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【小説】それでも時間は流れて空はどこまでも続いている

作:雪森由紀仁

作者まえがき

作中に出てくる登場人物や会社、設定はすべて架空のものです。同名の人物や団体が存在していても、本作品とは一切関係ありません。

本作品にはショッキングな描写がありますが、このような事態や登場人物の行動を作者として肯定するものではありません。また、作者としてショッキングな場面のような事態を読者が起こすことを助長する意図は一切ありません。

医療、保険、法律に関する部分は作者の想像で書いている部分が多々あります。描写や解説が間違えている部分があれば、コメントなどでご指摘いただましたら、内容を確認の上修正します。

本文ここから===========

あらすじ

武井家、村田家、山田家、それぞれの家庭でごくごく普通の幸せな生活が続いていた。山田家の夫の兄である山田晋也は、元上司であった村田家の村田茂からの強烈なパワハラによって仕事を退職し、現在は派遣社員として働いている。

ある日のこと、新しい現場に山田晋也が向かっていると、集団登校をする小学生の列に元上司の村田茂の長女と登校に付き添う妻の姿を見つけた。毎日、通勤途中で幸せそうな村田家の姿を見かけるうちに、山田晋也の心の中にはドス黒いモノが広がっていき、そして重大な決断を下すのだった。

そして、その結果は2人の間のパワハラには関係ない武井家や、山田晋也の弟の家にも大きな影響を与えるのであった。

【小説】それでも時間は流れて空はどこまでも続いている

Ⅰ:当日までの出来事

普通の朝だった

朝6時。武井準郎はまくらの振動で目を覚ました。しばらく前から、遮光カーテンの隙間から溢れる陽の光を感じながらうつらうつらしていたが、朝6時の合図とともに目をしっかりと開ける。

ベッドの隣で寝ている妻の麻由子を起こさないように静かに起きて寝室を出てキッチンへ入る。数日分作り置きしてある味噌汁の鍋を火にかけて、洗面台で顔を洗いひげを剃る。

冷蔵庫からソーセージと卵、昨夜作っておいたサラダを取り出して調理する。

ちょうど、朝食をテーブルに並べ終わった頃、娘たちの部屋から6時半の目覚ましが聞こえる。ご飯と味噌汁を分けて待っていたら小2の知沙が起きてきた。今日は好きな図工の授業があるからだろうか。いつもよりも寝起きが良い。お絵描きが好きで、絵を描く授業のときはワクワクするようだ。

小5の佐江は起きてくる気配がない。昨夜、ミニバスケの練習があったから疲れているのかもしれない。

娘たちの部屋へ行き佐江を起こす。声をかけても起きないので、ちょっと強く方をゆすぶって起こす。「まだ寝かせて」といって反対側へ寝返りを打ってしまう。「もうすぐ7時になるよ、早く起きなよ」と声をかけると渋々身体を起こす。

2人とも顔を洗ってテーブルにつくと、起きたてとは思えない見事な食べっぷりで朝食を平らげていく。子どもたちと朝食を食べていると妻も起きてきて、自分でご飯と味噌汁を分けて食べ始める。

「パパ、今日、ケーキの注文に行くんでしょう?普通のいちごの誕生日ケーキじゃないからね、フルーツタルトのホールにしてよ。私、生クリーム苦手になっちゃったんだから。」

「わかったよ」

「フルーツタルトが注文できなかったら、ブルーベーリタルトかいちごタルト」

佐江の言葉に苦笑しながら返事をする。小さい頃は生クリームも平気で食べていたが、なぜか最近、しつこい感じの食べ物が苦手になったそうで、ケーキはフルーツ系やレアチーズ系のものを好むようになってきた。

準郎も、中学生くらいの頃、脂っこいものが苦手になった時期があった。体質が似ているのだろう。娘の成長が嬉しい反面、大人に近づいていくことに一抹の寂しさが胸をよぎる。

1週間後の佐江の誕生日のためのケーキを、今日の会社帰りに駅前のおいしいケーキ屋さんに注文しに行くことにしていた。

「今夜のご飯は、この前作ったカレーが冷凍してあるから、それを解凍してね。サラダは出勤前に作っておく。今日は何時になるかわからないから、かなり遅くなるかも」

麻由子が言う。

「今日の手術って、そんなに大変なの?」

「個人情報だから、あんまり詳しくは話せないけどね、下手したら10時間かかってもおかしくない大手術だってことは間違いないかな。9時に出勤して、準備をしたら10時頃から始まって、10時間なら終わるのは午後8時でもおかしくないね。それから片付けて退勤だから、何時になるか想像できない。開けてから状態がひどすぎると、手を付けないで塞いじゃうこともあるから、どうなるか全くわからないけど。」

麻由子は、隣の市にあるこのあたりでは一番大きな病院の看護師だ。手術室担当で優秀なのだそうだ。大事な場面では、彼女を指名するドクターも多いという。

大きな手術のある日は、手術が終わる時間が読めないので、退勤時間が何時になるのか検討がつかないこともある。そんなときの夕食は大抵、前もって作り置きしたカレーかシチュー、突発的に帰れないときには、念のためにストックしてある冷凍チャーハンってことも珍しくない。

共働きのこの家では、朝食を準郎が担当し、夕食は麻由子が基本的に担当している。

朝食を食べ終えて、洗い物は麻由子に任せて、準郎と子どもたちは身支度をする。歯を磨き、着替えを済ませたら、子どもたちと一緒に玄関を出る。

家から少し歩くと、地区ごとの集団登校の集合場所だ。「美久ちゃーん!」と、知沙が走り出す。近所で同学年でよく遊んでくれる子だ。

「おはようございます。」

村田美久のお母さんがそこにいた。お腹が大きい。妊娠7ヶ月だそうだ。

「今日も付き添っていただけるんですか?いつもすみません」

準郎は軽く頭を下げる。

「出産前は歩かなくちゃいけないですからね、ちょうどいいんです」

美久ちゃんのお母さんは笑顔でそう言った。

最近、不審者が近所に出るようになったということで、可能であれば保護者の付き添いをしてほしいという学校からのお知らせがあった。武井家は2人ともフルタイムで働いているので登下校の付き添いは無理なので、こういう人が近所にいてくださるのは本当に助かる。

「でも、出産直前や直後は無理ですよ」

ちょっと釘を刺された。その時はその時だ。

準郎は軽く会釈してその場を離れて、近くの交差点に黄色い旗を持って立つ。小学校の立哨当番だ。信号はあるが幹線道路で、朝の通勤時間帯は交通量が多い。いろいろとPTAで朝の立哨当番ができない人がいると問題になったりするが、交通量の多い道路を見ていると、大人が誰か見守っていないと不安だと感じる。

準郎が子供たちが渡り始める側へ立ち、横断歩道の反対側に近所のボランティアの方が立つ。信号が変わると子どもたちを横断させて、無事に向こう側へ渡り切るのを見守る。

準郎の家は学区の端っこなので、そこを渡るのは3グループしかない。3つのグループが渡りきったのを確認したら、交差点の近くの次の当番さんの家の玄関ノブに旗の入った袋をかけて駅に向かう。

すぐに会社に向かわなければいけないので、挨拶なしで届けることは先方も了承済みだ。

会社には、今日は立哨当番で少し出勤がいつもよりも遅くなると同僚には伝えてある。1時間ほど電車に揺られて、9時前に会社につく。出勤は遅くなったが、今日は妻が遅くなるので残業はできない。

会社はフレックス制で、コアタイムの午前10時から午後3時まで会社にいれば後は自由にしていい。1日8時間勤務が基本だが、週40時間で調整する事も可能だ。準郎は今日は麻由子の帰りが遅くなることを見越して昨日と一昨日、少し残業したから、今日は7時間でも調整が効く。1時間の休憩を挟んで、17時に退勤してもOKだ。

でも、今日やるべき仕事の量は7時間では終わりそうもない。デスクについてから、今日やるべき仕事を確認して、遅くとも18時に会社を出るにはどうしたらいいか、仕事の段取りを考える。可能なら17時、できれば17時半には終わらせたいものだ。

18時に会社を出ると家につくのは19時過ぎになる。今日はケーキ屋に寄っていくからもう少し遅くなるだろう。知沙は学童保育に入れる学年だが、お姉ちゃんと一緒がいいというのと、時間までにお迎えに行けるか妻も自分も微妙なので、佐江に任せて一緒に遊んでもらっている。

佐江がしっかりしているから安心だが、あまり子どもたちだけで遅くまで家にいさせる訳にはいかない。仕事は段取り良く片付けていき、できるだけ早く会社を出たい、そう思って準郎は仕事を始めた。

