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【小説】闇はもっと黒く深化させるべきものか?

作者まえがき

この小説はフィクションであり、登場人物、事件、場所などはすべて架空の設定です。文中には凄惨な場面が含まれていますが、これらの行為を推奨するものではありません。この小説は、このような出来事をどのように防ぐことができるかという問題意識から書かれたものです。

僭越ながら、読者の皆さまに、この作品を通じて、社会における問題点や改善の必要性について考えるきっかけになればと願っています。

あらすじ

主人公は中学受験を乗り越えて現在は東京のとある中堅の私立中学校に通う中学1年生。中学で入った空手部での稽古に励んでいる。しかし、家庭環境は最悪で、6年生のときに密かに購入したバタフライナイフの使い方を自室で密かに練習しながら、親への不満を募らせていた。

中学1年生の終わり頃から学校の勉強についていくことが難しくなり、2年生の終わりには内部進学は無理だということで、早めの転校を学校から勧められるように。そこで絶望した主人公はある行動を決断して、実行に移すのだった。

【小説】闇はもっと黒く深化させるべきものか?

作:雪森由紀仁

僕は空想の中の友達の顔を片手でつかんだ。友達は驚いて目を見開いたが、僕はその視線を無視して、つかんだ手に力を込めた。友達の顔は皮が破れ、赤い血が流れ出す。骨がミシミシと音を立てて歪み始めても、僕の手は止まらなかった。その壊れていく感触に、僕は妙な満足感を覚えた。

1

ダイニングテーブルの上には、茶碗に盛られたご飯とお椀のインスタント味噌汁、レトルトのハンバーグ、惣菜コーナーの煮物とサラダ。「母」であるらしい人が食べろと促すから僕は口にする。

別に美味しいとは思わない。でも、給食から何も食べてない。放課後の部活帰りの僕の腹は減っている。

みんな、母親の味って特別だって言うけど、母親の味?正直良くわからない。我が家の食卓はいつもこんな感じだ。

テレビのニュースの音を聞きながら、僕は黙って食べる。別に「母」という人と会話を交わすわけでもない。監視されているような、窮屈な気持ちを感じながら、それでも身体がカロリーと栄養を求めているから食べる。それだけだ。

ときどき、「母」が学校の勉強のことを聞いてくるけど、適当に受け流す。理解したくない、理解する必要がないと感じるから、耳に入る音を脳で受け取らないようにしている。

この人が僕に興味があるのは、学校のテストの点数と通知表の成績だけらしい。その他のことを聞かれたことはない。勉強と食事や洗濯物など、最低限の生活に必要な事柄以外の会話を、家の中で交わした覚えがない。

テレビやネットCMの中で、仲の良さそうな家族が楽しそうにドライブしたりキャンプしたりする様子があるけど、あれってどこの世界の話?少なくとも、僕は生まれてから経験した覚えがない。

「父」という人もこの家にはいるらしい。でもめったに顔を合わせない。毎日この家に帰ってくるらしいが、夜遅く日付が変わってから家につき、僕が家を出る頃はまだ寝ている。

「父」という人と最後に会話を交わしたのはいつだったろうか?「父」という人の声を思い出すこともできない。

学校で同級生が家族とディズニーランドに行ってきたとか、昨日の夜行ったラーメン屋さんが美味しかったとか、よく話しているのを聞くけど、そんな家族が本当にあるの?ドラマや小説、アニメの中だけの話だろう?

「母」という人が学校のテストのことをしつこく聞いてくる。脳で言葉を受け取らないように気をつけていても、しつこく向けられる言葉は時として理解してしまう。適当に答えながらかわしていると、「母」はため息をつきながら言う。

「あなたがA中学に合格していたらね」

A中学は中学受験の東大とも言うべき学校らしい。A中学からは半分が東大、そのまた半分は京大、あとは早慶に行くらしい。「父」という人は、それ以外の旧帝大だとのこと。

どうやら「両親」は僕に「父」を超えさせようと東大か京大へ行ってほしくて、A中学を受験させようとしたらしい。

小学3年生から塾へ行かされるようになった。そして、学校と塾とたまのスイミング以外の時間はずっと勉強漬けの日々が始まった。

それまでは、少し学校の宿題とか「母」という人が用意した問題集とかをやるのを口うるさく言われることはあったけど、僕はアニメを見るのが好きだった。

本当はゲームもやってみたかったけど、ゲーム機もカードゲームも時間の無駄だと買ってもらえなかった。だから、友だちを作って遊ぶことも難しい。小学校低学年男子にとっては、放課後や休日の遊びの大半はゲームだ。ゲーム機を持っていない子でも多くがカードゲームをしていた。

そのどちらにも入れない僕は、一人でテレビでも見るしかなかった。アニメの世界で主人公やいろいろなキャラクターたちと旅をするのが楽しかった。

録画することは許されなかったけど、テレビで見たストーリーを何度も心のなかで思い出しながら、僕もそのメンバーに加わって、キャラクターたちと一緒に冒険の旅をした。その空想をしている時間が、僕の何よりの楽しい時間だった。

でも、塾に行き始めてからはその楽しい空想の種を得るためのアニメの時間もなくなった。テレビは朝、学校に行く前のニュース番組しか許されなくなった。

仕方がないから、僕は塾に行き始める前までに心の中に貯めていたアニメのキャラクターたちを心のなかでずっと大切にしていた。彼らとともにする空想の旅をいつまでも続けている。

アニメは決まったキャラクターでストーリーが進むけど、空想は自分の好きなように作れるのが良い。

未来の便利な道具を駆使しながら、仲間たちとモンスターを集めながら、冒険の旅をする。

たまには、泊めてもらった村を襲ってくる怪物たちから守り、感謝されながら村を後にする。

でも、ふと我に帰ると、ひとりぼっちだ。仲間は空想の中にしかいない。頭にストーリーを思い描けなくなり、ふと目を開けると、無機質な天井が見えるだけ。

たったひとりぼっち。ベッドに横たわって、ただただ虚しい気持ちに襲われるだけ。空想の旅が楽しければの楽しいほど、虚無感は強くなるばかり。

現実世界には、空想の世界のように、自分のことを理解してくれて、共に冒険を楽しもうと言ってくれる友達はいない。

周りはみんな敵だと思え、心を許すな。「親」の背中は僕が幼かった時から、ずっとそう僕に教え続けてきた。だから、心を許して仲良くなれる友達も現実世界にはいない。

それなりに、学校や塾、習い事はうまくやらないといけないけど、なんとか周りの様子を伺いながらこなしているだけで、本当に心を許せる場所はない。周りから評価される行動を取り、点数を取れる言葉を発するだけで精一杯だ。

でも、たまにどうしようもない虚しさに襲われる。頭を抱えて叫び出したくなる。このまま発狂してもいい。

でも、叫べない。この家で、学校で、許されてないのに大声を出したら、大変なことになるだろう。

頭がおかしくなって自分を忘れることもできない。

そんなとき、僕はただ悶々と虚しさだけを胸に抱えながら、ベッドの中でいつまでも訪れない眠りがやってくるのを待つのだ。

夕食を食べ終えると、僕は勉強すると言って2階の自分の部屋へこもる。もちろん、勉強はする。学校の宿題と予習と復習。A中学には入れなかったとは言え、進学実績を伸ばしているなんちゃって進学校にかなり無理やり押し込まれた。

勉強しないと高校進学時に内部進学で振り落とされる。さすがにそれはみっともないだろう。A中学よりも3ランクくらい落ちるレベルで、A中学の進学実績に張り合おうとしているから、勉強のプレッシャーは半端ない。それでも、授業を聞いて宿題をこなしていればなんとか無理なくついてはいける。

勉強を終わらせると、風呂に入る前にいつものトレーニングだ。空手の突きと受けの型を100回ずつやる。正拳突き、上段突き、手刀突き、上段上げ受け、中段外受け、中段内受け、下段払い。

突くときには、相手に拳をぶつける直前の手首のスナップが重要だ。手首を回すことで突きの威力を高める。

中学で空手部に入ったのは、腕を素早く動かしたり手首のスナップを鍛えるのにちょうどいいと思ったからだ。

空手の腕の型を一通り終えると、そうっと机の奥からバタフライナイフを2本取り出す。1本はプラスチック製の練習用だ。もう1本は刃渡り5cmの本物だ。

以前、バタフライナイフを使った事件が相次いだことから、今はネット通販などでは本物は買えないらしい。でも、商店街に時々いる、道端で怪しいアクセサリーとか売っている外国人が売っていたことがある。

その時に持っていた小遣いで買える値段だったので思わず買ってしまった。小学6年生の秋頃の、日曜日の模試帰りのことだ。

刃渡り6cmでは銃刀法違反になるそうだが、5cmなら持ち歩いても問題はないようだ。

家に帰ってから、よくよく見てみると、学校の図工で使ったことがある小刀とは全く違う。使い方がよくわからないから、YouTubeで検索してみたら、刃の開き方の練習動画がいろいろと見つかった。

見よう見まねでやってみたら、すぐに怪我をしてしまった。本物のナイフだ。切れ味が鋭い。刃が指や手のひらに少しでも触れると切れてしまう。

本物で練習するのは危ない。それで、練習用を購入した。練習用は近所のバラエティショップに売っていた。こちらも塾に行くときに、おやつ用や食事用として渡される小遣いを貯めたお金で買うことができた。

ナイフを買ったこと、ナイフの練習をしていることは親にバレてはいけない。

まずは、本物の刃を開いて眺める。鋭い刃は錆びないように、切れ味を落とさないように、こまめに手入れをしている。ティッシュを切ってみる。

力を入れなくても、左手に持って垂らしたティッシュに軽く刃を滑らせるだけで簡単に切れる。この切れ味。なかなかいい。

本物のナイフの刃をしまって、今度は練習用を手に取る。手首のスナップだけで刃を開く練習をする。バタフライナイフは持ち手がハサミのように2つに分かれていて、収納時は持ち手が左右から閉じるように折りたたまれて刃を収納している。

それをいざという時に、ポケットから取り出して片手のスナップだけで刃を取り出すのだ。かなりの練習とコツがいる。

刃を閉じた状態からスナップを効かせて持ち手、グリップを開いて、攻撃体制に入る。動画と同じようにやっているつもりが、なかなかうまくできない。

もともと僕は不器用だ。何をやっても、手先のことはうまくいったためしがない。

でも、これだけはなんとしても習得したい。夢中になってナイフを振っていたら、階段の下から風呂に入れと呼ばれた。

机の奥に2本のナイフをしまい、その上に念のためにノートも置く。そして僕は風呂に入って眠りについた。

眠りに入る前、僕は空想の友達との冒険の続きをする。夢にも出てきてくれないかと思うけど、彼らは夢には出てくれない。夢で見るのは、いつも、何かに追いかけられて命からがら逃げる場面だけだ。

振り向いて追いかけてくるヤツを見ると、恐ろしい顔をした「父」と「母」に似た何かだ。

崖っぷちに追い詰められて、落ちるか襲われるか、っていうところでいつも目が覚める。目が覚めると、心臓がドキドキして、とにかく怖い気持ちでいっぱいになっている。

2

朝になって目覚ましが鳴る。着替えて身支度をして朝食を食べて家を出る。自転車で学校へ行き、教室へ入る。

何でもない1日、何でもない授業、何でもない先生、何でもない同級生、何でもない教室、何でもない学校。与えられた課題をこなして、決められたスケジュールで1日動き、1日が終わる。

授業が終わり、学校の武道館で空手部の練習を2時間程こなす。武道館の隅で他の部員とともに道着に着替えて、整列して、準備体操をして、号令に合わせて型をこなす。今日は師範が来ないから、号令は高校2年生の部長が掛ける。

高校生の黒帯が数人、中学生の初心者の間を回って、細かく型をチェックして直してくれる。腕や足のほんの少しの位置や角度で、まったく力の入り方とかが変わるから不思議だ。

型の稽古が終わると2人1組になってより実践に近い形式の練習に入る。1人がミットやプロテクターを持って、それに向かって実際に突きや蹴りを入れる。空手部に入部して数ヶ月がたち、型の稽古はそれほどきついと思わなくなったが、この実践により近い打撃練習は繰り返しているうちに息が上がってくる。

渾身の力で打ち込み、蹴り込みをしても、ミットやプロテクターは簡単に跳ね返してくる。どれほど力を込めても、相手の身体はびくとも動かない。

自分が打ち終わると、今度はミットやプロテクターを身に着けて、相手の攻撃を受ける。同時期に入部した相手も、だいぶ力がついてきたように思う。以前よりも衝撃を感じるようになってきた。

稽古が終わり、最後に礼をして着替える。空手の稽古をしているときには、頭を真っ白にできる。身体は疲れるけど気持ちがいい。でも、道着から制服に着替えて帰る準備をしていると、だんだんと気が重くなってくる。

家に帰っても、またあの食卓か。食事の内容は別にいい。給食のほうが何倍も美味しいけど、腹を満たすことはできる。「母」と2人、淀んだ空気でとにかく気分が重くなる食卓の雰囲気。

たまに、「母」がいない時がある。そんな時には、すぐに食べられるように用意してあるものを食べる。1人の方がよほど気が楽だ。

「母」は同じ食卓に座っていても、僕と一緒には食べない。「父」が帰ってくるのを待っているらしい。

でも、それなら僕のことは適当にすればいいのに、監視するように目の前に座って過ごす。学校であったことを細かく聞かれるわけでもない。テストがあったときにはその成績と、大学は東大に入れそうか、たまに聞かれるだけだ。

平均点よりも点数が悪かったときには、わざとらしいため息で何もいわずに冷たい視線だけが注がれる。

辞めてほしい。とにかく重い。空気が重すぎる。ズドーンと押しつぶされそうな感じに耐えられない。耐えたくない。でもひたすら耐えながら、とにかく食事を口に運び続けるしかない。

3

食事が終わり、自分の部屋に入る。家の中で唯一ホッとできる空間。「親」はめったに入ってこない。とりあえず、今日の宿題と予習と復習を終わらせたら、また空手の型をこなす。

早く強くなりたい、少しでも強くなりたい。

ときどき、心の底から湧き上がってくる何とも言えない衝動的な虚しい苦しみを押し殺しながら、僕は夢中で腕を振る。

100回ずつ、突きと受けの型を終えると、またバタフライナイフを机の奥から出して握る。

本物のナイフの方の刃を出してみる。刃先に指を当てる。皮膚が破れて血が出てくる。これが生きている証なのか。指先に流れる血をなめてから、ティッシュで傷を押さえる。

ふと思いついて、ティッシュでてるてる坊主を作る。血を拭いたティッシュを丸めてもう1枚の真ん中に置き、それをくるむようにして頭を作って輪ゴムで首のところを締める。

左手でてるてる坊主の頭を持ってナイフを首のところに当てる。輪ゴムで締めた首の少し上に刃を当てて少し力を入れてナイフを引くと、簡単に首がちぎれて、下のスカートみたいな身体の部分が床に落ちた。

もしもこれが、ティッシュで作ったてるてる坊主じゃなくて。。。

少し僕は心が沸き立つのを感じた。

いつものように、練習用のナイフを出して手首のスナップだけで刃を出す練習を行う。前よりもスムーズにできるようになってきたけど、まだまだだ。

バタフライナイフは刃が片方だけについている。最初に開くときに、刃のない方のグリップを中心に回して、刃の付いている方のグリップを手の中に収める。

軸にする方のグリップを間違えると、自分の手の方に刃が向いてしまうから、怪我をしてしまう。注意が必要だ。まだ、本物のナイフで試してみる訳にはいかない。

階段の下から「母」が風呂にはいるように声をかけてくる。僕は、いつも通り、机の引き出しの奥に2本のナイフをしまい、その上にノートを乗せた。

4

風呂から上がると、ベッドに入ってスマホで検索履歴が残らない秘密のブラウザを開いた。このスマホは6年生になって塾に一人で通うようになったときに親が買ってくれたものだ。ペアレンタルコントロールされている。だからGoogleプレイからダウンロードしたアプリは親にバレてしまう。

Google Chromeでの検索履歴やYouTubeの視聴履歴も親にバレる。シークレットモードも使えない。でも、「親」も僕が見ているWebサイトを全て細かくチェックしているわけではなさそうだ。

僕がiPhoneではなく、Androidが欲しいといったのは、iPhoneではApp Storeを通さずにダウンロードしたアプリは脱獄しないと使えないけど、AndroidならWebから入手したアプリもインストールできるからだ。

学校で指定されるデバイスがiPadのことが多いから、ちょっと考えればiPhoneの方が中学校生活で都合がいいことくらいすぐに分かりそうだ。でも、僕の「親」、特に「母」にはそこまで深いことはわからなかったようだ。

「親」がWebの閲覧履歴まで全部チェックしているなら、僕が秘密のブラウザを手に入れたことがバレそうだったけど、今までバレていないってことは、「親」はそこまでチェックしていないってことだ。

「父」が僕のスマホを管理していたらまずかったかもしれない。「父」はシステム関連会社のエンジニアらしい。スマホやパソコンの小細工なんか簡単に見破るだろう。

でも、「父」は僕のことにはほとんど興味がない。「母」にまかせっきりだ。たまに休日に同じ時間に家にいることがあっても、顔を合わせることはほとんどない。

顔を見かけても、何か声をかけてくるわけでもない。僕も何を話していいのかわからないから無視をする。

僕はベッドの中でスマホで秘密のブラウザを立ち上げて、「軍隊 ナイフ 訓練」と検索する。

すると、世界中の軍隊やテロリスト集団がナイフで実践形式の訓練を行っている様子の動画がいろいろと出てきた。僕はそれをワクワクしながら見ながら眠りについた。

また夢を見た。恐ろしい顔をした「父」と「母」に似た何かに追いかけられて、崖っぷちへ追い詰められるいつもの夢だ。

でも、今日はいつもと違った。ポケットから僕はバタフライナイフを取り出して素早く手首のスナップで開き、そいつらに刃を向けた。動画で見た動作でそいつらの急所を狙う素振りを見せたら、そいつらは顔を真っ青にして逃げていってしまった。

ナイフは力だ。僕は力を入れた。

今までに感じたことがないような高揚感に包まれながら、その朝、僕は目を覚ました。

5

次の土曜日、午前中の部活の休日練習が終わったあとで、先輩に誘われて空手部のみんなでファーストフード店へ行った。店内は混雑していたが、それぞれがスマホで先に注文していたので、店内に入ったらすぐに受け取ることができた。

