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昭和天皇の広島原爆投下「やむをえない」発言について考える─終戦の詔書と広島行幸にみる昭和天皇の被爆者への思い

昭和天皇の原爆投下「やむをえない」発言

 現在、SNS上で以下の動画が多く再生され話題となっている。

 この動画は、昭和50年(1975)10月31日におこなわれた昭和天皇と香淳皇后の記者会見の様子を編集した動画であるが、会見の席上、昭和天皇が原爆投下について「やむをえない」と発言したことについて、動画が拡散し再生回数が上昇するなかで非難の声が高まっている。
 昭和天皇の「やむをえない」発言は、別段今になって明るみになったものではなく、当時から話題となり、物議をかもした発言でもあった。原水爆禁止運動の関係団体が「やむをえない」発言に遺憾・抗議の意志を示す声明を発表する動きもあったといわれる。
 一方で、昭和天皇の侍従を務めた小林忍の日記によると、昭和天皇は「やむをえない」発言への批判が高まっていることを気にかけ、自信を失っていたことがわかる。
 昭和50年11月22日の小林侍従の日記には、次のように記されている。

11月22日(土曜日)
 お上の近況について侍従長のお話(11月22日昼食時の時)。御訪米、御帰国後の記者会見等に対する世評を大変お気になさっており〔中略〕御自信を失っておられるので、末常特派員(NHK)その他記者その他専門家筋の批評が、お上の素朴な御行動が反ってアメリカの世論を驚異的にもりあげたことなど具体的につぶさに申しあげ、自信をもって行動なさるべきことを縷々申しあげたところ、涙をお流しになっておききになっていたと〔後略〕

 訪米や帰国後の記者会見に対する世評を気にかけ自信を失っている昭和天皇に対し、侍従長が専門家の批評を紹介し自信をもって行動なさるべきだと申し上げたところ、昭和天皇は涙を流して侍従長の話を聞かれたそうだ。
 「やむをえない」発言が、米国による原爆投下を全面的に肯定し、多くの犠牲者の死を踏みにじろうという昭和天皇の心から発せられたものであれば、昭和天皇は世評を気にかけることもなく、自信を失うこともなかったはずだ。昭和天皇は発言の真意が伝わらず、言葉足らずで誤解を招き、多くの人を傷つけてしまったと思ったからこそ世評を気にかけ、自信を失ったのではないだろうか。
 それでは「やむをえない」発言の真意は何だったのか、考えてみたい。

昭和50年の記者会見の前提と背景

 まず問題となっている昭和50年の記者会見について確認しよう。
 この記者会見は昭和50年10月31日、日本記者クラブが主催し、皇居宮殿内の「石橋(しゃっきょう)の間」で行われたものである。
 この日の会見はそれまでと異なり、録音録画が認められた会見であった。このためテレビカメラが入り、会見の模様を撮影し、これが全国に放映されることになっていた。おそらく昭和天皇にとっては不慣れな状況であり、相当に緊張されていたであろうことは容易に推測できる。
 そうしたなかで被爆地広島を本拠とする中国放送記者の秋信利彦が昭和天皇に次のように質問した。

 天皇陛下にお伺いいたします。陛下は昭和22年12月7日、原子爆弾で焼け野原になった広島市に行幸され、「広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。われわれはこの犠牲を無駄にすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と述べられ、以後昭和26年、46年と都合三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞の言葉をかけておられるわけですが、戦争終結に当って、原子爆弾投下の事実を、陛下はどうお受け止めになりましたのでしょうか、お伺いいたしたいと思います。