今日もいつもの1日が始まるはずだった。しかし、この日はいつもと違う1日になるとは、このときまでは全く予想もしていなかった。

平和な日常の終わり

武井準郎は、その日の仕事の段取りを終えると、早速仕事に取り掛かった。フロアでは毎時間流れるニュースで世間の状況を確認しやすいからと、NHK総合テレビが流しっぱなしになっている。

午前9時のニュースが始まったときだ。

「本日、午前8時前に、▲▲県○○市××小学校付近で、登校中の児童の列に自動車が突っ込む事故がありました。多数のけが人が出ている模様です。」

武井準郎は耳を疑った。××小学校って、娘たちが通っている小学校じゃないか。事故現場を映しているテレビには、見慣れた小学校近くの風景と、その向こう側に娘たちが通っている小学校が映っていた。

入学式や運動会など、行事のときは準郎もこの道を歩いて小学校へ向かっていたので、たしかに見覚えのある風景だ。

上司の机の電話が鳴った。

「武井くん、外線、3番」

武井準郎はデスクの上の電話を取り外線ボタンと3を押した。部署と名前を告げると総合受付が「××小学校からです」と伝える。

「××小学校の教頭、山中です。武井佐江さんのお父さんですか?今朝、登校中の児童の列に車が突っ込む事故がありまして、佐江さんが病院に搬送されました。治療で保護者の同意が必要だということなので、すぐに今からお伝えする電話番号へご連絡ください。○○市民病院の救急へ直通だとのことです。」

武井準郎はスーツの内ポケットからスマホを取り出すと、メモした電話番号を押して廊下に出た。呼び出し音が数度鳴ってから相手が電話に出る。

「武井佐江の父です」

そう告げると、ドクターに変わり、怪我の状態の説明や治療などが伝えられる。え?なんで?足の切断?そんなバカな!もうすぐバスケの試合だぞ!はじめてのレギュラーだぞ!

肩の骨折と頭を強打した可能性も告げられたが、まずは足の処置が先だという。

「輸血が必要になる可能性が高いのですが、輸血の血液には未知の感染症のウイルスや、検査をすり抜けたウイルスがいる恐れがあり……」

医学用語を並べ立てられたが、頭が回らない。思わず電話に向かって叫んでいた。

「もう、全て許可するので、最善の治療を全て行ってください。全ておまかせします!娘を、佐江を助けてください!」

フロア中の視線が瞬時にこちらに刺さった。でも構わない。子どもの命のほうが大切だ。

電話を切ると上司の元へ行く。上司も察したようで、「後は、こっちで差配しておくから、すぐに行け」と言ってくれた。

デスクで荷物をまとめていたら、隣の席の山下が「必要なことは全部やっておきますから、武井さんのPC、触っていいですか?必要なときに資料や書類が出せるように、ロックパス、解除しておくか教えてください。あと、今日中に終わらせるべきことだけリスト化しておいてください」と言ってきた。

入社3年目の後輩、武井準郎が育てた新人。いつの間にこんなに逞しくなったんだ。武井準郎は自分のPCのロックパスワードとやるべきリストをメモして山下に渡すと会社を後にした。

いつもは普通電車で通勤しているが、駅についたときにちょうど特急が停まった。自宅の最寄り駅も特急が止まる。後先考えずに飛び乗り、乗車後に特急料金を精算した。

電車の中で電話がなった。登録されていない電話番号だ。

「××小学校の伊藤です。知沙さんが、お父さんもお母さんもまだ来ないってちょっと不安になっているので、知沙さんのランドセルに書いてあった緊急連絡先を見て電話しました。今、知沙さんに代わります。」

電話から知沙の声が聞こえた。

「パパ」

「知沙か、大丈夫か?」

「お姉ちゃんが、足がブランとして、変になって、切るって……、美久ちゃんのママとお姉ちゃんが、車に潰されて……」

そこまで言うと、知沙は大声で泣き始めた。電話がまた先生に代わる。

「知沙さんはかすり傷程度で大丈夫なんですが、佐江さんが重症で。命はなんとか助かりそうですが、足の切断は免れないそうで……。仲のいい村田美久さんも大丈夫なんですが、村田さんの上のお子さんとお母さんが残念なことに……」

武井準郎は学校の先生との電話を切るとドーっとした疲れを身体中に感じた。村田さんの家は家族がとても仲が良くて、天気のいい連休なんかはよく家の庭でバーベキューとかしていた。上の子は学年が違うからか、それほど仲がいい感じではなかったが、下同士は同学年で、幼稚園も一緒だったから小さい頃からよく遊んでいた。

だから、我が家もバーベキューによく招かれていたな。武井準郎は朝の村田さんの奥さんとの会話も思い出しながら、なんとも言えない感情が胸に湧き上がってくるのをどうしようもできないでいた。

自宅の最寄り駅につくと、タクシーで病院へ行く。病院の玄関を入ると、「××小学校関係者はこちら」と書いた紙が垂らしてある机が片隅にあった。その机に向かって名前を言うと、学校で顔を見たことがある先生が知沙が座っているところへ案内してくれた。

泣きつかれたような顔をした知沙の隣に座り小さい身体を抱きしめていると、学校の先生がやってきた。

「お母さんは来られませんか?」

「妻は、隣の市の総合病院の看護師で、今日は10時間かかる大手術のスタッフとして入っているんです。」

手術に入るときには患者優先だ。手術室担当になったときによく言われた。家族の死に目にも会えないかもって。そのときにはまさか、親の死に目に会えない事はあっても、子どもがこうなるとは思わないだろう。代わってくれる看護師が見つかれば帰れるが、果たして誰かいるだろうか。

「何でだよ、何でだよ!」

突然、待合室の片隅で大声が上がった。村田さんだ。奥さんと長女が亡くなったという。母体が駄目なら、お腹の子も難しいだろう。椅子に座り込み、頭を抱えて号泣している。その横で美久ちゃんが不安そうに泣きつかれた顔でお父さんの腕にしがみついているのを、武井準郎は待合室の少し離れた場所からただただ眺めるしかなかった。

真の絶望

村田茂は病院の待合室で頭を抱えて座り込んだ。そして、周りに人がいるにも構わず叫んでしまった。

「何でだよ、何でだよ!」

今朝、いつも通りに2人の娘と妻の百合が家を出るのを見送った。娘たちが家を出るのは7時15分頃。村田茂の会社は、朝の通勤ラッシュの時間帯でも15分ほどで着く。8時半の始業時間までに8時過ぎに出れば十分だった。

学校までは子どもたちの足で30分以上かかる。往復で1時間だ。出産前のウォーキングがてらと言って登校に付きそう妻と子どもたちを見送ると、村田茂は食後のコーヒーをすすりながらテレビの朝のニュースバラエティを見ていた。

8時ちょっと前、なんだか外がいつもより騒がしいのに気が付いた。救急車と消防車、パトカーがサイレンを鳴らして何台も走っている。なんか大きな事故でもあったのか?そう思いながらも、出勤するための身支度を整えていたら、自宅の電話がなった。

小学校からだ。娘たちの登校の列に車が突っ込んで、妻と長女の美咲が救急車で運ばれたという。急いで病院へ行くように言われた。

会社に電話をしてから急いで車で家を出る。病院に着くと、総合受付でどこに行けばいいのか聞いた。救急の場所を教えてもらいそこへいく。

救急室に出入りをしている看護師に名前を告げると、しばらく待合室で待つように言われた。なかなか呼ばれない。どうなっているんだ、2人の容態は?美久は一緒だったよな?どうだろうか?

そう思っていると、かなり長い時間たってから次女の美久が救急室から看護師と学校で見たことがある先生に付き添われて出てきた。

「パパ!」

それだけ言うと、美久は父親にしがみついて号泣し始めた。どういうことだ?村田茂は看護師と先生の顔を怪訝な表情で見上げた。

「残念ながら、お二人とも……。美久さんはかすり傷だけですんだのですが。」

学校の先生がとても言いにくそうにそれだけ口にして目を伏せる。

え?どういうことだ?

看護師の顔を見ると、「今、ドクターから説明があります」といって救急室の中に入ってしまった。学校の先生も「失礼します」といってその場を立ち去った。

待合室で、何がなんだかわからないままに、村田茂は美久とともに取り残された。美久は泣きじゃくったままだ。

しばらくすると名前を呼ばれた。同時に、学校の先生がやってきて、美久を見ていてくれるという。村田茂は一人で救急室の中に入った。

カーテンが閉じられたベッドの脇に通された。2つのベッドが並んでいる。顔には白い布がかけられている。

「とても残念ですが、お二人とも即死でした。お腹の赤ちゃんも無理でした。」

ドクターが表情を変えずに言う。

「車とブロック塀の間に挟まれてしまい、しかもぶつかってからもアクセルが踏みっぱなしになっていたようで……。内臓破裂による出血多量が死亡原因だと思われます。」

ドクターと看護師がその後もいろいろなことを村田茂に告げていたが、もう言葉は全く頭に入ってこなかった。ええ?2人も即死?腹の子も?2人、いや、3人とも、死んじまったのか?オレ、美久と2人だけになっちまったのか?え?どうして?