全員がまとまって座れるところがなかったので、同じ学年同士、3、4人ずつになってテーブルを探して座る。みんなこういう店に来るのは慣れているようだが、僕はほとんど来たことがなかった。

ハンバーガー店なんて、一体誰と来るの?と思いながら周りを見ていると、僕たちみたいな学生の集団の他に、小さい子供を連れた家族連れも結構いる。

こういうところって、家族でも来るところなんだ。僕の家では家族での外食や旅行は行ったことがない。クリスマスや誕生会、お正月のおせち料理なんてのも経験がない。

ハンバーガーは美味しかどうかはわからない。でも、周囲の適度な騒がしさと、油と肉の旨そうな匂い、部活の仲間と一緒にいられる時間は、なんか家での暗くて淀んだ空気の食卓とは全く違う、甘美なものに感じられた。

ふと目を上げると、向こうのテーブルに家族連れがいた。母親と幼い男の子2人。2人とも、ベンチ状の椅子に靴を脱いで上がり、母親の膝を取り合っている。母親が座っている左右から、「僕がここ」と言いながら、母親の膝に乗ろうとしている。

父親がハンバーグやポテトが乗ったトレイを持ってやってくる。テーブルにトレイを置くと、兄を抱き上げて自分の膝に乗せながら座る。

弟が母親の膝に収まり、美味しそうにポテトをほお張り始める。

幸せそうな家族の光景。家族って、なんだろう?あのテレビの中でしか見たことがないような幸せな家族の姿って、現実にあるものなんだ。。。

それを見たときに、僕の腹の底からなんとも言えない苦しみ、寂しさ、悲しみが湧き上がってきた。

「お前、どうした?そんな怖い目をして」

向かいの席に座っているヤツが僕に話しかける。

「いや、別に」

僕は慌てて普通を装って、ポテトをつまんでからストローでコーラを一口に飲み込んだ。

なんだか僕は、今までの10数年間の人生で、とんでもない忘れ物をしてきたような気がして、愕然とした絶望感に打ちひしがれていた。

6

その帰り、100円ショップに立ち寄り、ぬいぐるみとクッションをいくつか買った。ぬいぐるみは猫と犬、くまの可愛いやつだ。一緒に店に入った同級生からは、可愛い物好きだとからかわれたから、否定しないで笑って受け流しておいた。

そのくらいのやつだと思われていたほうがいいかもしれない。可愛いから買ったんじゃない。ナイフの切れ味を試してみるために必要なだけなんだ。

いつものように、どよんと淀んで重苦しい空気が漂っている家に帰る。部屋に買ったぬいぐるみとクッションを置いて、夕食の食卓につく。

朝、家を出る前に、部活の後でみんなでご飯を食べて少し街で遊んでくると言っておいた。小遣いも少しもらったけど、どこで何を食べて、何をして遊んできたのか、特に聞かれもしない。

ランチのハンバーガーショップの明るい喧騒とは正反対の食卓。僕はテレビの音を聞き流しながら、黙々と食事を口に運ぶ。なんだろうか、この違いは。

大して美味しいわけでもないけど、なんだかそこにいるだけでワクワクする気分が沸き起こってくるあの空間と、ただ、カロリーと栄養素を摂取するためだけに重い空気を我慢しながら食べ物を口に運ぶだけの食卓。

僕の心に何とも言えないイライラ感が湧き上がってくる。それと同時に胃から今食べたものが逆流しそうになった。

この女の前で、そんなイラつきを見せてはいけない。食べたものを吐くような弱っちい姿は見せてはいけない。

必死になって胃から逆流してくるものを飲み込み、残りの食事を口に押し込む。どうしようもなくムカついて気持ち悪い胃に、なんとか口の中のものを流し込んだ。

そんな僕の表情の変化にも「母」という人は気が付かない。僕の脳裏には、ハンバーガーショップで見た、母親の膝を取り合いながら、楽しそうにハンバーガーを食べていたあの家族連れの姿が貼り付いて離れない。

なんとか食事を食べ終わると、自分の部屋に上がり、1階には聞こえないように注意しながらまくらを何度もぶん殴った。

7

しばらくまくらをぶん殴ってから、僕はこの前みたいにまたティッシュでてるてる坊主を作った。今回はマジックで顔を書いてみた。

目と口に半円を描く。笑顔のてるてる坊主だ。机の奥からバタフライナイフを2本取り出す。本物のナイフの刃を出す。笑顔の顔をナイフで切り裂く。てるてる坊主の顔は、笑顔を崩さないまま切り裂かれていく。元の表情がわからないくらいまで刃を突き立てて切り裂く。そして、最後は首にナイフを当てて切断する。

胸の中に広がるモヤモヤは消えない。それどころか、ますます膨らんでいく。もう一つてるてる坊主を作る。同じように顔を書いてナイフを突き立てる。今度は頭の部分が完全に破壊されるまでグチャグチャにする。頭がなくなってしまい、首の切断はできない。

「何しているの?」

階段の下から「母」の声がする。なんか、ヤバい音でも漏れたか?

「空手の型で布団を殴って練習していた。今度、昇級試験あるから」

とりあえず答えてみる。別に僕にそれほど興味もないのだろう。どう考えても、布団を殴る音ではなかったはずだが、「母」はそれで満足したようだ。昇級試験があるのは本当だ。試験の申込みをするために受験料をもらったから、「母」も知っている。

もしも「母」が部屋に入ってきてゴミ箱の中身を見られたらヤバい。僕は切り裂いた2体のてるてる坊主を、別のティッシュにくるんで見えないようにしてゴミ箱に捨てた。

風呂に入ってからベッドに潜る。イライラした気持ちが収まらない。テロリスト集団のナイフの訓練動画を見る。自分も訓練に加わってみたい気持ちが高まる。

もっとナイフをうまく使えるようになりたい。もっと強くなりたい。もっと、もっと、もっと………

その日の夜も同じ夢を見た。「父」と「母」に似た何かに追いかけられて崖っぷちに追い詰められる。僕はポケットからナイフを取り出しそいつらに向けて振り上げる。

そいつらは青い顔をして逃げ出す。今日の僕はそいつらを追いかける。追いついたら背中から思い切りナイフを突き立てる。「母」の背中に、次に「父」の背中に。

やった!勝った!とうとうこいつらに勝ったぞ!僕はなんとも言えない勝利の余韻を感じながら、深い眠りに落ちていった。

8

僕のナイフ使いは段々とうまくなっていった。刃を自分の手に当てることなく、右手の手首のスナップだけで左右のグリップを開いて、手の中に収められるようになってきた。

ときどきまだ失敗するけど、ナイフの刃はちゃんと自分と反対側に向けられるようになってきた。

僕は「母」に空手の練習をもっとしたいから、サンドバッグが欲しいと頼んでみた。自立型のサンドバッグなら、天井から吊るす必要はない。自分の部屋におけるサイズのものでいいからと頼んでみた。

僕はめったに「親」に頼み事をしない。「母」の命令どおりに動く。「親」の希望に沿わなかったのは空手部に入ったことぐらいだろう。「親」はバスケとか卓球とかやってほしかったらしい。でも学校の部活だ。文句はいわれなかった。

めったに頼み事をしないためか、部活のことなら安心だと思ったのか、「母」は文句をいわずに買ってくれた。一応、成績をもっと上げるようにという条件付きだったが。

Amazonで僕がいいと思ったサンドバッグが届き、部屋に置いてみた。自立型で小型のものだが少し本格的なものを買ってしまったので、土台の部分が意外に重くて大きい。部屋はそんなに広くないから、かなり狭くなってしまった。

蹴りの練習はできそうもない。でも僕が強くしたいのは腕だけだ。左右の腕で手刀突きをしても大丈夫なくらいな空間は確保できる。僕に必要な「練習」にはコレで十分だった。

毎晩、勉強した後の空手の練習は空中に突き出す型から、サンドバッグを殴るものに代わった。手にはプロテクターをはめているが、やはり身体に返ってくる衝撃はただの型よりも強く、同じ回数をこなすと息が切れる。

これを繰り返していけば、僕はもっと強くなれるはずだ。僕は夢中でサンドバッグを殴った。そして、受けの型もいつも通りにやった。

空手の練習の後は、バタフライナイフを出して練習する。まずは本物のナイフで刃を開く練習だ。プラスチックの練習用ではスムーズに開けるようになったが、本物は重量感が違う。僕は本物のナイフも練習用と同じように開けるようになるように、指を切らないように注意しながら何度もナイフを振った。

一通り本物のナイフで練習したら、次は練習用を使って、ポケットからナイフを出して刃を開く練習をする。右のポケットに忍ばせたバタフライナイフを取り出して刃を開き臨戦態勢に入る。

この一連の動作がスムーズにできるように、僕はまた何度も何度も、ナイフをポケットから出したり入れたりしていた。

そして、時折、取り出したナイフをサンドバッグのちょうど自分の首の高さと同じあたりに当ててみる。サンドバッグに当てるまでの動作がスムーズにできると、ゾワッとするワクワク感が僕の背中を走った。

9

学校の勉強はどんどんと難しくなっていく。私立の中高一貫校だから、高校2年生までに高校3年生までのカリキュラムが全部終わる。だから、中学1年生の最初からペースはかなり速い。

中学1年生の秋ころまではそれでも授業と宿題だけでついていけていたのが、冬に入ったくらいからだんだんとついていくのが難しくなってきた。

特に英語が苦しい。英語は小学生の時から英語塾や英会話に通っていた人がほとんどで、小学校の授業しか受けていなかった僕みたいなのはほとんどいない。英単語のテストの出来がいつも悪い。

小学生の時には算数が一番得意で、中学入試でも一番高得点だったはずなのに、数学もわからなくなってきた。計算なんかの基本的なところは分かるけれども、応用問題で少しひねられるともうわからなくなる。

毎週の小テストで合格点を取れないことが増えた僕は、放課後は居残りをさせられることが多くなった。

もちろん、部活は出られない。部活の練習日は放課後が週に3日、それから土日に大会や練習試合が入らなければ、どちらかが半日休日練習になる。

僕は、休日練習しか出られないときが続くようになった。

家でサンドバッグを使って練習しているとはいえ、実践的な練習はできない。一緒に入部した同級生との差が徐々につきはじめていた。

いつも練習パートナーになる同級生はそんな僕を心配して、部活がない日は一緒に教室に残って勉強を教えてくれるようになった。でも、同級生が教えてくれることも、ときどきよくわからないことが多くなってきた。

どうすれば勉強について行けるのか、僕は手探りで進まなければいけない。勉強をしなければいけないという焦りは募るのに、僕の頭の中には白いモヤがかかるようになり、勉強をいくらしても頭に全然入らなくなっていった。

1年生が終わる頃、「親」が学校に呼ばれた。今年はこの中学で進級させてもらえるが、成績不振が続けば、3年生に上がるときに、一般の公立中学への転校を勧めることになると言われたらしい。

別に、内部進学できなくても中学までは通えるはずだ。でも、3年生で内部進学できないと決まってからでは、他の高校の受験に間に合わない。内部進学できない生徒の高校受験まで面倒は見るつもりはない学校だ。だから、この学校では見限った生徒には、早めに転校を勧めるらしい。

「母」は夕食のときに厭味ったらしくため息をつきながらそのことを僕に伝えた。冷たく軽蔑しきった目で僕を見ながら。

嫌だ。この中学から追い出されるのは嫌だ。せっかく受験してなんとか滑り込んだのに、今さら、一般の中学で小学校の時の奴らと一緒になるなんてみっともない。

僕はイライラした気持ちを更にぶつけるように、夜、自分の部屋でバタフライナイフを振る練習を続けて、サンドバッグを殴り続けた。

一通り汗をかいて風呂に入り、僕はベッドに潜った。ベッドに入ってから、僕は一緒に冒険をしてきた仲間の1人をを心に呼び出した。そして、そいつの顔をつかんで思い切り力を入れた。

そいつはいつもの笑顔を僕に向けたまま、驚いたように目を見開いて僕の顔を見つけた。僕はそのままそいつの顔を握る手に力を込め続けた。

空想の中でも、そいつの顔の肉と骨を感じた。顔の皮が破けて血が出て骨がミシミシと音を立てる。それでも力を緩めない。骨がくだけ始めて、そいつの顔は恐怖で歪む。僕はとうとう、空想の中の友だちの顔を自分の手で砕いた。

他の仲間達は、そんな僕の行動に驚いたのか、慌てて遠くへ逃げていった。僕には、とうとう空想の中で一緒に旅をしてきた仲間もいなくなってしまった。というか、自分自身で仲間を殺してしまったのだ。

恍惚とした達成感を感じながら、胸の奥になんだか大切なものを失ってしまった、手放してしまったことを後悔する、チクチクとした痛みが走ったが、僕はその痛みには気が付かないふりをして眠りについた。

いつものように、「父」と「母」に似た「何か」に襲われる夢を見た。僕は素手でそいつらを殴りつけた。空手で鍛えた腕は強くなったのか、そいつらの顔は、空想で潰した友達の顔よりも簡単にグチャグチャにくだけた。

僕は満足した気分で眠りを深めた。

10

4月になり僕は中学2年生に進級した。成績はどんどんと落ちていき、入学時には中の上くらいだったのが、今は下から片手で数えられるような位置にいる。

放課後の部活は完全に行けなくなった。僕と組手の稽古でパートナーを組んでいる同級生が、部活がない日や土日の午後に勉強に付き合ってくれるけど、とにかく頭に入らない。ノートにいくら書いても、問題を解いてみても、うまくいかない。

1年生の冬までは、点数が取れる応用問題に難があっても基本的なところはなんとか抑えられていたのに、もう、基本的な部分さえもついていけなくなってきた。

6月の中体連。中学部は3年生が2人しかいなかったから、団体戦は3人2年生から入ることになった。部活にほとんど行けない僕は団体戦メンバーからは外された。

しかし、個人戦は2年生以上と1年生の経験者は全員出場だ。僕は、毎日のサンドバッグでの練習の成果か、組手の1回戦は突破して2回戦まで進出して敗退した。

中体連の10日ほど後で、1学期の期末テストがあった。僕の成績は散々だった。「親」が学校に呼ばれた。部活の退部と3年進級時の転校を強く勧められた。クラスからは、勉強についていけないことや、学校に馴染めないことを理由に、すでに数人が消えていた。

僕は空手部を退部した。部屋のサンドバッグだけは処分しないで欲しいとお願いした。せめて、そのくらいの発散は許してほしいと。

「母」は相変わらずの冷たい視線で僕の話を聞いていたけど、僕から全てを奪っても仕方がないと思ったのだろうか。サンドバッグは死守できた。

授業の後は、毎日、学校にいられなくなるまで居残りか補習だ。もう、空手部でパートナーだった同級生は面倒を見てくれない。その代わり、落ちこぼれを集めた部屋で先生の監視のもと、勉強を続けるのだ。

家に帰ってきて、またあの重苦しい食卓について、美味くもない食事を母に監視されながら食べる。

部屋に戻って参考書とノートを開き、必死で理解しようと読み込んで、書き写してみる。でも、やればやるほど頭に靄がかかり、目が滑って内容が入ってこない。

とりあえず、その日の課題とされたところまでなんとか書き写すと、夢中になってサンドバッグを殴る。

僕は自分がとにかく無力な人間だと感じた。自分の存在意義はなんだろう?自分なんて本当は生まれてこなきゃ良かったんじゃないか?何でここにいるんだ?

そんな不安感や焦りを振り払うかのように、一通りサンドバッグを殴ったら、バタフライナイフを取り出して練習する。本物のナイフをポケットに入れて、素早く取り出して開く。もう、この動作も手を切ることなくスムーズにできるようになっていた。

練習用のナイフをポケットに入れて、サンドバッグの左側に立つ。開いたナイフの刃を間髪入れずにサンドバッグの自分の首の高さに当てる。

本物のナイフだとサンドバッグを切ってしまう。「母」にナイフの存在はバレてはいけない。この練習は練習用を使う。

サンドバッグを相手に見立てて、テロリスト集団のナイフ訓練動画で見た動作で急所を狙う。首、胸、背中、脇腹。。。

僕はプラスチックナイフで夢中になってサンドバッグを切りつけていた。ナイフが走ったところの皮と肉が切れて血が噴き出す。頭の中でははっきりとしたイメージができていた。

でも、殺しても殺しても、敵は倒れない。切りつければ切りつけるほど、腹の底から不安と憎しみが湧き上がってくる。僕は頭を抱えて座り込んだ。僕は何者だ?僕はどうしたらいい?僕は一体どうして生まれてきたんだ?僕の存在意義は?

叫びたい。でも叫べない。口を大きく明けて声にできない声を発しながら、僕は頭が狂いそうで狂えない苦しみに悶えていた。

11

風呂に入り、ベッドに入って、なかなか訪れない眠りを待つ。その間に、僕は空想の友達を1人ずつ呼び出す。僕の前に立たせたら、顔を手でつかんで握りつぶす。

皮が破けて肉に爪が食い込み、やがて骨がくだけて顔が崩れる。しかし、空想の中の友達は、誰も、驚いたような顔はしても、笑顔は崩さない。顔が崩れて脳漿が飛び出しても、貼り付いたような笑顔のままで崩れていく。

何でだ。僕に向けてくれていた笑顔は、作り物だったのか。

毎晩、1人ずつ顔を潰していく。みんな、貼り付いた笑顔のままで潰れていく。全員潰してしまったら、最初のヤツに戻る。なぜか、顔は元に戻っているが、以前のような親しみを感じる笑顔ではない。

まるで、どこかの店先にいる人形のような貼り付いた硬直した笑顔だ。

どうしてだ、どうしてだ、僕に親しみを持ってくれるヤツは誰もいないのか、僕はただただ悲しくなって、ベッドの中で一人涙を流した。

やっと訪れた眠りの中で、また「親」に似た何かに襲われる夢を見た。僕はナイフを突き刺し、顔を潰し、体中を切り刻んでやった。

僕のほうがもう強い、僕のほうが力がある。でも、でも、でも、、、、

朝、目覚めると、無性ないらだちと悲しみだけが、僕の胸を流れているのだった。

12

夏休みに入った。でも、僕は毎日、朝から晩まで、学校の補修と自習室での自主学習を義務付けられた。11月末から12月初めの2学期末テストで、決められた成績が取れないと、3年生になるときに自主転校しなければいけない。

夏休み中は給食がない。弁当が必要だが、「母」は作ってくれない。毎日、お金をもらい、学校に行く前にコンビニに寄ってパンとおにぎり、飲み物を買う。

1年生のところから毎日補習がある。しかし、1年生からの内容を夏休み中に終わらせようというのだから、スピードが半端なく早すぎる。まだ内容を理解できている部分であれば、問題なくついていけたが、理解できなくなってからの部分は全く聞いていてもわからない。

とにかく理解できない無駄な時間だけが虚しく過ぎていく。こんな補習に何の意味があるのか?

