「拡張家族日記 2021年上半期を終えて」
今年も早くも半年が過ぎ、同居人Tが家にきて半年が経った。
世界は、想定以上にコロナが収まらず、日本もオリンピックを控えて右往左往している。
そんな半年間で、大人はそれぞれ2分の1歳、歳を重ね、
しっかりものの長女は小学生になり、ポニーテールが似合うようになった。お笑い系の次女も誕生日を迎えて4歳になり、さらに人の笑いを自ら取りに行くようになってきた。
↑次女(4歳)カメラを向けると必ずチョける。
「あっ」という間に過ぎさった半年。
次女のぽちゃぽちゃしたお腹が凹んでしまったり、
体の成長と共に、抱きごこちは変化していて。
ぬいぐるみをだっこしているような安堵感は
ずいぶん無くなってきてしまった。
それでも、
肌は柔らかく、産毛は細かく肌を覆っていて水をはじき、頬はピンク色に発色している。
繋いだ手の指先はプリンと丸くて、蛙の指を彷彿とさせる。
「そして寝顔はたまらなく愛おしい」
子供たちの愛おしさは、生まれたときから
ずっとうなぎ登りで、まだ留まることをしらない。
これから、彼女らが中年のオバチャンになっても、きっとかわいいんだと思う。
反抗したとしても、きっと、ずっと。
そんな愛おしい子供達2人含めた、愛すべき家族5人の物語の続き。
この半年での変化をまとめておく。
↓これまでの文脈を知らない方は、こちらからどうぞ
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日々の変化
相変わらず、同居人OとTは、登山をライフワークとしており、
触発されて、私も時々一緒に登るようになった。
自宅は京都市の東の方に位置しており、家の近くには、大文字と比叡山があるので、登山には事欠かない。
しかも、山というのは、一般的なコース以外にも登山コースがたくさんあるので、ハイキングでは知ることができないような荒れ果てたスリリングな道も知ることが出来て、楽しい日々だった。
朝、保育園送迎からの登山 1時間半ほど。
下山して家に戻ってもまだ10時前、シャワーをあびて10時半から仕事。
と、なんとも生産的な朝なのだ。
もっぱら、3月に足の指を骨折してからは、2ヶ月ほど登れなかったけれど、日常に運動するという目的が加わったおかげで、
「バス停間を数駅歩く」なんてことも全く苦にならなくなった。
たまに、2.5kmほど離れた保育園の送り迎えも、徒歩でいくことがあるくらい。
それゆえに、すこしずつ体力が戻ってきて、
風邪をひかなくなった。
↑大文字如意ヶ嶽の「火どこ」にて。(「火どこ」とは8/16送り火の日に火を焚く斜面で「大」の形にレンガで組まれた火を焚く場所がある)
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これまでタスクだと思っていた保育園の送迎に、新たな目的「体を鍛える」がプラスされたのは、関係性としてとても健全だ。
そもそも保育園の送迎に、子供に対して「やってあげてる感」はないのだが、でもやはり「タスク」ではある。
世の中のことが、全部こうだったらいいのに。
人との関係も、商いも、きっと昔はすべて主体的な事だったはず。
たまに京都に来る客人たちとも、恒例にもてなしの一環として登山した。
↑ 休日は子供達と登ることも。(4歳の次女も、「火どこ」までなら平気で登れるようになった)
大人たちが変化したこと
子育てというと、オペレーションを劇的に変え子供たちの生活にコミットするTに触発されたのか
Oがさらに積極的に、家族へコミットしてくれるようになった。
そんな相互作用によって、大人3人がさらに「家族」に近くなった気がしている。
人間が3人以上になると、それは一種の「社会」。
毎日誰かが、食材を買ってきて、
「本日は誰々プレゼンツです〜〜」といってみんなで感謝して食す。
基本的には、割り勘などはせず、「次回いい魚かってきまーす」とか「酒かってきまーす」とか「調理しまーす」などで補完しあう。
夫婦でも「家事ポイント制」の導入を検討するくらい、日常の家事の分担は負担になりやすいものだが、一定の遠慮があっても、それぞれバランスを取りながら、うまく成り立っているのが面白いし興味深い。
また、それぞれの専門分野と興味がうまい具合に重なっていて、話題にも事欠かない。
コロナウイルスの環境も、まだ収まらないこの半年で、
1,ほぼ家で外食レベル(もしくはそれ以上の)ご飯を食べることが出来、
2,私たち+気の置けない来客と食事を囲んで、お酒を酌み交わし
3,しかもコスパが良い、
となると、つい外食する動機が無くなってきてしまう。
東京で一人暮らしをしている人の中には、リモートで人にも会えず、飲みにもいけず、ストレスで悶々とした日を送っている人もいると聞いた。そんな人がたまに我が家にも訪れてくれる。それは、私にとって、とても嬉しい事で、英気を養ってまた持ち場へ帰って欲しいとう、寮母のような気持ちにすらなるのである。(みなさんまたいつでもどうぞ)
↑客人のある日は三人とも料理をがんばってしまう。(甘鯛のあぶり、鯵、なめろう)
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料理についてはそれぞれに得意分野があり、
Oは魚とスパイス、Tは肉の低温調理系と鶏の唐揚げ、
私は天ぷら全般。
最近は週に3回ほどは揚げ物をして、スキルも上がった。
↑春の山菜(わらびとこしあぶら)の天ぷら
↑カチョカバロというチーズを焼いたもの