救急室から出るように促された。美久のもとへ行き腰を掛けると思わず叫んでいた。

「何でだよ、何でだよ!」

何で、百合が死んじまうんだよ、何で美咲が死んじまうんだよ、何で腹の子まで死んじまうんだよ。

半年ほど前、しばらく体調が悪かった百合から突然3人目を妊娠したと告げられた。もう子どもは2人でいいと思って気をつけてはいたが、ちょっとしたうれしい失敗があったようだ。経済的にやっていけないわけじゃない。もう1人くらいはなんとかなる。

数年前、ちょっと部下をいじめすぎてうつ病に追い込んじまったことがあった。行き過ぎたパワハラってことで減給処分をくらったことがある。まあ、オレもちょっとやりすぎたかな、って思ったから戻ってきたら普通に接しようと思ったら、結局そいつは療養から復帰しないで退職しちまった。

うちのレベルの会社では優秀で貴重な有名大卒を退職に追い込んだってことだったが、親戚のコネで入った身内の会社だ。ちょっとした減給処分で、部下のいない名ばかり管理職には止め置いてくれた。

だから、百合も小遣い稼ぎ程度の内職はしていたようだが専業主婦にしておいてやれたし、娘たちにもやりたいという習い事は普通にさせてやっていた。

大きな幸せ、っていうのはないけれども、オレレベルの一般庶民的な普通の幸せっていうのは、うちのような家族のことを言うんじゃないのか?

それなのに、どうして、こんな不幸な目に合わなきゃいけないんだ!オレのいったい何が悪かったっていうんだ!

隣で村田茂の腕にしがみついている美久を抱きしめた。村田茂父子は人目を憚ってか、大声は出さなかったものの抱き合ったまま泣き始めた。2人とも、止まらない涙をどうすることもできなかった。

「村田茂さんですね」

しばらくすると声をかけられた。顔を上げると制服を着た警察官が立っている。

「ちょっとお話をお聞きしたいのですがよろしいですか?お子さんはこちらの警官が見ていますので」

そう言うと、丸顔だがちょっときつそうな雰囲気をまとった女性警官が美久に声をかけて隣りに座った。

促されるまま立つと、病院の受付の奥にいくつか並んでいる「相談室」という札のある部屋の一つに案内された。警察が病院に頼んで空けてもらったらしい。

「この度はご愁傷さまでした。」

警察官はそう言うと、向かい合って座った机の上に1枚の免許証を出して村田茂に見せた。

「この人はご存知ですよね?」

山田晋也、村田茂がパワハラで退職に追い込んだ元部下だ。村田茂は嫌な予感がした。警察官が続けて言った。

「突っ込んだ車の運転手です。」

戸惑い

山田晋司は、トラックを停められる場所を見つけると、運転中からズボンのポケットで振動し続けている会社のスマホを取り出した。

「山田です。何でしょうか。」

山田晋司は日本の大手運送会社の一つ、ミケネコタケルの社員ドライバーだ。トラックでの宅配を任されていて、今日も朝から配達に出ている。

今は、配送用車両の位置などはすべてGPSで位置情報が把握されて、会社のパソコン上に表示される時代だ。山田晋司のトラックが予定通りに配送が進んでいるのか、といったことは会社で全て把握できる。

高卒でこの会社に入り、配送員として15年程の経験を積んでいる山田晋司は、この地域の道は全て把握しきっている。途中で大きな事故でもない限り、予定が遅れることはめったにない。今日も、朝から順調に配達を進めていた。会社から連絡を受けるような過失はないはずだが。

「ああ、ちょっと悪いんだけど、午前中の時間指定の分だけ配達終わったら、すぐにセンターに戻って、今日は上がってくれ。なんでも、午前中、隣の市で大きな交通事故があったそうで、その車を運転していたのが君のお兄さんらしい。今、センターに警察の人が来て、君に話を聞きたいと待っている。とりあえず、午前中の時間指定の分だけは戻ってくると間に合わないから配達してもらって、同じルートに午前中に設定している時間指定なしの分は後でこっちで振り分けるから、一旦センターに戻しちゃって。」

え?兄貴が?何で?交通事故?

山田晋司の兄、山田晋也は子どもの頃から優秀だった。体を動かすことがとにかく好きだった弟の晋司と違い、あまり活発ではなく、部屋の中で物静かに本を読んだり絵を書いたりするのが好きな子だった。

学校の成績も優秀で、中学では200人位いる中でのトップ10にはいつも入り、高校は地元の進学校へ進んだ。高校でもかなり成績が良かったようで、超名門のW大学へ現役で合格したのだ。

兄は運動神経が悪いわけではなかったがスポーツをやりたがらなかった。中学では何か部活に入らなければいけないといって、特にやりたいものはないからと陸上部に入り、希望者が少ないからという理由だけで長距離走に取り組んでいた。中体連では県大会に出場する程度の成績を残して、駅伝に力を入れている高校からの誘いがあったが、公立進学校を選んだ。

一方の晋司は勉強は好きではなく、外で身体を動かすことが好きだったので小学生の時から野球をやっていた。中学の野球部まで野球を続けたが、中学3年生の大会が終わったときに、もう野球はいいかなと思って、高校では帰宅部だった。兄とは違い進学校ではない。大学に行く人も増えているが、専門学校と就職のどちらかを選ぶ人が多い、そんな高校だった。

高校時代は勉強漬けだった兄とは違いバイトに明け暮れ、お金をためてバイクの免許を取ってバイクも自分で買った。原付きではなく小型二輪だ。

バイクに乗り始めたことで、変な連中に声をかけられることもあったが、そういった連中とはつるまないように気をつけていた。バイクで風を切って走るのは好きだったが、暴走行為をするつもりはなかった。

子どもの頃から、晋司はミケネコタケルの配達員をかっこいいと思って憧れていた。大きなトラックを器用に操り、住宅街の狭い路地もゆうゆうとバックで難なく入ってきてさっそうと帰っていく。大きな荷物を軽快に持ち上げて運ぶ力持ちの配達員。

勉強はあまり好きではなかった晋也は大学に行くつもりはなかった。高校を卒業したら、ミケネコタケルに就職して、将来はトラックの配達員になることが子供の頃からの夢だった。

だから、バイトもミケネコタケルの仕分けをしていた。将来、ここに就職して配達トラックのドライバーになりたいと話していたら、バイクを買ったときに、絶対に無事故無違反を通せと強く言われた。バイクに乗るのはいいが、悪質な交通違反や交通事故の履歴が残ると、ドライバーとして雇うことはできないと。

晋也は将来のために、バイクでのツーリングを楽しみつつも、変な運転にはならないように最新の注意を払っていた。峠攻めをすることもあったが、変な連中に会う可能性が低い昼間に、速度超過に気をつけながらカーブが多い難しい峠道を楽しんでいた。

バイト代でキャンプ用品も少しずつ揃えて、高校時代からひとりキャンプに行くことも多かった。一度、兄をキャンプに誘ったら、夜中にトイレに起きてテントの外に出たときにヘビが出て、晋也は飛び上がっていた。あまり自然は兄には馴染まなかったのか、晋也はそれ以来、誘ってもキャンプには来なくなった。

でも、趣味とか頭の出来は全く違っていたが、仲が悪いわけではなかった。中学から高校にかけて、晋司は晋也に学校の宿題をよく手伝ってもらっていた。特に数学が苦手で、時には晋也が書いた数式と答えをそのまま丸写しにして提出することもあった。

中学の頃は、兄のことを知っている先生も多かったから、そんな晋司のノートは兄の丸写しだとバレバレだったようだが、素知らぬフリを晋司は通していた。

兄は名門W大を卒業した後、実家の近くにある商社に就職した。W大からなら大手の総合商社も行けただろうが、その頃、脳梗塞で半身不随になった父の具合があまり良くなく、長男として何かあったときに両親のそばにいたほうがいいと考えて、転勤の可能性のある大手企業ではなく、実家の近くの会社を選んだそうだ。

しかし、W大レベルの大学を卒業した人がいないその会社で、兄はひどいいじめを受けるようになってしまった。

ある日、母から兄の様子がおかしいと連絡があり実家に駆けつけると、生気を失った晋也が布団に横たわっていた。会社に出勤する時間になっても体が動かないのだという。

なんとか晋司が担いで車に乗せて、総合病院へ連れて行ったら、精神科へ即入院だった。適応障害と重度のうつ病だとのこと。

会社で受けていたいじめ、パワハラについては後からその会社に勤めている知人から聞いた。かなりひどいことを言われていたらしい。

2ヶ月ほど入院して実家で自宅療養後、1年ほどして医師から社会復帰のお墨付きが出た。しかし、元の会社に戻ることは兄の精神的に難しく、しばらく就職活動をしていたが、正社員での再就職は叶わなかった。