先生はときどき問題の答えを生徒に答えさせる。僕は当てられても答えられない事が多いので、そのうち当てられなくなった。そこにいても、僕はいない人間として扱われている。

いてもいなくてもどっちでも良い人間。でも、そこにいることを義務付けられている情けないだけの人間。

理解できない自分の情けなさと、こんな自分なんかいなくなっちゃえばいいという気持ちと、こんな課題を押し付けてくる先生や学校、僕がわからない問題を軽々と理解している同級生達に対する憎しみや怒りが、僕の心の中にフツフツと沸き立ってくるのだった。

13

課題をこなしても、ただ書き写しているだけ、考えようとすればするほど、頭の中にモヤがかかって訳がわからなくなる。頑張りたいと思えば思うほど、気持ちが焦るばかりで思考力が鈍るだけ。

夏休みが終わり2学期に入っても、その状態は変わらない。僕は毎日、とりあえず学校に行って教室に座っているけど、もう、先生からも同級生からも、ほぼ存在がないものとして扱われている。

「早くここを辞めて転校しろよ、楽になるぞ。」

ときどき担任に呼び出されてそう言われるが、僕の「親」が許すわけがない。

それでも、成績が足りていないから、放課後の補習と居残り自習が義務付けられている。とにかく、毎日、10時間以上机に向かっているけれども、もう完全にやる気もない。理解もできない。ただただ、虚しい時間だけが過ぎていくだけだった。

家に帰って、あの重苦しい夕食を食べたあとで、僕は部屋にこもってサンドバッグを殴り、ナイフの練習をした。

課題は居残り自習で片付けている。今は家で勉強するべきことはなかった。

結局、2学期の中間テストも期末テストも、全く駄目だった。僕の退学、転校が正式に決まった。

学校側は早めの転校を勧めてきたが、「親」が頑なに2年生の終わりまで今の学校に残ることを主張した。

学校側は、公立の一般の中学のほうが勉強の進度が遅いから、早く転校したほうが勉強に追いつける可能性が高い、早く転校して遅れてしまったところを取り戻して、高校受験に備えたほうが僕のためだと、「親」を何度も説得した。

しかし、僕の「親」はそれを認めなかった。というか、転校の手続き諸々が面倒くさいと言って、とにかく渋り続けた。

「親」は、一般の公立中学に行っているヤツらや、中学受験をさせない家を軽蔑していた。子どもの教育に理解を持たない遅れた考えの家だと。

だから、今さら、僕が一般の公立中学に行くことは考えられないと思っているようだ。しかし、成績不振の僕を転校で受け入れてくれる私立中学校などあるわけがない。

「親」は、自分のプライドのためだけに、できるだけ長く、僕を今の私立中学に置いておきたいだけだった。僕自身のためじゃない。

僕は、勉強がわからない苦痛から早く開放されたかった。もう、この私立中学に合格したプライドなんかない。小学校の奴らと一緒になってもいいから、少しでも早くわからなくなってしまったところを取り戻したかった。

でも、「親」は認めない。それも僕のためじゃない。何なんだ?もう、嫌だ。僕は、嫌だ。

僕は決めた。もう決めた。もう、もう、もう、、、、、、

14

冬休み前の終業式の日。給食を食べてお昼休み後の掃除が終わり、5時間目の学活で冬休みについての注意などが伝えられる。

6時間目には終業式で、2学期が終わる。5時間目が終わり、担任が5分間後に廊下に整列するように言った。

整列する時間になり、僕たちは全員、講堂に入場するために背の順に整列した。前のクラスが移動を始めるのを整列して待つ。

僕はズボンの右ポケットに右手を入れた。ハンカチに包んでおいたバタフライナイフを握り、感触だけで刃の向きを確かめた。大丈夫だ。

遠くからザワザワとした音が伝わってきた。下の階から入場が始まったようだ。

僕は、ポケットからバタフライナイフを取り出して、スナップで素早く開きながら横に振った。

僕の右側に立っていたサッカー部の控えディフェンダーの首筋にナイフを走らせる。そのまま横に振って、僕の後ろにいたバスケ部のキャプテンの首筋にもナイフを滑らせる。

血がほとばしる。テロリスト集団の訓練動画で何度もイメージトレーニングしたおかげで、2人とも、うまく頸動脈を捉えることができた。

「何だよ!」
「うわぁーーー!」

他の生徒が走って逃げ出す。僕は追いかけて、手当たり次第にナイフを突き立てる。

野球部の1番ショートの背中を突き刺す。秋にあったクラス対抗合唱コンクールの指揮者で軽音部のベースの右腕を切り裂く。吹奏楽部のクラリネットの左肩にナイフを突き立てる。

他に獲物はいないか?僕は何も考えずにひたすらナイフを振りまくり、手当たり次第にきりつけていた。しかし、軽い切り傷を負わせるだけで、手応えはまったくない。

突然、背中に大きな衝撃を感じた。思わずうめいて動きを止めて後ろを見る。ナイフはまだ持っている。

剣道部が2人、金属バットを竹刀のように中段に構えて僕に迫っている。バットは、毎学期のクラス対抗ソフトボール大会の練習のために各クラスに2、3本、いつも置いてあるやつだ。

僕は壁に追い詰められながら、ナイフで威嚇した。しかし、相手はバットで、しかも剣道部だ。長い棒で攻撃するのはお手のものだろう。

動画ではこんな時の対処法もあったが、狭い部屋のサンドバッグだけでは、そこまで練習できなかった。

というか、剣道部の存在を忘れていた。隙がなく間合いに入れない。

1人が右の上腕をバットで打つ。ナイフを落とした。もう1人が低く横に払って足をすくう。剣道で足への攻撃は反則だろう、僕は倒れながら、頭のどこかで冷静にそんなことを考えていた。

1人の教師が刺股を持ってきて僕の身体を上から抑えた。

「ベルトで縛れ!」

教師が叫ぶと、取り巻いていた生徒が数人、自分のズボンのベルトを外して、僕の足と胴体を縛り上げた。

縛られながら、周囲の様子を見回すと、いつも空手部の練習でパートナーを組んでいた同級生と目が合った。しかし、彼は僕と目があった瞬間に目を逸して、関係ないように向こうを向いてしまった。

「止血!止血!」

叫ぶ声が聞こえる。

首を切りつけた2人は床に倒れたまま微動だにしない。背中を刺したヤツも息はしているようだが倒れ込んだままだ。

腕や肩を切りつけたヤツらは、タオルで止血されながらも意識はあるようだ。

しばらくすると、救急車とパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。僕は警察に連行された。

15

警察に連行されてから、僕は一度、取調室に入った。すでに暗くなっていたこともあっただろうが、取調室はとても暗い雰囲気だった。

そこで警察官からの厳しい取り調べを受けるのかと思ったら、しばらくしてからスーツを来た数人の大人が来て、警察とは違う場所へと移された。

児童相談所だ。

2月生まれの僕は、まだ14歳になっていなかった。14歳からは刑事罰を受ける対象になるので警察に逮捕されるが、まだ13歳なので児童相談所に送致されるのだ。

児童相談所に着くと、まずは風呂場に連れて行かれた。僕の身体は返り血をたくさん浴びている。脱衣所で来ている服を脱いで風呂場のシャワーで全身を洗うように言われた。

シャワーは一応お湯だったがぬるかった。12月で寒かったが、僕はあの一連の行為で体中が汗まみれになっていた。汗が引いて、コートも着ないで警察と児童相談所を暗くなってから行き来した身体は芯まで冷え切っていた。

本当は風呂に入りたかった。しかし、大きな湯船にはお湯が張っていなくて、僕は身体に染み付いた血の臭いを流しただけだった。

新しい下着と洗濯はしてありそうだが古びたスウェットが脱衣所に用意されていた。一緒に用意されていたタオルで全身をよく拭いて、下着と服を身につけると、机と椅子だけがある狭い部屋に通された。警察の取調室のようだけど、それよりも雰囲気は明るい感じだった。

その後、スーツを着た人が何人か入れ替わり立ち替わり入ってきては、取り調べのようなことがしばらく行われた。

しかし、すでに夜になっていたので、その日はその部屋で食事を取ったあとで、部屋の隅にたたまれた2組の布団があるだけの和室に通されて、休むようにとのことだった。布団は2組あったが、その部屋には僕だけだった。

歯ブラシを渡されて、寝る前に洗面所で歯を磨くように言われた。

僕の他にも、ここに泊まっている人がいるようだ。

僕はあれだけのことをしでかしたのだ。テレビで見たことがある刑務所の独房のような部屋に入れられて当然だと思っていた。しかし、部屋に鍵はかけられずに、トイレや洗面所は部屋の外の廊下にあって、自由に出入りできる。

歯を磨いていたら、他の子が何人か歯を磨いたり手を洗ったりするのに出入りしていた。僕を見ても何も感じないのだろう。誰もが、だるそうな目で僕を一瞥すると、用事を済ませて出ていった。

僕の部屋の前には事務室のような部屋があり、その部屋には大人が数人、眠らずにいるようだった。トイレに僕が起きるとじっと僕の動きを監視しているようでもあった。

さて、これから僕はどうなるんだろう。死刑?いいよ!そのつもりでやったことだ。

僕みたいにいらない人間が、同級生を殺したんだ。死刑でいいだろう。早く裁判してくれよ。

トイレを済ませてもう一度布団に戻ると、眠りにつく前に僕はいつもの空想の友達を呼び出そうとした。もう、顔を潰さないから、酷いことをしないから、死刑台に昇るまでに新しい冒険をしないかい?

そう誘ってみるつもりだった。でも、いくら想像しようと思っても、友達はは出てこなかった。あんなにたくさんいたのに、誰も、もう僕の頭の中には友達は現れなかった。

なんだろう?やりきったはずなのに。復讐は終わった。これで僕の人生も、「父」と「母」の人生も終わるだろう。僕をとにかく追い出そうとしていた学校や、冷たい同級生へも仕返しができた。

でも、なんか、心の底が虚しい。悲しい。やり遂げても、僕は一人ぼっちだ。僕はいくら呼んでも来てくれない空想の友達のことを思い、ただただ涙を流した。

16

事件を起こした翌日。僕は起床を告げる放送が流れて目を覚ました。どうしたらいいのかわからないでいると、部屋の前の事務室から大人がドアをノックして入ってきて、布団を畳んで、部屋にあるタオルを持っていって洗面所で顔を洗ったら、その隣の食堂で朝食を食べるように言ってくれた。

食堂に入ると、トレイを持って列に並ぶように言われた。学校の給食のように並んで、ご飯や味噌汁、おかずが入った器や皿を受け取り、空いている席に座った。

食べ始めようとしたら、誰もまだ食べ始めていない。全員が席についてから、「いただきます」のあいさつをして一斉に食べ始める。

誰かが隣の人とおしゃべりを始めると、大人が黙って食べるように注意する。ここでは、食事中のおしゃべりは禁止らしい。僕は黙々と食事を食べた。

食事が終わると、一度部屋へ戻って歯ブラシを持ち、洗面所で歯を磨く。その後、僕は部屋で待つように言われた。

僕は自分にあてがわれた部屋で座って待っていた。しばらくすると、大人が呼びに来た。昨日、最初に入ったのと同じ狭い部屋に入ると、警察官が待っていた。

昨日の事件の「調査」をするとのこと。僕はまだ13歳で、重大事件を起こしたけれども刑事罰の対象ではない。だから、捜査ではなく「調査」なのだそうだ。

事件を起こした動機や、ナイフのこと、ナイフさばきをどのように身に付けたのか、といったことについて詳しく何度も何度も聞かれた。

僕は最初は適当にはぐらかしながらかわそうとしていた。しかし、「親」とも学校の先生とも違う、警察官の鋭い眼光にじっと見据えられながら、何度も静かに同じことを聞かれていると、本当のことを話さなくてはいけない気分にさせられてきた。

小学6年生のときに道端の外国人の露天商からバタフライナイフを買ったこと、6年生のときに買ってもらったスマホで、バタフライナイフの使い方や、テロリスト集団の訓練を動画で見て、使い方を覚えたこと、勉強がうまくいかずに、転校を言い渡されたことに絶望していたことなどを話した。

僕の犯行の結果もわかった。最初に切りつけたサッカー部の控えディフェンダーとバスケ部のキャプテンはほぼ即死だったそうだ。次に背中に深く突き刺した野球部の1番ショートは片方の腎臓に傷が達していて摘出。命は助かりそうだがまだ予断は許さない状態。他の人は命に別条はないが、傷が神経に達している人が何人かいて、回復しても後遺症が残る可能性がある。

それを聞いても、特に何も感じなかった。だから何だ。僕は死刑になろうと思って殺人を犯したんだ。それくらい、当然の結果だろう。

でも、そう思ったときに、学校で最後に見た、空手部の練習相手だった同級生が僕から目をそらした瞬間が胸をよぎって、何かズキーンとした重い痛みが胸の奥を走った気がした。

午前中、警察の取り調べが続いた。昼食はその部屋に運ばれてきて、そこで食べた。トイレには行かせてもらえたけど、基本的にその部屋から出ることは許されなかった。

午後になると、心理面の調査が始まった。模擬試験のような冊子を渡されて、設問に回答するように言われた。これは、学校のテストとは違って正解はないから、自分の考えに最も近いものを選ぶようにとのこと。

アンケートや、黒いシミが何に見えるのか、知能テストのような迷路や計算、図形問題など。ここ1年近く、テストがとことん苦手で苦労してきた僕だったけれども、この問題は拍子抜けするほど簡単で、するすると回答することができた。

冊子の設問にすべて回答すると、しばらく休憩してから、カウンセラーは大きなカバンを開けて、机の上におもちゃがたくさん入った箱をいくつか並べた。

そして、僕の前に空の箱を置いて、おもちゃを好きなように使っていいから、箱庭を作って見るように言った。おもちゃの中に、ちょうどその箱の底面に敷くのにちょうどいいカラーの板が何色かあった。僕は黒い板を選んでまず敷いた。

そして、終末世界のような感じにしたいと思って、グロテスクな人形やサソリ、蛇、戦車や戦闘機を並べた。レゴで自由に建物とかを作っていいと言われたので、できるだけ白黒のモノトーンな感じになるように、崩れかけたビルとかを作った。

作っているうちに、夢中になってきた。頭の中が整理されていくような、スッキリとした感じを味わいながら、僕は僕だけの庭を完成させた。

カウンセラーはスマホでその箱庭をいくつかの角度で撮影すると、僕にタイトルを付けるように言った。僕は「終末を迎えた世界」と名付けた。

気がついたら、窓の外は暗くなり始めていた。12月だから日が落ちるのは早い。カウンセラーはおもちゃを片付けると、今日は終わりだと言って部屋を出ていった。

しばらくすると、「両親」が部屋に入ってきた。僕は目を合わせないようにした。

「なんてことをしてくれたの!」
「どうしてこんなことをしたんだ」

「父」と「母」は険しい目つきで僕をなじるばかりだった。当たり前だろう。僕は犯罪者で、あなた達は犯罪者の「親」だから。

「父」の顔は久しぶりに見た。こんな顔をしていたかな?と思うほど、なんか顔つきに違和感を感じた。

僕は「親」がその場にいる間、ひたすら唇を噛みながら、目を合わせることなく、何も言わずに黙っていた。

その僕たち「親子」の様子を、その部屋で同席している児童相談所の大人も、何も言わずにただ見守っていた。

「なにか言いなさいよ、言う事ないの?」

僕はただ黙って顔を下に向けた。

「時間です。」

しばらく親の詰問に黙って耐えていたら、児童相談所の大人が声を掛けた。「両親」は立ち上がって部屋を出ていった。

その夜の夕食も、僕はその部屋で一人で食べた。その後、歯を磨いてから部屋で待つように言われて待っていたら、風呂に入るように言われた。新しい下着と、洗濯はしてあるみたいだけど毛玉がついていて古ぼけているスウェットの上下、バスタオルとフェイスタオルを1枚ずつ渡されて、昨日の風呂に案内された。

風呂には誰もいなかった。もうみんな入った後のようだ。ここにいる子供たちはどんな事情があるのかよくわからないけれども、あれだけの深刻な事件を起こした僕だから、他の子供達とはできるだけ交わらないように工夫しているようだった。

風呂の時間は10分だけだと言われた。僕はシャワーで簡単に頭と身体を洗うと、湯船に浸かって身体を温めた。昨日からの緊張感がお湯に溶けていくような心地よさを感じた。

風呂から上がって体を拭いて渡された服を着ると、今日は部屋で就寝するように言われた。僕は布団を敷いて潜り込んだ。また、空想の友達を召喚しようとした。でも、友達は誰一人として、僕の頭の中には現れなかった。

僕は、空想の友達との楽しかった旅を思い出して振り返ろうとした。死刑になる前に、唯一と言っていい楽しい思い出を味わっておきたかった。でも、なぜか空想の仲間たちとの思い出を思い出すことができない。

無理やり思い出そうとすると、僕が空想の友達を殺した場面が蘇ってくる。いや、違う、今はそこじゃない。もう、そこは必要ないんだ。

友達の顔を手で握りつぶす場面を振り払って、旅の情景を思い出そうとしても、貼り付いたような笑顔で潰れていく友達の顔だけが思い出されるだけだった。

「ごめん、ごめん、もう、そんな事しないから、もう一度、僕と一緒に旅をしようよ」

僕は心のなかで叫びながら、本当に涙を流して泣いていた。すると、僕が本当に殺してしまった2人のことを思い出した。

クラス対抗ソフトボール大会での、サッカー部の控えディフェンダーのひょうきんで愉快な応援の様子と、バスケ部のキャプテンが打ったサヨナラヒットの場面。サヨナラヒットで僕たちのクラスが勝つと、控えディフェンダーは真っ先にベンチから飛び出して勝利のダンスを面白おかしく踊っていた。

もう、二度と彼があのダンスを踊ることはない、、、んだ。

僕の空想の友達は僕の空想だけでしかない。でも、彼らは本当に2人を殺してしまった。もしかして、僕はとんでもないことをしでかしたのではないか?

