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日本人はなぜすぐ謝るのか|『アーロン収容所』を読んで感じたこと

日本人はなぜすぐ謝るのか。それは、「間違いは悪」とする考えが根強いせいではないのか。

以前からぼんやりとそんなふうに思っていた。そこへ、『アーロン収容所』という日本兵捕虜の体験記の中のある一節にぶつかり、改めてその考えを強くした。

日本側の将校と英軍中尉が会話するくだり。日本の将校は「日本が戦争を起こしたのは申し訳ないことだった。これからは仲良くしたい」と謝った。それを受けた英軍中尉は厳しい口調で「君たちはスレイブ(奴隷)か」と返した。その言葉の意味を次のように説明した。少し長いけど引用する。

「われわれはわれわれのの祖国の行動を正しいと思って戦った。君たちも自分の国を正しいと思って戦ったのだろう。負けたらすぐ悪かったと本当に思うほどその信念はたよりなかったのか。それともただ主人の命令だったから悪いと知りつつ戦ったのか。負けたらすぐ勝者のご機嫌をとるのか。そういう人は奴隷であってサムライではない。われわれは多くの戦友をこのビルマ戦線で失った。私はかれらが奴隷を戦って死んだとは思いたくない。私たちは日本のサムライたちと戦って勝ったことを誇りとしているのだ。そういう情けないことは言ってくれるな」
おぼつかない聞き方だが、ゆっくりと噛んでふくめるように言ってくれたのはこういう内容であった。相手を勇気づけようとする好意があふれていて、頭が下がる思いであったが、その反面、勝者のご機嫌とりを察知されたことに対する屈辱感というものは何ともいえないものであった。

『アーロン収容所』会田雄次著

戦中は戦争を支持しながら、敗戦後は手のひらを返し、進駐軍の「解放政策」や「民主化」を手放しで褒め称える人が多かった。その一方で戦争をはじめた軍部や政府を口汚く罵った。自分たちのことはきれいに棚に上げて。そんな「民主的になった人たち」が中心になって戦後の日本はつくられた。

英軍中尉の言葉を受けた著者の「ヨーロッパ人観」がまた興味深い。

ヨーロッパ人には、いったん自分がとった重大な行動の責任は、どんなことがあってもなくならないとする考え方がある。また一度やりだしたことは都合が悪くなっても、いや悪いと思っても断じて曲げない方が立派で男らしいのだという考え方も、私たちの想像以上に強く深く広く根を張っているようである。

同上

著者の会田雄次氏は、ビルマ戦線に派遣され、敗戦後は捕虜となり各地の収容所を転々とした。捕虜を監督するイギリス兵を間近で見てきた会田氏は、キリスト教的なヒューマニズムの影に隠れた白人の民族的な本質を見抜いた。そこには残酷なくらい徹底した合理性と冷徹さがあった。『アーロン収容所』は、欧米幻想にはまりやすい日本人も目が覚める第一級の一次資料である。

自分のとった行動や、その中で起きた間違いに対する、日本人とイギリス人の違い。興味深い文化比較論である。イギリス人(というか白人)は、自分がよいと信じてはじめた行動に対し、不思議なくらい強い自信を持っている。そんな調子だから、行動の結果途中で都合が悪くなっても自分が悪かった素振りは見せない。もちろん日本人みたいに簡単に謝ったりはしない。

向こうの文化圏の人たちは本当に謝らないと聞く。そして、間違ったら間違ったで簡単にそれを認めて方向転換や軌道修正を図る。こんなふうに身軽に転向できるのは、「間違いは悪いことじゃない」とする考えが根底にあるからだろう。悪いことをしたわけじゃないから謝ることもしないのだ。

日本人からすれば不誠実の極みに映るだろう。だがこれは善悪の話ではなく、単にその民族が育んできた文化的な違いのせいと言っていい。

逆に向こうからすれば、すぐ謝ったりする日本人の気質のほうこそ不可解で、不気味で、不誠実に映るだろう。「そんな簡単に謝るほど、自分たちのとった行動は軽いものだったのか」と。

日本人が簡単に謝るのは、信念の問題というより、間違いを悪だと思い込む気質のせいだと、冒頭に書いた。その気質をつくる要素はいろいろあるけれど、一つには強すぎる道徳観念があるだろう。

間違いを悪だと思っているくせに、間違いを間違いと認めようとしない習性も日本人にはある。いや、悪だと思うからこそ認められないのだ。すぐ謝るのは、別に間違いを認めているからじゃない。あれは「みそぎ」であり、水に流してもらおうとするズルいやり方なのだ。単なるその場しのぎで、決して潔い姿ではない。

間違いを間違いと認められず「なかったこと」にするから、真の反省もないし改善もないし、また同じ調子で同じ失敗を繰り返す。短期的なダメージは小さいけど、長期的にはとてつもなく大きな傷を負うことになる。

人は間違いうものだと割り切れる白人圏の思想のほうが、どうも賢いような気がする。要領よく立ち回れるというか。間違いや失敗は人間なのであっていいし、そのほうが自然というものだ。別に間違ってもいいという話じゃない。私たちはもう少しズルくなってもいいのではないでしょうか、これ以上無駄に損をしないために、と言いたいのです。


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