結果的に、派遣会社に登録して、それからずっと派遣で生活していたはずだ。最初の頃は、それでもどこかで正社員を目指すのだろうと思っていたが、晋也としては派遣が気楽そうだった。晋司の義父から、知り合いの会社の事務で正社員を募集していると何度か声をかけられることもあったが、晋也は断っていた。

一度、精神がボロボロになった晋也の身体には、身体を1日中動かす倉庫での仕分け作業や、工場のラインでの単純作業が頭や神経を使うことがなくよかったのかもしれない。

最初の就職から、派遣社員として働きはじめてしばらくするまで、晋也は実家で生活していた。しかし、一度は親から離れて暮らしてみたい、といって派遣になってから1年ほどしたら派遣会社の方で寮として用意しているアパートへ引っ越していった。

しかし、実家には頻繁に帰って母親の様子を見たり、通院に付き添ったりしていた。

家族としては、本当は結婚して子どもも儲けてほしかったが、兄は生涯独身を決意しているようで、独り身ならこれで身体が動かなくなるまで働いても大丈夫だよ、一応、派遣会社で厚生年金もかけてくれているから、定年までなんとか働けば晋司のところにも迷惑かけないと思う、などと自嘲気味に話しているのを何度か聞いたことがある。

もともと、何を考えているのかわからないようなところはあったが、いったん、会社でのひどいいじめからのうつ病を経験したことで、晋也からは未来を明るく思い描く希望が一切失われてしまったことを、弟の晋司は感じていた。

山田晋司は、兄のことを色々と考えながらトラックを運転して、時間指定の残りの荷物を配達した。午前中指定の荷持を全部配り終えると、カーラジオを付けて地域のニュースをやっているところを探した。

県内向けラジオ局に周波数を合わせると、隣の市で登校中の小学生の列に車が突っ込んだ事故のニュースが流れてきた。

「これか……」

山田晋司はつぶやいた。

でも、晋司は何かがおかしいと感じていた。兄がこんな交通事故を起こすだろうか?最近、兄が飲む精神科の薬もかなり弱いものになり、量も少なくなっていたはずだ。夜、眠れなくなることもなくなったという。睡眠剤も以前はかなり強いものを大量に飲んでいたが、徐々に減らしていき、今は最低限の量の睡眠導入剤だけでぐっすりと眠れるようになってきたといっていた。

もちろん、車の運転も医師からの許可が出ている。年齢もまだ30代後半だ。高齢者ならともかく、アクセルとブレーキを踏み間違えたり、ハンドル操作を誤って、朝早くから、事故を起こすような人だろうか。

兄の晋也はうつ病になってから、もともと無理をして付き合っていたアルコールを飲まなくなったので、回復して車の運転ができるようになってからは、よく飲み会などがあると晋司は送迎を頼むことがあった。晋司が母を誘って家族で食事に出かけるときには必ず晋也も誘い、晋司のファミリーカーのドライバーも頼んでいた。

プロドライバーである晋司の運転技術と比べることはできないが、生来が生真面目な兄のことだ。安全運転を常に心がけるような人だった。

そんな兄が、どうして、子どもの列に突っ込むような事故を起こす?晋司は少し釈然としない気持ちで、配送センターに向けてトラックを走らせていた。

配送センターに着くと、事務所に警察の人がいた。署で話を聞きたいという。

事務の人から、妻の会社から何度も電話があったと言われた。電話をしてくれとのこと。妻の美由紀は彼女の父が経営する建設会社で事務として働いている。

晋司は美由紀の携帯を鳴らしたが出ないので、会社の代表番号にかけた。自分の名前を言うと、義父に代わった。

「君のお兄さんがどえらい事故をやったらしい。」
「会社に警察の人が来ていて、これから署で話を聞きたいそうです」
「うちの顧問弁護士の佐藤先生にお願いして同行してもらうから、警察署の入り口で待ち合わせし。佐藤弁護士と一緒になるまで、警察署に入っちゃ駄目だよ、念のために」

晋司が何かをした訳ではないが、建設会社の社長としていろいろな修羅場をくぐってきている義父だ。万が一のことを考えて手配してくれているらしい。

山田晋司は帰り支度を済ませると配送センターを出て自分の車にエンジンをかけ、警察署へ向かった。

決行の時

その日の朝、山田晋也はいつもと同じ時間に起床した。午前5時半。

布団を畳んで部屋の隅に置く。男性の一人暮らしのアパート。万年床にする人も多いだろうが。几帳面な山田晋也は毎日布団を畳んで、押し入れにしまわないまでも部屋の隅に片付けるようにしていた。

テレビをつける。早朝のニュースをやっている。

顔を洗ってひげを剃る。今日は、オレが有名人になる日だから、みっともない格好はできない。いい洋服は持っていないが、最後にオレを見た奴らに、身なりで笑われないようにだけはしておかなくてはいけない。そんな風に心に誓う。

8枚きりの食パン2枚をトースターに入れて焼き、マーガリンとマーマレードをたっぷり塗る。インスタントコーヒーを入れて、いつもどおりに朝食をとる。

いつも仕事に行く前には食パンを3枚食べる。プラスして、数日に一度、まとめて作って冷蔵庫で保存するゆで卵2個とコンビニで買うカットサラダも食べるのだが、今日は胃の中を軽くしておいたほうがいいような気がするのでパン2枚とコーヒーだけにしておく。

いつもと同じ時間に起きた。今までなら、6時半か7時に家を出て、派遣会社から指定された現場へ向かう。現場は数週間から数ヶ月で変わるのが普通だから、通勤時間がその都度変わる。でも、あまり遠方だと支給しなくてはいけない交通費が高額になるためか、遠くても1時間ほどで到着できるところがほとんどだった。

でも、仕事は昨日辞めてきた。2週間ほど前に、担当者に実家の都合で辞めると伝えたら、困ると言われた。オレは言われたことを言われたとおりに、忠実に手際よくこなしてくれるから、とっても重宝していたようだ。担当者は辞めたら困るって言ってくれたよ。

あのときは、前の仕事のときには「お前の代わりなんかいくらでもいるんだぞ!」っていつも怒鳴られたっけな。でも、こんなオレでも必要としてくれていた場所はあったんだな。まあ、W大卒がやるような仕事じゃなかったけど。

でも、オレはオレの意志を貫くために、必要としてくれている人も振り切らなくちゃいけないんだ。だって、今日、オレがそこに籍を置いていたら、あんたらに迷惑かけるだろう?

最近、大きな事件や事故がないせいか、テレビのニュースでは大したことがない話題ばかり繰り返しやっている。今日の重大事件は昨日、首都高で起きた死亡事故か。まあ、交通事故で亡くなる人は気の毒だが……

交通事故で亡くなる?オレは少しおかしく感じて笑ってしまった。不謹慎だよな。

パンを食べ終わり、コーヒーのコップを洗って片付けると、部屋の中を見渡した。荷物は殆どないから、特に整理するべきものもない。家を出る時間まで、まだ少しあったから部屋の中をコロコロで掃除する。狭い部屋だから掃除もすぐに終わる。

ここは、会社の寮だから、仕事を辞めたら出なくてはいけない。でも、家賃を支払えば1ヶ月はいいってさ。まあ、今日には出ていく予定だけど、まあいいかな?

今日の準備を確認してみた。車にガソリンは入っている。ペットボトルもOKだ。今日のための特製ドリンクをちゃんと詰めた。あと、必要なものは特にない。

山田晋也は、もう一度洗面台の前で身支度を整えてから、テレビの前に座った。家を出る時間までまだまだだ。それまで、ゆっくりニュースでも見ていよう。

午前7時15分過ぎ、山田晋也は昨日までの現場へ行くために家を出るのと同じ時刻に家を出た。特製ドリンクはしっかりと手に握っている。

ペットボトルをドリンクホルダーに置き、車のエンジンをかけて発進する。昨日と同じ道を昨日までと同じように走る。幹線道路はいつもどおり混雑していて、普段は5分もかからないはずの道のりを10分以上かけて通り、小学校の横を曲がる。

信号待ちをしていると、信号の向こう側で村田茂の妻と娘がこっちに向かって歩いてくるのが見える。信号が青に変わり発進する。山田晋也はアクセルを踏み込む。村田茂の妻に向かって車を突進させる。車のフロントの真ん中あたりに奥さんを、左のヘッドライトのあたりに娘を、うまく捉えたことが見えた。

車はそのまま道沿いの商店のブロック塀に激突して止まった。ものすごい衝撃を感じたが、ハンドルを力いっぱい握りしめ、シートベルトをしていたから、山田晋也の意識はあった。

