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自分を人間だと思ってるネコ

2024/03/15

私には2歳の愛猫がいるのだが、いまだに考えていることがわからない。
決してマイナスの意味ではないけど、撫でられている時に本当に喜んでいるのか、かまって欲しい時にかまえてあげれてるか、食事の頻度はこれでいいのか...。

人間同士でも建前があるし、嘘もつくし、それこそ深層心理なんかはわからない。
けれど、我々には言葉というかなり優秀なコミュニケーションツールがあり、言葉という共通言語があれば体感で半分くらいは理解ができると思っている。

けれど、猫相手には突出したコミュニケーションツールがない。
獣医とかトレーナーとかなら何かしらあるのかもしれないが、私が持っているツールなんてネットに転がってる先人の知恵とかテレビで聞きかじったようなことしかわからない。

あくまでも、私が「きっとこの子はこう思ってる」前提で、何かをしてあげることしかできない。
これをあえて楽しむのも、歯痒さを感じるのも自由だが、私の場合は非常にエゴイスティックなものに感じる。
それでいうと、そもそも“ペット”という認識自体がかなりエゴイスティックなのだが...。
でも、これはハッキリと言ってどうしようもないわけで、特定の解決策とかはない。

だから、あくまでも私は常に彼女に対して自身のエゴを押し付けているスタンスで接している。

ブラシングしている時もブラシングさせてもらっていて、食事を与える時も食事をしてもらっていて、おもちゃをあげる時もおもちゃを使ってもらってる...というのはあまりにも誇張しすぎだが、基本的に「何かをしてあげている」という認識は捨てることにした。

例えば、ネコは心配をかけないように人に見えないところで死んでいくといういかにも“美談”っぽい言葉があるが、私はこの考え方が好きではない。正しくないとかでは全くなく、単純に好きではない。
というのも、それは単純に看取れなかった人への救済でしかないと感じるからだ。
過激表現にはなるが、そう死んでいく生き物だから仕方ない...みたいな。

もし愛猫が死ぬことになったら、私はエゴとして看取りたいし、もし看取れなかったらエゴとして謝りたい。
結局はどこまでいってもエゴなのだが、あくまでも私の責任として自分の中に彼女を遺したいと思う。

まあ、そんなことはもっと先のことになるとは思うが。(そうあってほしい)

それでいうと少し面白い話があるのだが、あくまでも私主観であることは名義しておく。
ウチの猫は私が食事をはじめると「あっ、ご飯の時間なんですねー」って感じで自分もエサの方に向かう。別に器に入っている分のエサはいつ食べてもいいようにしているわけで、私に合わせる必要はないのだが、私の食事を見て自分もエサを食べにいく姿が自分も人間だと錯覚しているようにしか見えなくて可愛い。

また、ついてきて欲しい時には、数歩ごとに私を振り返り小さい声で「ウキュッ」と鳴き、ちゃんとついてきてるかなの確認をする。
そして、黙っていなくなると探しにくる。
この姿が、本当に「ついて来いって言ってるでしょ!」って言っているように見えるのだ。

他にもいろいろな要素はあるのだが、きっと彼女は自分を人間だと思っているに違いない。
と、私のエゴは言うのだ。

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