二・二六事件を考える⑨奉勅命令下り、蹶起将校ら投降す
「二・二六事件を考える」記事
2月28日午前5時、首都の治安回復にあたっていた戒厳司令官に「奉勅命令」が下された。
午前五時奉勅命令を戒厳司令官に交付す。これに基づき司令官は戒厳命令を下し、奉勅命令と共に陸相官邸において小藤大佐(※)にこれを内示す。もし維新部隊がこの命令に服し、撤退すれば可なるも、然らざる場合においては、正午又は午後一時を期し攻撃を命ずるに決す(杉山元『杉山メモ』※)
※小藤大佐は蹶起部隊が戒厳部隊として編入された歩兵第一連隊連隊長
※当時参謀次長だった杉山元中将の手記
「諸子の行動を認める」とあった陸軍大臣告示を受け、勝利に浸っていた蹶起将校たちだったが、この奉勅命令には揺れるしかなかった。
ここまで蹶起軍を引っ張ってきた磯部浅一は、自分たちの行動に理解を示していたはずの軍首脳部が一転して「弾圧」する側に回ったという情報を耳にし、一夜にして形勢が逆転したことを知った。
余は本早朝二、三の情報より推察して、情況は一夜の内に逆転して維新軍に不利になっていることを考えたので、少佐の勧めに従い司令官に面接して赤心を吐露してみようと決心した。(磯部浅一『行動記』)
磯部は司令部を訪ねるも、いろいろ言い訳されて門前払いを食らう。
「即撤退しなければ鎮圧」。統帥部の態度は完全に強硬へと転じていた。
蹶起将校たちも、「撤退か、徹底抗戦か」で揺れ動く。
栗原が「統帥系統を通じてもう一度お上にお伺い申し上げようではないか。奉勅命令が出るとか出ないとか、一向にわからん、お伺い申し上げたうえで我々の進退を決しよう。もし死を賜るということにでもなれば、将校だけは自決しよう。自決する時には勅使の御差遣くらいをあおぐようにでもなれば幸せではないか」との意見を出す。(略)統帥系統(小藤ー堀ー香椎)御上に吾人の真精神を奏上し、お伺いをするという方針は、この際極めて当を得たるものなることを感じたので、余は「ヨカロウ、それで進もう」という。
村中は同志集合の席で、「自決せねばならなくなるかもしれん、自決しよう」という。余は「俺はイヤダ」と吐き棄てるように答える。そして香田、村中、栗原を各個に小室に伴いて、「一体、ほんとに自決するのか、そんな馬鹿な話はないではないか。俺が栗原の意見にサンセイしたのは、自決するというところではない、統帥系統を通じて御上に吾人の真精神を申上ぐべくお伺いするというところだ……」(磯部浅一『行動記』)
奉勅命令は鉄の結束を誇っていた蹶起将校の連帯を見事に打ち砕いてしまった。
蹶起軍が占拠した各建物は包囲された。バリケードをめぐらして戦車が進入するも、攻撃命令は下されない。正規軍としても同士討ちは何としても避けたかった。皇道派に近い将校が蹶起軍司令部に派遣されて粘り強く説得する。中橋部隊(近衛歩兵第三連隊)からは脱走兵も現れた。坂井部隊(歩兵第三連隊)では、坂井中尉が「何も言ってくださるな。私は下士官と兵を帰します」といって自主判断で部隊に解散を命じた。
余は一人になって考えたが、どうしても降伏する気になれぬので、部隊将校が勇を振って一戦する決心をとってくれることを念願した。その頃、飛行機が宣伝ビラを撒布して飛び去る。下士官兵にそれが拾い取られ、手より手に、口より耳に伝えられて、たちまちあたりの雰囲気を悪化してゆく。「下士官兵に告ぐ、お前たちの父兄は泣いている、今帰れば許される、帰らぬと国賊になるぞ」といった宣伝だ。余は「もうこれで駄目かな」と直感したが、もう一度部隊の勇を鼓舞してみようと考え、文相官邸に引き返す。嗚呼、何たる痛恨事ぞ、官邸前には既に戦車が進入し、敵の将兵が来ている。しかも我が部隊は戦意なく、ただボウ然としているではないか。(磯部浅一『行動記』)
強硬論一点張りだった磯部の革命魂も尽き果てようとしていた。同じく徹底抗戦を主張していた安藤に「兵だけでも帰そう」と、断念を持ち掛けるまで後退する。
自決した歩三の野中四郎大尉を除き、蹶起将校たちは大人しく軍当局の手にかかり法廷の場で争うことにした。
連日連夜の疲労がドット押し寄せて性気(正気)を失いて眠る。夕景迫る頃、憲兵大尉岡村通弘(同期生)の指揮にて、数名の下士官が捕縛をかける。刑務所に送られる途中、青山のあたりで昭和十一年二月二十九日の日はトップリと暮れてしまう。(磯部浅一『行動記』)
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