山田晋也はアクセルを強く踏みつけたままドリンクホルダーのペットボトルを口にする。ひどく苦くて飲みにくい。とにかく臭い。鼻をつくような匂いで身体が飲み込むのを拒否する。しかし、山田晋也は最後の力を振り絞って無理矢理、口に流し込み、喉の奥に押し込む。

喉から食道、胃が焼けるように熱く、痛くなってくる。しばらくすると胃から血と飲み込んだ液体と胃液が混ざった変なものが食道を上ってくるのを感じる。内臓に耐え難い痛みが湧き起こるが、同時に頭がボーッとしてくる。

車の周りに人が集まってきて「何やってんだ!」とか叫んでいる。何やってんだって?やってやったんだよ、あのクソ上司のいちばん大切なものを壊してやったんだ。

これで終わりさ、ジ・エンド。

バイバイ、この世界。

山田晋也は大学の合格証書を手にしたとき以来の達成感に大きな喜びを感じながら、意識を失った。

因縁の再燃

その1ヶ月ほど前、山田晋也が現場に入り、更衣室で作業着に着替えていると、派遣会社の担当者が声をかけてきた。

「山田くんは車持っているよね。明後日から、ちょっと交通の便が悪いところの現場で、真面目で優秀なスタッフが1人欲しいってところがあるんだけど行ってくれないかな。作業報酬は最高額のAランクで、プラス交通費も1,000円つけるから。君の家からは10km位の距離だから、ガソリン代もお釣りが来るだろう。君にしか頼めないんだよ、どうだろう?」

山田晋也が登録している派遣会社は、作業ランクがいくつかあり、ランクによって日給が違う。Aランクは最高額だ。当然Aの仕事の方がいいに決まっている。

しかし、もう、とりあえず、自分ひとりが生きていければいいと考えている山田晋也にとっては、報酬額はどうでもいい話だった。最低ランクでも毎月20日くらい働けば、会社が寮として用意してくれているアパートの家賃と光熱費の支払いと、自分ひとりの食費、社会保険の支払いくらいは余裕がある。

とりあえず、会社で厚生年金は入ってくれているから、身体が動かなくなり、働けなくなったら実家にでも引きこもって年金暮らしで大丈夫かな?最低限の食費と光熱費くらいはなんとかなるだろう。自分の人生に何も望まない山田晋也は、自分の未来をそんな風に思い描いていた。

だから、別にその仕事を金額の面でどうしてもやりたいわけではなかった。でも、山田晋也はとりあえず、振られる仕事は断らないことにしている。派遣で働いている人には、車を持っていない人も多い。山田晋也は同じ市内でひとり暮らしをしている母親が高齢になり乗れなくなったので、母親が乗らなくなった軽自動車をアパートに持ってきていた。名義は母親のままだが。

車を使わせてもらっている分だろうか、母は通院などの付き添いは弟ではなく長男の山田晋也に頼むことが多かった。月に数度のことなので、土曜日を使ってできるだけ手伝うようにはしていた。

山田晋也には弟もいるが、弟はフルタイムの正社員で働き、家庭を持っている。母親のことを気遣ってくれてはいるようだが、母親も何かと独身で兄である山田晋也のほうが頼みやすいようだ。

「じゃあ、明日までここに入って、明後日からそっちでお願い。」

担当者は山田晋也の肩をポンと叩くと、そう言って他のスタッフへ声をかけ始めた。

山田晋也が車で新しい現場へ向かう日。距離と通勤ラッシュの混雑を計算して、家を出る時間を逆算して7時15分過ぎに家を出た。道が空いていれば20分程度でつく距離だが、朝はとにかく道が混む。

派遣で仕事をする上で遅刻は厳禁だ。とにかく早めに先方に到着した方がいい。8時半集合で、1時間ちょっと、余裕を見て家を出ることにした。

家を出て幹線道路に出るとやっぱりものすごい渋滞だ。少し行くと裏道に入れるけど、山田晋也のアパートから幹線道路ほど混んでいない裏道にはいるまで、2kmほど幹線道路を走る必要がある。

たった2kmの道のりで10分以上かかって、小学校の横を通る道に入った。通学途中の小学生が列をなして歩いている。このあたりの小学校はどこも集団登下校だから、グループごとに先頭がリーダーの上級生で、1年生から6年生までが一列に並んで歩いている。

信号待ちをしていたときに、小学生の列をぼーっと眺めていた山田晋也は、ふと見たことのある顔を見つけた。子どもたちの後ろをついて歩く母親だ。お腹が大きい。

「おい、役立たずのW大!」
「クズW大!」
「ほんと、お前はW大のくせにできが悪いな」

あの、クズ上司に無理やり誘われて何度も休日に自宅を訪れたときに出迎えてくれた奥さんだ。山田晋也は休日までクズ上司に付き合わされたくなかったが、なぜかクズ上司は月に2、3度は、子どもたちの面倒を見てくれと山田晋也を家にしつこく招いた。お茶とちょっとしたお菓子くらいは流石に出してくれたが、子守代や家庭教師代をくれるわけでもない。

「おい、役立たずのW大!」
「クズW大!」
「ほんと、お前はW大のくせにできが悪いな」

「おい、役立たずのW大!」
「クズW大!」
「ほんと、お前はW大のくせにできが悪いな」

「おい、役立たずのW大!」
「クズW大!」
「ほんと、お前はW大のくせにできが悪いな」

「おい、役立たずのW大!」
「クズW大!」
「ほんと、お前はW大のくせにできが悪いな」

「おい、役立たずのW大!」
「クズW大!」
「ほんと、お前はW大のくせにできが悪いな」

会社では何をやっても、この3つの言葉のどれかが飛んでくる。最初は自分が失敗するときだけだったが、そのうち、同じ部署の誰かがやった失敗も、山田晋也のせいにしておけとばかりに、「クズW大!」と飛んでくるようになった。

山田晋也が成果を出しても、「クズW大のくせに!」と言われ、成果は評定には乗せてもらえない。もっと上に訴えたくても、その上は社長でクズ上司の親戚だ。山田晋也が何を言っても通じるわけがない。

山田晋也はもともと大人しい性格で、強く押せないところがあった。言い返すことができずにいるうちに、段々と心を病み、ある日突然仕事に行くことができなくなった。

親が心配して弟を呼び、弟が病院に連れて行ってくれたら、うつ病と診断されて休職することになった。しかし、休職期間が明けても復帰することはできずに、そのまま退職となる。前職うつ病で退職というのでは、正直正社員での再就職は難しい。

仕方がないので派遣会社に登録して今に至るのだった。

そして、今、山田晋也の眼の前を、クズ上司だった村田茂の奥さんが大きなお腹を抱えて子どもたちに付き添って歩いている。

よく見ると、その前はその家の長女だ。たしか、、、ミサキって言ったかな?2人ともさっぱりとして仕立てのいい洋服を着て、ミサキは可愛いランドセルを背負っている。

奥さんが妊娠しているってことは、夫婦仲もいいってことかよ。俺の人生、パワハラで壊したヤツが、こんな幸せな家庭を築いているのか?

その日から、山田晋也の頭の中では、数年間忘れていた、あの前職のクズ上司、村田茂に投げつけられていた言葉が、何度も何度も繰り返し鳴り響くようになってしまった。

そして、毎日、同じ場所を同じ時間に通るたびに、クズ上司の奥さんと娘の幸せそうな姿を目にしなくてはいけなかったのだ。山田晋也の心の中には、ドロッとした重い闇が広がっていったのだった。

嫌な予感からの……

病院の相談室で、村田茂は警察官が机の上に出した、かつての部下、山田晋也の運転免許証を見て嫌な予感に襲われた。山田晋也は村田茂がパワハラで退職に追い込んだ元部下だ。こいつのせいで減給処分をくらってる。

「突っ込んだ車の運転手です。」

「そして、車が激突した後、そのまま車の中ですぐに農薬と思われる液体を飲んで自殺しました」

え?どういうことだ?村田茂の頭の中は混乱した。

「すぐに山田晋也の自宅を捜索したところ、遺書と思われる書き置きが残されていました。そこには、あなたへの恨みつらみと、村田茂さんの一番大切なものをぶっ壊すということが書かれていたそうです。山田晋也に恨まれる覚えはありますか?」

思わず村田茂は叫んだ。

「2人は、あんな奴に殺されっていうんですか?」

最悪な展開

警察官と一緒に相談室に入った村田茂の叫び声に武井準郎は耳を疑った。殺された?いったいどういうことだ?これは単なる、と言って武井家にとっては単純なものではないが、最近多い高齢者の踏み間違いとかハンドル操作のミスの交通事故じゃないのか?

