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自分なりの悟りを開くということ。

恐れ・不安・欲望・希望などの思い。
何かにすがりたい、頼りたいという思い。
このような"心の揺らぎ"が起きうるのが人間だと思っています。

"心の揺らぎ" はプラス方向にも揺れますし、マイナス方向にも揺れます。
私も同じくマイナス方向に揺れる心を持つ人間です。

そんな私が、心の揺らぎに立ち向かい、自分なりに悟りを開くことでなんとか対処できそうだ、というお話。


心の揺らぎに動じる人と動じない人がいるという話

私はIT企業でソフトウェアエンジニアとして働いていますが、情報通信業はメンタルヘルスの不調を抱えやすい業種だとよく耳にします。

とはいえ、心の不調を抱えるのは何も情報通信業だけでなく他の業種もそうですし、何より心の不調とはまではいかなくとも、下記のような不安を持つ方は多いのではないのでしょうか。

  • この職を続けていくべきなのだろうか

  • ローンをちゃんと返せるだろうか

  • 〇〇のトラブル、ちゃんと解決できるだろうか

  • 今何もしないことが、将来の選択肢を狭めているのではないだろうか

  • あの人はあんなに成長しているのに自分は果たしてどうだろうか・・・

上記の不安は一例に過ぎません。人の数だけ不安の種類もあると思います。

人間は希望を持つ生き物であり、よりより未来を探そうとする生き物です。そんな生き物だからこそ持つのが悩み・不安というものなのでしょう。
ネガティブな考えを持つことができるというのは、ある意味贅沢ですよね。

さて、不安な気持ちを抱えるあなた、他の皆も同じように不安な気持ちを抱えていると思っていませんか?

私はそうは思いません。

というのも、不安な気持ちを得やすい人は悲観的に生きる人の数に比例し、逆に、楽観的に生きる人は不安な気持ちを持つ傾向になく、不安を抱えたとしても一抹の不安にしかならないでは?・・・と思っています。
皆が不安を気持ちしか持たないのであれば、人間はここまで生きてこれなかったはずなので。

つまるところ、生まれてから死ぬまで、先の心配・身の回りの心配を何もせずに生きていける人がこの世にはいるってことなんです。
生まれたときから既に救われている、という。

なんと羨ましいことか!

そんな人達がいる一方で、常々不安を感じながら生きている人もいます。
じゃあそういう人は生まれてから死ぬまで一生救われないのか?

常々不安を感じながら生きている人は、不安を感じているのに考え・行動を変えなければ、やはり何も変わらず、死ぬまで不安を抱え続けるのだと思います。

「じゃあどうすればいいの?」、と。

心の揺らぎを、短期的・長期的な解決方法で対処しようという話

不安な気持ちを抱いてしまう人は、それに対処しない限り死ぬまでずっと不安と共に生きることになってしまう、というのは前述の通りです。

これを解決しようとする場合、こんな方法で対処しようと考えるのではないでしょうか。

  1. 本屋で今の自分を救ってくれそうな自己啓発本を見つけて買う

  2. 親・友人・同僚に相談する

  3. セミナーに参加する

  4. メンタルヘルスクリニックに行ってみる

  5. 宗教に頼る

1 の方法は自分も考え、実際に色んな本を見に行ったことがあります。
2 は、腹を割って話すことができる関係性・仕組みが出来ているのなら有効かもしれません。
3 は、怪しげなセミナーで、不調に付け込まれる危険性があるのでオススメしません。
4 も有りかもしれませんが、私は経験したことがないです。投薬治療や対話での解決になるのでしょうか。
5 は論外です。後述しますが、不安を無くすために宗教に頼るのは意味がないことです。

これら5つの方法を試せば、もしかしたらご自身の力だけで不安な気持ちを一掃し、自分を生まれ変わらせることができるかもしれません。

例えば、「〇〇 な考え方を持つだけで自己肯定感が満ちる!」とか、「XXX な行動をして気持ちを盛り上げていこう!」とか、そのような解決手法を提示され、それを実行する・・・など。

しかし、その解決手法は果たして長期的に有効なのか?