突然、僕の心臓はバクバクと強烈な鼓動を打ち始めて、手汗がすごくなり、何とも言えない焦りが腹の底から湧き上がってくるのを感じ始めていた。

胸の奥で何かが崩れるような音が聞こえた気がした。僕は、この焦りと絶望の中で、ただただ布団の中で震えながら、涙を流し続けた。

17

それから、しばらくはいろいろな人からの事情聴取が続いた。警察官のこともあれば、心理カウンセラーらしき人が入れ替わり立ち替わりやってきた。警察官と同じようなことを聞く、検察官って人も来た。

「父」と「母」との関係についても何度も聞かれた。

警察官は毎日のように同じ人が来て、2時間くらい話をしていった。少年課の人だという。事件のことを話すこともあれば、世間話というか、僕の趣味や好きなことの話をすることもあった。

本当は空手部を辞めたくなかった、と言ったら、その警官は空手の段持ちだと教えてくれた。空手のどんなところが好きだったのか、好きな空手家や格闘家はいるのか、といったことを聞かれた。

僕はあまりテレビを見せてもらえなかったので、格闘家とかわからない。空手家もよく知らないといったら、少し驚いていた。

心理カウンセラー?は、毎日何らかのテストを持ってきた。冊子を出して設問に答えるように言われた。設問は最初の日と同じように、正解はないから、自分の気持ちに一番近いものを選んだり書いたりするようにとのことだった。

毎日、同じような内容だけど、設問が微妙に異なっていた。文章を完成させる問題もあった。「私にとって家族は……」「私の好きなことは……」なんて文章があって、続きを自分で作るのだ。

僕にとって家族は敵で人生の支配者、好きなことは何もない、持ってはいけないものだった。

2週間ほど、いろいろな人に話を聞かれる期間があったあとで、必要な調査は終わったと告げられた。これから、僕のことをどうしたらいいのか決めるとのことだった。

僕は、児童相談所の大人に、2人も意味もなく同級生を殺したんだから、死刑でしょう?と聞いてみた。しかし、日本の法律では18歳未満には死刑はないこと、14歳以上なら死刑相当の罪なら無期懲役だけど、まだ13歳だからそれもないことを教えられた。

おそらく、家庭裁判所へ送致となり、その後少年院に送られるだろう。少年院では学校の勉強も続けられる。少年院でも高校卒業の資格を取って、就職や大学への進学ができる。

少年院で自分が犯した罪としっかりと向き合って、どうしてこういうことをしてしまったのか反省して、このような事件を起こした心の闇を解きほぐすんだ。そうして、しっかりとした大人になる準備ができたら、社会に戻るんだ、とのこと。

僕は混乱した。

え?僕がまた社会に戻る?

死刑で、いいじゃん。

なんで?

社会に

戻らなくちゃいけないの?

僕があれだけのことを決意したのは、世の中から逃げたかったからだ。事件を起こして死刑になれば、もうこれで自分を終わらせることができる。でも、早すぎた。早すぎた。

僕の心は、事件を起こす前以上の絶望の闇に覆われてしまった。

18

僕への聞き取り調査が終わってから、10日ほどして家庭裁判所への送致が決まった。

家庭裁判所では僕に対して観護措置決定がなされて、僕は審判が下るまで少年鑑別所へ入ることになった。

少年鑑別所でも、何度も面接や心理テストが行われた。身体検査や健康診断、精神科医の診察もあった。作文や絵を書かされることもあった。僕の行動はいつも誰かが見て観察している、観察されている目は児童相談所のときよりも厳しい感じがした。

毎朝6時に起床のベルが鳴り、全員が一斉にベッドを整え、洗面所で顔を洗う。朝食の後は、掃除や軽い運動があり、その後に授業や心理カウンセリングが続く。食事は規則正しく提供され、食堂では決められた席で黙々と食べる。

ここにいるのは、それなりに何らかの罪を犯した少年ばかりだ。ガラの悪そうなヤツもいる。でも、僕は基本的に誰にも興味を持たないようにしながら、目立たないように過ごしていた。

とにかく、心理テストや聞き取り、授業のような時間や毎日の日課をこなしていた。空いた時間があると、図書室で本を読んだ。本を今までじっくり読んだことはなかった。何を読めばいいのかわからなかったから、国語で見たことがあるタイトルの小説を手にとって見た。

初めて読む小説は面白かった。思わず時間を忘れて読みふけってしまった。新しい空想の友達を作れそうな気がしてうれしかった。

1ヶ月ほど少年鑑別所で過ごしてから、家庭裁判所での少年審判を受けることになった。少年審判、つまり僕への裁判が家庭裁判所で行われた。僕には、付添人となる弁護士が付いていた。「親」は僕の弁護士を付けることを拒否したので、国選付添人だとのことだった。

審判が始まると、裁判官は事件のあらましについて語り始めた。僕は改めて自分がしでかしたことの大きさに驚いた。

また、裁判官は僕がこのような殺人を実行するにいたった家庭や学校の背景も語り始めた。僕は驚いた。両親との関係、勉強で追い詰められていった過程、学校で居場所をなくしていったことが背景としてあることを正確に裁判官は見抜いているようだった。

僕は意見を求められたけれども、特に追加することや自分の感想はなかった。僕は児童相談所の大人が教えてくれたように、少年院へ送致されることになった。

少年院に入る期間は大人の懲役刑のように年数は決められない。しかし、長期処遇が望ましいとのことだったので、しばらくは塀の外へ出られないようだ。っていうか、やっぱり出たくない。僕は死刑になれないのなら、塀の中で朽ち果てたかった。

19

僕は、最終的に医療少年院に入ることになった。僕が犯した殺人の内容からすれば、「犯罪傾向が進んだ」少年が入る第二種少年院か、14歳以上で懲役刑か禁固刑が言い渡されたなら「少年院で刑の執行を受ける」第四種少年院が妥当だと誰かが言っていた。

しかし、僕が殺人を犯した当時、まだ13歳で、身体には問題はなくても心理面の問題が大きいらしい。精神科や心理カウンセラーによる治療が必要だということで、医療少年院送りとなった。

少年院での生活は、少年鑑別所以上に規則正しいものだった。毎朝7時に起床すると、清掃や朝礼、矯正教育という授業、運動、集会、講話がある。

授業では、学校の勉強をする。中学2年生の内容だと言うが、僕はすでに1年生のときに習っていた内容だった。

僕が簡単すぎてすぐに問題を解いてしまっても、先生はそのまま他の子が時終わるのをぼーっとして待っていることは許してくれなかった。他の課題をすぐに指示するか、わからなくて困っている子の手伝いをするように指示を出した。

わからない子に教えていると、その問題の本質が分かるような気がして楽しかった。今まで感じたことがない感覚だ。相手にわかるように教えるには、自分が問題の本質を理解していないと、噛み砕いて説明できない。

僕は頭をフル回転させて、どうすれば相手に寄り添って教えられるかを考えて工夫した。相手に寄り添って考える、っていう経験は始めて体験したかもしれない。

授業や講話では、どうして犯罪を犯してはいけないか、他の人の人権を尊重するのはどのような意味があるのか、自分で自分の気持を律するとはどういうことなのか、といったこともよく取り上げられた。

僕は社会の授業や受験勉強で習ったことがある、人権や法律、道徳って言うことの意味を改めて深く考えるようになった。

また、心理カウンセラーや教官との面談も僕には頻繁に設定された。ときどき精神科医の診察もあり、なんだか薬も処方された。眠れないというと、睡眠導入剤をくれるときもあった。

とにかく、僕はそこでの生活でどうしてそこまで自分が追い詰められたのか、それを解きほぐして、自分を見つめ直すことを強く求められた。

僕は自分の心の底にある親や学校への恨みつらみにまた向き合い、それがどうして同級生に向かってしまったのか、深く反省させられる、、、、フリをしていた。

反省しているフリをしているけれども、講話やカウンセリングで恨みつらみを掘り返すうちに、どうしてそれなら、僕の周りの大人は僕の人権を尊重してくれなかったんだ、早く転校させてくれなかったんだ、こんなに普通の中学2年生の勉強が楽なら、もっと早く楽な道を歩かせてくれなかったんだ、、、、

反省文では、殺してしまった同級生への後悔の念を、遺族やまだ入院しているという野球部の1番ショートに対する謝罪の手紙では、深い反省の念を、綴っていたけれども、僕の心の中にはまた、殺人を実行する前とは違うドロドロとした怒りのマグマが渦巻くようになってきた。

そして、僕はどうにかそれを表に出さないように気をつけながら、それでもこんな自分を、早く消してくれ、早くどうにかしてくれ、と心のなかで叫び続けていた。

20

教官との面談の日、教官が僕に言った。

「君が本心を隠して取り繕っているのはわかっている。腹の底にあるものを全部出してみないか?」

僕は内心ギクッとなりながら答えた。

「何のことですか?」

「君は反省しているフリはしている。でも、本心はそうじゃない。いや、殺したり怪我をさせた同級生への反省の念は本物かもしれない。でも、親や学校への恨みつらみを抱えて、爆発しそうになっている」

僕は本心を言い当てられてドキッとした。でも、ここでそれを見せる訳にはいかない。

「何を言われているのかわかりません。」

それから、いろいろと話しをしたけど、僕はとにかく教官が見抜いた本心をどうすれば覆い隠すことができるのか、それだけに集中して会話を続けた。

その後の自由時間、僕はスケッチブックと色鉛筆を取り出して、夢中で絵を描いた。黒や茶色、赤で、何か得体の知れない怪物が暴れる様子を描いて見ようとしていた。

でも、僕には絵心がないのか、うまく描きたいものを表現することができない。それでも僕は夢中になって色鉛筆を走らせた。

持ち物検査で僕が描いた絵は教官がよくチェックしていた。教官は厳しい表情で僕が描いた絵を見つめて、スケッチブックが終わるとそれをどこかに持っていって、新しいものをくれた。

21

僕が少年院に入って半年程たってから、被害者の遺族、家族から損害賠償を求める民事裁判が僕の「親」に対して提訴された。「親」は事件の翌日の面会と、家庭裁判所での審判の日に来ただけで、それ以外、一切会っていなかった。

しかし、そんな「親」でも僕の「親」であることは間違いない。事件当時13歳で親の監督責任があるということで、「親」に対して損害賠償請求が行われたのだ。

僕の「親」は、まず自宅を売り払った。これで僕が帰る「家」がなくなった。それでも、判決で予想される賠償額には足りなかったらしい。今度は、2人で心中してしまった。

生命保険金を賠償金に充ててくれという遺書を残して。

なんだ、2人で働いて、僕も出所したら働いて、一緒に苦労しながら足りない分をコツコツ返済していくことはしないんだ。「両親」が亡くなった知らせを聞いた僕は白けた気分になった。

悲しいという感情は一切沸き起こってこなかった。殺してしまった同級生のことを思い出して感じる、底知れない後悔や懺悔の気持ちもない。

結局、僕の「親」が可愛いのは僕じゃなくて、「親」自身だったらしい。生き恥を晒しながら、それでも這いつくばって、僕と一緒に背負って行くのではなく、自分の命と引き換えにする金だけで解決しようとする。

僕はそんな「親」の気持ちがわかりすぎるほどわかって、爆笑したくなるようなおかしな気分になった。

一応、葬儀の日だけは僕も「両親」に会いに行くことになった。僕は別にいかなくてもいいと思ったけれども、規則だかなんだかで行かされることになった。

葬儀は父方の叔父が出してくれるとのことだった。朝早く、まだ他の親族や参列者が来ないうちに、僕は手錠と腰紐をかけられて、車に乗せられて葬儀場へ行き、棺の中の「両親」と対面した。

2人の死に顔を見ても、僕は特に何も感じなかった。線香を上げてから、教官に最後にお別れの言葉を言うように促されても、僕は「いいです」と言って、出口に向かおうとした。

叔父が僕を呼び止めた。

「お前は一体何なんだ?何を考えているんだ?どうしてこんなことをしたんだ?お前の父親が一体なんだっていうんだ?」

僕は更に白けた気分になって叔父の顔を無表情に見つめた。何も考えていないさ。

でも、僕がこうなったのもあんたの兄貴のせいだろう。「父」と「母」がもっと僕の気持ちを考えてくれていたら、僕はここまでのことを………

僕は急にそう怒鳴りつけたい気持ちが湧き上がってきた。それを必死で抑えて、一礼すると出口に向かって歩き出した。

22

「両親」が亡くなってからも、僕の日常は今までと同じように淡々と過ぎていった。毎日の規則正しい生活と学習や運動、それから作業もよく行われた。

作業は農作業や木工、金工などがあった。ナイフをよく練習していたためか、僕は木工や金工の道具を使うのが上手だと褒められた。なんか、自分のことを褒められることがくすぐったくてうれしかった。

また、勉強もだんだんと夢中になっていった。わかるって、こんなに楽しいんだ。自分がわかるところを、わからなくて困っている人に教えて、わかってもらったときって、こんなに自分もうれしいんだ。

少年院での生活を通して、僕は心の奥底にガツンと凍りついていた塊が少しずつ溶け始めているのを感じていた。

しかし、少年院は長期処遇でも通常は2年で退院だが、2年経つ頃、僕には延長が伝えられた。延長の理由は、僕の心理的な問題に不安があることや、両親が亡くなってしまったことで、今のままで社会に出ても身寄りがなく、生活が不安定になるためだという。

だからさっさと僕なんか死刑にしてくれよ。喉までそう出かかった。

僕は中学校の課程の勉強を終えて、高校の勉強を始めた。高校の勉強でも、私立中学校で勉強した範囲がいくつか出てきた。それを先生に伝えたら、先取りしている私立中学校の教科書は、一般的な中学校の教科書と内容が違うから、分野によっては1年生や2年生でも高校の内容をやることがあると言われた。

学校ではあんなにわからなくて困っていたのに、ここで習うととても理解しやすくてスラスラと僕はできるようになった。

テストではいつもいい成績を収めて、2年で高卒認定試験に合格することができた。

しかし、僕はさらに延長が相当とのことで、2年たっても少年院から出ることはできなかった。

23

結局、僕は20歳まで少年院にいることになった。6年間ちょっとで退院が認められた。

僕は学習の成績が優秀だったので、大学へ行きたいのなら、働きながら夜間部や通信大学へ行く道もあると言われた。しかし、僕は「両親」が返済しきれなかった賠償金が気になっていた。

「両親」はそれぞれ5,000万円ずつ生命保険をかけていた。しかし、自殺だったことで3,000万円ずつしか支払われなかった。

自宅の売却も、僕が事件を起こしたことで高額では売却できずに、結局、全額支払うことができずに、父方の叔父と母方の伯父と叔母が足りない分を肩代わりしてくれていたのだ。

被害者への弁償は終わっていたが、僕は親戚が肩代わりをしてくれた借りを返す義務があると思っていた。

それで、少年院からの退院が決まったときに、身元引受人になってもらうことを頼みながら、賠償金の返済のことについて問い合わせてもらった。

しかし、賠償金のことはもういいから、自分たちには今後一切関わりを持たないで欲しいと言う返事が来ただけだった。

少年院の教官たちは、僕が事件を起こしたときの名前のままでは生活しにくいだろうことを心配して、父方の姓だったのを母方の親戚の養子に入って母方の姓にすることを提案してくれた。

しかし、母方の親戚は誰も僕のことを養子にしてくれるという人は現れなかった。教官は僕には直接言わなかったが、とにかく、これからは無関係に生きていって欲しい。そう言われるだけだったようだ。

僕は教官に、僕はこのままの名前で、僕のやったことを全部背負いながら生きていくことを伝えた。

最終的に、僕は遠方の保護司をしながら刑務所や少年院からの出所者を受け入れている、建設会社の社長に身元引受人になってもらい、その建設会社に就職することになった。

24

退院を翌日に控えた日、僕は担当教官に相談室へ呼ばれた。

「いよいよ、退院だな。」

「はい。」

「ここに来た頃から比べると、だいぶ成長したと思う。でも、まだ、心のどこから、自分を殺したい、死刑になりたい、どうせなら、もっと派手なことをして死刑判決を受けたいとでも思っているだろう。」

僕がギクッとしながら首を横に振った。というか、本当は死刑になりたかったなんてことは、思っていても口に出したことはなかったはずだ。

「俺も、この仕事が長い。本当に改心したヤツと、改心したフリだけして平気で再犯するヤツ、ここで改心してもついつい再犯してしまう心の弱いヤツ、いろいろといるよ。でも、お前みたいなのは初めてかもしれない。本当は改心しているのに、再犯を企てているヤツは。」

「そんなことはありません!」

僕は冷や汗をかきながら叫ぶように言った。

「ここを出たら、俺たちはもう何もお前の力になってやることはできない。お前のしたことは確かに許されなことだ。大人だったら死刑判決が出てもおかしくないくらいの重罪だ。」

「でも、これだけはよく覚えておけよ。お前はここで6年間、矯正教育を受けてきた。法的にはこれでお前は刑事的な責任を全うしたことになる。また、損害賠償も終わっている。賠償金を立替えてくれた親戚に返済するかどうか、という問題はあったとしても、被害者への金銭面での賠償も終わっているんだ。」

「後は、もちろん、毎年、謝罪の手紙は続けるべきだし、反省はし続けなければいけない。それは当然だ。でもな、反省は続けるべきだけれども、それでお前がこの世の中から消えればいい、お前が消えれば被害者が喜ぶ、そういうものでもないはずだ。」

「それに、もしもお前が死刑判決を受けるような凶悪犯罪を犯したとしたら、また新しい被害者が生まれるだろう?」

「残念ながらそういうヤツもいるよ。残虐な犯罪行為そのものを楽しむサイコパスってヤツもいる。そういうヤツをわかっていて見送らなくてはいけないこともある。ここは少年院だから再犯の可能性がわかっていても、いつまでも残すわけにはいかないから。残念だけどそういうヤツには俺たちにはどうしようもない。」

「でもな、お前はそういうサイコパスではない。ちゃんと反省しているけれども、自分を消したいという思いが強すぎて、また何かやらかそうとしている。その葛藤がずっと見えていたんだよ。」

