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昭和きもの愛好会 インタビュー4 染色会社・ 株式会社亀田富染工場

桂川を超えて五条通りを東に向かうと、大きな亀の看板があるビルが見えてきます。和柄のアロハシャツで有名な「株式会社亀田富染工場」の社屋です。トップ画像は「株式会社亀田富染工場」社屋です。

創業から戦後の事業再開まで

ここで社長(2021年取材当時)の亀田憲明氏にお話を伺いました。亀田富染工場の創業は1919年(大正18年)です。京友禅の染屋として、初代の亀田富太郎氏が創業しました。その後、徐々に太平洋戦争戦局が厳しくなり、種々の統制なども始まっていきました。しかし戦争中に亀田富太郎の妻・ふさゑ(社長のお祖母様)さんが染料を残し置いていたことが幸いして、戦後すぐに事業を再開することができたのです。

戦時中はモノがなくて当然で、その日その日が精いっぱいだったと思うのですが、ちゃんと終戦後のことを考えておられたお祖母様の素晴らしい先見の明に、発展の基礎があったということでしょう。
お陰で亀田富染工場は戦後すぐに仕事が始められました。女性の好む明るい地色の着物や柄ものを作り、黒地に機械捺染で柄を置いたりという製品も作られました。

最盛期は板場友禅と機械捺染をどちらも行い、一時は従業員が100名以上いました。一口に「友禅染」といってもいろいろな種類があります。大まかに区別すると、「手描き友禅」と「型友禅」に分類されます。型友禅は「板場友禅」とも呼ばれ、長い板に布を貼りその上に型紙を置きながら染めます。手描きより量産ができ、模様が連続して染められるのが特徴です。

そんな着物産業の好景気に陰りが出てきたのは昭和54年頃からです。そこから亀田富染工場の模索が始まりました。

アロハシャツを試作する

平成になって、工場ではシルクスクリーンで広幅の布地を染めるようになりました。シルクスクリーンとは布や紙を染める方法のひとつで、木やアルミ製の枠に紗を張り、版を作ってから色糊の通る部分と通らない部分を作ります。この上から色糊をのせてから押し出すと下の布や紙に色糊が通過して染まる仕組みです。

「広幅」とは、通常の反物幅(約36cm)より広い幅の布地を指します。幅は布地の用途のよって様々ですが、広幅というと反物幅の2倍の72cm以上110cmまでを指すことが多いようです。
社長に「早い時期に方向転換をされた理由は?」と伺うと、「仕事が減ってきたときにあるデザイナーさんが、うちの持っていた着物の図案をみて、『すごいものがあるね』と言われたことです。それで、広幅の着物柄に特化することにしました」ということでした。

そして洋服の生地を染めるようになります。ももちろんそれからも模索が続きました。
先代社長の和明氏が「ハワイの日系移民が着物をつぶして作ったのがアロハシャツのルーツ」と知り、蔵に入っていた着物生地の図案でアロハを作りました。同時にカットソーで女性向けの商品も作り、京友禅アロハ&カットソーの「Pagong」というブランドを立ち上げました。
「Pagong」はタガログ語で「亀」の意味、もちろん亀田富染工場の「亀」から決めたブランド名です。京都でいち早く、柄を広幅で染めてアロハシャツを作ったのは亀田富染工場です。

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アロハシャツの第一作となった「渦と立波」の図案


これで亀田=アロハシャツというイメージができました。たくさんの試作品が作られ、和明氏が見本のアロハシャツを着てサングラスをかけ、鴨川の河原を歩いていたら、人々がみな道を譲ったという逸話があります。
店の前を店舗にして、「自分らでいっかいやってみようか」と、対面販売を始めました。

まだインターネットも十分浸透していない当時に亀田富染工場が問屋を通さずに対面販売を始めたのは非常に画期的なことでした。
立ち上げの際、お客さんを呼んで展示会を行いましたが、知り合いばっかりだったという話です。パゴンの最初の課題は「お客さんを作ること」「ストーリーをつくること」でした。


新しい未来を目指して

現在、亀田富染工場の製品は現在アロハシャツのみにとどまらず、女性向けカットソーやバッグ・ストールにいたるまで多種多様です。
ネットショップと実店舗には和のテイストを活かしたお洒落な製品が並びます。

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人気の猫柄・猫の歌舞伎

工場も見学をさせていただきました。

若沖の絵柄を染めています。亀田憲明氏が亀田富染工場設立100周年を記念して発行された冊子「亀之物語」によりますと、先にご紹介したお祖母様のふさゑさんは次のように言い残されたそうです。

「加工賃をいただく染め屋は手堅い商売や。それを忘れ、自分らで生地を仕入れて染めて、売ったりしたら絶対あかん(それを業界は「手張り」と呼ぶ)。加工賃もらうんが一番ええんや。そやのに皆、ちょっと儲かったら調子にのって手張りし、在庫抱えて会社を潰すんや」
お祖母様の言葉には京都の伝統的な分業の考えがしっかりとみられます。しかし、時代も変わってゆきます。その時その時の迅速な対応があってこその100周年ではないでしょうか。

亀田富染工場は過去現在の資産を上手に活かした「手張り」が成功の秘訣であったと思います。
製品づくりの過程で、会社の資産となったのは昔からある原画でした。会社にある図案と呼ばれる原画が、新しい製品を作る基礎となりました。それを資産と考えたところに勝機があったのです。また、早い時期に広幅に転向したことも洋服地への販路を広げる契機となりました。

いわゆる5S活動の普及により、工場や製造業では「現場を片付ける・不要なものを捨てる」ということが推奨されるようになりました。着物関係も同じで、資料や原図を処分したという話をよく聞きます。トヨタ式「5S運動」は意味のある運動ですが、着物業界で失われた資産も多いように思います。処分されずに残されていたというのが亀田富染工場の素晴らしさです。

しかしこれらの資産も、再利用して製品を作ろうという熱意なしには活用されません。そこに亀田富染工場の歴史と技術が加わってこそ出来上がった製品であると思います。

以下は4代目社長亀田憲明氏より頂いたメッセージです。

『2021年7月、4代目社長亀田憲明より5代目社長亀田富博にバトンを渡します。ギターがエレキになり、世界に広がり、三味線もエレキになり、お座敷芸から世界へ広がろうとしている中、パゴンもインターネット・SNSの普及によって世界へ広がりつつあります。未来を次世代の5代目に託しております。』

似内惠子(一般社団法人昭和きもの愛好会理事)
(この原稿の著作権は昭和きもの愛好会に属します。無断転載を禁じます)

【参考サイト】パゴン http://pagong.jp/

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