつかないことだろう。
「調子はどうだい?」
クニキダが喉の先からだしたような、震えた細いハスキーボイスで僕に話しかける。
「あぁ、少し寝不足かもしれません。ここ最近まともに眠れなくて」
「君のことを聞いているんじゃないよ?あの子だよ、あの子」
あの子、とはクニキダの子供のことではない。そもそも僕が知る限り、クニキダは女性との関わりはない。異性とまともに話しているところを一度だって見たことがないのだ。では、クニキダの言う「あの子」とは誰なのか。あるいは何なのか。僕に名前を付けることはできないが、一言で言うなら
「あの生物なら今日も変わらないですよ。きぃきぃ鳴いてます」
生物。としか言いようがない。
「そうかい」
クニキダはニヤニヤと笑いながら僕の見ているモニターを覗いてくる。彼と僕は研究室の別室を寝室に改造して、ここで暮らしていた。最初は僕だけは実家に帰っていたのだが、クニキダの研究に遅れないためにもここでの生活を余儀なくされた。というのも、クニキダがこの「生物」を生み出してからだが。現在僕が見ているモニターは研究室に隣接してある防音部屋と繋がっており、中の様子が部屋の四隅に設置したカメラ映像を通して確認できる。モニター自体は自分のデスクとリンクできるので、わざわざここに集まる必要もないのだが、クニキダはパソコンを好まないのでこうして僕のデスクを覗くような形でモニターを確認することがよくある。研究室には大きく分けて四つの部屋があり、一つは玄関から入ってすぐにある寝室兼生活部屋、つまりはリビング、そしてそこから廊下に出て左に向かうとデスクの置いてあるデータ整理のできるモニタールーム、廊下から右に向かうとわかりやすい実験機材が並べられた研究室、そこから防音扉を隔てて隔離する形になっている防音部屋の四つだ。
なぜこの早朝にモニターを見ているかというと、それが僕の役割だからだ。僕の役割は主にクニキダのサポート、研究を安定させるためにデータを取り続けなければならない。かなりの雑用に思えるが、二人しかいな研究室においてこの役割は僕がやるしかない。クニキダは0から1を作り出すことができるが、僕にはそれができない。だからこうして1を2、3と増やしていく作業しかこの研究室では僕に与えられない。
「朝ごはんの時間かな」
クニキダは僕の後ろからモニターを覗き楽しそうに囁く。この「生物」に朝ごはんを食べさせるのは僕の仕事なので、当たり前のようにデスクから立ち上がり廊下を通り研究室に向かう。そこで念のため防護服に着替え、数種類の虫、鶏むね肉、キャベツをそれぞれ容器に分けて防音室に運び込む。防音室の中心には「生物」を囲むように高さ1メートルの四角い柵があり、その小さな柵の周りを30センチほど離れた位置に天井まで届くほどのより頑丈な柵で囲っている。なぜそのような作りになっているかというと、クニキダ曰く
「この子の可能性を潰してはいけないよ。この子がこの小さな柵を飛び越えようと思うのなら、飛び越えて欲しいんだ」
ということらしい。
この防音室自体は六畳程度の広さしかないが、そのすべてをこの一匹の「生物」に使っている。防音扉を開いて正面に見える外側の柵に付いた南京錠を外して中に入る。その時南京錠は外側の柵に引っ掛けて置いておく。何かの拍子で「生物」が口にしてしまわないための配慮だ。僕が小さい柵に近付くと「生物」はゆっくりと僕の方に這い寄ってくる。そして僕は慣れた手つきで抱えていた三種類の容器を小さい柵の中から見つめてくる「生物」の近くに置く。この「生物」から僕に対する敵意は感じられない。それどころか、多少好かれているのではないかとさえ思う。しかし実際は、防護服越しの僕をどれだけ認識しているかはわからない。
