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1万文字に込めた僕の青春の全て


2018年10月21日、僕はピッチの上で試合終了の笛を聞いた。大学サッカーリーグ最終節の試合終了である。ナイターが照らすグラウンドにいた僕らの笑顔は充実感に溢れていた。ベンチには監督・メディカルスタッフ・マネージャーと控え選手。グラウンド横にはメンバーに入る事ができなかった60名以上の選手たちがチームジャージを着用し、チームカラーのメガホンを持ち応援歌を歌う。最終節ということもあり保護者や友人など多くの方々が足を運んでくれた。

言ってしまえば普通の光景だ。「普通の大学体育会サッカー部の活動が行われているんだ。」通りがかりの人々は皆そう思うだろう。けど僕はあの日、人生でも3本の指に入るだろう大きな充実感を抱いていた。

この記事を書くかどうかに大きな迷いがあった。だからこの記事を読み進める前の大前提として伝えたい事がある。僕が大学1年生の頃のサッカー部の先輩たちを否定する訳でも僕たちがすごいと言いたい訳でもない。むしろ僕は先輩たちを尊敬しているし、今でも連絡をくれる直属の先輩もいる。感謝していた。だからこそ語弊が生じないように全てを事細かく書こうと決めた。話を盛る訳でもなければ、謙遜しすぎることもなく、ありのままの事を伝えたい。いつもの記事と同じように僕の主観の部分と、僕の主観を除いた客観的事実を分けて書いていく。

2015年4月、僕が大学1年の頃のサッカー部は3学年しか活動していなかった。一学年あたりの人数は20名前後だったと思うが、練習に毎回全員が来る訳ではなく、4年生は就活のため活動には参加していなかった。毎回練習は40~50人程度で、ウォーミングアップ・シュート練習・紅白戦という流れだった。監督はおらず、練習はキャプテンが考えたものをこなす。トップチームの選手が紅白戦をしている時はサテライトの選手は特にやる事の決まりがなく、ボールを蹴る人もいれば走る人もいて、遊ぶ人もいた。サテライトの選手が紅白戦をやる時も同じ現象が起きていた。紅白戦が行われているグラウンドもナイターがほとんど行き届いていなかった。日曜日の試合はキャプテンや副キャプテン中心にメンバーを決め、メンバー外はキックオフ時間に間に合うように現地集合。試合会場に行くまでのチームウェアが統一されている訳でもなければ、試合に絡むメンバーの統一感を出すアップ着もなかった。集まったメンバー外の選手たちは私服でグラウンド横に立ち、メガホンや太鼓もなく応援することもなかった。試合中はチームウェアを身に纏った応援団の声が響く相手チームの雰囲気や強さにのまれ、試合を見ずにスマホをいじる人もいれば、試合終了を待たずに帰ってしまう人もいた。試合後も特に何かをする訳でもなく、荷物車以外の人たちは早々にバイトやそれぞれの予定、帰宅に向かった。夏合宿もどっかの飲みサーと同じ宿を使い、毎晩騒ぎを聞き、とても集中できるような環境ではなかった。その年の試合で勝った記憶があるのは1試合か2試合程度。最終節終了時の順位は最下位。2部との入れ替え戦に回る事になった。3年生は1人を除いて就活モードに切り替え、残りの1~2年生と1人の3年生で1部残留をかけて試合をしなければならなかった。以前にはエントリー漏れで出場できない大会すらあった。前期後期リーグの最終節後に行われる納会では、無理酒を強要しあう光景があちこちであれば、この時参加する4年生で後輩の女子マネージャーに手を出す人もいた。最寄駅には毎回警察が来ていた。地域の人たちが通報したのだろう。

