浦島太郎の二次創作『裏島物語』

二次創作のコンテストを主催する「ブックショートアワード」で2018年度2月期優秀作品に選ばれた『裏島物語』を掲載します。

浦島太郎に妻と子供がいたと想定し、その妻おかめの視点から描いた物語です。太郎の帰りを一途に待つ妻の姿が中心ですが、今思えば太郎なんか忘れて新しい生活を送る妻という話でもよかったかなという気がします。

ご照覧いただきますと幸いです。

あらすじ:
海に出掛けたまま消えたとされる浦島太郎。彼には若い妻と幼い息子がいた。妻のおかめは、地元の漁師と組み、海人漁をして一家を支えていた。太郎がいつか帰ってくると信じながら。残され、生きることを迫られた女の苦悩と葛藤。玉手箱の隅に隠された、浦島太郎の裏ストーリー。


***


おかめは怒りに震えていた。拳を握りしめ、海を睨む。
厠の戸を開けるなといつも言っているのに、あの男はわざと覗いた。それは絶対にわざとだった。三平の、変に口を開けたにやつき顔。汚らしくはみ出た鼻毛。卑猥な目つき。恥部を見られたときの情景が、また脳裏をかすめる。あどけない顔は火のように熱くなった。

透明な波はどこまでも静かに揺れている。

船べりに垂れ下がった縄が、ピクピクと動く。おかめは反応しなかった。これを引っぱると、あの醜い顔が浮かび上がってくるのだ。煮えたぎった感情も、ぜんぜん冷めきらない。縄が何かの意志を示すように振れ動いても、突き放すようにただ見やるだけである。

「おっかあ、縄、縄」

鼻水を垂らした息子が、心配そうな眼差しを向ける。まだ三つにしかならないわが子の瞳に、吸い込まれ沈みそうになった。おかめの手は自然と動き、縄の先にある体を引っ張り上げた。

わかめのような黒いもじゃもじゃがうっすらと映りこむと、水面から大きな顔が飛び出てきた。ごつりとした指が船べりにかかり、ふんどしをしめた巨体を船上にのし上げる。その手には、アワビやサザエなどの貝殻がつかまれていた。

「今日は大漁だ」
三平はそう言うと、貝殻を桶の水に浸した。
「どうした、まだ怒っているのか。知らなかったんだべ」
三平の言葉にもおかめは背を見せている。
「厠に入るなら入ると言わねえと」
「言ったべ! とぼけるな」
「ふん、かわいいやつだ」
おかめはムッとして三平を睨んだ。日に焼けた黒い顔が日光を浴びて白く浮いている。この顔から歯の浮く言葉を言われても、吐きそうになるだけだった。
「黙ってしたがうと思ったら、大間違いだべ。こんど、同じことしたら、船を下りるからな」
「勝手だな、俺がいなかったら、鼻たれ小僧ともども飢え死にしたろうに」
おかめは何も答えず、小太郎の手を引っぱって屋形に引っ込んだ。
船の周りには、何もない。
青い海がどこまでも薄情に続いている。
おかめの心は大きな波に流されそうになり、固くかさついた指で小太郎の小さな手をつかんだ。


松籟が鳴る。白砂を縁どる松林は、夜を待つようにひっそりと梢の波を立たせている。まるで海の背から伸びる影みたいだ、とおかめはいつもながら思う。白い砂浜も海岸の岩場も松林も、海という巨大な生きものの一部にしか見えない。