 この質問に昭和天皇は次のようにお答えになった。

 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。

 これが「やむをえない」発言に関する質疑応答の一部始終である。
 まず昭和天皇は、原爆投下を「遺憾」としていることはしっかりと確認したい。
 その上で秋信記者の質問は、昭和天皇にとって予定外の質問であったことも理解しておきたい。秋信記者自身は原爆投下への昭和天皇の思いについて代表質問に加えるよう要望していたが、すでに代表質問はできあがっていた。そのため秋信記者は関連質問としてその場で質問したのであった。
 代表質問は昭和天皇に事前に伝えられていたものと思われるが、関連質問はそういったものではないため、昭和天皇も困惑しながら回答されたことも事実であろう。実際、昭和天皇の回答の様子は、率直にいって立て板に水というようなスムーズなものではなく、非常にぎこちない。
 また秋信記者の質問に先立ち、同じく関連質問として、いわゆる戦争責任の問題に関する質問も昭和天皇に向けられていたことも知っておきたい。昭和天皇は戦争責任については「お答えができかねます」と返答するのだが(このやり取りも今でも語られる有名な場面である)、秋信記者の質問はその質問に続くものであり、昭和天皇としても一連の「難しい質問」として身構え、多くを語ろうとしなかったということもあるのではないだろうか。
 さらに、この記者会見自体が同年9月30日から10月14日までの初の訪米直後におこなわれたものであることも、発言の真意を理解する上で重要な前提となるだろう。昭和天皇はアメリカ各地で大歓迎をうけ、フォード大統領主催の晩さん会では

わたくしは多年、貴国訪問を念願しておりましたが、もしそのことがかなえられたときは、次のことを是非貴国民にお伝えしたいと思っておりました。と申しますのは、わたくしが深く悲しみとするあの不幸な戦争の直後、貴国が我が国の再建のために温かい好意と援助の手を差し伸べられたことに対して、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べることでありました。

とスピーチし、会場は大きな拍手に包まれた。記者会見はこの訪米からの帰国直後であり、昭和天皇としては原爆投下についてあからさまに米国を批判することは、政治的にかなり難しかったことであろう。
 会見後、「やむをえない」発言への抗議・遺憾の意を示した広島県原水禁に対し、宮内庁は「ご自身としては原爆投下を止めることができなかったことを遺憾に思われて『やむを得なかった』とのお言葉になったと思う」との回答を発表する異例の措置をとった。当時の皇太子殿下(現在の上皇陛下)も会見で「とっさの場合こちらの気持ちを十分に表せないこともある」と述べた。宮内庁や皇太子殿下の補足説明も、昭和天皇の真意と世評のずれを気にしてのものと思われる。
 これら記者会見の前提や背景などを見ていくと、やはり「やむをえない」発言は昭和天皇の真意ではなかった、あるいは真意をうまく伝えられなかったと考える方が自然なのではないだろうか。

終戦の詔書に見る昭和天皇と原爆投下

 それでは昭和天皇は原爆投下についてどう考えていたのだろうか。最初に終戦の詔書における原爆投下への言及を考えたい。
 終戦の詔書には次のようにある。

然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ

 昭和天皇は終戦の詔書において、原子爆弾を「残虐ナル爆弾」と表現し、米国による民間人殺害を厳しく糾弾するとともに、その被害の甚大さを率直に認め、さらなる原爆の投下を含むこれ以上の交戦は日本の滅亡のみならず、ひいては人類の文明をも破滅させるだろうとの認識を示すとともに、そんなことになればどのように国民の生命を守り、また皇祖皇宗に謝ればいいだろうかと自身に厳しく問いかけている。
 また終戦の詔勅には次のようにもある。

帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負イ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ

 これは戦争犠牲者全体をいうものであるが、ここに原爆犠牲者が含まれていないはずはない。昭和天皇は原爆犠牲者を含む全ての犠牲者やその遺族、あるいは戦傷者や甚だしい被害を思う時、「五内為ニ裂ク」すなわち五臓が裂けるがばかりであり、深く心を痛めているというのである。
 このように考えたとき、「やむをえない」発言は昭和天皇が原爆投下を肯定する意味の発言ではないことは明らかである。また昭和天皇が原爆犠牲者について何ら思いを寄せていないということもありえない。
 その上で終戦の詔書は

宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ

と結ぶ。「神州ノ不滅」や「国体ノ精華」という文言に疑問を感じる向きもあるだろうが、それは一旦横に置くとして、「総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ」て「世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ」という言葉には、犠牲者を思えば「五内為ニ裂ク」ものであり、原爆投下による犠牲や被害へ深く思いを致すものだが、さらにそこから一歩進めて復興と平和の実現を成し遂げようという強い意志が込められている。
 このような原爆投下への昭和天皇の思いは、終戦を理由づけるために何かとってつけたように示されたものではけしてない。それは原爆投下直後から昭和天皇に被害状況について情報が集積していくなかでの強い思いだった。
 昭和天皇は広島へ原爆が投下された日の午後7時50分、侍従武官長の蓮沼蕃と会っているが、その直前の午後7時過ぎに海軍省から侍従武官府に対し、呉鎮守府の情報としてこの日午前8時頃広島市上空に来襲した米軍機による「特殊弾攻撃」をうけ、市街の大半が倒壊、第二総軍参謀李鍝以下軍関係者が死傷するなど被害甚大である旨の通報をうけており、蓮沼侍従武官長は昭和天皇にそのことについて奏上したものと考えられる。
 翌7日は海軍軍令部総長豊田副武より広島への救護隊の派遣等について奏上をうけている。8日には外務大臣東郷茂徳より7日に傍受した原爆に関する米側の発表やその関連事項、そして原爆投下を転機として戦争終結を決すべき旨の奏上をうけ、昭和天皇はなるべく速やかに戦争を終結せしめるよう希望し、それについて首相の鈴木貫太郎にも伝達するよう指示している。東郷外相はただちに鈴木首相に昭和天皇の指示を伝え、最高戦争指導会議の開催を求めている。
 原爆投下直後より被害状況に接するなかで、終戦の決断に至ったという経緯を踏まえると、終戦の詔書に見える原爆投下への昭和天皇の思いは大変に強いものがある。
 そればかりか、終戦直後も昭和天皇は広島と長崎に侍従を遣わしている。具体的には終戦から半月後の昭和20年9月1日、昭和天皇は侍従永積寅彦を広島へ、同じく久松定孝を長崎へ差遣され、両名はそれぞれ被爆状況を聴取したり、被爆者の弔問などを行っている。特に永積は帰京後、軍が撮影した広島の状況を写したと思われる写真を昭和天皇に提出し、原爆に関する科学者からの説明を申し上げるなどしている。昭和天皇にとって原爆投下は、広島、長崎は、終戦をもって終わりというようなものではけしてなかった。
 こうした背景を前提に「やむをえない」発言の真意を探ると、「悲しみや悔しさはぬぐえるものではないが、生き残った私たちは犠牲者の無念にこたえて、やむをえず今をしっかりと生きていこう」という意味だったとも解釈できる。

昭和天皇の広島行幸

 戦後、昭和天皇は三度被爆地である広島を訪れている。最初は昭和22年(1947)12月、次に昭和26年(1951)10月、そして昭和46年(1971)4月である。
 三度の広島行幸いずれも昭和天皇の原爆犠牲者への思いやりを伺うことができるが、以下簡単に昭和天皇の広島行幸について見てみたい。

昭和22年12月、最初の広島行幸
 昭和天皇最初の広島行幸は、昭和22年12月5日から8日まで、戦後巡幸の一環として行なわれたものである。
 昭和天皇は昭和22年12月5日に山口県岩国市から広島県佐伯郡大竹町(現在の大竹市)の国立大竹病院に向かわれ、楠瀬常猪県知事らの挨拶をうけた後、外科第三病舎において被爆者を慰問された。
 翌6日は終日休養の日であったが、楠瀬知事から戦災後の県勢についての上奏をうけた。この際、昭和天皇は原爆が広島市民の健康や植物の発育などに与えた影響について質問されたという。
 7日は広島戦災児育成所孤児奉迎場に立ち寄られ、原爆により両親・親族を亡くした戦災孤児を見舞われた。その後、爆心地に自動車で向かい、車窓より原爆ドームを臨まれたが、その際に平和の鐘が鳴らされたそうだ。昭和天皇はこの時の状況を

ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなほる見えてうれしかりけり

と御製に詠まれている。続けて昭和天皇は広島護国神社前の広場でGHQ要員や浜井信三広島市長などと面談され、壇上のマイクから広島市民に向かって

広島市の受けた災禍に対しては同情に堪えない、またこの犠牲を無駄にすることなく平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない

との旨のお言葉を述べられた。
 昭和天皇はその後、市立袋町小学校と併設する市立第五中学校に向かわれ、石井義夫袋町小学校長から原爆の被害をうけた同校の概要について上奏をうけた。次に原爆による傷跡を大きく残す県立広島第一中学校を訪問され、バラック校舎での授業を参観された。続いて広島市役所にて原爆により破損した瓦や煉瓦などを御覧になった。
 同日、侍従の永積寅彦氏を広島市戦災死没者供養塔に遣わされ焼香させるとともに、永積氏を広島赤十字病院にも遣わし被爆した患者を慰問させられた。

昭和26年10月、二度目の広島行幸
 昭和天皇二度目の広島行幸は、昭和26年10月26日から29日まで、第6回国民体育大会に出席するためのものであった。
 広島県佐伯郡を訪れた26日は目立った日程はないものの、折しも原爆傷害調査委員会(ABCC)視察のため広島を訪れた三笠宮崇仁親王と面談している。
 翌27日広島市を訪れた昭和天皇は、児童福祉施設の六方学園にて園長の田中正雄より学園の沿革や概況の説明をうけるとともに、田中園長に原爆投下による児童への被爆の影響について質問されている。また工作教室での児童の授業の様子を視察しているが、その際に手指や頸に火傷の痕のある女児を見かけ、田中園長から女児が両親とともに被爆し、両親の死去後に同園に保護された旨の説明をうけると、深い同情を示されている。

昭和46年4月、最後の広島行幸
 昭和天皇最後の広島行幸は、昭和46年4月15日から17日まで、島根県および広島県共催の第22回全国植樹祭に出席するためのものであった。
 15日広島に到着され、広島県知事の拝謁など諸般の日程を終えた昭和天皇は翌16日、広島市中島町の広島平和都市記念碑に立ち寄り、黙とうをしている。この際、広島県に生花を賜い、碑前に供えられている。
 同碑は丹下健三が設計し、原爆死没者の慰霊と恒久平和確立を祈念するため平和記念公園内に広島市により建立された碑であり、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の碑文が刻まれた、よく知られた原爆死没者慰霊碑である。
 次に昭和天皇は、家族などからの世話を受けることができない被爆者のために設けられた施設である広島市舟入幸町の広島原爆養護ホームを訪問し、所長の重藤文夫より同所の概況について説明をうけるとともに、入居者約100名に対面し、

 昭和二十二年に、原爆を受けた当地を訪ね、親しく被災者に面接し、同情に堪えず、世界平和の続くことを思いましたが、今なお療養を続けている多数の市民のあることを聞き、胸のせまる思いがします。
 今後は、互いに明るい気持をもって療養を続け、すみやかに元気な姿になることを希望してやみません。

とのお言葉を述べられた。なお、この訪問に際し、昭和天皇は入居者および日本赤十字社広島原爆病院の入院患者に菓子を賜っている。
 昭和天皇はこの日の感想として侍従に次のように述べたとして、新聞各紙に報じられた。