それが僕たちの普通だった。それが僕たちが入ったサッカー部の姿だった。

そんな光景が日常であり、サッカーに対する情熱がなくなったという選手もいた。辞めていく選手も何人かいた。僕も危うく情熱を失いかけるところまできていた。「このチームやばいんじゃない」っていう声も何人かから聞いていた。僕は正直なところものすごい苛立ちと危機感を感じていた。そんな中迎えた最初の夏合宿。最後の夜、僕は同じ1年生に一つの部屋に集合してもらうよう声をかけた。そしてマネージャー含め25人程度の前で開口一番こう言った。「俺はこのチームがやばいと思う。常識的におかしいと思うし、俺らで変えていかなきゃいけない。」するとある人が、「お前の常識はお前の常識であって、俺らの常識じゃねぇ。」その後のミーティングの内容はハッキリと覚えていない。でも最後に僕が言った言葉だけは鮮明に覚えている。

「俺らならできる」

この小さな一言が全ての始まりだったと僕は思っている。
そのミーティング後に「しょーよーが言ってくれて良かった」「お前の気持ちは伝わった」って何人かが僕のところに言いに来てくれた。
けど25人のうち半分にも伝わらなかったと思う。それもそうだ。サッカーが上手い訳でもなければ試合に出ていた訳でもない。トップチームにすら絡めていない。そんな奴が何を言ったって説得力もない。
極め付けは合宿後だ。1年生がチームの事でミーティングを開いたという話は2年生も届いていたらしく、ある先輩からはバカにされたように笑いながらこう言われた。
「そうだよな。俺らならできるよな笑。関東リーグのチームかよ。(笑)」
僕はその先輩に反論する気も起きず苛立ちながら練習に行ったあの瞬間を今でも覚えている。

そんな日々が過ぎ1年目のリーグ戦が終わり、最下位だった僕たちは2部との入れ替え戦を迎えた。その時点で同い年の女子マネージャーは人間関係をややこしくしたまま退部しており、4~5人の同級生が辞めていた。「1部残留できなければ俺も退部する」っていう選手は何人もいた。僕はベンチ外だったけど、どうにかチームの力になりたかったからウォーミングアップのサポートにまわった。誰に頼まれた訳でもないけど、少しでもチームの指揮をあげたい。マネージャーを手伝いたい。出るメンバーをサポートしたい。その思いだけでその行動をとった。試合は1-0だったかな。ギリギリ勝って1部残留が決まった。心の底から嬉しかった。そしてオフ期間に入った。

オフ明けの3月頃。1個上の先輩たちの有志で監督探しをしてくれており、4月から新体制で監督が来てくれる事になったのだ。人づてで紹介してもらい、直接会いに行きチームの現状と目指している方向を伝え、契約に至ったと聞いた。本当に大きな大きな1歩だった。これを成し遂げてくれた1個上の先輩方には本当に頭が上がらない。

そして迎えた4月、練習に監督が来てくれたのだ。監督とは言っても年齢が15歳20歳も離れているような大御所感のある方ではなく、年齢も近く親しみやすそうな印象を持った。監督が来た事によりチームはオーガナイズされ上手くいくとは思っていたが、それと同時にポジション争いだって激しくなる。良い緊張感のある雰囲気を感じた。そして1週間して発表されたトップとサテライトのメンバー分けで僕はサテライトに入ってしまった。 1個下の1年生がトップチームに入り、僕は入れなかった。

めちゃくちゃ悔しかったし恥ずかしさも感じた。けどすぐに僕は考え始めた。
どうしたらトップチームに上がれるのか?
チームのために何ができるのか?
僕は元々サッカーの応援に興味があったので、チームの応援部隊を作りたいと思った。それも皆同じチームのウェアを着用して、揃った応援をしたい。こうすれば試合を戦う選手たちのモチベを上げられるんじゃないか、ベンチ外の選手たちの指揮も高める事ができるんじゃないか。そう考えた。
僕は何か情熱を捧げたいと思ったことには120%熱中し、必ず実現させるまでやり切りたい性格だ。YouTubeでJリーグや高校サッカーの応援を研究し、電車の中や帰り道もずっと考えた。当時バイトしていたユニクロでも、バイト中に服を畳みながらずっと歌詞を考えてた事もいい思い出だ。(笑)
太鼓はブックオフでバイトしてた友達が買って来てくれ、メガホンは1人1つずつ100均で購入してくるようにお願いした。
そして応援部隊を整えるためにはチームウェアを揃える必要がある。新入生のウェアの注文を急ぎ、公式戦の時はウェアを着用する決まりが出来た。
新体制初年度はそんな感じだっただろう。前年最下位だったチームも中位まで順位をあげた。レギュラー選手の怪我があり、僕は最終節にベンチ入りするかどうかの瀬戸際は経験したが、結局この年もトップチームのメンバーには一度も絡めなかった。

