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事件を起こす前の死刑囚に睨まれたかもしれない話

もう成人した息子が、まだまだ小学校に上がる年齢にはならない、とても幼かった頃のこと。

街で息子と遊んでいたら、その後、死刑判決を下されることになる重大事件を起こした犯人に睨まれたかもしれない、って話を書いてみようと思う。

あまり具体的な様子を書くと、事件から場所が特定されてしまいそうで怖いので、適当にぼかしながら書くが、その日、私は息子を連れて街なかで遊んでいた。

遊んでいた場所は、公園とか遊園地とか、ショッピングモールの子どもの遊び場とかゲームコーナーとか、そんな感じの場所だ。

大声で怒鳴るようなことをしていたら迷惑を掛けるだろうが、「ヤッター!」「気をつけて!」「あーあ!負けちゃった!」「よし、もっと頑張ろう!」、こんな感じである程度の声をキャッキャと張り上げて遊んでいても、それほどおかしいとも思われないだろう場所だった。

私は息子と楽しんでいたので、ある程度の声は上げたり笑ったりしていたが、場所柄、周りに迷惑を掛けるほどの大声を上げていた覚えもない。

ただ、平日の昼間で遊んでいる人は少なかった。たまたま私も息子も休みだったので、外に遊びに出掛けたのだ。親子連れは私達母子しかいない。

向こう側に、フリーターと思われる若い男性の集団がいた。ちょっと近寄りがたい雰囲気もあったけれども、街なかのある意味で公共の場だ。平日の昼間で閑散としているとはいえ、他にも数人、遊んでいる人やスタッフの姿もある。

私は若い男性の集団のことはあまり気にしないようにしながら子どもと遊んでいた。

ふと気がつくと、その集団の中の1人がものすごい形相で私達母子のことを睨みつけている。

ついつい子どもとはしゃぎすぎたときに「ちょっとは周りを考えろ」って感じで睨まれることはよくあった。しかし、そんな感じの睨み方じゃない。

その集団と私と息子の間には数十メートルの距離があった。物理的にその集団に迷惑を掛けるようなことはないはずだ。

しかし、その若者は私達の方に身体を真正面に向けて、顔を少し下に向けて上目遣いで睨みつけている。

その異様としか言いようがない視線からは、とてつもなく暗くどす黒い怨念が放たれているような気がして、私は背筋がゾッとするのを感じた。

このままここにいたら、息子に何か危害を加えられるのではないかと心配になるほど、強い「何か」を感じる視線だったのだ。私はまだ遊びたいという息子の手を引いて急いでその場を後にした。

そこから離れるときも、後ろから追いかけてきて背中を刺されるのではないかと不安になったほど、その視線には普通ではない「何か」を感じた。

駐車場へ向かい、車のドアを開けて、息子をチャイルドシートに乗せてベルトを締めている間も、後ろがとにかく気になっていた。人気のない立体駐車場だった。当時も監視カメラはついていただろうが、白黒で画質も荒く、現在のものほど映像の精度は良くない。

何かあったらどうしよう、本当に、ほんの少しだけ目にした彼の視線から、そこまで思わず考えてしまうほどの強い恐怖心を私は感じていた。

幸いなことに、駐車場まで追いかけられるようなことはなかったが、車を発進させることができたときには心の底からホッとした。

それから1年半か2年ほどして、近所で後に死刑判決が下る凄惨な事件が起きた。

テレビに容疑者の顔写真が映された時、私の背筋はゾッとした。あの時、私達母子を睨みつけてきた若者ではないかと。

確信はない。睨みつけてきた若者の顔を正確に覚えているかと言われたら自信はない。でも、私の直感は、事件の犯人はあのときの彼だと告げていた。

後に、彼の事件を起こした背景としての成育歴が明らかになったことで、あの日、母と幼い息子が楽しそうに遊んでいる光景が、彼の心の闇をかき乱したかもしれない、という可能性を考えるようになった。

その凶悪事件の遠因の一つが、犯人に対する両親からの愛情不足だと思われることがわかってきたからだ。

その犯人には父親も母親もいる。世間的に見たら父親は立派な職に就いていて、母親はパートはしていたかもしれないが専業主婦だ。表面的には全く普通の、どこにでもあるような家庭だった。

しかし、事件後に明らかにされたその家庭の内実は、子どもに対する愛情の欠片もない、冷え切って荒涼としたものだったのだ。

犯人にとっては、経済的には全く問題がない家庭で、衣食住という物理的庇護は何の問題もなく幼少期から与えられていたようだが、心理的な面での愛情は全くかけられていなかったようだった。

幼い子どもにとっては、物理的な庇護に加えて、心理的な部分の親の愛情という庇護がなければやはり健全に育つのは難しいだろう。

もしも、あの日、私達母子を睨みつけてきたのが、事件の犯人だったとしたら?

あの時、私が息子と一緒に楽しんで遊びながら、注いでいるように見えた「母親の愛情」は、おそらく彼が幼い頃から欲しくて欲しくて渇望していたものだっただろうと推測できる。

彼の親はすぐそばにいる。しかし、愛情は全くかけてもらえない。親から思いやりのある言葉をかけてもらったり励まされたり、困っているときに支えてくれたりといったことはない。

それどころか家族でのイベントもない。どこか自分が邪険にされているような感じさえある。

周りの同級生や、その日一緒に遊んでいた友達の多くも、当たり前に受け取っていただろう親からの愛情、それをおそらく彼は全く受けることができなかった。

そんな彼の目の前に、若い母親に手を引かれながら、楽しそうにキャッキャと遊ぶ幼い男の子の姿があったのだ。

それを目の前で無邪気に見せつけられたときに、彼の心の中に渦巻いた怒りはどれほどのものだっだろうか?

