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【書評】カラマーゾフの兄弟/ドストエフスキー

定期的に良書を読み、その学びを共有するシリーズ。今回は、有名なドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟。

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本の背景

この作品は19世紀末、ロシア帝国末期にロシアの文豪ドストエフスキーによって執筆された本。『罪と罰』に並ぶ最高傑作とされ、『白痴』、『悪霊』、『未成年』と合わせて五大作品として有名。長編小説で今回読んだ、光文社古典新訳文庫で、5巻にもおよぶ作品。取り扱われているテーマは、キリスト教信仰へのアンチテーゼ、経済格差、恋愛、貧困、正義など幅広く、読み手によって感じるメッセージは異なるであろう。

あらすじ

作品の舞台は帝政末期のロシア。ある貴族の一家が物語の中心。一代で財を築き上げたが、金に汚く、女性関係がだらしない老齢の父、ヒョードル・カラマーゾフ。父からまともな愛情を受けず、家の下男に育てられ、その後軍人となった長男ドミトリー。兄とは異なり、大学に進み学を修めたが、ひねくれた考え方をする次男のイワン。そして、修道院に入り、キリストの教えを信じる三男のアリョーシャ。この一家をめぐる、「女」、「金」、「信仰」をテーマに物語は壮大に展開される。

少し紹介すると、まず「女」だが、長男ドミトリーはある貴族の娘、カテリーナと深い親交を持つ。お互いの気持ちが一致していたが、あるきっかけで、町のいい噂がなく遊び人とされるグルーシェニカという別の女性に気持ちが移ってしまう。そして、このグルーシェニカという女性に対し、父のヒョードルも好意を寄せる。また、ドミトリーが無下にしたカテリーナーであるが、以前ドミトリーに好意を持ち続ける。この女性に対してはイワンが気持ちを高めることになる。この女性を巡って家庭内の思惑が交錯する。そしてこの女性問題をさらに複雑にするのが「金」だ。三兄弟が父から受け取る遺産の問題があり、父はそれを子供に渡そうとしない。ドミトリーはカテリーナから預かっていたお金(300万円)をグルーシェニカと豪遊してつかってしまい、なんとか金を用意する必要に迫られる。ヒョードルはグルーシェニカを口説こうと、子供(ドミトリー)に渡す分の遺産を貢ごうとする。この女性と金を巡ってドミトリーと父、ヒョードルの関係は悪化する。その後様々なことがあり、ヒョードルが殺害され、ドミトリーが殺人の容疑者とされる。それに対する嫌疑、裁判が物語後半の大きなテーマとなる。

また「信仰」という別の観点から見ると、三男アリョーシャと次男イワンの掛け合いがある。アリョーシャは女性や金の問題では表に出てこないが、修道院の生活の中で神を純粋に信じつつも、そこに意義を唱える周りの声に心を揺り動かされる。次男のイワンは、無神論者でアリョーシャに対して、神の無慈悲さを説く。「神はいない。いるなら、なぜなんの罪もない子供に地獄のような責苦を与えるのか。子供が幼くして亡くなる、ここにどんな正しさも存在しない。来世で救われるというのは無責任かつ、その苦しみを知らないから語れるのである。」この部分はイワンが寓話を用いてアリョーシャに話す部分だが、これが物語中盤の核心となる。

これ以外にも、貧困に苦しむ別の一家の話等も交錯し、重層的に物語は進む。

書評

冒頭述べた通り、この本は多種多様な主題を扱っており、そこから何を感じ取るかは読者の経験や問題意識次第である。以下は私が読み進めながら気づかされた点に過ぎず、他にも様々な解釈が可能であることは留意されたい。

1.理不尽な家庭の形も存在する
個人的に恵まれた家庭に生まれたわけではないので、カラマーゾフ一家の形に親近感を覚えた。親がいる/いない、裕福/貧乏以前に、親が子供を愛していない、疎ましく感じているというのが何よりの悲劇なのだと思う。子供は親の背中を見て育つ。だからこそ、親の自分に対する気持ちには誰もが敏感である。昨今のニュースで親による子供の虐待が次々と報じられるが、肉体的、精神的な親子の溝は後々まで禍根を残し、子供の人格形成に大きな爪痕を残す。物語でのドミトリーの姿はメタファーとして印象的。自分の父親に対する気持ち、父の自分に対する思いが客観化されたという点で読んでよかったと感じた部分。「1コペリカもお前に出さない」というヒョードルのドミトリーへのセリフは衝撃だった。親が子供に対し、無駄な支出とは別にこういうセリフを言うのは愛情の欠落を感じる。

2.資本主義の闇
作中、ヒョードルに利用され、ドミトリーの怒りを買い、暴行を受ける貧しい父親が出てくる。金がなく、病気の家族を治療できず、娘を働かせてしまっていると強く後悔している。アリョーシャからの200ルーブルの申し出に歓喜するが、プライドから受け取れず踏みつける。そして心の支えだった、息子も病気でなくなってしまう。もちろん、幸せはお金では買えない。金が全てだなんていうつもりは毛頭ない。だが、不幸のいくつかの部分はお金で取り除けることも事実だ。豪遊するドミドリーとこの一家が対比され、経済格差の残酷さを無慈悲なまでに表出させる。

3.父親
1,2に関連するが、本作では二人の父親が出てくる。ヒョードル・カラマーゾフと2で示した貧しい父親だ。どちらも普通の父親としては描かれていない。前者は金と女性関係に汚く、息子を疎む父親。後者はまともな仕事がなく、娘の稼ぎにたより生活している。さらに日頃の振る舞いから世間からは狂っていると思われる始末。ただ家族を真に思い愛している。そして、この父親が辿る結末が印象的。ヒョードルは息子から強い暴行を受け、最後は殺害される。後者は息子の自分への強い思いに歓喜するが、最後に息子は病でなくなってしまう。ここに、作者が描きたかったリアリズムがあるのではと思う。どちらが良い、悪いという価値判断を挟むのではなく、現実社会の姿を写実的に示している。

4.信仰の無力さとその慈悲
物語中盤のイワンによる大審問官の寓話。神は、無慈悲に殺される子供を決して救わない。その子供に対して来世は報われるはずだと語る神父は偽善者でしかないと語る。社会は残酷である。そしてその社会をよくするのは神ではなく、人間でしかない。イワンはそう語る。一方で、また別の寓話として、修道会の長老の兄の話がある。貴族の家庭に生まれた兄は、不自由ない生活を送っていた。しかし、ある時不治の病にかかり、余命が幾許も無いと知る。それを機に、その少年の世界を見る目が変わる。信仰に目覚め、全てに感謝するようになる。家の手伝い人にひざまづき、自然に感謝し、毎日の生活の中に無限の幸せを感じなくなっていく。少年は病の中で「幸福」を見つけたと語る。外的な救いをもたらす神はいない。しかし、人間の心を救う内的な悟りとしての神は存在する。私もキリスト教教育を受けた人間であるが、宗教とはそういうものなのではないか。

非構造的な書評であるが、どの年齢、タイミングで読んでもなんらかの気づきを得られる本であると断言できる。長編作であるので、1ヶ月弱、読破にかかるかもしれないが、人生で一度は読むべき名著であると言える。

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