それらの行動で自分の考え方を部分的に変え、全て対処できた!と思うときもあるとは思います。
中には、それらの行動だけで自分の不安の全てを一掃できた!という人もいるかもしれません。

だがそれは稀有なケースだと思っています。
ずっと不安を抱えて生きているぐらい大変な思いをしているのに、その根本的な考え方を変えない限り表面的な考え方を変えてもどうしようもないではないですか。

つまり、本や人から得られる気付きというのは短期的な解決手法に過ぎないことが多く、悩みの根はそこに残ったままである、ということです。

「それじゃあどうすればいいんだよ、やっぱり救われないじゃないか!」と思いますよね。

心の揺らぎを受け入れるためには、宗教に頼るのは本質的には誤りで、悟りを開く必要があるという話

長期的に自分から不安を取り除くにはどうすればいいのか。

結論から言うと、「自分なりの悟りを開く」ことで解決できるはずだ。と思っています。

「悟りを開く?なんだそりゃ。」って思ってますね。

悟りを開くことで解決するというロジックは以下の通りです。

まず、人間はより良い未来や幸せを追い求めてしまう生き物であります。これはもう変えようがない事実。抗うことはできません。

生まれてから死ぬまで、より良い未来や幸せを追い求める過程で、必ず選択を迫られます。果たしてどっちの選択を取るといいのだろう、と。この選択を迫られることが不安の種となるのです。

選択をしない生き方でも、周りに人間がいる以上誰かしらから選択を迫られる機会が生まれるため、他動的に不安の種が生まれてしまいます。
「結婚しないの?」とか、「子どもはいつできるの?」とか、そんな質問投げかけられる人、多いのでは。

「本読んで不安を無くすことはできるだろうか・・・とりあえず良い本探してみよう」

こんなきっかけで"今の"不安に対処しようとするでしょうが、前述の通り部分的な・短期的な対処にしかならないと思います。

不安の種が対処してもしなくてもポコポコと湧いてくるという事実。

これを解決するためには、種が湧いてこない仕組みを作るか、もしくは種が湧いてきてもそれを受け流す方法を身につけるしかないです。

前者の湧いてこない仕組みを作るのは厳しいでしょう、だって他動的に種をもらうのですから。

となると、後者の湧いてきた不安の種を受け流す方法を身につけるしかなくなります。

自分は以下のように考えて、不安の種を受け流すようにしました。

  • 人間として生まれてしまった以上、不安と付き添っていかないといけない。だとするならば、不安な気持ちが常に前面に出ていると、死ぬまで幸せな気持ちになれない。

  • ならば、不安ですら人間としてのイベント・楽しみの一つとしてしまえばよい。「人間として生まれ、〇〇な不安を今抱えている。その状況を俯瞰的に見て楽しむことこそが至上命題である。」と。

  • したがって、不安を解消するための手段は、何かを行うといった実践的な手段ではなく、不安の種を楽しみの種と認知することこそにある。

不安ですら人間としてのイベント・楽しみの一つとしてしまえばよい。

「いやいや、それが出来たら苦労しないよ・・・」との声が聞こえてきそうです。
確かにこのように考え方・捉え方を変えるのは難しいでしょう。
ですが私は、「嗚呼、自分は今〇〇な不安を抱えて生きている。そんな不安を抱えるなんて、なんて自分は人間らしい考えを持っているんだ。その考えを持つ自分を肯定して楽しめないと、人間として生まれたことを否定することになってしまう。」といったように考えているうちに、いつしか「不安と共に生きる」ことができるようになってきました。

私は、不安の種を解消しようと思考する過程に、悟りを開くとは何か、があるのでは?と感じました。

「不安とは、人間が持って生まれてきた苦しみであり、生き地獄といっても過言ではない。その不安を人間自身の一部分の性質と捉え、邪険に扱うのではなく優しく一緒に生きることことが、悟りを開くということではないか?」と。

これが私の「悟り論」です。

宗教など、自分以外の何かに頼るということは、この悟りを開くための手段を見つけにいくというだけに過ぎず、最終的な到達地点は自分自身で不安の種を解釈することに生まれた意味があると思っています。

だからこそ、「宗教に頼って不安を解決する」といったことは、自分にとって「悟りを開く」ことを全て外部サービスに丸投げすることに値するので、本末転倒であるということを言いたいです。

もちろん、既に他界した方を想うなど、宗教それ自体にはちゃんとした効能はあると思います。
しかし、生死以外で、自分の心を預ける・トレーニングする手段としては宗教は間違っているのではないか、と。

自分はなぜ生まれ、どのように考えて生きていけば心が豊かになれるのか。これを考え自分一人の力で考え、自分の思考を刷新していく。
ここに「悟りを開く」ルートがあると思います。

心の揺らぎは、そのルートをたどっている道中だと。

あくまで前述の考えは私なりの、悟りとは何か、私なりの悟りを開くとは何か、です。

誰もが、異なる出発点から、異なるルートを経て、自分なりの「悟り」に至ることで、自分なりの幸せを掴み取れるのではないでしょうか。

それではまた、悟りの境地で。


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