ひとりの男が、松の幹に寄りかかっている。おかめは持ってきた盥を男に差し出した。黒い貝殻やら魚やらがころがっている。

おかめはこの男についてよく知らない。何でも罪を負って都から流れてきた流人ということだった。それ以上の素性は知らないし、知ろうとも思わなかった。
「今日は弾んだべ」
「ありがたい」
「気持ちはいらんから銭をくれ」
流人が身にまとう絹地に目をやりながら、おかめは言った。
「たいそうな生地、いくつも持ってんだな」
「もらいものだ」
「洗わなきゃ着れないべ? おらが洗う、これでどうだ」
そう言って流人の顔の前で手のひらをかかげた。これはアワビ5個分の銅銭という意味だ。
流人は笑った。
「やめておけ。塩水で洗われたらかなわん」
「山の水だ、きれいだぞ」
流人は聞こえないとばかりにアワビの物色をはじめた。
「何か、銭になる用事があれば」
「どうして漁にこだわる」
「え」
「ここを離れて、もっと入りのよいクチを探せばどうだ」
「それはできないんだ」
「なぜだ」
「なぜって、まだ……死んだと決まってねえ」
「……しけにやられたんじゃないのか」
「最後はどうなってるか分かんないべ。しけで船が転がったとか言っても、太郎の身体はどこかの島に流れてるかもしれねえし」
流人を見るおかめの目は射るような鋭さを帯びていた。
流人はたまらず苦笑いして言った。
「縫い物はできるか」
「ああ」
「では、ほころびの繕いを頼む」
流人はおもむろに上着を脱ぎだした。なかから血色のよい引き締まった肌身があらわになった。
「助かる」
おかめの返事の色は、急に現金なものになった。
「きれいに直せよ」
「うん」
おかめは流人の肉体を横目でそっと見た。若い。そして、たくましい。三平の朽ちかけた上半身を見慣れているおかめにとって、若くはじけた姿態はまぶしかった。筋骨の太さや肉付きは太郎にかなわないが、都育ちらしく白くて美しい、しなやかそうな麗体だった。

おかめはさとく目を逸らして背中を向けた。
「できたら、持ってくる」
「うむ」
おかめは松林を抜けていった。地平線に沈む夕日が赤い光を忍ばせていた。


流人と別れたおかめは、小太郎と老いた義父母が待つ家へ向かった。足取りは重い。疲れがたまっている。海人漁でできた縄ダコが痛々しい。これを見るたびに、女としての自分が、風に吹かれて消えていく砂絵のようで、さみしくなる。

おかめは胸が苦しくなった。三平にしたがい、素性の知れぬ都の男にへつらい、金銭をねだり、それでも残された者は歯を食いしばって生きていかねばならぬ。小太郎のためだ。一人息子を失った義父母のためだ。もっと言えば、帰ってくるかもしれない太郎のためでもあった。そうは言いながら、理屈じゃない感情にふと襲われ、いっそ海の藻屑になったほうが楽だろうと自棄する気持ちになることも、一度や二度ではない。

「小太郎」
向こうから、爪を噛みながら立っている息子の姿が見えた。母の帰りを待ちわびたのか、家を出て迎えにきたらしい。
「待ってろって言ったじゃないか」
そう言いつつも、甘えてくるわが子への愛おしさがこみ上げてくる。
ふと、松林の向こうの砂浜で、わいわい騒ぐ子供たちの声が耳に届いた。
「亀だ」
おかめは小太郎のつぶやきをうけ、砂浜のほうに目を向ける。数人の子どもたちがよってたかって小さな亀をいじめていた。

「こら! お前たち、やめないか!」
おかめはそう叫びながら砂浜に走っていき、亀をかばうように子どもたちの前で仁王立ちした。
見ると、亀が甲羅を砂につけてもがいている。小さな体をひっくり返してジタバタするところを見て楽しんでいたらしい。
「あ、三平の嫁だ」
「なっ」
おかめは絶句した。
「まだ嫁じゃないべ」
「でもそのうち嫁になるべ」
「だまれ!」
そう叫ぶ口元は震えている。
「かめが亀を助けに来たぞ」
「亀の嫁入り、婿は鼻毛の三平」
げらげらと笑いながら子どもたちは走り去った。
「おっかあがなんで三平の嫁だ?」
「たわごとだ、忘れっ」
おかめはそう言うと、ひっくり返った亀をやさしく起こした。
「もう、あんな連中に捕まるんじゃないぞ」
亀を抱き、海にそっと返してやった。
「おっとうはいつ帰ってくるだ」
「お前が悪いことせず大きくなるのが先だ。そしておっかあと一緒に漁をやるようになって、こんなでけえ魚釣るころには、帰ってくるさ」
「ねえ、おっとうに会いにいけねえのか」
「言ったろ、おっとうはいま忙しいって。それに、ずっとずっと遠い、あのお日様の近くまで魚取りに行って、偉い人に頼まれて漁に精を出してるんだぞ。だからお前も、いい子にしておとなしく待つだ」
「そこ、どんな国だ」
「魚がいっぱい泳いでいる、にぎやかな国だ」
おかめは、太郎がいなくなって以来、息子に言い聞かせている話を繰り返した。小太郎に言いながら、自分にも言い聞かせた。心に刻み、明日の漁の力にするために。
黒い松林に母子の姿が隠れた。夜は静かに海の村を包もうとしている。