武井準郎はあたりを見回した。待合室には警察官が1人いる。村田美久に付き添っている女性警官だ。武井準郎は女性警官の元へ歩み寄った。

「すみません、今、村田さん、殺されたって叫びましたよね。これって、交通事故じゃないんですか?」

武井準郎からの問いに少し考え込んだ警官は「少しお待ち下さい」といって立ち上がり、外へ出ていった。ガラス張りの病院の入口から見ていたら、肩に付けた無線機で話をしている。しばらくすると戻ってきた。

「すみません、今はまだ捜査を進めているところで、具体的なことはお話できません。ただ、武井さんのところは単に巻き込まれた可能性が高い、ということだけは伝えててもいいとのことでした。後ほど、今回、村田さん以外の被害に遭われ方に対しては、警察の方から説明させて頂くとのことです。しばらくお待ち下さい。」

村田さん以外の?村田さんに関係している事件ってことか?村田さんが関係している何かで、佐江は片足を失ったのか?

何とも言えない、怒りの感情を伴った衝動が腹の底から湧き上がってくるのを、武井準郎はやっとの思いで飲み込んだ。

「ママー!」

知沙の声がする。見ると武井準郎の妻、武井麻由子がやってきた。知沙は麻由子の元へかけていき、腰に抱きついた。

「手術、抜けられたのか?」

「うん、手術室に入る準備をしていたら連絡が来て、でも今日出てる人で代われる人がいないから最初のうちだけ入ったけど、看護師長が非番で私の代わりができる人に片っ端から電話をかけてくれて。そうしたら、何人か入ってくれるって言うから、後は彼女たちが交代で入ってくれる。で、佐江の具合は?」

「何か聞いてる?」

「何にも聞いてない。」

「そうか、左足、切断だって。左肩も骨折していて、頭も強打している可能性が高いって。それ以上のことはオレにもわからない。佐江の顔もまだ見れてない。説明もまだない。いろいろな許可を求められたけど、オレにはわからないから必要なことは全部やって助けてくれ、って言っておいたけど、大丈夫だよな?」

麻由子はうなずくと、待合室の椅子に座って知沙を膝に乗せた。

「なんか、村田さんの奥さんと美咲ちゃん、亡くなったんだって。」

麻由子が息を呑んだのがわかった。

「で、さっきさ、村田さんが警察の人と一緒にそこの相談室に入っていったんだよ。そうしたら、『あんな奴に殺されたんですか』って叫んだんだ。あっちで美久ちゃんといる警察官にどういうことだ、って聴いたら、後で警察から説明があるっていうんだけど、どういうことだ。」

「どういうことって、私に聞かれてもわかるわけないじゃない。でも、もしも、交通事故じゃなくて故意によるものなのかもしれないね。そうなると経済的にかなりまずい状況になるかも」

「どうして?」

「もしも、殺意を持って突っ込んだとしたら殺人事件になるから、自動車保険も下りないし、健康保険も使えない可能性が高い。そうすると、治療費全額自費負担かも。高額療養費も使えないだろうから、佐江が足を切断する手術を受けて、これからリハビリってことになると、最低でも100万円単位の出費になる可能性もあるわね。100万ですめばまだマシってとこ。」

さすがは優秀な看護師だ。子どもの命がどうなのか、っていう場面でも冷静な計算ができる。

武井準郎は佐江のことを心配しながらも、我が家の貯金と家のローン残高をざっと計算してみた。家は2人の貯金と双方の親からの援助で頭金をかなり入れたから、ローンの負担はそれほどでもない。2人でこのまま働き続けて、中学までは地元の公立に行かせれば、子どもたちが高校と大学が都内の私立になっても大丈夫なくらいの余裕があるはずだ。

でも、もしも、佐江の治療費が膨大になるとしたら?武井準郎は今までとは違う焦りを少し感じた。

「武井佐江さんのご家族の方」

診察室の方から看護師に呼ばれた。2人で立つと、学校の先生がやってきて、知沙を見ていてくれるという。2人で診察室に入ると、何枚ものレントゲンやCTと思われる画像が貼ってあった。

「車のタイヤに左足が巻き込まれたことで、膝下が完全に潰れてしまい、敗血症の恐れが高まってしまったために切断せざるを得ない状況でした。膝上で止血処置したことで、膝への血流が止まってしまったために、膝を残すと敗血症の危険性があり膝も残せませんでした。こちらの手術は成功しました。幸いなことに、周囲にいた保護者や見守りボランティアの中にドクターと看護師、救命救急講習の受講者が数名いたようで、止血処置が速やかに行われたことで、出血多量による命の危機を免れました。救急車の到着を待っていては、間に合わなかった可能性もあります。今後は1週間ほど集中的に抗生剤の投与を続けながら感染症と敗血症に注意していきます。身体の回復具合を見て、リハビリ科や理学療法士などでリハビリや義足などについて検討していきます。」

運び込まれた直後の画像は、足の膝下の骨が砕け散っている様子を映していた。

「それから、倒れたときに身体の左側を強打したことで、左の肩の脱臼と上腕の骨折がみられます。こちらは、足の切断手術と並行して、脱臼を入れて、骨折した骨の位置を直してギプスで固定しました。」

麻由子が自分が看護師であることを告げてから、専門用語を使っていくつか質問を投げかける。医師も、武井準郎がわからない専門用語を使って返事を返す。

「あと、頭からも出血していたので、手術前にCTを撮りました。頭蓋骨の骨折や、脳挫傷、脳内出血などの所見は見られませんので、とりあえず、こちらは安心しても大丈夫かなとは思いますが。後で、脳外科の方でMRIによる精密検査と経過観察も行います。」

また麻由子がいくつか専門的な質問をして、医師から返事があった。

「あと、下のお子さん、知沙さんの外傷はいくつかの擦り傷だけです。転んだということで、念のために足と手のレントゲンも撮りましたが、骨折などの所見はありませんでした。しかし、お姉ちゃんの足の状況や、村田さんのお二人が亡くなられた状況を目の当たりにしたことによる精神的なショックが心配です。今日は軽い睡眠薬を処方しておくので、夜は飲ませて眠らせるようにしてください。最初は1錠で、もしも、夜驚症みたいな症状を起こすようなら、1晩で3錠まで大丈夫ですから追加してください。様子を見てショックが強いようなら、児童精神科の受診も検討してもいいかもしれません。」

診察室を出ると、看護師が佐江の元へ案内してくれるという。病室は個室だった。手術直後で、今夜いっぱい多くの処置が必要だが、ICUがいっぱいなので病院都合で個室にしているという。病院都合なので、差額ベッド代は必要ないそうだ。明日か明後日、問題がなければ大部屋へ移るとのことだ。

知沙を連れて病室に入ると、機械に繋がれてベッドに横たわる佐江が眠っていた。頭には包帯をして、左肩から腕にかけてはギプスだろうか。右肩よりも大きく盛り上がっている。下半身は、本来は掛け布団の下で両足が盛り上がって見えるはずだが、右足の盛り上がりしか見えない。左足の方は、太ももの途中から、布団が平らになっていた。

麻由子が看護師の許可を得て布団をめくり、病院着の足の部分を開いてみた。左足は太ももの途中で切断されて、包帯が何重にも巻かれて、切断面が白い切り株のようになっていた。

知沙は姉のその姿を見ると再び泣き始めてしまった。準郎はただただ知沙のことを抱きしめて、背中を何度も擦るしかなかった。

呆然と家族で佐江の姿を眺めていると、学校の先生が病室まで呼びに来た。警察からの説明があるそうだ。知沙を先生に預けて病院の会議室へ行くと、すでに10数人の保護者と、高学年の包帯や絆創膏をした小学生がいた。

準郎と麻由子が席に着くと、警官が前に出てホワイトボードに地図を書きながら説明を始めた。

子どもたちがどのように並んで歩いていて、そこに車がどのように突っ込んできたのか、誰がどのように巻き込まれて怪我をしたのか。

武井準郎の子どもたちと同じグループの最後尾にいた村田百合は車のフロント部分に、そのすぐ前にいた6年生の村田美咲はフロントの左部分に激突して即死。村田美咲のすぐ前にいた武井佐江はタイヤに足を巻き込まれて左足を切断。

そのすぐ前にいた子どもは、佐江の転倒に巻き込まれて強く腕を打ち骨折した。ボルトを入れる手術が必要なので入院。その前にいた子どもたちも転倒して、ひとり骨折、他はそれぞれ捻挫や打撲、かすり傷などを負った。また、村田百合のすぐ後ろにいたグループでも、先頭の子が車に接触して転倒して骨折。その後ろにいた子も数人転倒して怪我を負った。

ここまでの状況説明が終わってから、ぶつかった車についての解説が始まった。

「車の運転手の名前は山田晋也、市内在住の派遣社員、38歳です。」

武井準郎は眉をしかめた。38歳?やっぱり高齢者の事故じゃなかったのか。

「車を激突させたあと、直後に農薬と思われる液体を飲んで自殺しました。その後、救急搬送されて胃洗浄などを行いましたが、死亡が確認されています。」

え?運転手が自殺?どういうこと?たまたま、田んぼか畑にまくための農薬があって、やってしまったことの重大さに、すぐに自殺したってことか?

