パラレルライン
世界のどこかで起こっている出来事に耳を傾けてみても、聞こえてくるのは虚構にも似た音ばかりで、日常はうねるように空間を振動させて、ぼくの鼓膜に一定のリズムで届く。目に映るものだってもちろん同じだ。息苦しさは感じない、それは現代の御伽話のように語り、ぼくは朝の支度やアルバイト先の休憩室、夜ベッドに入ったあとに携帯ゲームで遊びながら、無意識に情報をインプットしては淡く溶け出す意識と呼応する。
大きな物語であるほど人々の好奇心を誘い、継続的に語られるけれども、大半は結末を迎える前に脳髄の広大な宇宙へと消え去っていく。
数年前に大きな地震があった。ぼくの住んでいるマンションも本棚も食器棚も、縦横跳躍するように重く揺れた。地面なんて固そうに見えるけれど、結局は原子の集合体でしかなく、その結合部分を軽く揺さぶりさえすれば、地表のかさぶたは簡単に剥がれ落ちた。その揺れを体験しながらも、死ぬことなんてないと思い、少しだけ動揺しながら、でもそんな自分は格好悪いので冷静に家のソファーで何本か借りてきた映画を観ていた。
すべてを見終えたのは日付を跨いだ時間だったのを覚えている。感動の結末に酔いしれながら地震が起きたことすら既に意識の片隅に追いやられていた。ベランダに出て通りを見渡したとき奇妙な人の群れを確認すると、昼間に地震が起きたことをようやく思い出す。電車が止まり帰宅難民はゾンビようにのっそりと行進している。仕事帰りのサラリーマンや学生達は皆携帯電話に惹き込まれて、小さな光が同じ方向に流れていた。地震の状況を確認しているのか、それとも誰かに連絡をつけているのか、ゲームをしているのか分からないが、心身ともに疲れ果てた様子を別の時空間から眺めるように観察した。そんな彼らも数日経てば今のぼくと同じ場所までやってくるに違いない。それはなんの兆候もなく、月曜日の次に火曜日を迎えるくらい必然だろう。その中でどれだけの人が冬に満開の桜を、夏に冷たい雪を降らせることが出来るのだろうか?
被災地を空撮して報道した。ヘリコプターから送られる映像は津波に流された家屋の瓦礫や、横転した電車、そこにあったであろうものは、すべて塩辛い水溜りに移り変わり、取り残された多くの人たちが校舎や町役場の屋上で助けを求めていた。ぼくはその様子を画面の外側で、小説を読んだり、コーヒーを飲んだり、チョコレートケーキを食べながら見た。
ぼくがいる場所より、ほんの少しズレた隣りは、戦後焼け野原になった日本にタイムスリップした世界が広がっていた。
そんな非現実的とぼくが重なる部分があるとするならば、地震を体感したことだけであり、そこには因果が意識される。重ならない部分に意識を置いたとするならば、それは偶有でしかない。
ぼくは対岸の火事ようにその状況をほんの少し離れた場所で映像として見ているだけの、そんな人間だ。
そんな人間がこの世界を正しく読み解くことは到底不可能だろう。世界がぼくのために存在するわけでもない。ぼくは自分という小さな世界の中、つまりは日常でしか生きることができない。
でも、ぼくと世界は存在する。ぼくの前にそれはあって、対話することで毎日暮らす世界が不思議と見えてくる。対話をするものはなんだって構わない。
星空だって、消えそうな虹だって、あの子のステキなスカートの中だって、彼女のお気に入りな電線だって構わない。
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