しゃべるヒトーことばの不思議を科学する@国立民族学博物館
「しゃべるヒト」展(2022.9.1-11.23)に行ってきた。
ろう者の写真家・齋藤陽道さんが少し関わっているらしい。『暮しの手帖』で連載されている「よっちぼっち 家族四人の四つの人生」で、文筆家としての齋藤さんのファンになったわたしとしては、気になるところだ。
しかも、ろう者の齋藤さんが関わっているということは、手話が結構メインになっているのだろうか?
展示のタイトルからは、特に手話がメインという印象はないが、チラシによるとキャプションはほぼ全て日本語と日本手話と英語で説明されているらしい。チラシの表のデザインにも手話を使っている人がたくさんいる。
そもそも言語系の展示ってどんな風なんだろうか。どんな展示になっているのか、楽しみだ。
まず、入口のガラス戸の中に入ると、何台ものモニターで人々が話している。チラシの表のデザインと同じ雰囲気だ。音声はないけれども(なかったと思う。記憶違いの可能性あり)、「話している」ということは感じた。
ただ、受付が左側にあって、料金を払ってから少し戻るかたちでモニターの映像をみなくてはいけなかったし、受付のスタッフの人が気になってゆっくりとはみれなかった。すぐに次のセクションに向かう。
1階はセクションがカーテンのような布で仕切られていて、奥は見えない。次のセクションがどうなっているのか、入ってみないとわからないようなかたちでわくわくする仕掛けがされていた。
次のセクションではイントロダクションとして、こちらに、「コトバ」ってなに?と問いかけるような展示がはじめにあった。例えば、「プログラミング言語」や「文字」はコトバだろうか?(文字はコトバのための道具と説明されている。)
そこから、"手話はどうだろう。もちろん、言語だよね。"というのがわかりやすく理解できるような流れが作られている。
また、動物のコミュニケーションなども映像やパネルで解説されていた。
空間全体を広く使って、上からコーナータイトルを吊り下げていたり、解説パネルの文体も柔らかく、とっつきやすいような工夫がされていた。ただ、個人的には抽象的過ぎて捉えどころがない印象を受けた。「言語ってなに?」という疑問には、簡単に答えられるものではないし、理解するには、こちらにもある程度言語ってなんだろうと考える必要があるのだろう。普段、当たり前に使っているコトバに対して、なんだろうかと改めて疑問に思えただけで、このセクションは役割を果たしているのかもしれない。
次のセクションでは、「コトバをつかう身体のしくみ」について展示されている。
言語のそもそもの成り立ちから説明されており、猿人→原人→新人の脳を展示して、進化の過程を示している。人類の進化において重要なことを思い出してみると、そう、二足歩行を始めたことだ。二足歩行により、脳が発達したことはよく言われることだが、音を発するためには声帯が発達しなければならない。
声帯についても、音が出る仕組みを模型を通して伝えていた。音域を変える方法などが、空気をポンプで押し込んで抜けるときの音の違いで説明されている。なんだかみんぱくではなくどこかの科学館に入りこんだような気持ち。
続いてのセクションでは、「コトバを身につけるしくみ」について主にパネルで説明されている。コトバを獲得していくにあたり、マネをすることから始まるということなど。もちろんもっとしっかり説明されていたが、残っているのはマネについてのみであった。不甲斐なし。
以上のように、1階では『コトバのしくみ』について、3つのセクション(1.言語ってなに?&コトバのしくみ 2.コトバを発する身体のしくみ 3.コトバを身につけるしくみ)に分けて説明されていた。
色々な工夫はされていたものの、正直難しいなぁと思う部分もあり、みんぱくの展示よりも科学館の展示のようだった。
みんぱくが好きなわたしとしては、興味の分野が違ったため、あんまりピンとこなかったが、次にみにいった2階では、3つのセクションを通して『コトバと多様性』の展示がされており、これぞみんぱく!というような文化人類学の持つ多様性の尊重や学術研究が取り上げられており、とても面白かった。