↑とにかく、我が家では出番の多い鯵のお作りとなめろう。(なめろうは正義)
↑ 恵比寿の創和堂さんのメニューを真似てつくった、穴子の白焼きとクリームチーズ、奈良漬、ワサビを巻いてたべる一品
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それぞれの得意分野を教えあい、
私とTは、魚がさばけるようになったのは
この半年で、かなりうれしかったこと。
知的好奇心とこだわりある人たちとの交流はとても刺激になるものだ。
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子供たちが変化したこと
子供二人が、だんだんとロジカルになってきた。
同居人OとTは、性格こそは違うが趣味嗜好、思考プロセスも似ていたりして
極めて悟性的認識能力の高い人々である。
プライベートで飲んでいるときはそうでもないのだが、
仕事モードに入ると途端にロジカルで、私のような感性8割で生きている人間にとっては、非常に「ややこしい人」になる。
たとえば、
山に登ったときも
「空気が緑だねー」というと「空気は色ついてなくて、透明です」と言われるし。これはネタではあるのだが...。
私なんて、もはや
言葉がウイスキーであってくれてもいいと思っているのに(笑)
↑村上春樹著「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」と、アイルオブジュラのスーパースティション。
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まあ、でも、そのせい(おかげ)もあってか、
先述したように子供二人が、だんだんとロジカルになってきたのは、
半年での面白い変化の一つだ。
長女は、「なぜ?理由をいって」と頻繁に論理を追求し、
それについて、次女も、一生懸命、筋道立てて説明するようになった。
そして自分たちがそういう対話をする以上、
子供の「なぜ?」には、とても丁寧に言葉を選んでロジカルに答えようとするOとTが、私にはほほえましい。
いつか子供たちに、論破される日が来るのだろうか。
↑ 家での腕相撲大会。
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あなたの普通は私の普通じゃない
だんだんと幼児から少女になってくる子供たちにとって、
この家族はどのように映っているのだろうか。
そのことを、私はとても大切に考えていた。
人は概念化をすることにより、物事を理解する。そもそも、物事を抽象化することも出来ない小さな子供にとって、言語化できない関係や存在とは、とても説明しずらい事でもあったはずだ。
”
命をくれたパパとママは1人ずつ。
でも、たくさんのことを教えてくれるパパとママは、たーっくさん居てもいいんだよ。
”
と私は、言い続けてきた、
本人たちも、きっとそんな風に、OとTだけでなく、支えてくれる私の友人たちを見ていたと思う。
□
小学校が始まってすぐ、
長女にとって小さな事件があった。
長女の忘れ物に気がつき、Tが走って届けたときに、長女は友人から、
「この人パパ?」と聞かれたのだった。
とっさに長女は「えっ、えと、、、パパじゃない」
友人「じゃあだれ?」この年頃の子供に遠慮はない。
長女「えとね・・・・・(なんていったらいいんだっけ、、)」
帰宅した長女からでた一言は、
「ママ、どういう風に説明したらいいかわかんない。
説明がすごく長くなるし、理解してもらえないかもしれない」だった。
「たしかにそうだよね。じゃあ一緒に考えてみよう」
そう言って、私はそのあと数日にわたり、長女と話し合ったのだった。
”OとTのことを「この人だれ?」って聞かれたら、何て答えるか。”
人との関係性、その「本質」。それを追求するはじめの一歩。
この答えだけは、私が言うわけにはいかない。
寄り添いながら、長女に考えさせたのだった。
そして、次の夜、小さな体と頭をフルに使って、
長女がおもむろに出した答えは、
「大切な家族」だった。
「なかなかいいじゃん」と私は心から褒めた。
その後、もしもう少しお友達から突っ込んで質問をうけたら・・を想定し、
2人でいくつかのQAを作った。
そして最後に、
もしお友達に「そんなの普通じゃない」ってひどく言われて傷ついたら、
「あなたの普通は私の普通じゃない」
っていったらいいよ、と伝えた。
ちゃんと「嫌だよ」っていう事は、伝えてもいいんだよ、と。
やっと長女の顔が、晴れやかになって、
「ママ、ありがとう。もう説明できるわ。いける気がする。」と言った。
□
家の前でバイバイをして、大きなランドセルを背負って
しっかり歩んでいく長女は、不思議なくらいこの半年で成長していて、
そのうち、背中を見守ることしかできない日がくるんじゃないかと、
まだまだ先のことを思って、つい目頭を熱くしてしまう私は
もう、しっかりと母みたいだ。
そして、長女は、今日7/7に7歳の誕生日を迎えた。
その日は私の「母親7年記念日」でもある。
7年も経てばベテランかと思いきや、
まだまだ全然のシロウトが、子育てをしているのだから、まだまだ修行がたりないのである。
でも、完璧ではなくても、こうして一つ一つ歩んでいることのほうが、大切だと思う。母が完璧でないなんて、とっくの昔にバレている。
2021年7月7日 京都にて
この続きはこちらのnoteにて。
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