三平との漁生活は、おかめを暗くさせ、やつれさせるばかりだった。

三平は地元生まれの漁師で、年は50を過ぎ、年老いた母とふたりで暮らしていた。この地では珍しく、海人の手法で魚をとっていた。女房と組んで海人をやっていたが、十年前に先立たれて男やもめになったのである。その後は網漁に切り替え、イワシやタイを捕って母とふたり、ほそぼそと暮らす日々だった。

「海人をやらないか」と三平に誘われたのは、太郎を失い途方に暮れていた矢先のことだった。素潜りのほうは俺がやる、お前は縄を引いて浮き上がるのを手伝ってくれればいい。お前も船がなければ漁に出られないだろうし、ましてろくに道具も触ったことのない身、そんな状態で魚を捕るのは無理がある。お互い得のある話で、損はないだろう。

そのときはおかめも、ただ親切で三平が手を貸してくれると思い、やると決心した。せまい漁師村のこと、三平は見知らぬ顔ではない。太郎からも、三平は義理堅い男だと聞かされていた。何より、その話に乗れば路頭に迷わず食い扶持を押さえることができる。おかめにとって断る理由は見つからなかった。

それが世間知らずからきた甘さだと気づくまで、さほど時間はかからなかった。おかめからすれば、三平など男のうちに入らなかった。ただ朽ち老いていく体など、どこを見ても意識しようがない。だが三平は違った。

若い女と一日船に乗る生活を送れば、いやでも欲情がそそり立ってくる。船に乗り出してまもなく、三平のなめるような視線をおかめは感じ取るようになった。あいつが自分の腰つき、胸元、膝小僧に目を送ってくるたび、汚い舌で舐められるような気持ち悪さを覚えた。ふたりきりになるのは嫌なので、小太郎を一緒に乗せることにした。それでも、三平の呼吸する場所にいるのは息苦しい。

三平の陰湿なところは、堂々と迫らず、影で企みを演じるあたりにあった。それがおかめを余計にうとましくさせたのである。先だっての厠騒ぎのようなことは、以前からいくらでもあったのだ。

いやらしい眼をぶつけてくるくらいなら、まだよい。これは手に負えないと思いはじめたのは、三平が自分を女房にしたがっているということに、察しがついてからである。

そんなきな臭い男の気持ちを、おかめはここ最近とくに強く感じるようになった。三平はしきりに、年よりの母親をダシに使っておかめの同情を誘おうと試みる。うちの母はもう長くない、だからはやく安心させたい。俺がひとりでいるのを心配し、このままじゃおめおめとあの世にいけないと愚痴をこぼす、だからすぐにでも所帯を持たねば、と言うのである。まったくもって、おかめの知った話ではなかった。

子どもたちのからかいは、おそらく大人たちの噂を受け売りしただけだろう。火元はほかでもない三平に違いなかった。
今では、一日もはやくこの男から解放されたいと願っている。はやく自分で船を買えるだけの銭をためなければならない。が、そう簡単にこの男がそれを許してくれるとも思えなかった。

「お前もそろそろ、トマエやれるべ」
三平がそういうと、またその話か、とおかめは思った。

海人漁の役割は、岩のある海底まで潜って貝殻や海藻を採取する「トマエ」と、船上からトマエを引き上げる「フナド」に分かれる。おかめは三平と海人の仕事をはじめて以来、ずっとフナドを受け持ってきた。漁のイロハも分からない身で、技術を要するトマエをやり切るのは無理があった。それでも、同じ船にのって二年近くたつことだし、お前もそろそろトマエをできるようになって俺の負担を軽くしてほしい、というのが三平の言うところである。

おかめには何でもやる覚悟はできていた。が、トマエをやるには、上半身裸になって潜らねばならない。三平に邪まな気持ちがなければよいのだが、とてもそう受け取れる雰囲気ではなかった。