僕はうつむきながら、思わず出てきた涙を拭った。僕の心の中がここまで見抜かれていたとは思わなかった。僕はここで、自分の本当の理解者に出会っていたのだった。

「お前が死ねばすべてが解決するわけじゃない。とにかく生きろ。社会の風は冷たくて辛いよ。未成年の事件だけど、裏サイトやネット掲示板なんかにはお前の実名も出てしまっている。もうご家族もいないんだ。孤独で寂しくなることもあるだろう。でも、精一杯生きろ。身元を引き受けてくれる社長さんの下で一生懸命働きながら生きろ。変なことは考えなくていいから生きるんだ。」

教官はそう言って僕の肩を強く叩いた。僕はあふれる涙を拭いながら、ただうなずくことしかできなかった。

25

退院の日。

僕は少ない荷物をまとめて退院の手続きを行った。書類を何枚か書いて、教官達に最後のあいさつをしていると、身元引受人になってくれた保護司の建設会社社長夫妻がやってきた。

社長夫妻と一緒に少年院の門をくぐって外に出た。実に6年ちょっとぶりのシャバの世界だ。よく晴れている日で、僕はなんだか眩しいような気がして思わず目を細めた。

奥さんが運転するワゴン車に乗せられて、僕たちは出発した。しばらく走ると、腹ごしらえだと言ってラーメン屋に入った。僕は何でも頼んでいいと言われて、味噌ラーメンの大盛りに厚切りチャーシュー追加を頼んだ。

少年院での食事は、栄養のバランスは取れているのだろうが、薄味でどこか物足りないものだった。僕は久しぶりのシャバの味に感動しながら夢中でラーメンをすすった。

何時間も何時間も車で走った。途中、高速のサービスエリアなどで休憩しながら、僕は見たことがない車窓の風景を楽しんでいた。

そういえば、事件を起こす前、家族旅行なんかもしたことがなかった。僕は、自分が暮らしていた街の周辺の風景以外には、学校の遠足や修学旅行で行った場所の風景しか見たことがなかった。

車の中では、社長と奥さんがこれからの生活のルールなどを教えてくれた。社長のことは社長と、奥さんのことは女将さんと呼ぶように教えられた。

給料は3年間は女将さんが管理する。手取り金額から寮費と受け取ってもらえるかはわからないけれども賠償金の返済用の積立、将来に向けた貯金を差し引いた金額が僕の毎月の小遣いになる。

最初の最初の3ヶ月は見習いで手取りは少ないから、小遣いはほとんどないと考えた方がいい。

でも、頑張って働き続ければ、3ヶ月後には正式採用となり昇給する。食費は外食しなければ毎日3食とおやつは寮で食べられるから寮費以外は必要ない。最初の洋服や下着も女将さんが用意してくれる。今日、退院するための洋服も、女将さんが予め送ってくれたものだった。

「君は喧嘩は強いの?」

質問されてちょっと困った。喧嘩は少年院でも勃発することがあったけれども、僕は遠くで見ているだけだった。

「あ、でも、空手部だったんだよね。じゃ、大丈夫かな?」

「わかりません。1年くらいしかやっていなかったし」

「うちには、過去がワケありのヤツらばっかりだから。君の名前も検索すると、残念だけど裏サイトとかに事件の内容と一緒に出てくるから、目をつけられちゃうと思うんだよね。あんまり目に余るときには、うちらも出ていくけど、基本的に寮内で起こることは、本人たちに解決させたいんだ。大丈夫かな?」

「殴られたりするかもってことですか?」

「そういうこともあるかもしれない」

だよな。犯罪者を引き受けている場所なんだから、僕がこれから行くところは当然そういうところだよな。そういえば、空手の組手以外で殴られたことはない。なんだか、僕は僕にふさわしい場所を見つけたような気がして、気分が晴れてきた。

「僕のしたことを考えたら、殴られるくらい当然かもしれません」

「まあまあ、そんなに卑下して考えすぎなくても大丈夫だよ。酷いときには殴り返したって、逃げたっていいし、酷いときには遠慮なく相談して。後、暴力や嫌がらせからはいくら逃げてもいいけど、うちからは逃げないでね。だいたい、刑務所から出てきて引き取っても逃げちゃうんだから。でも、君は本性は真面目過ぎる良いヤツだって少年院の教官が言っていたから、期待しているよ」

期待?僕に?何を?

僕の頭の中には、社長と女将さんのその言葉に、たくさんのクエスチョンマークが浮かぶのだった。

僕が暮らす街へ入ると、女将さんは車を大きなショッピングセンターへ停めた。僕に降りるように促すと、洋服屋へ一緒に入った。

下着やパジャマ、普段着のジャージやスウェットを数組、仕事の時に着る作業用のズボンとTシャツ、外出用のチノパンやシャツ、スーツと礼服を1組、僕のサイズに合わせて買ってくれた。

スーツと礼服まで?と不思議に思ったけれども、これから社会人として必要なときもあるから、高級なものは買ってあげられないけど、念のために用意しておこうと言われた。

スーツと礼服はズボンの裾を直してもらうのに日数がかかるということで、その他のものだけを受け取って、再び車に乗って会社へ向かった。

会社の敷地に車を停めると、社屋の横に立っている寮へ案内された。寮の住人全員が大きな部屋に集められて、女将さんが僕を紹介した。

「みんなもご存知の凶悪犯です!でも、本性はいいヤツだっていうから、みんなしっかりと教育してあげてね。脅かしたり、悪いことを教えちゃダメだよ。」

ほとんどの人が笑っていた。感情を見せない目で、僕のことをじっと見ている人もいた。その場でスマホで僕の名前を検索して、「ゲゲッ!!」って顔をする人もいた。

裏サイトや掲示板には僕の名前が、あの事件の犯人として出てしまっているのだ。僕はそれすらも引き受ける覚悟で出てきた。

僕は自分の部屋に通された。2段ベッドが4つある。8人部屋だ。僕に割り当てられた引き出し付きのロッカーに、買ってきた洋服や下着の値札を取って、名前を書いて整理するように言われた。

服に名前を書くなんて子どもみたいだけど、洗濯はみんなの分をまとめてやるから、書いていないと確実になくなるそうだ。

僕はハサミとマジックを借りて、洋服から値札を取って名前を書いたら、畳んで引き出しにしまっていった。その作業をしていると、何人かが声をかけてきた。

名前を言われて「よろしく」と手を差し出される。僕も手を握り返しながら、「よろしくお願いします」と挨拶をした。

僕の新しい生活が始まる。どうなるのか、全くこれからの予想がつかないまま、シャバでの第一歩を踏み出した。

26

その日の夜、食堂でみんなと一緒に夕食を食べた。僕は特に自分から話をすることはなかったけれども、みんなが僕にいろいろと聞いてきた。

みんな、事件のことは知っているようだ。中には事件について咎めるような事を言う人もいたけど、「お前が言うか」って誰かがツッコんでいた。その人も前科があってここに来た人のようだ。

食事の後で、リビングのソファに座ってテレビを見ながら風呂の順番を待っていたら、後ろから肩を叩かれた。振り向くと、突然パンチが飛んできた。僕は思わず空手の受けの動作が出てかわした。

「その子、空手経験者だからね、あんたのへなちょこパンチじゃ無理じゃん」

女将さんが笑って言っていた。

「でも、何年も前に、1年くらいしかやっていなかったんですが」

僕は言った。

「俺、キックボクシングやってるんだ。軽く手合わせしないか?」

ちょっと年長の男性がそう言って、僕に指付きのグローブを渡してきた。僕が躊躇していると、無理やり立たされて、グローブを両手にはめさせられた。

その部屋の中央が自然に空いて空間ができる。僕はそこにその人と向かい合って立った。

「じゃあ、軽くいくぞ」

そういうと、その男性は僕に向かって軽くパンチやキックを繰り出してくる。僕は自分から手を出していいのかわからなかったから、ひたすら受け流していた。

「さすがに、自分が凶悪犯だって自覚があるし、根が生真面目な子だっていうから、手は出しにくいよね」

女将さんの声が聞こえた。

だんだんと相手が繰り出すパンチやキックの精度とスピードが上がってきた。息を切らしながらさばいていたけれども、とうとうさばききれずに、何発かもらってしまった。

少年院では他にやることがなかったので、運動の時間はひたすら身体を鍛えていた。空手の練習をすることはなかったけど、身体の強さにはそこそこ自信があった。

そのためか、パンチやキックを食らっても倒れることはなかったけれども、空手部を辞めてから初めて本気で受けたパンチやキックは体の芯までズドンと響いた。

相手の男性は動きを止めた。僕は息を切らしながらも、空手部の練習に夢中になっていたときのような爽快感を感じていた。

「ここまで、俺とほぼ同等に動ききったのはここではお前が初めてだよ。なかなか筋が良いね。キックボクシング一緒にやらない?」

もう一度、空手をやりたい気持ちはあった。空手の道場が近くになければ、キックボクシングでもいいか。でも、、、、僕がやってもいいのだろうか?

僕は首を横に振って断った。その男性は、気が変わったらいつでも声をかけてくれと言ってくれた。

27

次の日から仕事が始まった。他の人達と一緒にワゴン車に乗せられて、現場へ行き、ひたすら重い荷物を言われるままに運び続けた。

体力にはある程度自信があったけれども、最初の30分間で足がふらつき始めて、1時間後には自分が一体何をしているのかわからなくなった。

それでも、何度かの休憩をはさみながら1日目が終わった。僕はフラフラになり、その夜は夕食後に風呂に入ると、すぐに布団に入って寝てしまった。

同じ部屋にはイビキがひどい人がいるようだけれども、僕はそんなのが一切気にならないほど、深い眠りについたようだ。気がついたら、朝になっていて、女将さんに叩き起こされた。起床の合図が鳴っても起きなかったそうだ。

それから毎日、とにかく夢中で働き続けた。最初の1週間くらいは身体がきつかったけれども、徐々に慣れ始めてきて、1ヶ月もしたら夜もベッドに直行することはなくなった。

リビングでみんなと一緒にテレビを見たり、ゲームをしたり、時には理由もわからず勃発する喧嘩に驚いたり、他の人の恋バナを聞いたり、、、

これが普通の生活なんだな、シャバで生きるってことなんだな、って僕は噛み締めていた。

3ヶ月経ったら、僕は見習いから正社員に昇格した。給料も上がって、小遣いも少し遊べるだけになった。自分で支払うのならスマホも契約していいと言われたので、僕は一番、基本料金と端末料金が安いスマホを契約した。

僕には連絡する家族も友達もいない。だから、通話プランとかは特にいらなかった。

ネットは寮のWi-Fiを使っていいと言われている。頻繁に外出するつもりもなかったから、通信量もそんなに必要ないと思った。

スマホを手に入れたら、僕は自分の名前を検索してみた。世間でどのように自分のことが言われているのか知りたかったからだ。

僕の名前が匿名になっているページや記事には、事件のあらましや、家庭の状況などがかなり詳しく書かれていた。ちょっと違うだろう、と思うところもあったけれども、僕が事件に追い詰められていった背景、両親の愛情不足や学校から転校を言い渡されていた点は、正確に分析されていたようだった。

僕の名前が載っているページは、やはり裏サイトや掲示板だった。ここでは、直接的に僕に対してかなり酷い誹謗中傷的なことがたくさん書かれていた。

仕方がない。僕はこういうこと言われても仕方がないだけのことをしたんだから。そう割り切ろうと思ったけれども、実際に僕に対する厳しい言葉を目にすると気分が落ち込んだ。

女将さんと社長が僕の傍らに来てスマホを覗き込んで言った。

「まあ、仕方がないよね。それだけの事件を起こしたのは事実だから。多分、お前がやったことがプラスになることはこれから先もないし、お前は同級生を2人も殺して、何人もに後遺症を負わせた凶悪犯だ。」

「でもね、こういう書き込みに負けていじけたり、また事件を起こしたりするのか、それとも、毎日の仕事や生活をしっかりとこなして真面目に生き続けるのか、それを選ぶのはお前自身だし、お前が自分で乗り越えていくしかないことなんだよね。」

「それで、ここにいる限りなら、俺たちはお前を世間の風からちゃんと守るから。お前がここを見限るなら仕方がないけど。お前が俺たちと一緒にいてくれて、会社のためにしっかりと働いてくれるなら、俺たちは君を絶対に見捨てない。」

そういって、僕の横に座った社長は僕の肩を抱いてくれた。僕は思わず涙を流して下を向いた。

でも、でも、でも、、、、、

それでも僕の心の奥底には、ずっと溶けることがなく固く凍りついた冷たい塊が残っているのだった。

28

僕が少年院を退院して、建設会社で働き始めてから3年がたった。途中で何人か、刑務所や少年院を出所した人が入ってきたけれども、3人に1人は1ヶ月もたたずにどこかに逃げてしまい、1年もすると半分くらいはいなくなった。

それでも、懲りることなく社長と女将さんは新しい人の身元引受人になっていたので、僕は不思議に思って聞いてみたことがある。

「社会貢献という名の世間様と死んだ仲間へのほんの些細なお詫びさ」

社長は少し渋い顔をしながら教えてくれた。

「俺も、カミさんも、暴走族上がりでさ、カミさんが女総長だったんだ。それで俺がNo.2。レディースじゃねえぞ、カミさん、男ばっか100人くらいいる暴走族束ねてたんだよ、恐ろしい女だろ?」

「タイマンなんか、力で勝てないからって、先っぽ尖らせた鉄パイプ振り回して、容赦なく太ももや肩をブスブス刺しやがるんだ。お前みたいに急所はやらないけどさ。でも、怖いだろう?」

「でも、今なら時代も違うけど、その頃は女にやられたなんて、口が裂けても言えなかった。それで、カミさんトップに登り詰めたんだ。」

だから、社長のほうが少しビクビクしながら尻に敷かれているんだ。ちょっと僕はおかしくなって笑った。

「それで、暴走族同士の抗争があったときに、とんでもない大戦争になっちまって、両方に死者を出しちまったんだ。大乱闘だったから、誰が直接やったのかなんてわからない。」

「結局、双方のトップが数人、刑務所や少年院に入ることになって。それで、俺もカミさんも少年刑務所に行って。出てきたときに、俺もカミさんも反省して、これからはちょっとまともになって社会のために働こうって、結婚してからこの会社作って、犯罪者を受け入れることにしたんだ。」

「ここに来るヤツらってのは、お前も含めてみんな、他に行き場がないヤツらばっかりだろう?身元引受人もいなくて困っているヤツらばかりだ。ここから出ていったって、せめて生きていてくれればいい、俺もカミさんもそう考えているんだ。死んだ仲間にはそれから先の人生がもうなかった。でも、シャバに出てきたら、あいつらにも自分がどこにすむのか選ぶ権利があるんだから。生きていてくれさえすれば俺たち十分なんだよ。」

僕は社長と女将さんのその深い考えと、ただ単に逃げるヤツらを卑怯としか思っていなかった自分の思慮が足りていなかったことを思い知らされた。

29

3年たったら、寮を出てアパートを借りてもいいと言われた。給料も、全額自分で管理するようにと。

僕は、手取りから親戚に返したい賠償金の積立を差し引いて、残り金額で一人暮らしができるか、給料を計算してみた。贅沢しなければ、なんとかやっていけそうだ。

まだ、世間に出ていいのかわからなかったけれども、僕は思い切って3年目からは一人暮らしを始めてみることにした。

とは言っても、会社の隣に社長が建てたアパートだ。食事も食費を支払えば、寮で食べてもいい。ほぼ、寮にいるときと同じだった。ただ単に、今まで大部屋だったのが違う建物で個室になったようなものだ。

しかし、アパートに引っ越してから、しばらくして会社で働いている女の子が僕のところに転がり込んできた。

女の子は売春か何かで少年院に入ったことで、この会社に引き取られた子だった。

地元の子で、母親がちょっとだらしない人で、父親は誰だかわからないという。子どもの頃から、母親の何度も変わる彼氏にひどい目にあわされることが多く、いつしか地域で悪さをする集団の一員となってしまった。

女将さんはその集団を気にして目をかけていたらしい。しかし、犯罪行為を全部止めることができるわけもなく、この子はシンナーや大麻、売春行為などを繰り返して、何度も補導されてしまったそうだ。そして、最終的には少年院に半年程入ることになり、退院後に女将さんが引き取ったのだった。

僕が就職してから1年目くらいに入社してきて、その頃から何故か僕に懐いてきた。

女性社員には寮はなかったので、最初からそれぞれアパートが割り当てられていた。その女の子は僕を何度も自分のアパートに来るように誘ってきたけど、僕は誘いに乗らないようにしていた。

夜は就寝時間まで寮のリビングにアパートの人もいることがあり、女の子もよくいた。僕の隣に座って話しかけたてきたり、時には人目がある中で抱きついてきたりしてきた。

遊びに誘われることもあった。その子からの誘いには乗らないことがわかっていたので、他の人と僕を約束させておいて、待ち合わせ場所に行くと、その子しかいない、なんてこともよくあった。

気がついたら、会社の人たちから僕たちは付き合っている認定されてしまっていた。僕も惹かれる気持ちが強くなりつつ、それでいいのかと思っていた。

僕なんかと付き合ってもいいことないから、僕は酷い人間だから近寄らない方がいい、何度もそう警告したのに、彼女は僕からまとわりついて離れなかった。

そして、僕がアパートに引っ越すと、しばらくしてから引越し祝いだとやってきて、そのまま勝手に部屋に上がり込んでしまった。隣の部屋の先輩に助けを求めても、ニヤニヤとしながら「いいな~、俺も彼女欲しいな~」と言われるだけで、自分の部屋にさっさと帰ってしまった。

「僕がどんな人間か知らないのか?」

そう聞いてみると彼女はあっさり答えた。

「知ってるよ。10年くらい前に、東京の私立中学で起きた、同級生大量殺傷事件で2人も殺した犯人でしょう。」

「でも、そんな怖い人だって思えないんだけどな。あんた優しいし。」

そういって彼女は僕に抱きついてきた。僕はなんとか振りほどいて言った。

「僕なんかと一緒にいたっていいことないから」

「じゃあ、私がいいこと教えてあげるってば」

そう言って、再び彼女は僕に抱きついてくると、今度は僕の背中を優しく撫で回してきた。なんとか理性で押し戻そうとするのだが、背中を這う手のひらから波のようにもどかしい甘美な快感が生まれて、全身に広がっていった。そして、僕の衝動に止められない火をつけた。

僕の儚い理性はあっという間に破壊されて、彼女の柔らかい体のぬくもりに負けてしまった。

30

それから、しばらく彼女は自分の部屋と僕の部屋を行き来しながら生活していた。自分の部屋で使っていたキッチン用品を少しずつ僕の部屋に持ち込んで、仕事が終わるとスーパーで食材を買ってきて料理をして、そのまま僕の部屋に泊まっていくことが増えた。

半年ほどそんな生活を続けてから、彼女は社長と女将さんに正式な許可をもらって、自分の部屋を引き払い、僕の部屋に完全に引っ越してしまった。住民票の住所も僕の部屋に正式に変更した。

僕は困ると社長に抗議したが、社長も女将さんも、いつまでも1人で生きていくこともないだろう、彼女を逃したら次はないかもしれないぞ、と言って取り合ってくれなかった。

どうしようか。僕は何度か土下座をして、僕と別れてほしい、僕と一緒にいても君のためにならない、僕以外の男を探してくれ、そうお願いした。

でも、彼女は僕の部屋に居座ったまま、全く動こうとしなかった。そして、僕にも一緒にやるように言いながら、掃除や洗濯、料理などの家事を当たり前のようにアパートの部屋でやるのだった。

彼女が僕の部屋に住み始めてから、毎朝、一緒に朝食を作って食べて、一緒に出勤して、退勤後は2、3日おきにスーパーやドラッグストアへ一緒に行って買い出しをして、夕食も一緒に料理をする、そんな生活になった。

休日はたまに街に出て映画を見たり、ゲームセンターで遊んだりした。街での遊びに慣れていない僕を彼女はリードして遊び方を教えてくれた。

天気が良ければ、弁当を作って公園や景色のいい河原なんかにピクニックに行くこともあった。

少年院でも少し料理は習ったけれども、僕は彼女に習いながらいろいろな料理を覚えた。

そして、そんな生活がいつの間にかとても楽しく、幸せで満ち足りたものになっていることに気がついた。

でも、でも、でも、、、、やっぱり、これじゃいけない。

僕の心の底に凍りついた冷たく重い塊が、僕に早くこの生活を終わらせて次のステップに進むようにと命令してくる。

死刑になりたいんだろう?死にたいんだろう?死んで消えようよ。

今さら、死刑判決受けるような犯罪を?それじゃ、自分で?