 原爆慰霊碑の前に立って、いまさらながら昔のことを思い出して胸が痛い。いまなお療養を続けている多くの人々のことを思い、まことに気の毒にたえない。苦しいことが多いと思うが、元気に、一日も早く回復してもらいたい。それにしても、昭和二十二年十二月、原爆被爆直後の様子を思い出し、当時と比較して、よくこれまでに復興したものである。これも県民の勤勉と努力のたまものである。

 こうした昭和天皇の三度の広島行幸を見るとき、「やむをえない」発言が原爆投下を肯定したり、犠牲者の悲哀についてどうも思わない、何も感じないという意味の発言とは絶対に考えられない。
 例えば最初の広島行幸に際し、万余の広島市民を前に昭和天皇が「広島市の受けた災禍に対しては同情に堪えない」と述べたことは、会見における「遺憾」の言葉に通ずるものがあり、「この犠牲を無駄にすることなく平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」との言葉は「悔しいが、それでも前に進んでいかねばならない」という意味であり、それは会見における「やむをえない」との言葉につながってこよう。そうした思いは三度の行幸の日程やそこで記録された昭和天皇の発言、お心のあらわれ全てに通じるものともいえる。こう考えると、昭和天皇の原爆投下へのお考えは、生涯にわたって終始一貫しているといってもいいだろう。

記者会見で語られた沖縄、中国訪問の意志

 以上のことから、昭和天皇の「やむをえない」発言の真意が奈辺にあるかは、おおむね掴めるだろう。筆者も先の大戦における昭和天皇の戦争指導の実態や責任について様々な意見があることは承知しており、大元帥たる昭和天皇に何らの責任がないとはいわない。昭和天皇が「一撃講和」を主張し、昭和20年の一定の時期まで戦争継続を意図していたこともまた事実である。帝国政府の講和の模索が遅きに失し、沖縄戦や本土空襲、ソ連参戦、原爆投下という悲劇を招いたことについても様々な見解があり、昭和天皇の戦争指導の失敗という指摘もあるだろう。
 しかし昭和天皇は原爆投下を肯定し、原爆犠牲者について何らの思いを寄せることがなかった、「やむをえなかった」発言がそれを示しているのだ、という指摘は誤りという他ない。
 「やむをえなかった」発言があった昭和50年の記者会見で、昭和天皇は沖縄行幸を望んでおられること、機会があれば中国を訪れる意志があることを表明している。どちらも戦争で大きな被害を被った地域・国であり、昭和天皇としては絶対に訪問したかったのであろう。それは生涯叶うことはなかったが、戦争とその反省という文脈のなかで沖縄や中国を訪れたいと願う昭和天皇が、どうして原爆投下を肯定し、その犠牲者・被爆者を無下に扱うことがあろうか。
 昭和天皇は終戦間も無く、「戦争の予防には核兵器が有効では」という米紙特派員の質問に、「勝利者も敗北者も、武器を手にしては平和問題は解決し得ない」と答えたという。核抑止論を明確に否定する昭和天皇のこの発言は、きわめて現在的な意味を持つものだ。
 「五内為ニ裂ク」までの憤怒と憐憫を心に秘めながらも、「総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ」、全ての犠牲者のために復興と繁栄をなしとげ、そして「武器を手にしては平和問題を解決し得ない」との立場で核廃絶を目指すなかで、原爆犠牲者の無念にこたえることが、今を生きる私たちの進むべき「やむをえない」道なのではないだろうか。
 あらためて昭和天皇の「やむをえない」発言に向き合う必要がある。

参考文献

・検証 ヒロシマ 1945~95 <26> 天皇とヒロシマ:ヒロシマ平和メディアセンター
・『昭和天皇実録』第十、第十一、第十五、第十六(東京書籍)
・小林忍、共同通信取材班『昭和天皇 最後の侍従日記』(文春新書)
・終戦の詔書 1945年8月14日:国立国会図書館

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昭和22年、広島市にて市民の奉迎に帽子を振ってこたえられる昭和天皇

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