新体制2年目。僕は大学3年になっていた。本来なら3年生で活動を終了し4年時は就活に専念するのがこれまでの流れではあったが、一個上の先輩たちは就活と並行しながら部活に残る選択をした。もちろん全員ではなかったが、一度就活で離れた先輩たちも夏頃には復帰してくれたのだ。チームは春先から戦っていたアミノバイタル杯の県予選で県代表を勝ち取り本戦出場を賭け関東予選に進んでいた。対戦相手は北関東リーグの強豪校だった。毎年北関東リーグを優勝しており関東参入戦の常連校であった相手との対戦だ。その大きな試合を前に僕はチームのために何ができるか考え、アップ着を作る事に決めた。もちろん1人で決意し勝手に注文し着用を強要した訳ではない。アイデアをチームの幹部に伝え、話し合い、部員の承諾を得てからだ。
それまでに既に移動用のチームウェアは揃っており、応援部隊が整い、部の荷物やユニフォームの管理も行き渡っていた。アップ着が揃えば、試合前のチームの指揮をもっと高められるんじゃないかって考えた時にはカタログを見て業者と話し合っていた。(笑)
試合のメンバーから外れた僕だったが、懇願しウォーミングアップのサポート兼ビデオ撮影係という誰もやりたがらなそうな役職を願い出た。勝っても負けても、その時の嬉しさや悲しみを一緒に感じたい。それを感じる事が今後の役に必ず立つ。そう考えたからだ。
そして試合は延長戦までで3-3。PK戦の末破れ、アミノバイタル本戦出場は叶わなかった。4年生の先輩たちからしたら、リーグ戦で関東昇格できても翌年の関東リーグには出れない訳で、自分たちで戦える関東大会の可能性はこのアミノバイタル杯で最後だったのだ。だから試合後の選手たちは重苦しい雰囲気に包まれており、涙目の選手たちもいた。僕も同じように本当に悔しかった。
一方で大きな手応えも感じた。監督やメディカルスタッフ、マネージャーが帯同し、お揃いのウェアを来て関東予選の会場に入る。全員で同じアップ着を着用し、北関東王者を相手にPK戦までもつれ込む接戦を繰り広げた。試合には惜しくも負けたが、本当に大きなものを感じたのは確かだ。1年前のチームじゃ考えられない、想像もできない事が目の前で起きていた。僕はその光景をしっかり目に焼き付けた。

その頃チームは全4学年での活動になり、チーム内のカテゴリーもトップ・B1・B2と3つになっていた。人数はマネージャー入れて70人を超えていた。チーム内組織も、幹部があり用具係やビデオ分析、ウェアの業者との連絡係などなど多くの役職がきちんと整備された。新歓活動を盛んにしたり、月一で全部員が集まるミーティングも開催された。サテライトリーグへの参入も始まり、トップチームの選手のみならず全カテゴリーの選手がチームのために活躍する場が設けられた。
また全カテゴリーに指導の目が行き届くように、新しくアシスタントコーチが加わったり、学生コーチの役職ができたりと、チームの基盤が固まっていった。
4年生は練習や試合には来れるが、就活と並行していたのでチームの中心は僕たち3年生だった。僕はその中でもありがたい事に幹部として活動した。

そんな中で僕に大きな出来事が起きた。夏休みを直前に控えた頃に監督が推薦した数名が国体の埼玉県選抜のセレクションに参加する事になった。僕は当時トップチームで活動してたけどスタメンにはなれずベンチにも入れていなかった。さらにB1でもないからそっちの試合にも出れない。そんな状況で苦しんでた僕にとっては国体は大きなモチベーションだった。そして国体の選考会が終わり、僕は落選した。4人のゴールキーパーが参加し2人が代表として選抜される中で、僕は落選した。
そんな落胆した中で夏のオフ期間を迎えた。僕はサッカー部の友人と沖縄旅行に出かけていた。旅行のある朝、早起きして散歩していると1人のチームメイトから電話がかかってきた。彼は国体の選考会を突破しており、オフなしで埼玉国体の活動に参加していた。