満ち足りた生活と、心のなかで渦巻くドス黒いどうしようもない思いが、僕の心を引き裂くようだった。

31

彼女が僕の部屋に住み始めてから半年ほどたったある夜、夕食の片付けをすると、彼女は風呂に入った。鼻歌を歌いながら、バスルームでシャワーを浴びている音が聞こえる。

僕は服を脱いで裸になると、今、キッチンで研いだばかりの包丁を手にしてバスルームに入った。

シャワーを浴びている彼女を後ろから抱きしめて、包丁の背を彼女の頸動脈に当てた。あの日、僕がサッカー部の控えディフェンダーと、バスケ部のキャプテンを切り裂いた部位だ。

「あのさ、このまま僕が包丁の刃でここを切れば、君を簡単に殺すこともできるんだよね。事件のときもここを切り裂いて僕は2人を殺した。簡単なことなんだよ」

「じゃあ、やれば」

彼女は緊張で身体を固くすることもなくあっさりといった。僕は彼女が恐怖で動けなくなると思っていたから、彼女の冷静な反応に驚いた。

「やってごらんよ、いいよ、私だって死んだって泣いてくれるのは社長と女将さんくらいだし。母親なんかいたって、アル中で半分廃人で、私のことなんかどうでもいいって感じだし。このまま生きていたってさ、これからあの親の面倒とかみなきゃいけないって考えると、正直言って絶望しかない。それなら、大好きなあんたに殺されたほうがマシだよね。」

そこまで一気にまくし立ててから一呼吸おいて続けた。

「でもさ、今のあんたにできるの?」

僕は問われて、少し動揺した。いや、やろうと思えばできる、、、はずだ。

でも、なんか彼女の言葉を聞いて包丁を握る手から力が抜けていく。

「ここで私ひとり殺したくらいで、いくら前科があっても死刑にはなれないよ。その後でここを飛び出して、何人もやらなきゃ」

僕は事件の日に、刺股で身体を抑えられながら見えた、被害者たちが血を流す様子を思い出した。あの日の出来事をまた繰り返すのか?

「社長が言ってたよ。アイツは、まだ死刑になりたいとかいう考えが抜けていないって。でも、多分無理だろうな。根が善良過ぎるから、って。」

「あのさ、自分で死ぬんでも、また似たような事件を起こして死刑判決受けるんでも、どっちでもいいけどさ、自分で死ぬつもりなら、どうして賠償金を毎月真面目に積み立ててるの?」

「死ぬってことは、その責任から逃げるってことじゃん。でも、社長かな、女将さんかな、どっちか言ってたよ。逃げるんならとっくに逃げてるって。でもアイツは、3年たっても逃げてないから、これからも逃げないし、何かを起こして逃げるってことも多分できないって。」

彼女の首に回す腕から完全に力が抜けた。彼女は自分の首に絡みつく僕の腕をつかんでそっと下ろした。そして、僕の手から包丁を取った。

「こんな物騒なもの、お風呂に持ってくるんじゃないの。包丁は美味しい料理を作るための道具でしょう?」

そういって、バスルームを出てキッチンへ包丁を置くと、再び戻ってきた。そして、手にボディソープをたっぷりとつけて泡立てると、僕の身体を首から肩、胸、背中と優しく手のひらで洗い始めた。

僕は完全に毒気を抜かれて、彼女のなすがままになっていた。

32

次の日、包丁がまな板を叩く音で目が覚めた。いつも同じ時間に起きて、一緒に朝食を作るのに、今日は僕を起こさないでくれたようだ。

僕は起きてキッチンに立つ彼女の背中を見つめた。

「おはよう」

彼女は僕の方を振り向くことなく言った。僕もあいさつを返した。

なんか気まずい気分を味わいながら、僕は彼女の横に立ち、一緒に朝食の用意をした。

「昨日はごめん」

「少しはスッキリした?それとも、もっと殺意が大きくなった?どっちかな~??」

彼女はおどけたように僕の方に顔を回して、僕の目を覗き込んできた。

どっちだろう?僕にもよくわからない。でも、昨日の僕の態度は最悪だった。それはわかる。

「昨日のこと、社長と女将さんに言う?」

「どうしようかな~?言ってほしい?」

「言いつけたければいいよ。僕がしたことだし。」

「相談しようよ、必要ならカウンセリングとか受けてさ。その罪悪感とか、自分が死んだほうがいいって気持ち、解決できないか、考えてみない?」

解決?解決するなんてこと、僕は一度も考えたことがなかった。いや、このどうしようもない塊は解決しちゃいけないんじゃないか?

じゃあ、どうする?自殺する?また新しい事件を起こして死刑になる?そうしたら、彼女や社長や女将さんが悲しむぞ。

僕の頭は混乱してきた。

僕は混乱した頭のまま、彼女と一緒に部屋を出て出社した。会社につくと、彼女は女将さんと何かひそひそ話を始めた。話がつくと、僕のところにやってきて、「今夜、女将さんにうちらの部屋に来てもらうから」と言って、自分の仕事に行った。

その日は、1日、なんだか仕事に集中できなかった。頭の芯がフワフワとしているような、定まらないような、少年院を退院してから感じたことがない変な心持ちがずっとしていた。

それでも、ミスを起こすと命に関わる場面もある。自分の命だけならいいが、自分のミスで他の人の命に関わる可能性もある仕事だ。

頭のフワフワした感じをなんとか抑えながら、ミスをしないように注意するだけで、その日はとにかく疲れ切った。

社長は女将さんからなにか聞いていたのだろうか。そんな僕の様子を時折心配そうに遠くから見つめていて、午後には調子が悪そうだからと、危険性が少ない簡単な仕事に回してくれた。

33

仕事が終わり、彼女は今日は時間がないからと、コンビニで弁当を買ってきて、2人で部屋で食べた。食べ終わって片付け終わった頃に、女将さんと社長が部屋にやってきた。

「この人の心の闇をなんとかして、結婚したいんです。」

彼女が言った。

結婚?なんだそれ?結婚なんかできるわけ無いじゃん。ってか、昨日のこと話すんじゃないのかよ。

「もう、昨日、私に包丁突きつけてきたんですよ。この人。でも、全然刺す気もなくて、ちょっと笑っちゃうくらい。力抜けてて、やっぱりこの人、根は善人のようです。」

そういって、昨日の出来事を面白おかしく語りだした。

しかし、面白おかしい様子は彼女だけで、社長も女将さんも少し渋い顔をして聞いている。

「それで、私に包丁を向けたくなるような心の闇をどうにかしないとダメなんですよ。どうしたらいいでしょうか?」

社長が僕に尋ねた。

「お前は自分でどうしたいのかな?カウンセリングとか、犯罪を犯した人が反省するためのグループワークとかを受けたいというのなら、保護士の集まりでどこがいいのか聞いてみるけど。どっちみち、彼女がお前を変えたいと思っても、お前が自分で変わろうとしなければ無理なんだよな。まずは、お前自身でどうしたいんだろう」

僕は、しばらく考えてから、どうしたらいいのか全然わからないと答えた。そして、ずっと誰にも明かしてこなかった、心の中に巣食っている、ドロドロとした感情を僕にずっと放ち続けている、冷たくて硬い塊のようなものについて話した。

でも、それは僕がずっと自分がやってしまったことを背負い続けるために、必要なものだとも思うということも付け加えた。

社長と女将さんは、僕が反省し続けて、今までみたいに賠償金を積み立てたり、手紙を書いたりすることは大切だけど、その塊まで背負い続ける必要があるのか疑問だと答えた。

それと、その心の中の塊が爆発して、新しい犯罪を起こしたり、自殺したりするのもどうかと思うとも。その塊について困っているのなら、やはり専門家に相談するべきだと思うとのことだった。

僕は、社長と女将さんのアドバイスに従うことにした。心療内科か心理カウンセラーを探してもらうことにした。

34

社長と女将さんがあちこち当たってくれた。そして、隣の県の大学病院で犯罪者の精神分析をしている研究室を見つけてくれた。

ここでは、精神科医や臨床心理士がチームになって、犯罪者に再犯させないための心理プログラムの開発や、犯罪傾向を持つ子どもを犯罪者にしないためにはどうしたらいいのか、といったことの研究をしているとのことだ。

僕はちょうどいい研究対象になりそうだ。いや、僕の心の闇を暴いて、僕みたいな人間を生み出さない社会を作って欲しい。

僕はそう思って、その研究室を訪れてみることにした。最初の日は、社長も一緒について来てくれた。

狭い診察室のような部屋に通されると、精神科医と臨床心理士がいた。机の上の液晶画面には、僕に関する資料が開かれていた。僕が少年院を退院したときに、保護司である社長に渡されたものを、事前に送っていたのだという。

僕は精神科医と臨床心理士との面談で、自分の思いを正直に話した。

今の生活はとても楽しくて充実している。仕事はやりがいがあって、僕でも社会に貢献できているって実感は十分に感じられるし、彼女との生活も楽しい。

でも、心の奥底に何かどんよりとした塊がいつもあって、僕に幸せな生活を送ることを許してくれない。ときどき、その塊から強烈な感情が湧き上がってきて、体中が引きちぎられるような感覚になることがある。

彼女に包丁を突きつけたときも、そんな感覚に襲われていたときだったと。

臨床心理士は、子どもの頃から、子どもらしい感情を押し殺しながら生きてきたから、おそらくその押し殺した感情が、押し殺せなくなってしまっているんだろうね、といった。

そして、多分、精神科から処方される薬物での治療では、不安感とかを多少軽減させることはできるかもしれないけれども、その爆発しそうな塊を消すことはできない。

消せるかどうかはわからないけれども、本気でその塊をどうにかしたいと思うのなら、心理療法でそれに真正面から向き合ってみるしかないだろう。

でも、それはとんでもない負の感情と向き合うことになるから、本人にはものすごい負担になる。下手に感情のパンドラの箱を開けてしまうと、酷い自殺願望に襲われる可能性もあるかもしれない。

ただ、今まで抑え込んできた負の感情と向き合って整理がつけば、次の段階に気持ちが進める可能性もある。

負の感情が爆発するのが怖ければ、そこには手を付けずに、対症療法ではあるが薬物療法で不安感をやり過ごすっていう方法もある。

どちらがいいのか聞かれた。僕は心理療法で徹底的に向き合いたいと伝えた。どうせ、僕の人生はあのときに終わっている。今さら、負の感情に襲われたって、それで僕自身が壊れたって、仕方がないだろう。

薬でなんとなくごまかしながら生きるような生き方はしたくない。

そう言うと、精神科の医師が、いやいや、多分、猛烈な負の感情の嵐に襲われているときには、薬も処方するよ、多分、普通の状態ではいられないほどの状態になるから、その部分は不安を和らげる薬で対処しようよ、と言ってくれた。

僕は、この2人にすべてを任せたいと伝えた。2人とも、僕の目を見つめながら、「一緒に頑張ろう」と言ってくれた。

それから、僕の治療の経過と結果を個人情報が特定されない形で研究の対象にしてもいいか聞かれた。僕と僕の保護者代わりの社長は、個人情報が特定されなければもちろん大丈夫だと答えた。

その後で臨床心理士による最初のカウンセリングが行われた。心の中にあるどうしようもない塊を、絵に描いてみるように言われて、机の上に紙とクレヨン、色鉛筆が並べられた。

僕は、少年院で描いていた絵のように、暗い色調でよくわからない形の怪物のような「何か」を描いた。

その後、カウンセラーはいくつも僕に質問をした。絵についての質問だったり、そうではない質問だったり。どの質問も、僕の心の奥底を探ろうとするものばかりで、僕は頭をフル回転させながらできる限り正直に答えた。

鑑別所や少年院でもカウンセリングは何度も受けてきたけれども、この塊の存在を隠した本音をさらけ出さないものだった。この塊に向き合い、心底正直に自分の気持ちを吐き出すのは初めての経験だった。

答えるたびに、心の中の塊から強烈な感情が放出された。

「黙れ、何を言うか、俺の言うことを聞け、これ以上何も話すな、ひどい目に合わせるぞ」

僕は塊から発せられるその命令を無視して、とにかく答え続けた。セッションが終わる頃には、塊との訳の分からない戦いに疲れ切ってぐったりとしていた。精神科医は精神安定剤を処方してくれた。

次のセッションは1ヶ月後に設定された。今度は退行催眠をやってみようと言われた。心の中の塊は潜在意識レベルのもので、普段生活する上で意識している顕在意識からはおそらくアクセスできそうもないから、退行催眠で潜在意識を探ってみようとのことだった。

僕は何がいいのかよくわからないので、全部お任せします、と伝えて研究室を後にした。

もう、僕は疲れ切っていて、社長の車のところまで歩くのもやっとなほどだった。

35

会社に到着すると、女将さんが寮から出てきた。僕は車から降りたけれども、なんだかフラフラで真っすぐ歩けない感じがした。社長と女将さんが両脇を抱えて部屋まで連れて行ってくれた。

彼女が驚いて、急いで布団を敷いてくれた。僕は布団に横になって、抱きまくらを抱えながら背を丸めると、疲れ切った頭に胸か腹かわからない、身体のどこかから湧き上がってくる感情の波をどうすることもできないでいた。

部屋の中でしばらく社長が女将さんと彼女に今日のことを話しているようだった。

彼女には、何かあったらいけないから、しばらく目を離さないように、強く伝えていた。明日は、調子が悪いようなら、2人で仕事を休んでもいいから、とも言っていた。

食材なんか必要なものは届けるから、とにかく僕のそばを離れないで欲しいとのことだった。

彼女が僕の傍らに来て、頭や背中をさすってくれた。僕は反対側を向いたまま、ただただ情けなく涙を流し続けるだけだった。

その夜、彼女はおかゆを作ってくれたけど、ほんのすこしすすっただけだった。猛烈にエネルギーを使ったような気がするのに、胃に入っていかない。

彼女は、冷蔵庫に入れておくから、夜中にお腹が空いたら温めて食べるように言ってくれた。僕はうなずいて、処方された薬を飲み、歯を磨いて顔だけ洗うと風呂にも入らずに布団に横になった。

抱きまくらを抱えながら背中を丸くしていると、彼女が僕の隣に横たわり、そして僕の背中を抱きしめてくれた。彼女のぬくもりがありがたく、それでもどう応えていいのかわからなかった。

でも、僕は少し安心した気分になり、眠りについた。

次に起きたら、翌々日の朝だった。30時間くらい、僕は眠り続けたようだ。起こそうとして身体を揺らしても全く起きないから、彼女は心配したらしい。

女将さんに連絡して来てもらったけど、気持ちよさそうに寝息を立てていたので、心配ないだろうと言われたとのことだった。

念のために社長が大学病院の研究室に電話をしたら、子どもの頃から心の中に溜め込んだストレスと対峙したことで、脳が疲れ切ったんだろうと言われたそうだ。

高熱が出たり呼吸が荒くなったりなどの体調の変化や、ずっと起きない状況があれば救急車を呼んだほうがいいかもしれないが、ただ寝ているだけなら起きるまで寝かしておいて大丈夫だろうとのことで、様子を見ていたとのこと。

それで、起きたから問題なさそうだと彼女が言い、仕事に行けそうか聞かれた。腹が無性に減っていた。2日前の昼食から何も食べていない。腹ごしらえをすれば行けそうだと答えた。

妙に頭がスッキリとして、清々しい感じがしていた。なんだろう。こんな気分始めてだ。

でも、頭の中を探っていくと、まだまだあの塊は心か頭のどこかに巣食っていた。負けるものか、負けるものか。彼女のためにも、社長と女将さんのためにも、こいつに負けるものか。

僕は彼女と一緒に朝食の用意をして、いつもの倍の量を平らげた。お腹がいっぱいになると、僕たちは片付けをして、一緒に部屋を出て会社へ出勤した。そして、いつも通りに仕事をした。

社長は僕の顔を見ると、「ちょっとスッキリした感じだな」って言ってくれた。僕はちょっと照れくさく、くすぐったい気持ちがした。

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次のセッションの日、今度は女将さんが一緒に来た。彼女も行きたいといったが、先生の許可が出てからだと言われて、仕事に行った。

女将さんと2人で研究室に入ると、僕だけ奥の薄暗い部屋に通された。安楽椅子に座って、好きな角度にリクライニングを調整していいと言われた。一番自分がリラックスできる体勢になるようにとのことだった。

