全粒粉パンマンの株 251       投資家のモラルについて                                    

「遠くの戦争は買い」
「銃声が鳴ったら買い」

投資の格言だが、他人の不幸も材料にしてしまう投資家たちに眉を顰める向きがある。そういう違和感は私にも理解できる。

もっとも私の場合、耳が遠いのか銃声が聴こえてこない。各種指標が動き出してから慌てて調べるのが毎度のこと。「中東情勢が悪化すると原油価格は上昇するのか。おや、海運株が上がっているぞ」てな具合だから、まずは投資のリテラシーを高めることが先決である。

戦争や災害、少し前には感染症でマーケットは大きく揺らいだ。揺らぐたびに財産が増減して、それはもう大変なストレスである。でも長い目で見たら右肩上がりになっているから粘り強く頑張ってますけどね。

マーケットの端っこでチョロチョロしている私のような個人投資家は、銃声が鳴って大きなトレンドが発生したら、それに乗るか、急いで降りるか、資産を増やすか、守るかの選択を迫られるわけで、その瞬間に戦地の人々を思いやる余裕はない。申し訳ないが。

逆に私の投資リテラシーがある程度高まってきたら、ペルシャ湾緊迫→海運株上昇という流れに気づいて、すばやく動くに違いない(たぶん)。

ためらいや葛藤はそこにはない。トレードを完遂させてから、このトレードの背景にある課題に思いを巡らせる。そういうものだ。

とはいえ

いずれ私がバフェットさんのような大投資家になったとき、株式投資に批判的な問いかけに対して、無視を決め込むわけにはいかないだろう。何らかの答えを用意しておかなければならない。

「株はきれいごとでは勝てん」
「おれが株をやめたら誰かが助かるのか」

これはダメでしょうね。バフェットさんの言葉とは思えない。バフェットさんがオマハの年次総会でこんな発言をしたら、バークシャーの株価は暴落する。

もう少し立派なことを言いたいものだ。まあ、バフェットさんの年齢までまだあと30年以上ある。じっくり、投資の世界に燦然と輝く名文句を考えるとしよう。

世界には、お金が流れる方向を決定する人たちがいて、例えば各国の中央銀行とか巨大テック企業とか、上位2%の富裕層とか、独裁者とか、彼らがどう動くかによってお金がどこに向かうのかが決まる。それどころかお金を作り出すことも可能だ。

お金は水のように、この世界にあまねく存在している。私のような平均的な勤労者は、水道の蛇口をひねってチョロチョロと出てくる真水を手に入れるが、お金の流れを決定する一握りの人は、世界中に広がる水脈を監視している。

株式市場というのは、その水脈や水源の一部を見せてくれる地図のようなものだ。ところどころ歪んだりひび割れたりしている箇所を見つけて、湧き出る(零れ落ちる)水を両手で救うのが、零細個人投資家のビジネスである。なんとかその技術を身につけたいと足掻いているのが今の私である。

私の本職はメーカーの営業だが、会社の商品を売りに行くのも、株を売買して利益を上げるのも、根本は同じだと感じている。同じ水脈を利用して稼いでいる。善悪も優劣もない。ただ株のほうが効率がいいとは思う。

「あれの輸入価格が上がるからこれの値段に転嫁せざるを得ないだろう、結果としてあの会社は増収増益になるだろう」と予測して株を買う人と、その会社に勤める人と、モラル的にどちらがどうなん?という話。