「キーパーが怪我したぞ。しょーよー準備しといた方が良いかも。」

そして間もなくして監督から電話がかかってきて、僕の国体行きが決まった。
国体の練習に参加してみると、意外とやれるもんだなって感じたのが正直なところ。もちろん正キーパーとの実力差はかなり大きかったが、シュート練習やゲームなどは大学のチーム練習に比べほとんど質も強度も変わりなかった。
プーマのサポートで、移動着や練習着やユニフォームが一式支給された。遠征費も県のサッカー協会が全面支援した。
そんな僕にとっての初めての経験は、苦い形で終わる事になる。
国体の初戦は東京都国体との試合。小雨が降る夏の終わりの日に群馬県で行われた。ベンチメンバーは僕以外全員途中出場を果たし、試合は圧倒的な力の差で完封負け。国体という僕のそれまでのサッカー人生で最も大きな舞台を見るために駆けつけてくれた両親にも、試合に出ている姿は見せられなかった。国体で得たいろんな思いが、その後の僕を強くさせたのは間違いない。

所属大学のチームは、リーグ戦残り2~3試合のところまで優勝争いに絡むシーズンを送っていた。最終的には3位か4位で終えたと思う。チームでリーグ得点王がいたことも大きかった。僕は国体後に何度かリーグ公式戦でベンチ入りを果たしたが、結局このシーズンも一度も公式戦に出ることなく終わってしまった。

そして迎えた最後のシーズン。大学4年生。
この年は新入生も例年より多く、トップ・トップサブ・B1・B2と4つくらいのチーム数に分けられていた。2月3月をドイツ短期語学留学で過ごしていた僕は、4月からチームに合流した。出遅れていた僕はトップサブとB1を往復する生活だった。
そして前期リーグ終了時点で公式戦出場はゼロ。ベンチ入りもゼロ。サテライトリーグで苦しい最後のシーズンを送っていた。

「何かを変えないといけない。」

そう感じていた僕は夏前頃から、トレーニング量と回数を増やした。
カテゴリー毎にオフが違っていたので、毎日どこかしらのカテゴリーの練習が行われている状況だった。だから僕のメインだったB1がオフの日はトップチームの練習に参加した。夏休みの午前練習後は週2回のペースで砂浜トレーニングを行った。一緒に行ってくれたのは、トップチームで試合に出ているチームメイトともう1人仲良いチームメイト。あの国体の電話をくれた彼がその1人。お台場海浜公園まで車で向かい、猛暑の中、上半身裸で走りこんだ。家族連れやカップルがゆったりとした時間を過ごす横で、死に物狂いでトレーニングした。今考えれば、あんな事よくなったなって思う。(笑)
猛暑の中死ぬほど追い込んだ後は、ローソンで牛乳を買い持参していたプロテインとシェイクし身体に流し込んだ。本当はスタバのフラペチーノを飲みたかったけどね。
筋トレ室で1時間追い込んでからチーム練習をこなすのが当たり前にもなった。
監督が筑波大学蹴球部出身だったこともあり、連絡をとってくれて、筑波の早朝練習に参加したこともあった。

そんな努力も実らず、夏はサテライトの波崎合宿に参加することになってしまった。トップチームは後期リーグに向けて、他大学との強化試合をこなしていた。そんな中僕はサテライトの合宿に帯同。焦りはめちゃくちゃあった。悔しかった。