椅子の調整ができたら、退行催眠が始まった。精神科医が言葉で誘導して、リラックスするための深呼吸などを指示する。心理カウンセラーはノートを持って傍らにいる。

僕は言われたとおりに深呼吸を何度か繰り返していくうちに、催眠状態に入っていった。

最近の出来事から、徐々に過去に遡っていく。少年院時代、事件を起こした時、受験勉強に励んでいた時、テレビアニメで空想の仲間を作ったとき……

過去に遡るうちに、幼稚園くらいのときに家でおもらしをしたのに母親が助けてくれずに困ったことを思い出した。僕が困っていて、着替えが欲しいと言っても、母親はそこにいるのに洗濯したのを用意してくれない。

僕は半分泣きながら自分で濡れたズボンとパンツを脱いで洗濯機の中に入れて、タンスを開けてパンツとズボンを探した。

母親がとっても冷たい人だと、絶望感をはっきり意識したのはこのときだった。これより前も母親のことは冷たい人だとわかっていたけど、絶望感の塊のようなものが僕の心に根を張ったのは、このときが始めてだったのかもしれない。

それから、もっともっと過去に遡り、母親の子宮にいるときまでたどり着いた。

母親の子宮の中は羊水で満たされていてとても暖かくて気持ちがいい。この前、彼女が布団の中で抱きしめてくれていたぬくもりのようだ。

でも、羊水を通して感じる母の感情は酷いものだった。妊娠したことを母は喜んでいなかった。僕のことが邪魔だと思い、赤ちゃんのことなんかいらないとはっきりと何度も口に出して言っていた。

僕はお腹の中にいるときから、強い不安感に襲われた。僕って本当は生まれちゃいけない子だったんじゃないか。僕はいらない子だったんじゃないか。

それでも、何で母が僕を産んだかって?それは単なるメンツに過ぎない、それは僕もはっきりと認識していた。

父と結婚して、子どもがいないのは都合が悪い。でも、本音では子どもはいらない。そもそも、父も母も子どもが嫌いな人だった。でも、産んでしまえばどうにかなると思っていたらしい。それでも、もともとが子ども嫌いで、僕が生まれても愛情が芽生えることもなかったようだ。

もちろん、退行催眠で見ることが、本当に起きたことかどうかはわからない。僕の心が作り出しているだけの可能性もある。

しかし、子宮の中で母から冷たい感情をぶつけられる感覚を感じたことで、僕は初めて親の愛情を諦めようと思えた。僕には、産んでくれた親はいても、愛情を与えてくれる人ではなかったのだ。

僕は自分の中で何かが解決できた気がした。

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それから1ヶ月から2ヶ月に一度のペースでカウンセリングに通った。セッションは3回ほど退行催眠を行ったが、あまり新しいことは出てこなかった。

後は普通のカウンセリングだった。

母親の僕に対する徹底した冷たさを退行催眠で実感した上で、親との関係をカウンセリングで整理した。

親はやはり僕には愛情はまったくなかった。でも、彼らのメンツを満たすための道具ではあった。だから彼らのメンツを満たすだけの十分な高い学歴が僕には必要だったんだ。

愛情がないからから、僕の事件と向き合うことなく、平気で自殺できたんだろうと想像できた。

反対に、今の僕には深い愛情を注いでくれる彼女と、僕のことを心配して助けてくれようとしている社長と女将さんがいる。それから、少年院で一生懸命に面倒を見てくれた教官たちも、僕の将来を本当に気にかけてくれていた。

僕の心に巣食っていた、冷たいドロドロとした感情を放つ塊は、幼い頃に徹底して僕に愛情を注がずに、ある意味生存への不安を掻き立てるばかりであった親への恐怖であり、愛情を求める渇望から生まれたものだったのだ。

カウンセリングをいくら受けても、塊を心の中から排除することはできなかった。でも、塊が放ってくるドロドロとした暗い思いを、僕はそれほど気にせずにいられるようになってきた。

カウンセリングに通い始めてから1年ほどして、僕は彼女にプロポーズをした。

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プロポーズをした時、僕は彼女に子どもは作りたくないといった。僕の子どもは犯罪者の子どもになってしまう。そういう重荷を僕は負わせたくないと。

すると彼女は「あれ?」って顔をして僕に聞いた。

「言ってなかったっけ?私、子ども作れないんだよ。」

なんでも、子どもの頃に母親の彼氏に性的虐待を何度も受けたせいで、妊娠できない体になってしまったのだという。

不妊治療をすればどうにかできるというレベルではなく、受精はしても子宮に着床できないそうだ。ずっと避妊していなかったことも指摘された。僕は初めて、避妊せずに今まで妊娠しなかったことをおかしいと思わなかったことに気がついた。

今まで自分の辛さだけに精一杯で、彼女の過去や苦しみに向き合うことができなかった。僕は申し訳ない気持ちでいっぱいになって、彼女を力いっぱい抱きしめた。

彼女は僕に、婚姻届を出すときに彼女の姓になることを提案してくれた。僕の名前は検索するとあの事件を起こした少年としてヒットしてしまう。この街のこの会社で働いていることも特定されている。

幸い、写真も盗撮されて何度かSNSなどに掲載されたことがあったけれども、社長が関わっている犯罪加害者の更生を手助けする団体が猛抗議をしてくれて、それは拡散前に削除されていた。

僕の下の名前はけっこうありふれたものだ。彼女の姓も日本人の名字ランキングトップ10に入るようなありふれたものだ。

彼女の名前に変えてしまうことで、僕は事件の犯人として後ろ指を指されることがない、普通の生活を手に入れられるかもしれなかった。

「私もさ、地元を離れて、後ろ指を指されない生活してみたいんだよ」

何度も補導されて、鑑別所に何度も入り、最終的には少年院送りになった彼女だ。地元ではある意味で有名人だった。しかし、違う土地に行けば、僕みたいにネットで名前が拡散されているわけではない。

僕たちは、結婚を機に違う土地で2人でゼロからやり直してみたいと社長に相談してみた。社長はカウンセリングに通っている大学病院の近くの建設会社を紹介してくれた。

なんでも、女将さんと社長が刑務所に入るきっかけになった大抗争の、相手の暴走族を率いていた総長が社長をしている会社だとのこと。やはり、社長と女将さんと同じように、犯罪を犯した人の支援をして、会社に受け入れているとのことだった。

僕たちはその会社でお世話になることに決めて、婚姻届を出して夫婦になった。

結婚式は特にやらないつもりだったけど、社長と女将さんが近所の居酒屋を貸し切ってくれて、ささやかなパーティを開いてくれた。社長と女将さんが司祭みたいな立会人になって、僕たちは2人に向かって誓いの言葉を述べて、指輪を交換した。

結婚してしばらくしてから、僕たちは中古で買った自分たちのワゴン車に、あまり多くはない荷物を載せて、新しい街へと引っ越した。

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新しい街で、2人で就職する会社の近くにアパートを借りて、僕たちは新しい生活を始めた。

会社の雰囲気は、同じようなコンセプトで作った会社だからだろうか?前の会社とよく似ていた。ワケアリの人物たちが大勢働いていて、お昼休みなんかには時として分けの分からない喧嘩が勃発する。

社長やリーダーは、適当にやらせておいたあとで、収拾がつかないときだけ出ていく。そんなところも、前の会社の社長や女将さんと同じだ。

僕はしばらくして、新しい街での生活に慣れてきたら、空手道場に通い始めた。今度こそ、空手をしっかりと極めてみたい。やりきってみたい。そんな思いで、妻も賛成してくれた。

道場で新しい空手着の袖に腕を通して、帯を締めると、空手部や実家の自室で夢中で練習していたときのことを思い出した。本当にみんなごめん。僕は僕の被害者になった人たちに心の中で詫びてから、稽古に加わった。

週に1回、空手の稽古に通っていたら、しばらくしてから新しい人が入ってきた。僕と同年代で、どこかでみたことのある顔つきだ。師範代ということで、時には指導に回ることもあった。

整列して型の稽古をしているときに、その人が1人1人型を直しながら回っていた。僕のところに回ってきたときに、僕の型を直しながら、ちょっと表情を変化させた。

僕もわかった。

中学の空手部で、僕の練習パートナーだったヤツだ。顔つきは当然大人になっているけれども、面影はあった。そして、ヤツの表情からは僕だってわかったはずだ。

なんで、東京から遠く離れたこの街にいるんだよ。僕はまたこの街を離れなくてはいけないのかと、ちょっと残念に思った。

その日の稽古が終わり、着替えて道場を出た。自宅に向かって歩いていると、後ろから肩を叩かれた。ヤツだった。周りに聞かれないように小さい声で僕の旧姓を呼び、僕だということを確認した。

誰かに聞かれるような場所で立ち話ができる関係ではない。僕は自宅へヤツを連れて行った。妻は急な来客に驚いたが、訳を話すと理解してくれて、お茶を出すと簡単な夜食を作ってくれた。

僕はヤツに向かって土下座して謝った。とんでもないことをしでかした。本当に謝ってすむことではないけれども、申し訳なかった。

ヤツは、俺に謝ることじゃないだろう、といった。俺はお前に何も被害は受けていない。そりゃ、精神的なショックは受けたけど、実際、殺されたり、ひどい傷を負わされたりはしなかった。本当に謝るべきは、違うヤツらだろうと。

また、ヤツは僕のことを見捨てたような気がして、自分も事件の原因を作った張本人だという気持ちを持ち続けていたといった。

僕が空手部を辞めたときに、先生たちから僕の勉強を見るのを辞めるように言われたという。でももっと僕を助けていれば、あんな事件を起こさずにすんだのかも、と自分を責める気持ちがあったそうだ。

ヤツはどうしてここにいるのか、空手道場に登録してある名前がどうして違うのか聞いてきた。

僕は少年院を出たあとで、隣県の建設会社に就職したこと、そこで妻と出会い、結婚して妻の姓になったこと、妻もワケアリで地元で生活しにくい事情があったので、今の会社を紹介してもらい引っ越してきたことをかいつまんで説明した。

そして、僕は東京から離れたこの地方にどうしているのか、ヤツに聞いた。ヤツは、大学を出たあとでWebメディアの運営会社に就職したとのことで、今はこの地方のニュース発信を担当しているとのことだった。

いくらインターネットが発達した社会でも、地元のニュースは足で稼がないといい情報が得られないとのことで、ヤツの会社では地方に多く人を派遣しているのだそうだ。

ヤツは数年したら、また違う地方へ行って、最後は本社勤務になる予定だとのことだった。

空手は大学まで空手部で続けて、師範代まで上り詰めたそうだ。将来的には、師範になり副業で自分の道場を持ちたいと。

そして、僕が事件を起こしてからの学校の様子を教えてくれた。

40

僕が事件を起こしてから、学校の評判はガタ落ちした。

僕が犯行に及んだきっかけの一つに、成績不振を理由として3月までの転校が言い渡されていたことであったことが報道されて、中学入試で入学させた中学生を、中学3年間、面倒を見ない酷い学校だとの評判が広がってしまったのだ。

パンフレットやホームページには「生徒一人一人の未来を考えて個性を尊重する教育を行います」とか書いてあるのに、僕に対しては成績不振と高校受験への準備を理由に転校を促していた。

この事件をきっかけにして、実際に転校させられた元生徒や保護者からの学校に対する恨みつらみの声もネット上に多く書き込まれて、テレビや雑誌、ニュースサイトに大きく取り上げられた。

成績不振の生徒の内部進学を許さないのはともかく、他の高校の受験支援をしない、預かった中学生に対する責任を全うできない学校だという実態が明らかになったことで、その年度は受験者が激減した。

事件が12月末だったので、すでに入試の願書提出が終わっていたが、1月から2月にかけて実施された入試では、願書を提出した人の半分も受験しなかったそうだ。そして、何度も追加入試を行ったのに、4月に入学した人は定員を下回る、創立以来の状況だったという。

さすがに、名誉回復が急務だと気がついた学校は、その年の夏くらいから、数学と英語の習熟度別授業を初めて、それでも遅れが酷い生徒には個別指導も行うようになった。

どうしても成績が足りない生徒は内部進学は許されなかったが、中学卒業までの在籍を許して、高校受験への支援も約束するようになった。

そんな取り組みが功を奏したのか、学校全体の成績が上がってきて、2年程たったら大学受験で成果が現れ始めた。また、内部進学できる人も増えて、生徒の満足度も向上していった。その成果が世間で認められたのか、今では中堅校では屈指の人気で高倍率を誇るようになったという。

「結果的に、お前があの学校を改革したんだよ」

ヤツはそんな風に話を締めくくった。僕はその話を聞いて苦笑した。それなら、僕のやったことに意味があったと?2人の命を奪って……

ヤツは、僕の被害者のその後も教えてくれた。腎臓を摘出した野球部の1番ショートは、激しい運動ができなくなって野球部ではマネージャーになった。その後は、勉強に専念して今は弁護士になっている。

「少年犯罪の被害者支援をしてお前に復讐するって言っていたけど、少年犯罪に関わったら加害者側の事情に踏み込まなくちゃいけなくて、お前の辛さが理解できて、かえって辛いって言ってたぞ。」

腕と肩を刺した、軽音部のベースと吹奏楽部のクラリネットは、どちらも傷が神経まで達して腕がうまく動かせなくなり、楽器を持てなくなった。

ベースはボーカルに、クラリネットは合唱部に転向して、どちらも今もアマチュアバンドや市民合唱団を続けているとのこと。

2人とも、腕が動かしにくくなったことで日常生活に多少の支障が出たけれども、リハビリでなんとか暮らしていける程度には回復して、それぞれが自分の仕事を頑張っているそうだ。

「僕のことを他の人や道場に言うのか?」

僕はヤツに聞いた。

「どうしたらいい?今日、俺がお前に声をかけたことは他の人に見られているから、どういう関係か多分聞かれると思うけど」

僕は妻と顔を見合わせた。また他の街に移るか?でも、他の街に移っても、僕たち夫婦のことを知っている人に出会うかもしれない。仕方がない。どこに行っても、僕たちの過去は自分で作ったものなんだ。逃げ通せるものでもない。

「話したければ話してもいいよ。」

「ってことは、話したくなければ話さなくてもいいってことだよな。別に俺は、お前たち夫婦のことを潰したいわけじゃない。お前がやったことは許されないことだけど、お前は少年院を勤め上げた。賠償金の支払いも終わっている。俺にお前の人生を裁く権利はないさ。」

僕は、それでいいのだろうか?とちょっと思った。でも、ヤツの目はふざけていない。僕が話さないでくれといえば、適当にごまかしてくれるだろう。

僕はヤツを信じることにした。

41

それから、普通の日常が続いていった。僕と妻は以前と同じように、朝、一緒に起きて朝食と弁当を作り、一緒に出社して、それぞれの仕事をして、一緒に帰って夕食を食べる。

休日にはドライブに出かけたり、アパートでまったりしたりして、2人の時間を楽しんだ。

週1回の空手も続けて、僕は徐々に昇級していった。

ヤツもいつもではないけれども、道場で会うこともあった。でも、簡単な挨拶をするだけで、あれ以来、特に深く話すこともなかった。

代わり映えのしない、でも穏やかな日常が続く中で、ある思いが僕の中に膨らんでいった。

空手の稽古が終わったあとで、僕はヤツに声をかけた。僕が殺した2人の墓参りができないかと。

ヤツは、墓の場所は知っているけど、遺族の気持ちなんかもあるからすぐには返事ができないと言った。地元にいるヤツらに聞いてみるから、少し待ってくれとのことだった。

それから2週間ほどたって、ヤツから連絡が来た。2人の遺族からの墓参りの許可が下りたとのことだった。

僕は、次の連休にヤツと一緒に墓参りに行くことにした。

42

新幹線で東京に向かい、東京駅で乗り換えて、バスケ部のキャプテンの墓の最寄り駅まで行った。駅前で墓前に供える花と線香を買うと、そこからは少し距離があるということで、タクシーを拾った。

霊園に着くと、盆や彼岸でもないのに、駐車場に人が大勢いた。

タクシーから降りると、ヤツがそこにいた集団に声をかけた。中学校の同級生や空手部のヤツらだった。

ヤツが僕に言った。

「お前、人気者だな。お前を連れて帰るって言ったら、こんなに集まったぞ!」

僕はみんなに向かって深く「ほんとにすまなかった、ごめんなさい」と言って深々と頭を下げた。

その中からスーツを着た痩せ型の男が一人出てきた。襟に弁護士バッジが付いている。野球部の1番ショートだった。

「なあ、腎臓を失くした腹いせに一発殴っていいか?」

もちろんと応えて、僕は頬を差し出した。ヤツは僕にビンタを食らわした。でも、大したことはなかった。

コイツは、クラス対抗ソフトボール大会ではクラスのエースピッチャーだった。この大会では野球やソフトボールをやっている人は本職のポジション以外につくというルールがあったので、野球で他のポジションをやっている人がピッチャーを務めることが多かった。

僕のクラスには他にも野球部がいたけど、コイツの球が一番だった。小学生の時には少年野球でエースだったということで、ソフトボールでもコントロールよく力強い球を投げ込み、上級生クラスでも野球かソフトボールの経験者でなければ打てなかったほどだ。

その時のことを思い出して、今の力のこもらない弱いビンタに、コイツから野球を選手として続けることを奪ってしまった、僕がしでかしたことの大きさを今更ながらに思い知らされるのだった。

「でもさ、俺は被害者の気持ちがわかる。被害者として弁護士活動ができる。それって、仕事ではアドバンテージになっててさ、ある意味、俺が今活躍できているのは、お前のおかげでもあるんだよな、悔しいし変な気持ちがするけど」

そう言って、僕の肩を軽く叩いた。僕は申し訳なさにうなだれた。

見たことがない女性がいた。ここで眠っているバスケ部のキャプテンの妹だという。

僕は土下座して頭を地面にこすりつけながら謝罪をした。

「私たち家族は本当に苦しみました。どうして、兄があのように亡くならなければいけなかったのか、理解できませんでした。あなたが兄に対して恨みがあったわけではない、誰でも良かった、そう言っていると聞いて、その誰でもがどうして兄でなければいけなかったのか……」

