千里眼鏡(1)【短編小説】

   土壇場に追い込まれるとは,こういう状態を言うのだろうか。感染症の世界的流行がもたらした不況の影響を受けて,私の経営する工場も危機的状況にあった。月末までに資金繰りがつかなければ不渡りが出てしまう。このままだと,工場は潰れざるを得ない。取引銀行からの資金融資は,もう当てにできない。さきほどまでの話し合いでも,担当者からの返事は実につれないものだった。
 何か策はないだろうか。このままだと数日後には,私の築き上げてきた全てが,もろくも崩れ去ってしまうことになるのだ。
 私はぼんやり考えながら,あてどもなく夜の街を彷徨い歩いていた。自宅にまっすぐ戻るような気分にはなれなかった。

「もし,そこのお方」
 不意に声をかけられたのは,まさにそんな時だった。ふだん歩いたこともない,寂れた裏通りに足を踏み入れた私を,誰やら呼び止める者がいたのだ。
 振り返ると,建物の壁を背にして小柄な老婆がちょこんと椅子に座っていた。考え事のあまり,気付かずに通り過ぎてしまったものだろうか。水晶玉を載せた小さな机を前にして,時代がかった漆黒のマントにフードのいでたちから察するに,およそ占い師の類いであることには間違いないだろうと思われた。かなりの老齢のようだが,意外にもそのしわがれ声は明瞭に聞き取れた。
 深く刻まれた皺の奥に埋もれた双眸からは,老婆の表情を窺うことは難しい。いったい何の用だと言うのだろう。

「なんだ,占い師か。悪いが,今は自分の行く末なんて占ってもらう気分じゃないんだ。だいたい,私の将来なんて99パーセント方,決まっているようなもんだ」
 なかば自嘲気味に言う私に,皺を歪めたような愛想笑いを浮かべながら答えた。
「存じておりますよ。銀行からも融資を断られ,このままでは工場が人手に渡らざるを得ないのでしょう?でも,銀行強盗なんて莫迦な真似はおよしになった方が…」
 私の顔に浮かんでいた笑みが凍り付いた。
 銀行強盗は,つい先ほどまで道々歩きながら脳裏に浮かんでいた「策」の一つだった。
 引き攣った笑顔を残しながら,私は必死に思考を巡らせていた。何故分かったのだろう。口からでまかせにしても,工場のことといい銀行強盗のことといい,この奇妙な偶然の一致は何だ。
「見ての通りの占い師でございます。人の思いぐらい見抜けなくてどうしましょう」
 占い師のその言葉は,私の思考に呼応したものだろうか。気味の悪い老婆だった。これ以上関わり合いになるのはよした方がいいだろう。
「それで,何の用だい,婆さん。用がないなら失礼するよ」
 私は早くこの場を立ち去りたかった。
「あなたを…お助けしたいのですよ」
 踵を返しかけた私の足が止まった。
「助ける?いったいどうやってかね」
 普段の私なら,占い師のそんな言葉を真に受けるどころか,一笑に付しているところだ。しかし,状況が状況だった。さきほどの気味の悪さも何処へやら,藁にもすがる思いで私は,老婆の言葉を待った。
 老婆は,懐から革のケースを取り出し、中から一つの古ぼけた眼鏡を出して私に見せた。
「この眼鏡,「千里眼鏡」と申します。これを買ってはくださいませんか」
 占い師である老婆の意外な申し出に,私は戸惑いを隠せなかった。占い師であるからには,当然,これからの行動の指針となるべきヒントか何かを与えてくれるのだろうとばかり思っていたからだ。
 老婆の説明によれば,彼女が手にしているその古びた眼鏡は,未来を見通すことができる不思議な力を持っているというのだ。数世紀前,東欧のさる貴族がお抱えの錬金術師に作らせたのが始まりで,それから次々と持ち主を替え,バチカンに伝わった時には,過去透視装置クロノバイザーのヒントにもなったという。未来に起こる出来事を見せてくれるところから,中国では「千里眼鏡」の名を与えられ,今は私の目の前にある。
 にわかには信じられない話だった。
                (つづく)

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