私は想像したくはなかったが、ついつい想像を巡らせてしまった。

近所で起きた凄惨な事件に対して、まだ幼い子どもを持つ母親として、私には強い恐怖感があった。

しかし、一方で、私自身も親から心情的な愛情をかけられた覚えはなく、どこかでその彼の心情に共感してしまう部分もあった。

子どもの頃から親に寂しいとか、困ったときに相談できずに困った覚えがたくさんあり、彼の気持ちに共感したくなったのだ。

睨むほどではなかったが、私自身、大学進学で実家を離れたときの長期休暇で、一人ぽつんと大学へ戻る実家の最寄り駅で、改札の手前まで家族が見送りに来ている同学年の子を見て、怒りに似た感情を抱いたことを覚えている。

あんた、そんなに今生の別れみたいな顔しているけど、あんたの大学、ここから特急で直通の1時間半程度のすぐそこじゃん。私はそこから何回も乗り換えて、その3倍くらい時間がかかる遠くの大学で、親なんかわざわざ改札まで見送りにも来ないんだぞ!なんて、無意味な怒りと寂しさを感じていた。

私の実家も、犯人の家庭ほど殺伐としたものではなかったが、何かあると私が責められ、お手伝いをしても良い点数をとっても、両親からは褒められたことはなく、母親からは心に突き刺さる嫌味しか飛んでこない。

大学生のときに、よく私は「死にたい」と口にしていたらしい。「あなたは自殺願望があるの?」と聞かれて「Yes」と答えたら、「何で?自分が死んだら家族が悲しむと思わないの?」と問いかけられた。

いやいや、その家族が私が死にたくなる理由だって言うの。「悲しむ家族のために自殺しない」っていう意味が全く理解できなかった。私の家族なら、悲しむふりをしながら、自分が悲劇の主人公になるための道具にするだけだろう。心底悲しんでくれるとは思えなかった。

でも、そんな事を言ってもわかってもらえるわけはなさそうだ。私は口をつぐんだ。

正直なところ、「親の愛情」ってものは自分が親になるまで感じたことはなかった。自分が親になっても、自分が子どもに注ぐべき愛情についてはわかっても、親からもらった愛情についてはよくわからない。

だから、犯人の生い立ちに心のどこかで共感してしまい、もちろん私は事件を起こそうとは思わないが、凄惨な事件を起こしてしまったその背景が理解できるような気がしたのだ。

事件が起きて、私は近所で起きた事件だということもあり、テレビや新聞での報道を注意深く追いかけた。

しかし、いくらニュースを追いかけても、家庭の様子などを詳細に報じることはあっても、そこからどうして彼が凄惨な犯罪を実行するに至ったのか、そこを深掘りする報道はほとんど見かけなかった。

その後、心理学者が書いた本や、専門家によるネットの考察記事も読んでみたが、どうすれば、そのような犯罪者を生み出さない社会を作り出せるのか、といったことに踏み込んだ話が一切出てこないことに、私は大きな違和感を感じていた。

その後も、さまざまな事件のニュースを目にするたびに、事件の遠因として、犯人たちの子どもの頃から見えていた何らかの問題があると考えられるものが多いように思う。

子どもの頃から事件の犯人たちが困っていたこと、例えば発達障害の疑いや、周囲の大人からの愛情不足や無理解からの情緒不安定、生来のサイコパス傾向といったものに、対処することができなかったのかと考えることがある。

日本では生まれた直後からさまざまな乳幼児検診がある。また、小学校に入れば義務教育の9年間は、どんな子であっても、経済状況や家庭状況に関わらず全国津々浦々、小学校と中学校で子どもの様子を観察できる機会を得られるだろう。

乳幼児検診や義務教育の過程で、心理テストなどを繰り返して行い、親からの愛情を受けることができずに心理面で重大なリスクを抱えている子や、遺伝子レベルでサイコパス傾向がある子、機能不全家族でちゃんとした養育を受けられない子などを見つけて、必要に応じた支援を与えることはできないものだろうか。

早期に将来的な犯罪リスクや、子供時代の生育状況が原因となる問題が生じそうな可能性のある子どもを見つけて、カウンセリングの実施や、必要に応じた医療的な処置、本当に必要であれば早めに親から引き離す、といった対処ができれば、悲惨な事件の発生や精神疾患はもっと減らせるのではないかと思う。

今では年齢を重ねて若い頃ほどではなくなったが、私自身、若い頃はとても社会に対して反発していたことがあった。

もちろん、私自身、変な事件を起こすつもりは若い頃からなかったが、その反発心や親からの愛情を受け取れなかったことによる寂しさ、精神的な不安定さというものが拡大してしまうと、凄惨な事件を起こす犯人のようになってしまうような気もする。

世の中には、そこに至らないまでも、私のようにとんでもない事件の犯人に思わず共感してしまう心の闇を抱えている人間もいることをぜひ心に留めていただき、このような子どもを一人でも今後の日本社会から減らしていくための方法を、社会全体で考えてもらえたら、将来的にもっと良い日本にできるのではないかと強く思う。

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