そこで話を聞いていた全員の表情に戸惑いが浮かんだ。

「このような事件を起こした背景ですが、この山田晋也は亡くなった村田さんのご主人の元部下だったということがわかっています。まだ捜査中ですが、村田さんからのパワハラにあって退職しており、村田さんへの強い恨みから、奥さんと娘さんを狙った可能性が疑われています。」

え?村田さんを狙った?ってことは殺人なのか?それじゃ、どうして佐江は足を失ったんだ?いったいどういうことだ?武井準郎の頭の中は、訳がわからずにただただ思考が空回りしていた。

「ところで、皆さんの中に、山田晋也という名前に心当たりのある方はいらっしゃいますか?」

誰も手を挙げない。

「すみません、これ、ただの自動車事故じゃないってことですか?」

1人の父親が声を上げた。

「交通事故じゃなくて故意にぶつかってきたのなら、子どもらの治療費、自動車保険が出ないでしょう!その辺、どうなるんですか?」

警官が答える。

「まだ完全に過失ではない故意だと断定できるわけではありません。しかし、現在調べている状況からは、山田晋也が村田さん一家を標的にした可能性が高いと思われます。自動車保険は過失による事故の保障ですから、山田晋也が故意にぶつかったということであれば、対象外になる可能性が高いでしょう。また、健康保険証の対象になるかどうかも確認が必要です。そのあたりは保険会社や保険組合と各ご家庭でご相談いただくようになるかと思いますが、警察としてはなんとも申し上げられません」

先程の父親がまだ続ける。

「ちょっと、私、会社やっているんで、今、お世話になっている弁護士の先生をここに呼びますわ。もしかしたら、被害者の会とか結成しないといけない状況かもしれませんから。うちはまだちょっとした打撲とかすり傷だけですんだから、治療費全額自費でも大したことはありませんよ。でも、足切断のお子さんとか、骨折でボルト入れるお子さんとか、金額、えらいことになるでしょう。ちょっと弁護士の先生に相談しましょう。」

そういうと、その父親はスマホを取り出し電話をかけ始めた。弁護士の先生につながり、とりあえず病院まで来てもらえることになったようだ。

武井準郎と武井麻由子は、佐江の今後と知沙の精神状態の心配に加え、これから降り掛かってくるかもしれない大きな経済的な負担の可能性に、ただただ深い不安感だけに襲われていた。

衝撃

山田晋司は警察署の前で佐藤弁護士と落ち合うと、昼食は済ませたかと尋ねられた。まだだと答えると、「警察に入る前に食事を済ませておきましょう」と提案され、近くの食堂に入った。食事をしながら、晋司はこれからの手続きについて佐藤弁護士に質問したが、弁護士は「現状ではまだわからない」と答えるに留まった。

食事を済ませると、一緒に署内に入った。受付で名前を告げると、奥から刑事と見られる人が出てきて取調室へ案内された。

弁護士同席の許可をもらい、2人で並んで椅子に座ると、刑事から事故の説明が行われた。

兄の山田晋也は、最近平日はほぼ毎日、事故を起こした現場を通って仕事の現場へ通っていたこと、昨日付で派遣会社を辞めていたこと、仕事をやめたはずなのに同じ時間に家を出て事故を起こしたこと、事故を起こしたあとで車の中でなにか液体を飲んで死亡したこと、これらのことが説明された。

その後で、遺体確認を求められて霊安室へ案内され、すでに冷たくなった兄と対面した。特にひどい外傷などは見られなかったが、顔は変に青紫色になっており、普通の死に方をしたのではないことが、晋司にも理解できた。

晋也と晋司の父親は既に亡くなっている。また、親戚や会社関係の人の葬儀にも何度も出席して、人の死に顔は何度も見たことがある。晋也の死に顔は今まで、病気や老衰、事故で亡くなった人の顔色とは全く違うものだったのだ。しかし、顔の特徴から兄の晋也であることは疑う余地もなかった。

遺体が兄であることを確認したあとで、再び取調室へ戻り、兄について詳細に聞かれた。どのような兄弟関係だったか、子どもの頃からどこか理解不能な性格ではあったが、別に激高したりすることはなかったこと、大学卒業後に就職した会社のこと、その会社でひどいいじめを受けてうつ病になり、療養後に退職し、派遣社員となったこと、うつ病になる少し前に兄がボーナス全額を奮発して亡くなる前の父親を連れて最後の家族旅行をしたこと、W大なのに父の介護のことを考えて大手企業ではなく実家の近くの小さな商社を選んだこと、家族思いの優しい兄であったことなどを話した。

警察からはいろいろなことを質問されたが、晋司には答えられることとわからないことがあった。「村田茂」という名前を聞いたことがあるか、と聞かれた。兄が退職した会社の名前に「村田」がついていたことは覚えているが、それ以上はわからないと答えた。

昼過ぎから始まった取り調べは午後8時位まで続いた。何度も同じことを聞かれる事もあったが、そのたびに山田晋司は同じことを答え続けた。

午後8時過ぎに一旦帰宅して良いと言われた。晋司は兄の遺体の扱いについて尋ねたが、警察は「司法解剖が必要なため、今後の予定はまだ未定です」と答えた。

警察署を出るとスマホをチェックした佐藤弁護士がかなり厳しい顔をして晋司に伝えた。

「今日は詳しいことを説明してくれなかったけれども、もしかしたら、故意に起こした事件かもしれない。どうも、故意に亡くなった人を狙って起こした事故の線が濃厚らしい。」

「え?どういうことですか?」

「さっき、村田茂って人について聞かれただろう。ネットニュースから推測すると、その人は君のお兄さんの元上司で、パワハラで退職に追い込んだ張本人だ。そして、亡くなったのはその人の奥さんと長女だ。私も君のお兄さんが受けたパワハラについては聞いているから、恨みが高じて事件を起こしてもおかしくはないと思う。でも、ちょっとまずいかもね。」

「何がですか?」

「お兄さんが乗っていた車はお兄さんのもの?」

「どうだろう。名義変更していれば兄のものですが、母が乗らなくなった車なので、名義はもしかしたら母のままかもしれません」

「故意の事故だと、自動車保険が下りないから、運転手本人に損害賠償や治療費が請求される。しかし、今回、運転していた君のお兄さんは亡くなってしまったから、その請求はお兄さんの遺族に、つまり君のお母さんと君に来る可能性がある。その上、車の名義がお母さんだったら、所有者責任も問われる可能性がある。」

晋司は呆然とした。亡くなった人が出て、足を切断した子どももいるという。治療費や賠償を母と自分が求められても、到底払える金額ではないだろう。家族思いだった兄がこのような事故の当事者として亡くなってしまったショックに加えて、今後に襲ってくるだろう母と自分への巨額な賠償金の可能性に、山田晋司はただただめまいのような世界がグラグラと揺らぐ感覚に襲われるのだった。

晋司がスマホをチェックすると、妻の美由紀からメッセージが届いていた。

「父が今日は子どもを連れて実家に泊まるように言うので、実家へ行きます。あなたは、お義母さんのそばにいてあげてください。とりあえず、今後どうすればいいか、明日以降、父や佐藤先生と相談しましょう。」

佐藤弁護士は、晋司の様子を見て車で送ると言ってくれた。顔色から、自分で車を運転できる状態ではないと判断したようだ。佐藤弁護士の車の中で、晋司は実家の母に電話をかけた。憔悴しきった母の声が聞こえてきた。

夕食はまだだと言うが作る気力も出ないという。途中でコンビニに寄ってもらい、2人分の弁当と、朝食用のパンを買って実家へ帰った。

実家にも警察が来て、母も長時間、話を聞かれたようだ。幼少期からの晋也のことや、前の会社をパワハラで辞めたときのことを詳細に聞かれたという。そして、晋也の死と村田茂との関係性も伝えられたらしい。

晋司は母に車の名義のことを聞いてみた。母は晋也に渡したときに、名義変更はしていないはずだといった。母名義の車を晋也が乗っていたという。軽自動車税は母宛に市役所からくるものを母が払い、車検費用と自動車保険は自賠責も任意保険も晋也が払っていたという。

晋司は佐藤弁護士から聞いた、晋也が相手を狙って故意に起こした事故だった場合には、自動車保険が下りずに、損害賠償や治療費の請求が自分たち遺族にされるかもしれないと話した。母は部屋の中を見渡して、「この家を売っても全額出せるかわからないね」と嘆息した。