「最初に、お前はトマエをやらなくていいって言ったべ。海人は役を決めてやる。変わることはしなくていいって。最初にそう言ったべ」
おかめはいつもの返答で突っぱねた。
「トマエは体力を使う。もうオレは年だ、体に堪える。なあ、変わってくれないか」
いやらしい目つきをしている。この男は本当に正直だとおかめは思った。
「体がきついんだったら、船を下りればいい」
「何?」
「おら、小太郎とふたりで、やる」
三平は、鼻水を垂らして貝殻で遊ぶ小太郎とおかめを交互に見て、豪快に笑った。
「悪い冗談だ。これだから女は。海をなめすぎだ」
自分がいかに狂ったことを言っているか、それはおかめ自身がよく分かっていた。そう答えてしまうほどに、自分を縛る男から一刻もはやく離れたいという気持ちがおかめのなかで大きくなっていた。

太郎はなぜ遠くへ行ってしまったのか。妻と子、年老いた父母を残して。なぜあの日、行くなといったのに無理をして、荒れる海へ出ていったのか。小さくなる背中を思い出し、おかめは泣きそうになった。


漁師がまたひとり、亡くなった。原因は船が大きな海の生きものにぶつかったか何かで転覆し、そのままおぼれ死んだという。いけなかったのが、その漁師が酒を飲んでいたことである。船の上でも多少の酒は仕方ないが、酒好きが高じると不運がかさなり取り返しのつかないことになる。漁に生きる男たちは、海から生をもらい、死を与えられる運命にあった。

不幸な話を聞いて、おかめはまるで自分の身に降りかかったかのように感じ、暗くなった。

この地では、海の事故で人が亡くなると、カミの怒りを鎮める儀式が行われる。海のカミは赤いものを好むと信じられていた。

「ぬさ」と呼ばれる供物をささげるための儀式は、黎明の時間、岬近くの海辺で行われる。夜明け前から朝日が昇るまでの時刻は、あの世といちばん近くなれる時刻である。陸地から突き出るようにそそり立つ岬は、ときおりカミが姿を現す場所である。そんな考えが古来あり、それに沿うかたちで鎮魂する習わしだった。

薄墨の夜と溶け合う海原には、幾艘もの船が漂う。最前に浮かぶのは漁師頭の船で、頭と夫を失ったみるが乗っている。おかめは白い服をまとった女の背をじっと見つめていた。みるの表情は見えないが、その背中からは彼女の哀しみがいやというほど伝わった。

頭が舳先に立ち、鯛に刃物を入れる。滴る血が、ほの暗く映える水面を赤い点で汚した。血の雫がつくり出した輪郭は、得体の知れない海の生き物のようにも見える。二年前にその異形を見たとき、これはカミの姿かとおかめは思ったものだった。

―ああやって並んで立っているところを見ると、ほんとの夫婦みたいだべ。
―父娘であってもおかしくないべな。

後ろの船から軽口が聞こえる。おかめは無表情を決め込んだ。
三平の口元が少し緩む。

遠い山上には月が浮かんでいる。二年前、あの日も月はかかっていた。
あのときの太郎は、どこへ行っただ? お前は見てただろ?
心のなかで、おかめはそう問わずにはいられなかった。


「何でカミが怒ると船が転がるんだ?」
盥の貝を吟味している流人に、おかめは聞いてみた。
「怒ったから不幸になるわけじゃない、怒らせるようなことをしたからだ」
流人はおかめの疑問より、魚の調べに真剣だ。
「じゃあ、ぬさをあげたらカミの怒りが収まるのはなんでだ?」
「お前さんは欲しいものをもらったらうれしくないのか?」
「カミはえらい存在のはずだべ、欲しいものもらって喜ぶんじゃ、人間と一緒じゃないか」

流人はうるさくなったのか、あきれるように笑うだけで何も答えない。
「それだけ元気になれたら立派なもんだ」
「はあ?」
「カミに文句を言うほど元気なやつは、都でも見たことない」
流人は銅銭をおかめに渡しながら、そう言った。
「俺もいつまでも力を貸してやれんからな」
「え」
「そろそろこの村ともおさらばだ」
「帰るのか」
「ぬさの効果が表れたみたいでな、こっちはえらいカミじゃないから高いもんさ。贈り物は地道にしておくもんだぞ」
「うちの人が、待ってるものな」
おかめは目を細めて言った。都で待つ流人の妻と子の姿が思い描かれた。
「お前さん、どうする? 俺というクチがなくなれば困るだろう」
「それがなきゃ餓えるわけじゃないべ」
「どうだ? 都に来ぬか? クチを見つけてやってもよいぞ」
おかめは一瞬考えた。が、首を横に振って明るく笑った。
「もう魚と一緒だ、都なんかで息できると思えねえ」
おかめの返事を聞くと、流人はそれ以上何も言わなかった。
「そういえばこの間、お前の坊主とたまたま会ってな、おもしろいこと言ってたぞ」
「なんて」
「おらのおっとうは死んでねえ、魚のいっぱいいるおもしろい国へ旅に出かけて、そこで精を出している。そのうち土産をたくさん背負って帰ってくるんだ、とな。もちろん、かかあの受け売りだろうが」
おかめは流人から目をそらし、松林の梢に目を向けた。一羽の鶴がとまっている。