「でも、あなたが本当の悪人だったら、今日、こうしてお墓参りをしようという気持ちにもならなかったはずで……。どうぞ、兄に挨拶してください。」

そう言うと、墓前に案内してくれた。

墓石に刻んであるヤツの名前と戒名を僕はしみじみと見つめた。そして、花と水を供えて、線香に火をつけて線香台へ置いた。

手を合わせて僕は本当に何度も何度も、彼に対して謝罪の言葉を心の中で伝えた。本当に申し訳なかった。君の未来を勝手な思いで奪ってしまって、本当にごめんなさい。

僕は自分の気持ちが納得するまで目を閉じて手を合わせ続けた。

43

サッカー部の控えディフェンダーの墓は、多磨方面にあるということで、次の日に行くことにした。

その日の夜は居酒屋でみんなで集まった。僕はそんなつもりはなかったけれども、空手の師範代のヤツが他の人と相談していろいろと手配をしていた。

僕は酒は飲まなかったが、ウーロン茶やコーラを飲みながら、みんなといろいろな話をした。

少年院の話をしたり、それぞれの現在までの苦労話に花を咲かせた。

師範代のヤツは、僕の現在の名前や住んでいる具体的な場所は言わないでくれた。師範代のヤツの近所といえば、ある程度範囲は特定されてしまうが、それでもそこそこの人口がいる地方都市だ。そこから正確な住所を特定するのは難しいだろう。

元犯罪者が多い建設会社で出会う人々とは違い、みんな大学まで出て、社会的にそこそこの会社に勤めている。僕は、今の生活では聞くことができない話を聞けるのが楽しかった。

何人かが、連絡先を交換したいと言ってくれた。僕はどうしようか迷ったけれども、位置情報が特定されないSNSアプリのアカウントを教えた。アカウントの表示名は、下の名前だけにして、今の姓は知られないように気をつけた。

44

その夜は僕はビジネスホテルに泊まり、空手の師範代のヤツは実家に泊まった。翌朝、9時に駅で待ち合わせると、昨日集まった全員ではないが数人もいた。

電車でサッカー部の控えディフェンダーが眠る霊園の最寄り駅まで行き、そこから20分ほど歩くと霊園へ到着した。

昨日とは違い、遺族は来ていなかった。僕は昨日と同じように、花と水を供えて、線香に火をつけて線香台に置き、手を合わせて心の中で何度も詫びた。

その後、駅まで歩いて電車に乗り、東京駅に向かった。東京駅でみんなでランチを食べて別れを告げると、僕と空手の師範代は新幹線に乗って、今住んでいる街へ戻った。

それから、僕と妻にはいつもと変わらない日常が続いた。平日は毎日一緒に出勤してそれぞれの仕事をこなし、休日は2人で出掛けたり、家で映画を見たりしながら過ごした。

僕が東京へ墓参りに行ってから数カ月後、腎臓を摘出した今は弁護士の野球部の1番ショートから連絡があった。

45

弁護士として、少年犯罪の被害者支援を中心に活動している彼は、僕に少年犯罪の加害者としての生の声を聞かせて欲しいと言ってきた。

どうして犯罪を犯すに至ったのか、報道機関が取材して分析したり、心理学者や精神科医が公表されている情報から分析したものはあるけれども、少年犯罪ということで詳しい資料は公開されていないので限界がある。

今後、僕が起こしたような事件を起こさない社会を作るためにも、加害者側の声も必要だと感じているとのことだった。

僕は、妻や、今の会社で僕たちの事情を唯一知っている社長、前の会社の社長と女将さん、今でもカウンセリングに通っている大学病院の研究室に相談した。

みんな、僕の気持ち次第で、受けたければ受ければいいとのことだった。ただし、今の生活が壊れる可能性が大きいから匿名を条件で、ということにした方がいいと、誰もが強く言ってくれた。

僕は、空手の師範代のヤツにも、弁護士の一番ショートからこんな連絡があった、と伝えてみた。

すると、ヤツは、実は自分も考えていたことがある、と言った。

今、メディア界に身を置きながら、あの事件をあの場で目撃して、今、ここで僕と再会したことで、事件についてまとめて発表する義務が自分にあるのではないか、と語った。

関係者に取材をして書籍としてまとめたい。僕や、僕を少年院から引き受けた人、ずっと通っているというカウンセリングの担当者、それから遺族や被害者と彼らを支えてきた人、あの日、あの場にいた同級生や先生、とにかく話を聞ける人から徹底的に話を聞いてまとめたい、とのことだった。

これほどの重大事件で、加害者側からも被害者側からも、全方位で話を聞ける状況を作れる機会はおそらくないだろう。社会的にとても意義がある仕事だが、どうだろうか。

僕はこの話も周りに相談した。僕みたいな人間を1人でも救うことになるのなら、僕はこの話も承諾したいと思った。

ただ、空手道場では師範代と知り合いだということがバレているので、彼が僕のことを匿名で書いたとしても、もしかしたら特定されてしまう可能性が高い。

僕は前の会社でも名前も場所も特定されながら生きてきたから慣れているけれども、妻の過去の過ちまで掘り返される可能性がある。後ろ指を指されたくないと言ってこの街に来た妻の気持ちが大切だった。

それを師範代のヤツに伝えたところ、今から取材を始めても、仕事をしながら資料を集めたり、一人ひとり話を丁寧に聞いたりしていたら、何年もかかるだろう。発表できる形でまとめられる頃には、自分はもうこの街にはいないと思う。

この街で再会したことはもちろん伏せるし、特定できる形には絶対にしない、と約束してくれた。

それならと、僕は師範代のヤツの申し出を了承した。

46

それから、僕は野球部の1番ショートの弁護士からの依頼に応えるための手記をかき始めた。安いパソコンを購入して、原稿を書き、それを妻や今の会社の社長、前の会社の社長と女将さん、大学の研究室で読んでもらい、足りないところや修正するべきところを指摘してもらって直してから、弁護士のヤツに送った。

僕が書いた手記は話題になり、それから弁護士のヤツを通じて、原稿の依頼がちょくちょくやってくるようになった。

中には興味本位としか思えない依頼もあったけれども、真摯に少年犯罪について考えたい、というものについては匿名を条件にできる限り応じるようにした。

原稿料もときどき入ってきたが、僕はそれは全額、弁護士のヤツが立ち上げたという少年犯罪の被害者支援団体に寄付をした。

空手の師範代のヤツは、一緒に墓参りに行ってから1年半ほどこの街にいて、次の街へ転勤していった。ヤツは休みの日や仕事が終わったあとの時間を使って、まずは被害者から取材を始めたようだ。

2年ほどかけて取材に応じてくれた被害者からの話を聞き終わると、今度は僕に関わった人たちの取材を始めた。

僕は取材への協力を大学病院の研究室や、僕が居た少年院にもお願いした。僕を担当した医師やカウンセラー、少年院の教官も、僕からのお願いに、快諾してくれて、忌憚ない僕の当時の様子などを、プライバシーに踏み込みすぎない程度に語ってくれたようだ。

また、僕は資料やデータもできる限り開示して欲しいとお願いした。個人情報が特定されるギリギリまで開示してもらい、役立ててもらったほうが、この本を作る価値が上がると思ったからだ。

師範代のヤツは、メディアにいるものとしていろいろと凄惨な事件の取材もしてきたから、大抵のことにはショックを受けないつもりだったけど、研究室と少年院の教官から聞いたり資料に記されたりした、僕のすさまじい心理状態にはショックを受けて愕然としたと、後から僕に語ってくれた。

僕の子供時代は、やっぱり普通に生まれ育った他の人から見たら、あまりにも異様でショックを受けるようなことなんだ、僕は心の中に隙間風が吹くような寂しさを覚えた。

そんな僕を支えてくれるのは、相変わらず妻だった。僕の家を訪ねてきた師範代のヤツが帰ると、僕のそんな気持ちを理解したのか、優しく抱きしめてくれた。

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師範代のヤツが取材を始めてから、5年ほどしてようやく書籍として出版されることになった。取材自体は1年以上前に終わっていたが、膨大な資料とインタビューの文字起こしを、どうやってまとめたらいいのか、かなり苦戦したようだ。

本は紙の本と電子書籍として出版された。紙の本は分厚いハードカバーで上中下の3巻の大作だった。

内容は、時系列を時として崩しながら、僕の心理的な葛藤を中心にミステリー調に事件全体を描写していく、というものだった。

師範代のヤツが書いたまるで小説を読んでいるかのような、軽快で小気味良い文体は読みやすく、誰にでも親しみやすいものだった。

しかし、その読みやすい文章を書いている著者自身が事件の場にいた張本人であるという視点と、合間に挿入される関係者の生々しい証言から、真実味が増強され、僕が事件を起こすに至った親子関係と学校での葛藤が浮き彫りにされていく過程は、見事なものだった。

それでいて、約束通り、僕と再開した経緯などについては、空手道場の人が読んでもわからないようにぼかされていて、今の僕と妻の生活も十分に守られるものになっていた。

少年犯罪について分析した本や記事の中で、僕の事件について書いたものも多くあったが、僕からの依頼によって、教官やカウンセリングを行った医師やカウンセラーの話にまで踏み込んだものは当然なかった。

被害者と加害者の同級生で事件の目撃者でもあった著者が、被害者の心情に寄り添いながら、僕が犯罪に向かう心理状態を、具体的な資料を数多く参照しながら正確に描写したその本は、1つの重大事件をまさに事件の内側から全方位で記録したものだった。

この本の内容は世間に大きな衝撃を与えた。そして、精神的に困っている子どもを犯罪者にしない取り組みがなにか必要なのではないかという議論が起きるきっかけの一つになっていった。

その本は、外国でも何ヵ国語にも翻訳されて、日本だけでなく世界各国で、優れたノンフィクションに与えられる賞を数多く受賞した。

彼はノンフィクションライターとしての知名度を大きく上げた。

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その本の成功の結果、僕にも本の執筆依頼が来た。

犯罪者が自分の犯罪について書いた本で収益を得るのは倫理に反していると言われているけど、僕はまだ親戚に返済できていない賠償金に印税を充てても大丈夫か聞いた。

すでに事件から長い年月が経っていることと、自分自身のために使うのでなければ問題ないと言われた。

また周囲に相談した結果、僕はその話も引き受けることにした。

僕は、少年院や大学病院でのカウンセリングの記録を確認しながら、できるだけ丁寧に自分自身の生い立ちについて綴った。

退行催眠で感じた母親の冷たい感情、おもらしを助けてもらえなかったこと、子どもの頃から重苦しい食卓で食事を美味しいと思ったことがなかったこと、夢中でバタフライナイフやサンドバッグでの練習を繰り返していたときの心境、事件を決意したときの心持ち。

空手のヤツの取材でも表現しきれなかった、自分自身の正直な当時の気持ちをできる限り書いた。

また、少年院の教官や、退院したあとに出会った多くの理解者のお陰で、今は社会の片隅で一人の社会人として自立して生活できていることへの感謝もつづった。

最後は、僕のように親の愛情不足と学校などの周りの大人の無理解から、犯罪に走るような子どもが生まれない社会を作って欲しい、と締めくくった。

僕の本はヤツの本ほど売れなかったけれども、それでもある程度は話題になり、そこそこの印税が入ってきた。印税から税金を差し引いて、今までの積み立てと合計したら、返済するべき金額を十分に超える金額になった。

僕には空手のヤツの取材が始まった頃から、プライバシー保護のための代理人弁護士がついていた。弁護士のヤツが働いている弁護士事務所でチームを作って引き受けてくれたのだ。

僕は代理人弁護士を通じて、父方と母方の賠償金を肩代わりしてくれた親戚に、返済したい旨を伝えた。

母方の親戚からは、振込先の銀行の口座が知らされただけだった。僕は立替えてもらった金額に3割ほど足した金額を振り込んだ。

父方の叔父は、親の墓参りに来るように言ってくれた。僕は、父と母が亡くなってから、2人の葬式以来初めて、妻と墓参りに行くことにした。

墓参りの前に叔父の家、つまり父の実家を訪ねた。父の実家は東京の隣県の農家だったが、父は東京の大学に進学してそのまま就職したために、叔父が農業を継いだのだった。

叔父は昔のように厳しい事を言うことなく、家に招き入れてくれた。

僕の父と母は叔父の家で供養を続けてくれていた。仏壇には祖父母の位牌の他に、父と母の戒名が書かれた位牌もあった。

僕は仏壇に線香をあげて、4冊の本を捧げた。空手のヤツが書いた僕の事件についてのノンフィクション3巻と、僕が書いた本だ。ノンフィクションには著者のサインも入っている。

その後、僕は叔父に案内されて、叔父の家の近所の寺にある墓地に行った。墓に刻まれた父と母の名前と戒名を見ても、殺した2人の墓参りをしたときのような感慨は浮かんでこなかった。

それでも僕は花と水、線香を手向けて手を合わせてお参りをした。

「叔父さん、どうして父と母はあんなに僕に冷たかったんでしょうか。」

「さあな、俺にもわからない。でも、お前が事件を起こして、兄貴が死ぬ前にここに来て、俺がもっと子育てに関わっていれば、あの子の気持ちをちゃんと聞いてやっていれば、って泣いていたぞ。」

「自分たちが死んでも賠償金が足りないってわからなかったんでしょうか?」

「それもわからない。何もそれは相談せずに死んじまったから。ただ、金策をどうしようか、とっても焦っていたから、本当に金のことだけ考えて死んだのではないかと、俺は思っている。」

「まあ、相談してもらえたら、ちょうど開発のために農地を高額で売却してくれないかって話が来ていた頃だったから、どうにかできたとは思うけど。立て替えもそれで払ったんだ。どうして賠償金について相談してくれなかったのか、俺にも不思議なんだよ。」

「お前の母親の心持ちはわからないけれども、少なくとも兄貴は、お前が本で書いていたほど、お前について冷淡な気持ちだけを持っていたわけではないと思うよ。ただ、仕事が忙しすぎて、自分の奥さんがそういう人間だったって見抜けなかったみたいだ。」

「お前が事件を起こしてから、警察や家庭裁判所で何度も聴取をされて、奥さんの人間性のヤバさに初めて気がついたみたいだ。俺たちも全く気が付かなかったから、その点はお前に対して申し訳ないと思っている。」

叔父の謝罪の言葉に胸の奥が締め付けられるような苦しさを感じた。

僕は妻と一緒に今日の礼を述べて、その場を後にして、自分たちが暮らす街へと戻っていった。

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それからも、手記や出版の依頼などが来たけれども、僕は全部伝えるべきことは今までの手記と本で書ききったからと、その後は断るようにした。

どうしても、と言われたときには話を持ってくる弁護士のヤツと空手のヤツに、今までの手記や本から適当に書いて出しておいてくれ、と頼むようにした。原稿料はそっちで納めていいからと。

僕は自分が書いた手記と本で、自分が犯罪を起こすに至った経緯はすべて世間に対してさらけ出したつもりだった。また、賠償金も全額返済できたことで、事件に対しては一区切りつけようと考えた。

もちろん、年に1回の墓参と遺族や被害者への謝罪の手紙はこれからも続けていく。ただ、被害者への贖罪を続けることと、自分をいくら匿名だとはいえ世間に晒し続けることは違うと思った。

会社でも、僕が執筆などで仕事に集中しなくなったことで、他の社員たちから不満の声が上がり始めていた。僕があの事件の犯人だということは、ここでは社長以外は誰も知らない。

僕が書いた本はその後も売れ続けていたけれども、印税は税理士にお願いして、税務処理をしたあとで弁護士のヤツが運営している少年犯罪の被害者支援団体に全額寄付してもらうようにしていた。

僕には妻と一緒に建設会社で働く給料だけで十分だった。

その後は、妻と一緒に仕事に専念するようにした。僕たちは会社の寮の運営も手伝うようになった。多くの寮生の食事作りを手伝い、時に起こるトラブルの相談に乗り、そして夜にはアパートに帰って2人の時間を楽しむ。

そんな生活に充実感を感じていた。僕たち夫婦は子どもは持たないけれども、寮にいる若い子たちが自分たちの子どものようなものだった。

寮には数ヶ月に1人、刑務所や少年院を出所してきた人が入社してくる。前の会社と同じように3人に1人が1ヶ月後に、半分は1年後には消えていた。

でも、それでもいいんだ。彼らが自分で選んだ場所で生きていてくれさえすれば。この会社の社長も、前の会社の社長と同じことを言っていた。

僕も、だんだんとその社長たちの気持ちがわかるようになった。僕が殺したヤツらには未来がない。でも、生きているヤツらはそれなりに生きて、活躍しているじゃないか。

生きていることが限りなく尊い。

今日も寮から脱走したヤツがいた。刑務所でも脱走癖があったと言う。脱走しても、ある程度たって困ると何食わぬ顔をして帰ってきたらしい。うちの寮での脱走は初めてだった。お腹が空いたら帰ってくるかもしれない、と社長が言っていた。

僕と妻は、その夜も寮の夕食の後片付けを終えた後に自宅に向かって歩いていた。寒くなってきたこの季節、脱走したヤツがせめて野垂れ死にしないで無事でいてくれよ、と遠くに見える月に向かって2人で願っていると、僕たちが向かう方向に立っている人影が見えた。

今日、脱走したヤツだ。

僕はそいつの肩を叩いて「どうした?」と声をかけた。そいつはちょっと気まずそうな顔をして「腹が減りました」と答えた。

僕は妻がアパートの部屋に入るのを見届けてから、そいつを連れて寮へ戻った。食堂で炊飯ジャーに残っていたご飯と、鍋に残っていた味噌汁、冷蔵庫に残っていたおかずを適当に温めて出してやった。

夢中で食事を口にかきこむその姿を見ながら、僕は「脱走ってそんなに楽しいか?」と聞いてみた。

「楽しくはないですけど、なんとなく、逃げたくなっちゃうんですよ。どうしたらいいですか?」なんて答える。

物音で食堂に出てきた社長と顔を見合わせながら、僕は思わず笑った。

そうだ、大学病院の研究室に相談してみようか。僕は思いついた。もうカウンセリングには通っていなかったけれども、ときどき僕の話を聞きたいと精神科医や臨床心理士から連絡が来ることが今でもあった。明日にでも電話して、コイツの脱走癖を治す方法がないか聞いてみよう。

生きているって面白い。こんなヤツもいるから面白い。

やっぱり生きているだけで限りなく尊い。

そして、僕は僕が奪った命の重さ、傷つけた人たちの人生の重さも心の中でずっと背負って、命が尽きるまで生きていくのだ。

作者あとがき

最後までお読みいただきましてありがとうございました。この小説を書いたきっかけとなった出来事をこちらの記事で綴っています。ぜひこちらもお読みください。


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