ここで「生物」について説明すると、この「生物」はそもそも地球上に存在しているものではない。クニキダがヒトゲノムの複製を作り出す過程で生まれた、偶然の産物だ。その身体に手足はなく、移動は芋虫のように這って歩く。実際、地球上に存在する動物に例えるなら、芋虫が近いと思う。体の表面は紫がかった白いぶにぶにとしたやわらかい皮に覆われており、その質感は僕たち人間とほぼ変わらない。筋肉が非常にすくないため、皮膚を触ると、ぶにぶにとした触感がある。体長は30センチほどで、2リットルのペットボトルを二つ並べた時のサイズ感に似ている。ちなみにその体長は徐々にだが大きくなっており、動物として成長しているのではないかと思われる。頭に当たる部分は、脳の大きさもあり少し歪だが、顔が形成されている。顔の正面に目がついているが、人間と比べると少し離れている。しかしこの目から反射は見られず退化しているものと推測される。耳と鼻はなく、口だけが目の下にはあり、閉じている間は×を描いたような形だが、開くと四つに分かれる。しかしその形故なのか、顎があまり発達していないため固いものは食べにくいらしい。最近は四つに分かれる口を、上下にわけて食べていることから、僕たち人間と同じような口を形成する可能性があるかもしれない。脳は体長に対してアンバランスに大きく、人間よりも少し小さいくらいだが、顔より一回り大きい頭蓋骨に覆われている。下品な話だが、形としては亀頭に近いと僕は思う。頭から下に首はなく、すぐに這って動く胴体があり、その身体に上半身と下半身を区別できるような骨格はない。地面に隣接する部分から少し上に四つの小さな突起がみられ、これが手足になるのではないかとクニキダが言っていた。感覚器としては主に脳の付近にある皮膚が主になっていて、嗅覚や聴覚もそこで判別しているらしい。これは頭の部分に布を被せて生活させたところ、移動や食事に混乱が見られたのでそう推測された。
クニキダはこの「生物」を研究の際に生み出したが、倫理的に考えれば非常に危険だとはわかっている。人間が新たに生物を作り出すなど、この世の理に反している気がしてならないが、クニキダは自らの好奇心のためにこの研究を続けている。この「生物」の前にも、俗に言うキメラなるものを作ろうとしていたことがあった。その時は動物の遺伝子を放射線で故意に傷付け、壊れた遺伝子を別の壊れた遺伝子と合わせることで、命の短い別の生命を生み出そうとしていた。この時にゲノムの解析が進み、生物がそれぞれに持つDNAや遺伝子を人為的に変動させることに成功していた。キメラは放射能の影響も考えすぐに破棄されたが、あくまでも動物であることに変わりはないので、僕は反対した。しかし、クニキダは次の実験もあるからと、作っては破棄を繰り返した。僕がクニキダを嫌いな理由はそこにある。
「きゅきゅい」
鳴き声と共に口の先で虫の入った容器を抑え、這いながら柵の隅に寄せる。どうやらこの「生物」は虫が嫌いなようで、こいつの生みの親であるクニキダと同じ反応を見せた。
「はいよ」
僕は理解しているかわからないが、軽く話しかけながら容器を片付け部屋を後にした。僕が扉を閉める瞬間「きゅ」と鳴き声が聞こえたが、僕には冷たく扉を閉めることしかできなかった。
「朝ごはんあげてきました」
クニキダは僕を見ることなく呆けている。
「N1号の手足、すこし伸びてきたかもしれません」
「そうか。ふふ。そうかそうか」
N1号というのは「生物」の名称だ。Nというのは人間の頭文字をとってN。僕は何故わざわざ日本語を使って名称を決めたのかを聞いたことがある。
「私はね、嫌いなんだよ。こう、英語を公用語にしていることが、気に食わないんだよ。もし、ね、私が誰よりも優れた研究をすれば、皆が、私の書いた論文を、必死で、読もうとするじゃないか。だからね、日本語で書くんだよ。読みたければ日本語で読め、と。翻訳したものでも読んでいろ、と。そして、それが続いていけば、いつかは日本語が公用語になるんじゃないかと思っているんだ。まぁ、これは僕のなんてことない実験さ。今の世界をどれだけ変えられるか。私が生きている間に、私自身の手でどれだけ変えられるか見たいんだ。あの子もそのうちの一つに過ぎないんだよ。それでもあの子の行く先にはなにが待っているのか私にも想像はできないよ。どんなに物事を科学的に理解しても、人間の欲、エゴ、勝手を理解するのは私にはできないからね。ふふ。本当に、腹が立つよね。」
