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二・二六事件を考える②乱を起こした青年将校はどのような人たちだったか

昭和11年(1936年)2月26日未明、歩兵数個連隊を率いて首相官邸や陸相官邸、警視庁を占拠し、複数の要人を殺害した「二・二六事件」の首謀者は、急進的な皇道派の陸軍青年将校たちでした。

彼らはどのような人物だったのか? 軍隊内の位置づけやその思想信条からその人物像を明らかにし、事件の動機となった部分を探ってみます。

クーデターを画策したのは「在京の隊付将校」たち

クーデター計画を画策した中心メンバーは、在京の隊付将校たちでした。

彼らは将校(少尉以上の士官クラス)を輩出する士官学校の出身であり、東京に常駐する第一師団の歩兵第一連隊(歩一)と歩兵第三連隊(歩三)に所属し、小隊や中隊クラスの部隊を率いる指揮官という立場でした。

この歩一・歩三の歩兵が蹶起部隊の主力となります。

陸軍の将校や階級について軽く触れておくと、士官学校を卒業した者はすぐに少尉に任官し、中尉・大尉へ昇進して隊付将校となります。年齢にしてだいたい三十代が多く、青年将校と呼ばれるゆえんもここにあります。

隊付将校は、兵を直接指導する立場の現場勤務となります。徴兵で集められた全国の兵卒(三等兵や二等兵、一等兵)や下士官(伍長や軍曹、曹長)と常に顔を合わせ、一緒に汗を流して兵隊勤務に精励恪勤するわけですから、その関係性は濃密なものがありました。兵らにとって自分たちを指揮統率する隊長級の尉官というのは、もっとも身近で信頼のおける上官であり、公私両面にわたってよき相談相手にもなり得る存在だったのです。

青年将校たちは、日本国民が悲惨な生活苦にあえいでいる惨状を、兵士の話を通して知りました。兵の多くが国内でもっとも経済的困窮のひどかった農村出身者だという事実も、青年将校らの問題意識を大きくしました。

多情多感、純真一徹の青年将校たちが、兵士らの話を聞いて胸を痛めないわけがありませんでした。そして、農村の窮状を捨て置いて私利私欲に走る政治家や、権力闘争に明け暮れる職業軍人、富を独占する財閥に憤りを感じ、政治経済を抜本から改革する必要性を痛感するようになります。

皇道派青年将校が理想とした「天皇親政」

また二・二六事件を起こした青年将校らは「皇道派」と呼ばれる陸軍内の思想グループに属していました。

皇道派が目指すのは「国体を明徴にすること」。これが主張のど真ん中にありました。

彼らの主張する国体とは、「万世一系の天皇が統治する日本古来の政治の仕組み」とでも言いましょうか。この国体のことをしっかりと国民に明示(明徴)せよ、という考えを全面に押し出す一派が皇道派であり、もっとも盛んに活動していたのが二・二六事件を起こした反乱将校たちでした。

政治が腐敗堕落する元凶は、日本古来の伝統である天皇親政が守られていないからである。天皇親政が守られていないのは、側近の宮中役人や重臣、元老たちがこぞって腐敗しきった政党政治のお先棒を担ぐ獅子身中の虫だからである。よってこれら賊臣奸物を排除することが国体明徴の第一歩となる。

こうした過激理論の青年将校らに影響を与えたのが、北一輝の『日本改造法案』です。題名の通り、日本国家の仕組みを作り替えるための必要な諸政策政策を著述したもので、社会主義思想の色彩が強い内容であるものの、政策を実行する方法論として「天皇が大権を握り、天皇の意を汲んだ軍人や軍人出身が政策実行にあたる」とするところが、青年将校たちの琴線に触れたのではないかと察せられます。

皇道派と統制派の暗闘

当時の陸軍は皇道派と統制派の権力闘争で大きく揺れていました。

両軍閥の暗闘が青年将校らを突き動かす導火線となった面は否めません。

昭和10年の7月に、皇道派の真崎甚三郎教育総監が罷免される人事騒動が起こります。真崎大将が退いた後の教育総監のポストに就いたのが統制派と近し渡辺錠太郎大将だったことから、真崎長官の罷免を統制派の策謀とみなす謀略説が持ち上がりました。

