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【日米戦争の反省】日本軍にあった“情報軽視の文化”

なぜ日本軍は日米戦争に敗れたか。

敗因のひとつに「情報軽視」がありました。これは日本軍を相手に戦った米軍も指摘しています。

日本では、陸軍大学校や航空将校養成学校にも、情報学級もなければ特殊な情報課程もなく、わずかに情報訓練が行われたこともあったが、それも戦術や戦史、通信課程の付随的なものに過ぎなかった(日本を占領した米軍による日本軍調査書『日本陸海軍の情報部について』S21.4)

※『大本営参謀の情報戦記ー情報なき国家の悲劇ー 堀栄三著』より引用

日本軍は情報教育に力を入れず、ゆえに情報専門の人材が育ちませんでした。情報を正しく解析できる上官がほとんどいなかったといっても過言ではありません。作戦指導にあたる上官がこれでは敗戦例の山が築かれるだけです。実際そのような例はたくさんありました。

戦争における作戦計画も兵站計画も、その可能性や有効性も含めてすべては周辺に散らばる情報をもとに考察が加えられ、かたちになります。まず情報が先にあり、作戦計画や兵站計画が立案されるのが筋なのです。にもかかわらず、日本軍の場合はまず最初に「望む作戦」があり、集められる情報も、すべてその計画立案に都合のよい性質のものばかりが選ばれ、都合の悪い情報は切り捨てるか、目をつぶって「見なかったことにする」といった有様でした。

組織の力関係でも、日本陸軍の大本営参謀本部では「作戦課」が発言力も権限も大きく、一番偉い存在であったといいます。情報課などは作戦課の下の下くらいにおまけに存在していたようなものだったらしく、米英課なる独立した部署が設けられたのも昭和17年の4月。つまり日米戦争がはじまって五か月経ってからただいま戦闘真っ最中の敵国専門のインテリジェンス課が創設されたといいますから、軽視もいいところです。

日本軍の、「作戦ありき情報軽視」の組織体質がよくわかる例はいくつもあるのですが、「台湾沖航空戦の“大戦果”を信じて強行されたレイテ決戦」などは、情報を都合よく取捨選択して作戦を強行した典型例といっていいかもしれません。

昭和19年10月12~15日にかけて、台湾に猛襲をかけた米機動部隊を日本の陸海航空部隊が迎え撃つ「台湾沖航空戦」が惹起しました。戦闘後に日本海軍が発表した戦果は、「撃沈空母十一隻、戦艦二隻、巡洋艦もしくは駆逐艦一隻」という、日本海海戦を演出した東郷平八郎も三歩下がって兜を脱ぐような赫々たるものでした。海軍発表を受けた陸軍は米機動部隊の壊滅的打撃を確信。フィリピンのルソン島に集中していた兵力を南のレイテ島に移動して上陸米軍を一挙に叩く「レイテ決戦構想」をぶち上げました。

ところが、海軍が発表した「台湾沖航空戦」の戦果は、絵空事の虚報であり、大々的な誤報でした。実際のところ米軍空母はまったくの無傷、日本側が与えた損害は巡洋艦二隻を大破させたのみの軽微なものだったのです(戦後の調査で判明)。前線から続々と送られてくる撃沈轟沈の戦果報告を司令部がろくな確認もせず鵜呑みにし、誤った戦況判断を下したのでした。

レイテ湾近くでは米軍の大輸送船団が堂々と航行し、空襲部隊は連日のように日本の地上部隊を脅かす。さらに、捕虜の米パイロットが憲兵の尋問を受け口にした「米艦隊の空母12隻がレイテ湾沖で航行中」という敵軍情報。どう考えてもこれらの情報は“大戦果”とまったく辻褄が合わない。「台湾沖航空戦の戦果はどうも怪しい」。そんな報告が司令部にも大本営にももたらされたのですが、“米機動部隊壊滅”が前提のレイテ決戦はそのまま強行されることになりました。いざ戦ってみると、レイテ島に上陸した米兵力は予想を大きく上回り、日本の守備隊は大苦戦。連合艦隊も圧倒的航空兵力を誇る米機動部隊の前に敗れ、戦艦武蔵を失うなど壊滅的打撃を受けました。

勝った勝ったの華々しい戦果報告は頭から信用して、厳しい現実を突きつける冷淡な情報、意にそわない不快な情報には目を逸らす。「人は都合のよい情報だけで世界をつくる」なんて言いますが、日本軍の敗れ方はまさにその呪縛にはまっての自壊でした。

日本軍に情報を解析する能力がなかったというより、それ以前の問題として、情報を軽視する気風が敗戦に追いやったのだと思います。日本軍は情報を侮り、情報に敗れたのです。

台湾沖航空戦はほんの一例に過ぎません。日本軍の戦いぶりはもちろん、開戦前の日米交渉や終戦工作の動向をみても、日本は混じりけのない「情報眼」を持てず終始苦しんだような気がします。

日本軍の失敗から、現代の日本国家は何を学ぶべきか? 

この敗戦から学べることは、「情報を生かすも殺すも、人次第」「情報の軽視は国家をも滅ぼす」ということではないでしょうか。

そして、日本人は、欧米の人たちより、合理的な情報の取捨選択と解析が苦手な気質かもしれない、ということ。

日本人はどうしても、その場の空気や情緒、前例主義にとらわれやすく、合理的な思考が働いてもそれらに押し流されてしまう、そんな弱さを抱えているような気がします。

ただ、弱点を弱点として知ることは大事です。「己を知る」は、二度と同じ失敗を繰り返さず成長してゆくための第一歩でもありますから。

反対に、弱点を弱点と認識せず、過去の失敗から何も学ばず、せっかくの教訓も無駄にするようでは、いつまでも苦しい状況が続きます。

今の日本国家はどうでしょうか。己を知り、過去の失敗から学び、教訓を生かしていると言えるでしょうか?

つい最近要請が出された「まん防」って、いったいどんな情報をもとに、何の根拠があってこれが「まん延防止に効果があります」と言っているのか、不思議に思うのは私だけでしょうか。

自粛活動や飲食店規制で感染拡大を阻止できるなんて裏付けは何もなく、むしろこれまでの感染の波に関するデータを見る限りでは極めて怪しいと思うのが自然ではないでしょうか。 

「そうあってほしい」「そうに違いない」「そうでないと困る」「こんなにやってるんだからうまくいけよ」といったレベルの、願望と思い込みと半分ヤケ気味のいい加減で場当たり的な判断のようにしか思えません。

真偽のはっきりしない台湾沖航空戦の大戦果を信じた日本軍と、本質的には同じ愚をやらかしているのではないか、と思ってしまうのです。

コロナ以上のパンデミックや大規模災害、戦禍に見舞われたとき、果たしてこの国家はどうなってしまうのか、想像するだけで背筋が凍ります。

すべての判断・行動はある種の情報をもとになされる。

選んだ情報が間違っていれば判断も行動も誤る危険性が高い。

感情や願望、思い込みが混入すれば情報を選ぶ目は曇る。

そして人は、情報から感情や願望、思い込みの一切を排除するのが難しい生き物である。




















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