まず、セクション4.コトバの多様性。
同じ言語でも、地域によって全く違うコトバを使ったりする。方言の面白さは日常でも感じているので、面白かった。みんぱく本館の常設展示の言語コーナーでも地域別ももたろうの映像があるが、それを特別展示仕様にしていた。
また、このセクション内のどこかのパネルに、「この展示のなかで、なにかひとつでも心に残るものがあれば嬉しい」というような文章があって、全然ひとつではなく、色々と面白いことはあったが、ひとつ選ぶとしたらなんだろうと考えてみた。
手話の寝言の映像だ。
わたしは自分が手話は当たり前に言語だと認識している、と思っていた。しかし、寝言を手話でしている女の子の映像を見たときにびっくりして、えっ手話で寝言を言うんだ、と思った。考えれば、そりゃあそうだ。わたしたち聴者は音を発するコトバで会話をするため、寝言は発話になる。同じように、手話言語を扱うひとの寝言は手話なのだ。なので、びっくりした自分に、手話は言語だと思っているとはいえ、”普通のコトバ”とは違うだろう、というような思いがあったのだなぁと気付かされた。手話言語を軽んじているつもりはなかったけれど、同じだとは思っていなかったんだ。そんな自分に気付けて、ちゃんと正せた。それだけでも、この展示をみにきて、本当に良かった。
次のセクションは、「コトバとヒトの関係の多様性」について。
なんらかの病気などでコトバを発することができなくなった人たちの事例があげられている。失語症のひとや気管切開によって声帯が使えなくなった人など、さまざまな症状を抱えた人が、コミュニケーションをとるために課題に取り組む姿をみて、言語聴覚士の仕事を感じた。
そして、"わたしの言語ヒストリー"というコーナーがめちゃくちゃ面白かった!ひとりひとりの人がそれぞれ、言葉との関わりについて語る映像が何台ものモニターで流れている。
全ての映像をみると結構な時間になるが、ほとんどみてしまった。ひとりひとりの人生に物語があるんだよなぁ、なんてしみじみとしてしまう。
最後のセクションは、「コトバの研究の多様性」について。
蚊帳のような緑の細かいネットで空間が小さく仕切られていて、ひとつひとつのゾーンでコトバに関する研究の概要が説明されている。
このころにはわたしは疲れ切っていて、ほとんどみていないが、オタマトーン関連の展示もしていたような気がする。
最後に2階から1階に降りて、出口に向かうときに、手話で枕草子の第一段の"春はあけぼの〜"を表現している映像が流れていることに気付き、ぼんやりとみていた。手話表現の個性の出方が面白かった。
展示全体的な総括としては、直線ではなく曲線の仕切りを使用するなど、堅苦しさを空間のデザインで軽減させる工夫がされていた。
また、端末で映像がたくさん使用されていたため、全部をみると膨大な時間がかかる。好きなものをチョイスする必要があるが、面白い映像ばかりなので、選ぶのも難しかった。もう、1階はさらっとみて、2階で情報をあびるようにみちゃうのもひとつの手だと思う。
ただ、音と映像で視覚も聴覚も使うので全体的にうるさい感じだった。情報過多な環境が個人的に嫌いであることもあり、展示全体として心地よさはなかった。
すべての人のためになるような工夫は、結果として誰にとっても少し不快さを与えるようなものになるのかもしれない。現時点でできる技術的な問題なのだろうか。
また、地下の空間にも一応足を運んだが、わたしにはよくわからなかった。なにがなんだか………。くつろげば良かったのだろうが、わたし一人と、警備の人が一人。くつろげないよ。
とはいえ、今までの文化人類学的なみんぱくらしい展示だけではなく、科学館のようなテイストもある展示になっており、新しい試みのようで良かった。そもそも言語を特別展示にするというのが、難しい分野にチャレンジしたな、と感じた。結果として、エンタメ感は少なく感じたが、学びは多くあった。工夫の凝らし方も独特で、こだわりの詰まった展示だった。
この展示に関わった全ての人に敬意を。プロフェッショナルの仕事でした。