この問題は真崎大将を担ぐ皇道派の青年将校たちを大いに刺激しました。

教育総監は陸軍大臣・参謀総長と並ぶ三長官の一角で、その人事は三長官の同意のもと決まります。加えて三長官は「天皇直属の役職」という、天皇を崇拝する皇道派の軍人たちからすれば重大かつ神聖なポジションです。真崎長官の意向を無視して罷免したのは統帥権の乱用であるとして、皇道派青年将校は統制派を激しく攻撃しました。その憎悪と怒りは陸軍省の軍務局長室で白昼堂々と統制派軍人が殺害されるという悲劇を生みます。犯行に及んだのは皇道派の相沢三郎中佐で、殺害されたのは統制派の中心人物だった永田鉄山軍務局長です。この相沢事件の半年後に二・二六事件が勃発し、渡辺錠太郎教育総監も殺害されました。

蹶起へ躍動させた第一師団の「満州移駐」

反乱将校たちがクーデター計画の決行を二月末に設定したのには理由があります。彼らは三月に軍命令で満州への派遣が決まっていました(実際に移駐となったのは五月)。外地勤務となれば二年は内地に戻れません。戻れないどころか、中国軍やソ連軍との間で戦争でも起これば戦死する可能性も考えられました。だから何としても二月末までに昭和維新計画を断行しなければならない、そのような焦りが彼らのなかにあったのは確かです。

これは歴史のイフになりますが、この「第一師団の満州移駐」がなければ、二・二六事件はひょっとすると起きなかったかもしれない、もしくは起きたとしても小規模なものになっていた、そんな想像をしてしまうような内情を当時の青年将校らは抱え込んでいしました。

日本を本来の正しい国体に戻すべく昭和維新計画に向かって謀議を重ねてきた第一師団の青年将校たちですが、彼らはもともと一枚岩ではありませんでした。ただちに行動を起こすべしとする「強硬派」と、蹶起は時期尚早とする「慎重派」の二派が対立し、両者は方法論でも意見の相違がみられました。

軍隊を動かして政府機能を制圧すべしと主張する強硬派に対し、慎重派は政党や軍部の腐敗を世に知らしめる世論工作の必要性を訴えました。前者は武力をもって力づくに、後者はあくまで民主的に、といった調子で両者の意見はなかなか交わりませんでした。

硬直化した強硬派と慎重派の議論に風穴を開けたのが、「第一師団満州移駐」の軍命令でした。昭和維新計画の絵を描いた当の本人たちが満州に飛ばされたりしたら元も子もありません。世論をまず味方につけるなど、そんな悠長なことも言っていられなくなったのです。こうなると慎重論は影を潜め、蹶起は時期尚早を唱えた人たちも次第に武力断行派と歩調を合わせるようになりました。

第一師団の満州移駐を巡っては、青年将校らを遠ざけたかった統制派の画策とする見方もあります。というのも、首都防衛を任務とする第一師団は本土防衛の要でもあるため、外地への移駐などとは無縁の師団といってよく、事実明治の日露戦争以来三十年外地への移駐はありませんでした。つまりこのような決定は通常考えられないことで、統制派と皇道派の暗闘真っ只中にこの問題がふって沸いたものだから、後世の歴史家などは統制派に疑惑の目を向けてくるわけです(当時の参謀本部関係者はこの疑惑を否定)。

もし本当に統制派の策謀があり、それによって青年将校らを突き動かしたのだとしたら、歴史の皮肉というしかありません。

先ほども書きましたが、「第一師団の満州移駐がなかったら」という歴史のイフはどうしても頭をもたげてきます。その前提でその後の青年将校たちの動きを予測すれば、もしかすると蹶起はなかったかかもしれず、あったとしても一部の強硬派が単独で事を起こすにとどまり、血盟団事件や五・一五事件のような単発テロ事件にとどまったかもしれない。そうなると軍部の派閥抗争はどうなったか、日中戦争はあれほど泥沼化したか、日米戦争は起きたか…などいろいろ考えてしまいます。

この二・二六事件の経過を見ても、歴史というのは単独では動かない、いろんな要素が絡み合い、影響し合いながら一つの結果となって現れる、まさに歴史は生き物ということがよくわかります。


参考資料:
『獄中日誌』磯部浅一
『二・二六事件蹶起将校最後の手記』山本又
『二・二六事件』松本清張
『日本改造法案大綱』北一輝


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