―國木田真澄―
私は天才だ。物心ついたときにはそれに気付いていた。私が自分の才能に気付いたのは幼稚園生の頃だったと思う。子供らしく、他の子と一緒になって泥団子を作っていた時だ。この泥団子をより固く、より美しくするためにはと考えた瞬間、私は乾いた砂を泥団子にかけていた。周りの子供は何をしているのかわからない様子で私を見ていたが、私が泥団子の作成を進めていくにつれ、周りの子供も次々と乾いた砂をかけ、形を整え始めた。私の泥団子が完成した瞬間、周りから一目置かれる存在になったのは子供ながらにわかった。その時を境に私の才能は覚醒した。一言で言うと「直観」だ。私は物事を理解することが非常に速い。それは計算や記憶から導くものではなく、全く知らないものでも、ある程度自分の中で仮説を立て、それを正確に再現してみせれば、正しかったことが多々あるのだ。いや、間違ったことなど一度もなかった。私の直感能力は神が与えたものであり、私は神になりえるだろうとも思っている。そして現在、私は一つの研究を進めている。
それが「ヒトゲノムの解析・分解・構築」だ。生物学と科学を応用した私が新たに進める研究は「人類に代わる上位種の作成」だ。大学院時代に解析は既に終わり、今は自らの研究室で国に見せる研究の裏で新たな種の作成に取り掛かっていた。
「朝ごはん食べさせました」
佐藤くんが私の顔を見ずに報告してくる。私も特に返事をせずに頭の中の仮説を、妄想を楽しんでいた。
佐藤くんが朝ごはんをあげた「生物」は私が作り上げたものだ。倫理観がどうのこうのとか言い始める大学院を卒業し、私は自由にやりたい研究をやっていた。その結果がこれだ。この子は「N1号」と名付け、私が私の好奇心を世界に知らせるための存在である。
私は神だ。
人は自らの創造主を神と名付け崇めていた。ならば私はどうだろう。私はこの手で、自らの血で、「N1号」を作り上げた。であればこの「N1号」からすれば私は神なのではないか。親ではない。神。私は産み落としたのではない、創り上げたのだ。この「N1号」はまだ子供であり、知能がどこまで発達するかはわからない。もしこの新たな種が文明を築けるほどに進化をするのであれば、彼らが崇めるべきは神ではなく、この私ということになるのだろうか。であれば私はやはり神だ。
この「N1号」は未発達の身体に徐々に手足のような痕跡が見え始めた。幸いなことに身体的特徴として武器を持たないこの子は私の実験をより潤滑なものにしてくれる。
「なんで柵の中に柵を作ったんですか?可能性を潰さないと言うなら、外の柵はなくても良かったんじゃ」
佐藤君が私にふと思いついた様子で尋ねる。お世話係の彼も「N1号」に闘争本能がないことに気付いているらしい。
「君は、ノミを知っているか?」
「ノミって、あのダニとかノミとかのノミ、ですか?」
「あぁそうだ。ノミという動物はね、諦めてしまう動物なんだ。ノミをある高さの箱の中に入れて育てると、本来ならそれ以上に高く飛べるはずなのに、箱から出ても箱の高さまでしか飛ばなくなるんだ」
「その理論だと可能性を潰していることになるんじゃないですか?」
「甘いよ。違うんだよ、佐藤くん。私はね、余計な進化をして欲しくないのだよ。ノミを高く飛ばないようにしたいなら箱に入れて育てればいいんだよ。わかるかい?キリンが高い木の葉を食べるために首を長く進化したように、動物は少なからず進化していく。その進化の方向性を私が決めているんだ。空を飛ぼうとしてすれば必然的に脳は小さくなる。そうであってはいけないんだ。あれにはもっと高い場所での進化を求めている。人間のように、文明を築けるほどの知能をつけて欲しいんだよ。そのための実験も考えてはいる。君が見たら知能テストのようなものかもしれないけどね。やってみるかい?」
私が笑顔で佐藤君に尋ねると引きつった笑顔でお断りされてしまった。私は彼に嫌われている。私は佐藤君を気に入っているからこの研究室に招待したというのに。少なくとも、私は友達だと思っている。
「あの、隠してたのか、ただ言わなかっただけなのか、気になることがあるんですけど……」
