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令和と鉛筆で書く瞬間<野郎>の夢は

僕はまだ『令和』という文字を書いていない。
紙に書けば『令和』という時代が本当に来たと実感できるのだろうけれど、こうしてPCで文字を打ち込んでもなんだか現実味がない。

役所にでも行けば令和と書くこともあるだろうけれど行く予定もない。
会社の日付は西暦だし、何かに記入することもなし、『R』と書くことも、『R』に◯することも今のところない。

そんなことを思うと、本当に令和という時代になったのだろうかと思ったりもする。馬鹿げたことだけれど、本当にそう思う。

昔、マンションの3階正面に住んでいた住人がやたらフレンドリーな<野郎>で、確かサンミュージックに所属していたと記憶している。

当時、酒井法子が一連の騒動で世間を騒がしていた頃だった。
仕事終わりにコンビニで缶ビールを2本とハイボールを買って1本は(確かビールだっと思うけれど、そこまでの記憶は定かでない)飲みながら帰っていた。
閑静な住宅街に差し掛かり暗がりの公園を抜けいつも通りのルートでいつもと同じように部屋の前に着いた。

いつもと違うことに気がついたのはその時だったと思う。今朝まで誰も住んでいなかっただろう、正面の部屋の玄関に付いていた黒くて大きなダイヤルロックが外れていることに気がついた。もしかしたらもっと前から外れていたのかもしれないけれど、人間の記憶なんて意識しなければ昨日の飲み会で知り合った女の子の名前すら覚えられないくらい酷いもんだ。

もちろん、そんなことは僕にとってはどうでもいいことに過ぎなかった。
部屋に入り、いつも通りまず服を脱ぎ捨ててシャワーを浴びる。
2本目のビールを開けると、ラジオからは当時コールドプレイの『Viva la Vida』がいつも通り呪文のようにリフレインする。
その後もいつも通り彼女に電話をして、ほろ酔いになりながらいつも通りこの世界と意識を切り離す予定だった。

どのくらいの日数が経った頃からなのか覚えていないけれど<野郎>はいつの間にか僕の部屋を自分の部屋のように行き来していた。

<野郎>が来る時は必ず焼酎か日本酒の一升瓶とトランプを持ってきて、酔っ払ってパンツ一枚になりながら手品を披露してくれた。

「俺、人を笑わせるようなマジシャンになりたいんすよ」

確か引越しの挨拶に来たときこんなことを言っていた。3本目を半分飲み電話を掛けようかと思った矢先だった。23時を回っていたと思う。そんな時間に部屋のインターホンが押され引越しの挨拶なんて正気じゃないと思うけれど、ほろ酔いな僕はそこまでのことを考えてはなかった。

<野郎>はよく話すやつだった。自分の生い立ち、学歴に付き合った彼女の人数、セックスをした女の子の人数、性癖、夢。

馬鹿みたいに常識のないやつだったけれど、面白いやつだった。それに夢を語るときは子どもみたいな瞳をして語りかけてきた。僕はそんな<野郎>が嫌いじゃなかった。深夜問わずやって来てうざいやつだったけれど、それでも僕は<野郎>を受け入れて話した。

「1日1日が俺にとって時代なんすよ」

なんだかわからないことをまるで当たり前のように<野郎>は言った。
いくつものなんだかわからない名言が生まれては、笑いと共に静かに消えていった。

「この時代に生まれたから、この時代のうちに」

<野郎>が僕の部屋に来ていたのは3ヶ月間くらいだった。マジックの師匠ができたから弟子になる。そんな理由だったと思う。<野郎>は師匠の家の近くだか住み込みだかわからないけれど引っ越して行った。

令和になって2ヶ月が過ぎようとしている。サンミュージックのHPを数年ぶりに見たけれど<野郎>は"わからなかった”正直顔も名前も覚えていない、でも<野郎>らしき人物はいなかった。

「この時代に生まれたから、この時代のうちに」

<野郎>は平成のうちに夢を成し遂げたのだろうか?
せめて僕だけは<野郎>が夢みた平成という時代の中で夢を見てもいいんじゃないか。

『令和』と僕が書いたとき<野郎>があの日語りかけててきた夢の時間が終わるのだろう。


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