「絶対に腐っちゃダメだ。必ずチャンスはやってくる。」

そう言い聞かせ、合宿中は何人かを巻き込んでグラウンドから宿舎までの10km超えの道のりを走り続けた。
合宿が終わり、夏も終わる頃、後期リーグ開幕が迫ってきた。
泣いても笑ってもあと7試合で終わり。自分のできる限りの事をやり続け、チャンスを待つだけ。そして何よりチームの勝利が僕にとって最優先だった。
だから、後期リーグ開幕時の登録メンバーから僕は外れていたけど、そんな状況でもチームのために何ができるかを探し続けた。そして応援メッセージ動画を作ることに決めた。タイトルは「メンバー外の4年生からトップの4年生へのメッセージ」だ。
その動画を後期リーグ開幕戦の朝にグループLINEに貼った。そしてキャプテンが試合前のミーティングでメンバー全員に共有してくれたらしい。

とにかくチームが勝って欲しかった。特別な雰囲気を作ってあげたかった。
だから雨上がりで虹のかかっていたあの試合の選手入場時、僕は応援部隊の代表として全員に「威風堂々」を歌って迎えようと伝えた。ナイターがグラウンドを照らし、威風堂々が響き渡るかなり良い雰囲気だった事を覚えている。
試合は僅差で負けた。応援席からピッチに降りて選手たちの顔を見た時、僕は自然と涙が出た。僕は後期リーグ7連勝で県リーグを逆転優勝し、関東参入戦で去年の先輩たちのリベンジを本気で果たしたいと願っていた。だからこの敗戦はそんな僕の願いを無残に打ち砕いたのだ。チームが勝てなかった事、その試合に僕が絡めていない事、頑張った夏の事。いろんな思いが交錯して涙が出たんだと思う。

チームはその後3試合で1勝もできていない状況だった。1人1人のクオリティは高いし、戦術的に間違っていたとは思わない。ただ、トップサブの選手が試合に出る事がほとんどなく、トップチームの選手と固定された交代選手のみで戦う試合が続いていた。そしてB1からトップに上がった選手は、いきなりスタメンで定着する、というのが当時のチームの状況だった。するとどんな問題が発生するか。
トップサブの選手のモチベーションは低くなる。低いモチベーションのままトップチームとの練習や紅白戦を行う。トップチームは紅白戦での刺激が少なくなる。そして公式戦で負ける。負けた後のテコ入れとしてB1の選手を昇格させる。これでまたトップサブのモチベは下がる。
これだけの悪循環があったように僕は思えた。
しかしもっと大きな問題点は、この悪循環に気付きにくいという事と、気付いたとしても監督には言いづらいという事である。トップの選手は試合に出ているから監督にそんな事を言う必要性もないし、トップサブの選手は不満はあっただろうが監督に直訴する事は試合出場を遠ざけるかもしれない。どうすればこの悪循環を脱出できるのか。
「B1にいる僕なら、熱意を持って監督に話せるかもしれない。」
そう思った時には監督の目の前に立っていた。典型的な気持ち専攻型だ。(笑)
僕が監督に話した内容は以下の3点。
・チームの現状をどう捉えているのか。
・僕が感じていたチームの問題点
・僕ならトップチームの雰囲気を変えられる
この話をするのにも勇気はかなり必要だったが、話した後監督は僕に「ありがとう」と言ってくれたのを覚えている。
「こうやって熱意を持って論理的に話してくれていなかったら気付けなかったかもしれない」って。

たまたま正キーパーの怪我と重なったこともあり、リーグ戦残り3節となったところで僕はトップチームに上がることになった。当然僕はチームの雰囲気を良くしたいという気持ちだった。トップチームに上がれた嬉しさと、ずっとため込んでいたチームに対する思いを吐いたこと、残り3試合全部勝って終わろうというチームの雰囲気。全てが背中を押してくれるような気がした。マリオでいうスターの状態だった。
そして迎えた週末。公式戦のスタメンとベンチ入りメンバーは前日練習後にチームの全体LINEで発表される。先発メンバーGKのところには僕の名前が載っていた。鳥肌がたった。あの時の感覚は今でも忘れられない。

そして試合当日。大学4年の残り3節にして初スタメンを勝ち取った僕は高揚感と緊張感で溢れていた。そんな僕をチームメイトや後輩、キーパーの後輩はいじってきた。(笑)
試合への入り方は固かった。序盤に決定機を一本防いでからはリズムに乗れたと思う。試合終盤にキャプテンが交代する時、キャプテンマークをチームメイトに渡し、それを僕の左腕に巻きに来てくれた。