「そういう話は嫌いじゃない。都に帰って、土産話になる。おもしろい親子がいると。浦島太郎物語り。美しいじゃないか」
「鶴って長生きするそうだな」
おかめは鶴を見ながら言った。
「ああ。鶴も松も、千年生きるらしい」
「気が遠くなるな」
「亀はもっと長生きするそうだぞ」
「おら、長生きしたいと思わねえ」
「お前さんほど強かったら、鶴や松といい勝負だ」
流人は甲高く笑った。
「千年も、何も変わらないであそこに立っているのか」
「変わらないだろう。松など変わる必要もない」
そうだろうか、とおかめは思った。松の木も、潮風を受けていれば葉も幹もぼろぼろになるのではないか。見かけは変わってないように見えて、中のほうでは何かが減ったり増えたり、あるいは落ちたり取れたり、知らないところで、少しずつ変わっていくのかもしれない。もとのかたちが本来の姿であったとしても、いまあるかたちがいまのすべてなのだ。

海も、何も変わらないように見えて、実は山の川や天の雨が加わり混ざり合い、絶えず移ろっている。

流人はそんなおかめの考え事には気づかず、調子よく笑いながら松林を抜けて行った。
鶴は枝から離れ、空に大きく弧を描いて飛び去った。海のほうへ消えていく姿を、おかめはじっと見つめていた。


次の日、おかめは流人からあずかっていた絹の服を売った。

以前、生地商人に見てもらったところ、かなりの値打ちになることが分かった。おかめはその場で売りたい欲にかられたが、さすがにそれはこれまで世話になったことを考えるとためらわれた。が、流人が都に帰ることになり、このまま消えてくれたらこの絹は自分のものになったも同然である。幸い、流人は手直しの確認も催促もしてこない。忘れたのか、それとも、自分の気持ちを汲んで忘れたことにしたのか。もはやどちらでもよかった。

この金で船を買おう。そしてみるを誘うのだ。一緒に海人をやろうと。ほかの国では、女ふたりで海人をやっていると聞く。夫を失った女たちにとって、海女になるのはむしろ自然な道だった。

黙って服を売られたことを知ったら、流人は怒るだろうか? まあいい。そのときはそのときで、お金をためて返せばよいのだ。このまま三平の奴隷でいるのを我慢するよりはましだ。もはやおかめに迷いはなかった。


出漁前、おかめは三平と話をし、別の船でやっていくことを告げた。三平は「そうか」と一言もらすだけだった。貸しだの恩だのうるさく言い立てるかと思いきや、意外とおとなしくて拍子抜けした。その静かな様子が、かえって不気味にも感じられた。

いつものように船は三人を乗せ沖合に出た。風はなく、おだやかで、やわらかい陽の光が海面に落ちている。三平はただもくもくと竿だけを動かし、船を進めていく。

小太郎が飛び跳ねると、「うるせえ」とはじめて三平が口を開いた。三平の不機嫌の原因は朝の話にあるのは明らかだった。おかめはなるべく素の心を保ったが、三平の背中をみると何とも重苦しい気持ちになり、さっさと今日の仕事を終えたいと思った。

素潜りの場所までやってきた。トマエの三平はそこで服を脱いでふんどし一丁になる。おかめは縄を引っぱり、三平のふんどしの上から縄をまく。でっぷりと張り出した腹の下にあて、慣れた手で括り付ける。へその前で縄を絡ませようとしたそのとき、三平のふとい手が伸びておかめの手首をつかんだ。