冒頭の格言は、銃声が鳴ったら「買い」か「売り」のどちらかの選択をせざるを得ない私たちに、買いを勧める、それだけのことだと思う。

もっとも

銃声が「近くの戦争」で鳴ったら話は別。自国が戦場になるような国家存亡の危機に際しては、買いも売りもない。東証と円の暴落を真正面から浴びるほかない。

浴びて見せますよ、真正面から全身で。私は愛国者なのだ。自分の財産を失っても構わないが、祖国を失うわけにはいかない。

とはいえ

私がもっと賢くなって、それが起きる半年くらい前に、なんとなくキナ臭い予感がして、戦争は近いと判断したとする。たぶん、いや必ず、逃げ出すであろう。自分の身を守るために財産を避難させる。残念ながら私は「あらかじめ知りながら自分も傷つく」選択ができる人間ではない。そんな立派な人間だったら、そもそも株なんかやっていない。もっと違うテーマでブログを書いている。

74年前、日本経済が戦後の混乱期を脱して高度成長へと舵を切った背景には朝鮮戦争による特需があった。当時も今も、申し訳ないとか後ろめたさを感じる人は皆無だろう。

特需の中身は教科書には詳しく載っていないが、俗にパンパン景気と呼ばれた。実態はそういうことであったらしい。戦後の復興を支えた女性たちに感謝せねばなるまい。私がNHKの中の人だったらプロジェクトXで採用する。神回にする自信がある。

労働は尊い、と一概には言えないところが株式投資というビジネスにはある。「投資」と「投機」の境界線があいまいだからだ。世間では投資は善で投機は悪だとされている。

おおざっぱに言うと投資は長期、投機は短期である。長期で儲かると知っていたら誰だって長期で保有するし、短期で崩れると知ったら誰だって逃げ出す。先のことは判らないから、なんとなく長期派と短期派で分かれる。性格の違いにすぎない。しかしながら、長期は優等生、短期は不良のイメージが定着しているのはなぜか。

私は長期派を自認していたが、投資スタイルを変えようと思っている。短期どころか、デイトレーダーになりたいのだ。といっても私が急にグレたわけではない。長期で保有することのリスクを感じたからだ。自分なりにリスクヘッジをいろいろ考えた末、デイトレに行き着いた。

結果的に長期保有しようと、短期で売ってしまおうと、そもそも株を買うという行為が道を外れているのだ、と言わんばかりの人を知っている。めんどうくさいのでいちいち反論はしないが、株を買うのも大根を買うのも同じだと思っている。

株式投資もメーカーの営業も看護師も農業も「特需」も、どんな仕事であろうと全部、同じ水脈から利益を得ているという世の中の仕組みについて率直に語る人は少ない。どこかで水が溢れたらみんなそこに汲みに行くけど、別の場所では枯渇しているという事実。良いことと悪いことはどこかでつながっている。みんなわかっちゃいるけど目をつぶっている。

もし、自分が水脈の流れを左右できるほどの力を持ったら、例えばバフェットさんとか孫さんとかマスクとかザッカーバーグとか、そのくらいの財力を手に入れたら、個人投資家とは異なる次元のモラルが問われるだろう。私がそうなるのはもう少し先なので、そのとき考えることにする。

と、ここまでつらつらと書き連ねて、あっ、と気がついた。株の売買には当然ながら相手が必要である。自分が買いたいときに売りたい人がいて、自分が売りたいときに買いたい人がいるからトレードが成立する。つまりお互いハッピー、ウィンウィンの取引きなのだ。

であれば、水脈とか湧き水に例えるのは間違っているかもしれない。チャートや板の動きからは、相手の顔は見えないけれど、マーケット(市場)で買い物をするのと同じではないか。

いや待てよ。アルゴというのがあったな。

株の売買にためらいは禁物である。相手は人間とは限らない。アルゴと呼ばれるコンピュータープログラムかもしれない。一切の雑念を捨て去り、クリアで明晰な思考で利益のみを追求する。そうでなければ勝てない世界なのだ。

以上、投資を生業とする人にとって永遠のテーマとも言うべき大きな課題について、とりとめもなく書いてみた。名文句で締めくくりたいけれど、もう少し考えさせてほしい。繰返すが、いずれ歴史に残る投資の格言を発信する所存である。

資産状況一覧 2024年4月22日(月)

日本株 18,137,600円
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