「頼むぞ。」

その一言がスイッチとなり、多少押され気味だった終盤を乗り切り、3-2で勝利した。その勝利は後期リーグの初勝利で、1部リーグ残留を決めた大きな勝利だった。何にも変え難い瞬間と勝利を経験したチームメイトも僕も、充実感と笑顔に包まれていた。本当に素敵な瞬間だった。
そして翌週の練習も僕は好調だった。やっぱりあそこまで調子が良いとなると、勢いってあるんだなって思った。(笑) そのくらい上手く行ってた。そして残り2節。
試合前日のメンバー発表で僕はスタメンから外れた。ベンチからその試合を見守ることになった。

何が起きているのかが分からなかったし、誰に聞いても理由は見つからなかった。かなり落胆したのを覚えているし、何より先週の勝利で勢いづいていたチームがその試合で負けた事。残り1節。その試合の帰り道、僕は車でチームメイトを家まで送った。一緒に国体を経験し、夏の砂浜トレーニングをしたあのチームメイト。そして彼を家の前で下ろす時、僕は自然と口からこうこぼしていた。

「俺、人生かけて最終節のスタメン取りに行くわ。」

最後の1週間は、さほど調子が良かった訳じゃない。それでも4年間一緒にやってきた仲間と本気でサッカーができる1日1日を楽しめていた。4年間で最もあっという間に過ぎた1週間だった。そして前日練習が終わり、翌日のメンバー発表のLINEを待った。LINEの通知が1件。先発メンバーのところに僕の名前が載っていた。

「よし、最後やってやる。明日は楽しもう。」

試合当日。いくら最後の試合でスタメンを取ったからと言って、これまで大切にしてきた事を疎かにはしなかった。僕が4年間どんな時も大切にしてきた事。

「チームのために何ができるか?」

最終節のキックオフは17時だったが、午前中はサテライトの試合が開催されていた。僕は朝から大学のグラウンドに行き、何人かと一緒にメガホンと太鼓を使って声援を送った。長い間僕がいたサテライトチームの後輩たちを応援するために。そして、サテライトで最後の試合を迎えた同じ4年生のために。彼らもいろんな悔しい思いがあったはずだ。みんなトップチームに上がりたかったと思う。でもそういうわけにはいかないのが勝負の世界。だからこそサテからトップに上がった僕ができた事は、そんな彼らを全力で応援し、最後の姿を見届ける事だった。夕方に大切な試合が控えている事は関係なかった。声を枯らし応援した。

迎えた夕方のリーグ戦最終節。相手は決して強いチームではなかった。けど相手だって最後の試合という条件は同じ。気持ちをぶつけてくるはずだ。もちろん僕たちだって最後はホームで勝って終わりたかった。そして何より僕は4年間ずっと目指し続けてきたものがある。それは、トップチーム公式戦に先発で出て無失点で勝つ事。

「しょーくんお姉ちゃん見にきてまーす!5・4・3・2・1!シャア、いこう!」

試合前の写真撮影で僕が叫んだ言葉だ。(笑)
ホームで迎えるリーグ最終節。4年間の集大成。グラウンド横にはチームウェアが揃った応援部隊。みんなの家族や友人。ベンチには監督・メディカルスタッフ・マネージャーと控え選手。そしてそのグラウンドを照らしているのは、一個上の先輩方が自己犠牲精神でオーガナイズしてくれて新しく設置されたナイター。当たり前のようで当たり前じゃない。少なくとも4年前には想像すらできなかった景色があった。そんな景色を見て僕は高揚感が抑えきれなかった。感無量だった。そして試合は無失点で勝つことができた。試合後の打ち上げではみんな充実感に溢れる笑顔を浮かべていた。僕は泣きまくった。(笑)

ここまでが今回の記事のストーリーである。
「大学4年間で部活がここまで変わったんだ」「あれは一生の思い出だね」っていうのは僕が伝えたいことじゃない。
今回のストーリーを通して僕が伝えたい事は2つある。

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