「私だよ」
佐藤君が質問をする前に私は答えた。彼の思いつくことなんてものは、私からしたら安易に想像がつく。そして、このタイミングで彼の口から出る質問なんてものは一つしかない。
「え?」
「君の質問の答えだよ。ふふ。でも間違ってたらいけないからね、一応聞かせてもらうよ。なんだい?」
「あの、N1号って何の遺伝子から作られてるんですか?」
「私だよ」
佐藤君は一瞬考え、目を丸くして私を見た。「正気か」と言わんばかりに訴えてくるその眼は我々研究者には慣れたものだった。彼にはあの子について詳しいことは何も教えていなかった。私の研究に慣れた彼でも、人間の遺伝子、ましてや嫌いな人間の遺伝子から創られた新たな生物に対して、嫌悪感を抱くと思ったからだ。だからいつも通りの研究の一つとして、新たなキメラが完成したから面倒を見て欲しいとだけ伝えたのだ。その結果がこれだ。彼は私の回答を聞いてからというものの、私とあの子がいる方向を交互に見て悩んでいる。悩んだところで私には手に取るようにわかるのだ。彼は優しい。その優しさ故に私の研究室を離れることができない。その優しさ故に得体の知れない、何かもわからないような「生物」の面倒を見ることができてしまう。付け込んでいるようにもみえるだろうが、私は彼のそんな優しいところが好きなのだ。だから、このタイミングで全てを教えようと思う。私と、あの子が、全く別の存在として彼の中にインプットされた今だからこそ、彼は受け入れるしかないのだ。今彼は私に背を向けるようにして、「N1号」がいる方向、廊下側のドアを見ている。いや、ドア越しにあの子を見ているのかもしれない。私にはわかる。私の「直観」が言っている。彼はもう、「生物」として、「命」としてあの子を見てしまっている。だから今さらあれを毛嫌いすることもできないのだろう。
「驚いたかい?」
彼の背中に声をかけると、バッと勢いよく振り返り私を睨みつけてきた。そして一呼吸置いて、
「正気ですか?」
と私の想像通りの質問をしてきた。
「正気だったら私は初めからこの研究をしてないよ。わかるだろう?いや、君はわかっていたはずだよ。私の頭のネジは当の昔に外れてしまっていることくらい」
私の言葉で、彼は呼吸のリズムを崩した。一呼吸置いたはずの彼は肩を震わせ始めた。
「ばっからしい」
そう呟いて口元を手で覆い、彼は笑い始めた。私は彼をみて既視感を覚えた。あの笑いは、私も経験したことある。幼稚園で初めて自分の「直観」を知って以降、私は他人より自分が優れていると思って生きてきた。そして、それが揺るぎないものになったのが中学生の時だ。あの時は二年生だったと思う。私は近所の公園で捕まえた小さいトカゲを家に持ち帰り、殺したことがある。殺したと言っても、結果的にトカゲは死んでしまっただけで、私が直接的に殺したわけではない。家に持ち帰ったトカゲを虫かごにいれて、ベランダに持ち出した。私は右手にハサミとカッターナイフを持っており、第三者から見たら、今からすることはわかりきったことだろう。ベランダに虫かごを置くと、私は徐にトカゲを左手で掴んだ。ハサミとカッターナイフを一瞥してからカッターナイフを地面に置き、私はハサミに指を通した。手の中でうねうねと抵抗するトカゲは私の手から逃げようと必死だった。生きるために、外敵から逃れようとする行動。私はまず、その小さい足をハサミで切ることにした。逃げるな、と言わんばかりに私は躊躇なく足を切断していく。トカゲは当然何も抵抗できずに一本一本足を失っていく。右前足、左、右後ろ足、左。全てきり終わりハサミを見ると、ほんのりと赤いものがついていた。それは、人間のものとは違って見えてひたすらに不気味だった。その時、足を失いうねることしかできなくなったソレが大きく体を曲げ私の指に噛み付いた。私は驚き慌てて手首をスナップしソレを地面にたたきつけた。それは地面の上でうねうねとうねることを辞めなかった。私は自分の指を見たが、当然血は出ていない。それどころか、噛まれたところで痛くもなかったのだ。