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小説 ムジカ~不安定な生活①

 自宅に戻ったら、やろうと思っていたことがあった。自分の家の掃除だ。仕事を休んでいる間、やることもないので、調子のいい時は家中を掃除している。汚れを消し去りたいという思いが強いが、汚れ以上に己の過去を消し去りたい。


 長い一週間だった。ここ数日の騒動で嫌いになってしまった金曜日を何とかやり過ごし、帰宅した自宅はビールの空き缶がテーブルの上に散乱していて、目も当てられない状態だった。勿論、誰が出迎えてくれる訳でもなかった。部屋の散らかり具合が嫌悪感を増長させる。
「明日は掃除でもしよう」
と独り言を呟きながら、風呂に入り、コンビニで買った缶ビールを片手に弁当を食べる。やはり、味はしなかった。

 月曜日、会社に出勤しオフィスに入って
「おはよう」
と一言、挨拶をする。いつものように
「おはようございます」
と若手の社員から返事があった。三〇分前には出勤していたので、人もまばらだ。私に左遷人事を告げた上司もまだ来ていない。どうやって接しようかと思案しているうちに、上司がやってきた。煙草の匂いがしたので、一服してきたのだろう。もしかしたら、喫煙所で私の話をしていたのかもしれない。
「課長、おはようございます」
「おはよう、田中君。今日も頑張ってくれよ」
この言葉をどう捉えればいいのか分からなかった。普段どおりの変わらない挨拶。
「金曜日のことは水に流してくれよ」
ということか。あるいは、
「頑張れば、人事を取り消そう」
という前向きなエールなのか。それとも、
「落ち込んだって、何言ったって、無駄だから黙って働け」
という意味であろうか。よく分からないまま、曖昧に「はい」と返事しておいた。

「頑張れ」と言われた割に、仕事量は目に見えて減り、同僚への引き継ぎが増えていった。自分のテリトリーが奪われていると感じた。仕事中、トイレに行きたくなって、ふと途中にある給湯室を覗くと、女子社員が話をしている。
「もしかしたら、私のことを話しているのかも」
と思うと、自然とトイレへの歩幅が広くなる。

 昼休みに掲示板を見ると、正式に異動の発表がされたようで、同僚たちは口々に
「異動になるのか・・・もう少し。一緒に仕事したかったよ」
「寂しくなりますね」
「どうして異動になるんですか?」
などと言ったが、次の部署が窓際族のたまり場だと皆、知っているせいか、誰も核心を突く話はしてくれない。妙に白々しい対応をするようになったなと感じ始めた。

 それから月曜日から木曜日まで、疑心暗鬼のまま仕事をこなした。もうどうでもいいと思われているのか、注意されることもなく、ぼんやりとやり過ごしたような気がする。そして、金曜日である。昼休みに一人デスクで食事を摂っていると、職場の隅の方で声が聞こえた。
「あいつ、左遷されるらしいな」
聞き覚えのない声だった。
「まあ初歩的な計算ミスをして、大きな損失出したからな。当然っちゃ当然でしょ」
耳に入った瞬間、強い吐き気がして、トイレに駆け込んだ。そして、胃の内容物を全て吐き出した。早退しようかとも考えたが、自分の中にある、恐らく意地とかプライドとかそういうものに突き動かされて、仕事を全うしようと決意した。それにしても、あの声の主は誰なのだろうか?

 トイレから戻ると美穂子に電話をかけてみた。何度かプルルルルと鳴った後、留守番電話を告げる案内が流れたので、そのまま電話を切った。美穂子は何を考えているのだろうか?思えば思うだけ、霧の中へ迷い込むだけであった。
 
 定時で帰宅すると、目の前にかかる霧を振り払おうとして、久しぶりにテレビを見ることにした。だが、バラエティもドラマも欧州サッカーも、私を笑わせたり、興奮させたりはしなかった。
「スペインリーグなんて、夜更かししてでも見てたなあ。それでもって、美穂子に怒られて・・・」
そう呟くと、悲しくなってきた。それでも、不思議と涙は流れなかった。

 寝る前に睡眠導入剤を飲む。市販のものだが、それなしでは眠れなくなっていた。月曜日の仕事帰りに近所のドラッグストアで買ったのだが、その店は遅くまで薬剤師のいる店だった。その薬剤師はいくつかの質問をし、三つほどイエスを選んだあたりで、睡眠導入剤を選んでくれた。だが、それでも早朝には目が覚めてしまう。ここしばらく、ずっとこんな感じだ。平日の場合だと仕方なく起きて、新聞を読んだり、テレビのニュースを見たりするのだが、今日は週末だったので、もう少し横になってみた。時刻は五時三六分。目を閉じてみる。しかし、一〇分と持たなかった。まるで空気が入らないように息苦しい。ベッドの上で何度も寝返りを打った。結局、六時七分に起きることにした。いや、起きるしかやることがないのだ。

 郵便受けから朝刊を取り出して、家へ戻る。一月下旬の空気はひんやりとしている。朝刊の一面では海外で起こったテロを伝えている。
「またテロか、いつになれば平和は訪れるのだろうか」
と柄にもなく呟く。世界で絶えることのないテロや内戦。それらを私と美穂子との関係と勝手にシンクロさせていた。そのニュースも私の気持ちを暗くさせた。
「争いはなくならない。俺と美穂子の場合もそうだ」
話はそのような具合につながっていく。今は考えないようにしていたのに。

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