小説 ムジカ~クリニック
CDを手に取り、私は逡巡する。聞けば過去に戻り、思い出に浸ることができる。だが、それは過去への依存を強めることになりはしないか。いや少しだけ、いや駄目だ。自分の中の押し問答はどのくらい続いただろうか。そんなことさえも覚えられないときに、私は真壁医師の言葉を思い出した。
「仕事以外に人生の軸を見つけてください」
☆
合唱コンクール練習帰りの電車の中で携帯を操作し、家や職場の近くにある心療内科クリニックを検索する。まずは、心療内科と検索エンジンにかける。あった。しかし、膨大な量だ。しかも、近くではないとか、情報の取捨選択が必要だった。続いて、職場の住所を入力した。何軒かが検索に引っかかった。その中の一つに「真壁メンタルクリニック」があった。しかも都合のいいことに、職場から徒歩圏内だから仕事帰りにでも行ける。明日にでも早速、予約しようと思い、スマホをズボンのポケットにしまった。
月曜日の昼休み、真壁メンタルクリニックに電話した。すると、人気なのか、受け入れ人数が少ないのか分からないが、1か月先なら予約が空いていると言う。さすがにそこまで待つのは躊躇われたが、藁にも縋る思いで予約を入れた。もし、美穂子が帰ってきてたら、残業と言えば済むことだ。金曜日まで待とうと思った。
美穂子が家を出てから二週間になるが、彼女は帰ってこない。毎日、最低一回は電話をかけ、メールも多く送ったが、いずれの返答もつれないものだった。電話をすれば、
「あっそう、それだけ?話すことないんなら切るよ」
と言われて切られてしまう。メールの返答も似たようなものだった。そんなことが続き、美穂子が帰ってこないストレスも相まって、精神的にも参ってしまった。
三月に入り、私は営業部からお客様サービスセンターに異動になった。「お客様サービスセンター」つまり、クレーム処理がメインの仕事だ。なので、電話を受ける相手の調子も様々だ。中には怒りに任せて、喚き立てる人もいる。そんな人には心の中で、
「あんた、病院行った方がいいよ。きっと病んでるから」
と言ってやりたかった。やはり、クレーム処理は今の自分には辛く、毎日、会社で吐きそうになっていた。それでも、美穂子が帰ってくることを信じて、仕事に向き合うことから逃げることは考えなかった。
1か月後の夕方を迎えた。仕事を終えて、会社近くにあるという真壁メンタルクリニックを目指した。東京の真ん中にある比較的新しいビルの六階にクリニックがあるという。知らなかったのが恥ずかしいくらい近くにあった。エレベーターに乗り込むと、六階のボタンを押した。
ピンポンという音が鳴り、降りると目の前に「真壁メンタルクリニック」と書かれたガラス戸が見えた。内装は明るく、擦りガラス越しに箱庭のようなものが見えた。早く中に入りたいような気がして、自動ドアの前に立ってみた。
クリニックの中はがらんとしており、二人の患者が診察を待っているのか、会計を待っているのか、ソファに座っている。受付を済ませるが、初診ということで必要事項やアンケートらしきものを書いた。
それらを処理すると、ソファに座った。たまたま、目に付いたので備え付けのうつ病のことが書かれた冊子を読んで、待ち時間を潰すことにした。そこに書かれていた内容にいちいち頷きながら、待つこと一五分くらいだろうか。
「田中さん、どうぞ」
という看護師の声が聞こえた。
私は立ち上がると診察室の中へ入っていった。中には初老の男性医師が座っていて、あたかも
「さあ、こっちへ来なさい」
と柔らかく声を掛けているかのように微笑を浮かべている。
「よろしくお願いします」
と私が言うと、
「真壁と申します、よろしく」
と威厳あり気に応じた。
続けて
「田中賢治さんですね」
「はい、そうです」
というやり取りがあった。そこにも、やはり威厳というか、威圧感みたいなものを少しだけではあるが感じることができた。
「どうなされたのか、教えていただけますか?」
先程の威厳のある挨拶とは一転した丁寧で物腰の柔らかい問い方。私は今までのことをたどたどしく話した。真壁医師は言った。
「そうですか、軽々に診断を下すことはできませんが、やはり現状、鬱になっている可能性がありますね」
やはりそうだったのかという思いだった。真壁医師はさらに問いかける
「夜は眠れてますか?」
「いいえ、朝早く目覚めることが多いです。あと、寝つきが悪いですね」
私は今の状況を包み隠さず話した。全て真壁医師に委ねるつもりだ。
「そうですか、ではよく眠れるお薬と精神を安定させるお薬を処方しておきましょう。精神のお薬といっても恐れることはありません。今の症状のままでいる方が恐ろしいです」
真壁医師の言葉にうなづくだけだった。つくづく、メンタルヘルスについての知識の無さを悔いた。
それから、いくつか問診を受けた。そして、最後にこう告げたのである。
「もしかしたら休職も検討しないといかんでしょうな」
青天の霹靂とはまさにこのことだった。
「休職って会社を休めって言うことですか?」
「はい、そうです」
「それはできません。今が大事な時期なんです」
私は必死になって、抵抗を試みた。しかし、
「あなたは完全に仕事に依存しているようですが、そういった生き方は危険を孕みます。悪いことはいいません。仕事以外に人生の軸を見つけてください」
そう真壁医師に言われてしまい、レジスタンスの意思を完全に断たれた。
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