それなのに私は、ただ驚いてソレを地面に叩きつけていた。私の意志とは別に、私の本能が、恐怖したのだ。「生きる意志」というものが私を恐怖させたのだ。その瞬間私の口角は上がり、うねるソレから目が離せなくなっていた。「生物の本能」を今から味わえるという喜びに私は震えあがる思いで、ソレを拾い上げて、カッターナイフを背に刺した。しかし、思いのほか背中の皮膚は刃を通さないために仰向けにして、改めてカッターナイフを刺した。するとうねるソレの皮膚がぶにぶにとカッターナイフを沈めるばかりで、一向に刃を通さなかった。私がなんとかカッターナイフで腹を裂く頃にはソレの動きが鈍くなっていた。痛覚はあるのだろうか。どれほどの痛みなのだろうか。私たちとは神経の数が違うことを考えると、そもそもあまり痛みはないのだろうか。私が疑問を持ち、仮説を立てても、それが正しいかを証明する術はなかった。私はその本能のままに抵抗していたソレを見て一つ気が付いてしまった。私の「直観」では生物を理解することができない。人間も、社会も、動物も、何もかもを理解出来ると思っていた私はその「理解できないこと」を理解してしまったのだ。それに気付くと、私の口角は元に戻り、目の前の動かなくなったソレにも興味がなくなり、ベランダから放り投げた。「生物の本能」を味わったところで私には理解することができなかった。私にとっての未知が存在することへの喜びは、永遠にわからないという最悪の結論に至ってしまった。しかしあの時のことは今でも鮮明に思い出せる。私が今の私を作った事象であったと言えるだろう。そして佐藤君はその時の私と同じ笑い方をしている。私があの時、喜びを感じた瞬間の笑顔と同様の笑みが彼の顔には広がっていた。
「どうしんだい。佐藤君」
「いえ、なんか、なんでしょうね、これ」
佐藤君は手で自分が笑っていることを確認するように口角を上げたり下げたりしている。
「僕は、今まで平凡だったんです。あなたと出会ってからというもの、自分を特別だなんて思うことはできなかったんです。けど、それは違ったかもしれません。あなたは優秀なんかじゃない。天才なだけだ。僕たち人間と同じにしてはいけない。そして、僕は優秀だ!誰が何と言おうと、優秀だ!わかりますか?あなたに。天才のあなたに!僕たち人間の気持ちはわからないでしょうね!」
次第に興奮していく彼の身体は一つ抜けば崩れてしまうジェンガのように揺れていた。おそらく、それは精神も同じことだろう。彼はきっと自分のコンプレックスと向き合ってしまったのだ。しかし、それもすぐ収まる。私にはわかる。これは「直観」ではない、これは「経験」だ。
「ふふっ。わからないね。だからなんだというんだい?君は何がしたいんだ?」
「何が……。僕は、そうですね。そうです、僕はあの生物を完成させたい。完全な生物にしたい。あなたに倫理観がないなら、僕がこの研究室の倫理になる。僕があの子を完成させる。そうでしょう。きっとそのために僕はここに残ったのでしょう」
「最初からだろう?君は最初から興味しかなかった。そういう目をしていたよ。君は私に近付く努力をし過ぎていたんだよ。君は、君だ。やりたいようにやればいい」
私が彼を諭すように、優しい声で話しかけると、ふと口角がもとに戻り、
「わかりました」
とだけ言い残し、彼は踵を返し部屋を後にした。少ししてドアを閉じる音が聞こえた。
―N1号―
ソレには知性があった。知性とはすなわち物事を理解する力。良し悪しの判断、分析能力、どれをとてもソレは人間と同等、もしくはそれ以上の知性を有していた。ことに目の前にいる男(この部屋に入る人間は全員防護服を着ているが区別はつく)に対しソレは敵意を示さなかった。自らの状況を理解し、仮説を立て、現状維持を選んだ。防護服から見える佐藤の顔色を終始窺う生活していたが、ソレにとってはストレスにもならなかった。最初は不気味なものを見るような目で見られたが、最近ではペットのような、どこか愛着が湧いているような目で見られていることにソレは気付いていた。