「こんな細い手して、海の仕事がまともにつとまるのか」

おかめが振りほどこうとしても、三平の右腕は岩のように動かない。

「お前にトマエが務まるか、オレがみてやる」

三平はおかめの身体を引き上げ、胸元に手を伸ばして強引に服を脱がそうとした。おかめの抵抗はまったく通じず、腰から引き寄せられ、そのまま覆いかぶさるように押し倒された。

三平の顔が胸にむしゃぶりついてくる。おかめは咄嗟に髪の毛をつかんで耳にかじりついた。つぶれるような声を発して三平が横に倒れる。おかめは立ち上がり、棒のように立っていた小太郎の手を引いて屋形のほうへ走り出した。

突然後ろから引っ張られて首が反りかえり、青い空が開けた。何事かと思ったら、首に縄がきつく食い込んでいた。思わず身をよじらせ、バタバタしてもがく。

頭の奥までぎゅっと締め付けられるようで、くらくらした。どんどん力が失われ、膝も折れた。小太郎の泣き叫ぶ声が、遠くから聞こえてくる。

自分はこのまま死ぬのだろう。そう思ったとき、何か黒い物体が突然見えたような気がした。それは、魚の目のように見えた。魚の目は、前を向いているのか横を向いているのか、太郎に聞いたことがある。そのとき答えた太郎の顔が、あざやかによみがえった。声まではっきり聞こえた。ああ、やっぱり生きていたんだね、じゃあ、代わりにおらが死ぬのか。そのほうが、みんな幸せだべ……。

魚の目が、すーっと離れて遠くなる。一匹の魚がひれを動かす姿に変わった。なぜか、自分は海に溺れている。

サブーーーーン、と、水が砕け散り、体が浮き上がったと思いきや、空の景色が目に飛び込んできた。

おなかの上には小太郎がのっている。背中に感じる、何か冷たくて固い感触。横目には、ひっくり返った船、その下で溺れる三平の姿。脇では子亀が泳いでいる。

亀? 亀の上にいるのか?

いま、黄泉の国に向かっている。きっとそうだろう。

腹の上で、小太郎が動き、口から水が噴き出て顔にかかった。何とも言えないしょっぱい味が、舌の先で走る。むせるような嫌な臭いが鼻腔を突く。体の節々がヒリヒリして痛かった。スーッと体の力が抜けて、楽になり、浮いたような心持になった。

おかめは笑った。急におかしくなって。顔いっぱい塩水まみれになりながら、アハハハハ、と笑った。塩水のせいか涙のせいか、空がにじんで見えた。


流人は別れの言葉を告げようと松林のところで待っていたが、あの日以来おかめは現れなかった。近くにいた漁師にたずねてみると、何でも今は女ふたりで海女をしているらしい。前の船の男は大きな亀にぶつかって船が壊れ、今はケガの養生に努めている、とのことだった。その際おかめと息子が無事だったのはなぜかと聞くと、亀に助けられたとかどうとか、そんな腑に落ちない話をされて要領を得なかった。浦島太郎の話といい、ここの村人たちは、空想に長けて物語るのがうまいことよ、と流人は思った。

あずけておいた服もあることだし、もう一回くらいは会えると思っていた。それは甘かったかもしれない。あちこちに擦り傷を負いながら、歯を食いしばって生きる女である。やわらかい絹地など見たら食らいつくに決まっているのだ。せめてものはなむけと思ってあきらめることにした。

流人は妻と子の待つ都へ立った。

流人と共人をのせた船は、朝凪の海をなでるようにゆっくりと、日の昇る方角へ進んでいく。カモメが悠然と空を飛ぶ。波の音と山並みと、カモメの鳴き声。海とともに生きる村人たちの素朴な生活。歌でもひとつ詠もうかと思ったそのとき、近くで一艘の船がとまっているのを流人は見た。

女ふたり。そのうちひとりは見覚えがある。おかめだった。

おかめはこちらに気づくことなく、服を脱ぎ始めた。焼けた肌にくっきりと白く張り出した乳房があらわになり、流人は息をのんだ。潮気を含む陽光に淡く照らされた美体は、すばやく海に飛び込み幻のように消えた。

流人は思わず身を投げ出しそうになった。が、共人にとがめられ、船べりにかけた足を静かに下ろした。ここで歌を詠むのはよそう。流人は心に引っかかるものを打ち払うように、屋形のほうへ姿を隠した。《完》


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