小説 ムジカ~不安定な生活②

 しばらく、打ちひしがれていると、遠くで携帯の着信音が聞こえた。携帯は二階に置いてあるので、慌てて取りに行った。段々と大きくなっていく着信音、しかし程なくして音は止んでしまった。着信履歴を見ると、「武藤泰輔」と表記されている。学生時代の友人だ。昨年の秋に黒瀬という共通の友人の結婚式で顔を合わせて以来だから、三か月くらいぶりに連絡を取ってきたことになる。割と連絡を取ってくれる友人だが、最近は一人で遊びに行くことを快く思わない美穂子の目もあって、会うことは控えてきた。
「遊びの約束なら、諦めてくれそうなものなのに」
と独り言を話し、一度携帯を手放すと、充電が少なくなっていることに気づいた。

 朝食を摂る。トーストにジャムを塗り、シリアルの入った深皿に牛乳を注ぐ。コーヒーはインスタントのものをブラックで。いずれも味はしない。楽しみではなく、ただ生きる為にのみ行っていることだ。食事を終えると歯磨き、そして散歩である。いつもの朝なら、散歩などしないのだが、今日に限っては違った。寂しさを埋めるため、そして空を見ながら、外の空気を吸い込むためでもあった。パジャマから普段着に着替え、携帯と家の鍵とを持って、散歩に出た。

「家にこもっているから、飯も不味いし、体の調子も悪くなるんだ。気分転換しよう」
今の気持ちを呟きながら歩く。新興住宅地のためか、近隣住民との濃い付き合いはない。私自身、人付き合いが苦手なせいで、地域の行事にもあまり顔を出さない。犬を連れて散歩している妙齢の夫婦、寒い中走っている若者、休日出勤のサラリーマンなど様々な人が行き交っている。河川敷まで行き、空を見上げると空は青く、昇ったばかりの太陽が眩しい。美しい空と今の私、対照的な物を見ているようだと自虐的な気持ちになった。そんなこともあって、早々と河川敷を後にし、自宅へ戻った。

「武藤泰輔」
あの着信がずっと気になっていた。散歩の帰りにふと思い出し、帰ったら電話してやろうと考えていた。それにしても、こんな時間に何の用事だろうか?いずれにしても断らねばなるまい。今はそれどころではないのだから。

 それまでに最低限の家の片付け、テーブルのゴミや空き缶を分別して、読み散らかした新聞を積み重ね、といったことを行った。そこまでやると、もうやる気はないよと言わんばかりに手を横に振った。一〇時過ぎまでそうやって過ごすと、スマホの着信履歴を開き、「武藤泰輔」というところをタップする。しばらくプルルルルと鳴った後に音が消えた。
「もしもし」
「もしもし武藤、久しぶりだな。田中だけど、早朝から用事か」
武藤に少し当たるように返事した。
「ごめんな、タナケンには真っ先に伝えたくてね。明日空いてる?」
武藤は意に介さない様子で私に接してくる。
「こっちはそれどころじゃないんだ。仕事も家庭も大変なんだ。遊ぶんなら、また今度にしてくれ」
「遊びじゃないんだ。この間、言っただろ?また皆で集まって合唱がしたいって」
この間というのは黒瀬の結婚式でのことだ。武藤は続ける。
「このまま、仕事だけの人間になるのは嫌なんだ。黒ちゃんも呼ぶし、先輩や後輩にも声をかけて、大々的にやりたいんだ」
まずい、このままでは押し切られて「はい」と言ってしまいそうだ。危機感が募っていく。心を鬼にして、
「そんなのは夢物語だよ。とにかく、俺は行けないからな」
と言い放った。武藤は懇願するように言う。
「なあ。そんなこと言わずに、一緒に歌おうよ。歌ってたら、日頃のストレスも発散できるからさ」
私は口ごもった。そのような態度に心の動揺を見透かしたのか、武藤が畳み掛ける。
「お前、変わったよな。昔は合唱のことで一晩中語り合ったじゃないか。あの頃のことを一日だけでもいいから思い出してほしいんだ」
完全に打ちのめされてしまった。私は
「分かった、お前の熱意に負けた。行くわ、だけど明日だけだぞ」
と力なく言った。
「やったー、そしたら明日一〇時にひばり台駅南口に集合な。駅からは俺が案内するから、安心しな。楽譜は…」
武藤の声は遠くのものと化していた。

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