実際この柵も、扉も、自分を閉じ込めるものだとすぐに理解できたが、何一つ不自由のない生活を送っていたソレは、その生活に対し一切の不満がなかったのだ。すると、佐藤が「こいつは」と呟いた。柵を二つ挟んではいるものの音は筒抜けなので、ソレにははっきりと聞こえていた。佐藤の様子を見て、ソレは生え揃わない手足がこすれない様に少し上に持ち上げ、体を曲げたり伸ばしたりして柵の出入り口に近付いていく。自分の目を大きく上に向けないと佐藤の顔を確認することができず、ソレはウミウシのように体を反らせ上を向く。佐藤らがソレの目を退化しているというように、確かにソレの目は退化していた。色を認識する能力はなかったのだ。強い光を相手も、ただの白と感じることしかできず、眩しくもなかった。佐藤らが反射実験をしたときに反応が見られないのはそのためだった。何故ソレの目がこの形になったのかは自分でもわかっていなかった。ただ、目の前の人間の顔色をうかがうのには十分な機能は有している。観察することができれば何も問題はないとソレは自らの身体機能に何も違和感を覚えることはなかった。移動時に持ち上げる手足ですら、成長の過程であることを認識して傷付けないよう移動することを自分で考えていたのだ。
一言だけ喋り黙っていた佐藤が「お前を作ったのは、クニキダだけじゃないんだぞ。僕も、きっと、お前を作った一人なんだ」とソレに話しかけるようにしているが、佐藤自身、ソレが言語を理解しているとは思っていないので、独り言のつもりだった。そんな佐藤に対して、ソレは「きゅきゅい」と未発達の声帯を使い佐藤に声をかける。佐藤はクニキダに対する劣等感が常にあったが、当事者としてソレを育てることにより、一つの自信が生まれていた。クニキダが自らを神と思う様に、佐藤もまた、自分を神だと思う様になっていた。生物を作り出し、育てる、その行為が神そのものなのではないかと。ソレがアダムになるのか、はたまたイブになるのかはわからない。しかしはっきりとしていることは、自分がソレを育てたという事実だ。「僕は神だ」と言いながらソレを見続ける佐藤を、ソレもまた見ていた。ソレは目の前にいる佐藤が発した言葉の意味を的確に理解していたわけではないが、自分を作った存在のことは常に気にしていた。人間ではない何か、新しい生物、新しい人類として生み出された自分はいったい何なのか。自分を作った人間は自分にとって何者なのか、それを考えていた。神や親、そういった言葉を知らないソレにとっても概念的に同じ場所に辿り着いていた。そしてある一つの疑問も生まれた。もしも、理性ある自分を作り出すことができたなら、この目の前にいる佐藤、そして自分を作った人間を創ったものもいるはずだ。ソレはわずかながらの疑問を発達した脳で思考していた。生まれてから今まで一か月と経っていないソレは、尋常ならざる速度で成長を繰り返している。そうは言っても、所詮は人間の成長速度と比較したものであり、生態系における成長速度の違いは常に存在していた。そのことはソレにも同様に当てはまる。
佐藤がソレを黙々と見つめていると、佐藤の後ろのドアが開いた。そこにはクニキダの姿があった。クニキダは防護服を着ておらず、ニヤニヤと佐藤の背を見つめている。「ようやくか」とねっとりした声で佐藤に話しかけたかと思えば、佐藤の反応を待つ前にソレを見て「君も、自覚したかい。この実験は我々が神となる証明なのだよ」とソレを見ながら話す。クニキダは切りっぱなしの寝ぐせを直していないぼさぼさ頭を掻きむしりながら「そろそろ入らないとかなぁ」と関係ないことを呟く。それに対し佐藤が「臭いですよ。クニキダさん。何日目ですかそれ」と本題とは違うことに返答する。ソレはその様子をじっと見ていた。というよりも、観察しているという様子だった。コミュニケーション能力のない子供が、黙って周りを観察するように、ソレもまた同じように観察し、学んでいた。「気持ちが良いだろう」クニキダがそういうと、佐藤は防護服の中から口角を上げ「えぇ。これは、なんですかね。気持ちが良いです。とても、えぇ。ねぇ」最後の言葉をソレに話しかけるようにして佐藤はにやつきを止めることはなかった。ニーチェはこう言っていた、「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」と。彼らは人間という立場から神の存在を認識していたが、神もまた、人間をみているのだ。クニキダがソレを見ている時に、ソレがクニキダを見るように。クニキダが神を見れば、神もまたクニキダを見ている。しかしソレは何者かの存在を証明できないことを知っていた。神の存在を認識しているソレだからこそ、人間を創りだした神の存在を否定することができないのだ。悪魔の証明。
