見出し画像

きけわだつみのこえ

坊主にしました。
そんな近況報告なんていらないと思うけれど、毎年夏が訪れると坊主にしたくなる。でも実際にするのは数年に一度くらい。
今年はその数年に一度がやってきたというわけです。

「恥ずかしながら、帰ってきました」

坊主にした夏の日はなぜだかそんな言葉を思い出すけれど、ネタにはできないことなので、頭の中にいつも閉まっています。

朝、目がさめると台風の影響で福岡の空は荒れていました。こんな日に限ってって。TVをつけるとちょうど広島が映されていました。
74回目の夏。原爆が投下されて74年目。戦後74年目。

毎年思うことがあります。戦後っていつまで続くのだろうかと?
たぶんこの先もずっと、大きな戦争がなければ戦後になるのだろうと思うけれど。
新しい年号になって、新しい時代が訪れて。

戦争を知っている世代はだんだんといなくなっていく。
この場で自分の思ってることは語らないけれど。
記憶からなくなる、語られなくことが、一番いけないことだと思う。

「きけわだつみのこえ」には切実な喪の風景が見える。
言葉によって苦しみ、愛する人へ散華し、人の哀切にとどまる。

切実なこえに耳を傾けることが戦争の悲惨さを知ることの一歩なんだろうと思う。

ーーーーーーーーーーーー

昭和十九年慶応大学予科在学中入隊。
戦後三ヶ月後に中国奉天で病死。
二十歳青年
日誌のはじめは戦後の考察等書かれていたということ。死の数週間前からその日の出来事を記入し始めた。

ーーーーーーーーーーーーー

十一月八日 昨晩は眠らねぬ。九度五分、氷嚢二時四十五分、看護婦さん木村圭子さん。ピカタンフル注射、良くなるぞ。高地改造、井上義雄、下坊さんとともに命の恩人と心得。
十一月九日 白血球、尿検査。
十一月十日 新井中尉診断、ついに伝染病棟に移ることになる。三時ごろ
十一月十一日 二十cc注射、毎日ぶどう糖の注射をうってくれる。
十一月十四日 夜二回血ばかし出た。出血。
十一月十五日 絶食、絶飲。
十一月十六日 GAMAFETON 1.2cc (ここに薬のレッテルが貼ってある)
十一月十七日 ぶどう糖、食塩、強心、おもゆ、リンゲル、リンゲル
十一月十八日 リンゲル、8°6'
十一月十九日 8°3'  動きしゆえなり。
十一月二十日 腸出血、絶食。
十一月二十一日 リンゲル、毎日ぶどう糖、絶食。
十一月二十二日 絶食、8°2'
十一月二十三日 おもゆ、8°5'

きけわだつみのこえより

ーーーーーーーーーーーーーーー

記載はここまで、四日後正午絶命。
様々な遺書があるけれど、僕はこの日記とも言い難い、たった数行がとても印象に残ってる。




サポートしてくださるととても嬉しいです。これからの励みになります。美味しいコーヒーが飲みたい。がんばります!