―???-
ガチャリと部屋のドアが開いた。
「分岐点は?」
ドアノブに手をかけたまま、綺麗に整えられた短髪に銀縁の眼鏡をかけた血色の良い三十代の男が話す。その視線の先には白衣を着て、背中まで届く長い黒髪を一つ結びにしている若い女の姿があった。女性は壁一面に広がるモニターを見たまま、「赤だ」とだけ告げた。
眼鏡の男はドアノブから手を離し、そのまま頭をかく。「やれやれ」と言わんばかりに呆れた表情をしてモニターに近付く。
「また、か」
「どうやら、私の意志をこの世界に組み込むとだめらしいな」
女はモニターの手前にあるキーボードを操作し始める。
「せめて、一度くらい青になってくれればよいものを」
「まぁ、あなたが自分の存在に疑問を持ったから生まれた研究ですから。あなたの意志を組み込んだらイレギュラーが発生するのも無理はないですよ。もしかしたらあなたの意志がなくても、誰かは気付いてしまうかもしれませんし。今回はこのクニキダが優秀すぎたんですよ。あなたの意志と、こいつの頭脳が、少し進化を速めてしまった。多分この世界は私たちの世界よりも生物学的には進化するでしょうね。その場合人間は食物連鎖の頂点に立っていないかもしれない。それも見てみたいですよ」
男は椅子に掛けてある白衣を着て、長々と喋った。画面の中にはロードと書かれた文字が表示されている。
「ダメだ。イレギュラーはクニキダではない。クニキダが創り出した生物だ。こいつが気付いた。だからダメだ。人間が気付かなくてはいけない。どうにか、その世界が私の創った世界だと証明してもらわないといけない。エントロピーの増大を止め、その世界が有限であると証明さえできれば、私たちにも可能性があるんだ。だから、この世界は繰り返させてもらう」
「街作りゲームにはまった結果がこれだとは、誰も思わないだろうな。で、どこからロードするつもりだ?」
女がキーボードを操作して時間軸を表示させると、一点を指差した。
「クニキダが生まれる直前。というと、あなたの意志は繁栄させないということか」
「あぁ。その代わり……」
ニヤリと女が笑うと、男が自分の顔を指差した。「俺ですか」と呆れながら言いつつも、了解せざるを得ないことを知っている男は大人しく頷いた。そして女がキーボードを操作すると、画面に男の名前が表示され、クニキダの意志設定にインプットを始めた。
科学的に作られた仮想現実は、現在の世界と同じ程度の発展続け、ついにこの世界と同等の社会を築いた。生物の起源を設定し、世界の基盤となる宇宙、はたまた地球などを細かく現実とリンクさせることで、はるかに現実に近い存在となった仮想空間は、女の手一つでいとも簡単に書き換わる。セーブとロードを繰り返し、正しい価値観を有する世界にしたところで、次の段階「現実の人間の意志」を挿入し始めた。そのことで世界にどのような変化、進化が訪れるのかを確認したかった。この世界が五分前に作られた世界だとも知らずにロードされる仮想世界の住人は、いつかその謎を解明してくれるだろうと期待して。
「じゃあもう一度始めよう。頼んだぞ。私の子供たち」
キーボードのエンターキーを押し、モニターに映る文字列を眺めて彼女は微笑む。仮想世界が新たにローディングを始めると、世界はまた、新しく作りだされる。途中から。それもセーブしていた以前の記憶を持って。
サポートと言う名のお布施です。僕が創作者である以上は切り離せないので、お気持ちだけでも頂けると、僕のご飯が大盛りになります。