晋司もどうしたらいいのか、頭の中がごちゃごちゃとするばかりで、全く考えがまとまらなかった。しかし、風呂に入り、母の隣に布団を敷いて横になると、昼間からの取り調べの疲れが出たのか、知らぬ間に晋司は眠りに落ちていた。

パニック

武井準郎と武井麻由子は、会社を経営しているという父親が呼んだ弁護士と、その弁護士が連れてきた社労士の説明を聞いて、やはり自動車保険と健康保険証が使えない可能性があることを再確認した。

健康保険証は、万が一の病気と怪我に備えたもので、第三者の行為による病気や怪我は対象外であること。第三者の行為とは、勤務中や通勤途中の事故や、傷害事件などのことだ。今回の事故は、単なるアクセルとブレーキの踏み間違いなどが原因の交通事故であれば、自動車保険の対象となるが、現在までの報道によると、恨みによる運転手による故意の可能性が高いとのこと。

故意に起こした事件であれば、第三者の行為となるので健康保険証は使えない、ただし、「第三者の行為による傷病届」を提出することで、一時的に健康保険組合から建て替えて、健康保険組合が加害者側へ請求することはできるので、健康保険組合に問い合わせてほしいとの説明だった。

全額自己負担の可能性が低くなったことで、少し武井準郎と武井麻由子は胸をなでおろした。弁護士は、何かあったら相談に乗ったり、刑事事件や交通事故に詳しい弁護士を紹介できるからと、その場にいた保護者に名刺を配って帰っていた。

また、弁護士を呼んだ父親からの提案で、今後、連絡を取りやすいようにLINEグループもその場で作って、保護者全員参加した。

治療が終わった子どもたちは帰っても大丈夫だとのことで、入院となった子以外の家族は帰り始めた。武井夫妻が、佐江の病室へ戻ろうとすると、病院の事務の人にソーシャルワーカーから説明があるといわれて、相談室へ案内された。

佐江の障害者手帳についての説明だった。左足を切断したことで、身体障害児となり、障害者手帳を取得できる可能性があるとのことだった。障害者年金は20歳にならなければ受給できないが、両親の収入によっては、療育手当が支給される可能性があること、医療費の助成が受けられること、義足などの装具費用が助成されることなどが説明された。

障害の等級は市役所の判定によるので、手帳を取得するつもりなら、一度、市役所の障害福祉課へ相談してほしいとのことだった。

佐江は障害児になってしまったのか……

朝は、全く元気に家を出たはずなのに……

落ち着いた表情で説明を聞いている麻由子と違い、準郎は「障害者」や「障害児」という言葉が出るたびに胸がドキッとし、現実を受け入れられないでいた。

ソーシャルワーカーからの説明が終わり相談室を出ると、学校の先生が学校に戻るから、といって知沙を2人に託して病院を出ていった。時計を見ると、すでに午後4時を回っていた。

知沙を連れて佐江の病室へ戻り、しばらくそこに3人で椅子に座って佐江の様子を見ていた。しばらくすると知沙がとても疲れた顔をしていることに気が付き、どちらかが家に連れて帰って休ませることにした。

看護師に、今夜の付き添いをどうしたらいいのか聞くと、今夜いっぱいは身体を回復させるために薬で目が覚めないようにコントロールするので、付き添いは必要ないと言われた。しかし、心配であれば、1人、病室に泊まり込んでもいいが、病院から毛布や簡易ベッドの貸し出しはないと言われた。

家から寝袋を持ってきてもいいかと聞くと大丈夫だとのこと。佐江はとにかく眠り続けているので、何かあったらすぐに電話をもらうことにして、いったん全員で帰宅することにした。

家に帰ると、作り置きして冷凍してあったカレーを温めて3人で夕食をとり、準郎はお風呂に入って、普段着に着替えた。寝袋と寝袋の下に敷くマットを用意すると、再び麻由子が運転する車で病院に向かい、今夜は準郎が病院に泊まることにした。

麻由子と知沙は家に帰ると、一緒にお風呂に入り、しばらくテレビでアニメを一緒に見た。8時過ぎ、病院からもらってきた睡眠薬を知沙に飲ませてから子供部屋で寝かしつけようとした。しかし、お姉ちゃんがいないことで不安を感じるようだった。

麻由子は夫婦の寝室へ知沙を連れていき、準郎と自分のWベッドで一緒に横になった。しばらくすると、睡眠薬が効いてきたのか、知沙は寝息を立て始めた。麻由子はそうっと起き出してリビングへ行き、テレビをつけた。

テレビを流しながら、スマホでネットニュースを見ていると、今日の事故についてのニュースがたくさん掲載されていた。テレビニュースでは事故の概要だけが簡単に伝えられるだけだったが、ネットニュースではかなり詳細に踏み込んだ情報を知ることができた。

車を運転していた山田晋也は、村田茂の元部下で、村田茂によるひどいパワハラでうつ病になり退社していること。ニュース記事ではまだ詳細は書かれていないが、村田茂のパワハラを知っている会社の関係者からは、村田茂による山田晋也へのパワハラ行為が詳細に語られているという。

突然、麻由子の耳に家の外から大きな物音がした。窓を開けて外を見てみると、斜向かいの村田家の方から聴こえてくることがわかった。しばらくすると「オレは悪くない!」と何度も叫ぶ村田茂の大声が聞こえてきた。

麻由子は総合病院の看護師としてすでに20年近いキャリアを積んできた。さまざまな背景を持つ患者への対処だけでなく、人格的に難のあるドクターや、性格的に付き合いにくい同僚看護師などとも、無難に接して仕事を進める事を身に着けてきたことで、相手の人となりをそれなりに直感的に見抜く能力が磨かれてきた。

この家は知沙が生まれた頃に買って引っ越してきた。同じ頃、村田家も引っ越してきて、同い年の娘がいるということで、子ども同士を通じた交流が自然と生まれた。

しかし、麻由子は村田茂に対しては、少し警戒した気持ちを抱いていた。一部の尊大で偏差値信仰だけを糧にしているような有名大卒のドクターと同じ、どこか人を下に見下すような雰囲気を感じていた。村田茂は有名大卒ではなさそうだったが、コンプレックスを肥大した尊大さで覆い隠すようなところが見え隠れしていた。

麻由子は、自分も仕事をしていることを言い訳にして、村田家とは子どもを通じた交流だけにできるだけとどめておき、キャンプやバーベキューに誘われることはあっても、当たり障りのない付き合いで、深入りしすぎないように気をつけていたのだった。

村田茂の叫び声が知沙の耳にも届いてしまったのだろうか。寝室から大きな叫び声が聞こえた。麻由子が寝室に行くと、知沙が泣き叫んでいる。麻由子は慌ててリビングへ戻り、睡眠薬とコップの水を持って寝室へ戻り、知沙をなだめながらなんとか飲ませた。

しばらく抱きしめていると、薬が効いてきたのか、再び知沙は眠りに落ちた。

気がつくと、村田家からの音も聞こえなくなっていた。時計は11時を過ぎていた。麻由子も明日に備えて眠ろうと、知沙の横になったが、その夜は何度もパニックを起こす知沙に起こされ、麻由子は十分な睡眠を取ることができなかった。ドクターからは3回まで睡眠薬を飲ませていいと言われたが、3回目の薬も切れると再び眠れなくなった。麻由子は朝までぐずる知沙を抱きしめ続けた。

絶叫

病院での聴取のあとで、村田茂と村田美久は、村田百合と村田美咲の遺体の警察署への移動とともに、警察署へ移動し、さらに聴取が続いた。

美久は署内の別室で誰かが面倒を見ていてくれていたようだ。

山田晋也とはどのような関係だったのか、根掘り葉掘り、何度も同じことを聞かれた。最初は適当にはぐらかしながら答えていたが、警察官の巧みな誘導に、実際に、どのような会話や行動で山田晋也を追い詰めていったのか、正直に全て白状することになった。

夜、8時過ぎに帰宅していいと言われた。警察が送ってくれるという。覆面パトカーなのだろうか、パトカーとは違う一般車両で自宅に送ってもらうと、家には茂と百合の双方の両親が居た。

両家には万が一に備えて合鍵を渡してあった。

どういうことなんだ、百合と美咲の遺体はどうした、百合と美咲に会いたい、どうして一緒に帰ってこなかった、特に百合の両親からは冷たく蔑んだ視線が茂に対して注がれていた。

茂はこれから司法解剖があるので、遺体がいつ返ってくるのか予定がわからないと伝えた。明日、警察で対面することは可能だとも伝えた。

つけっぱなしになっていたテレビのニュースでは、今朝の事件について報じられていた。運転手が故意に起こした可能性が高く、死亡者の夫は運転手に対してパワハラをした過去があることをキャスターが伝えていた。

百合の両親がパワハラについて茂を詰問する。すると茂が突然、部屋の中央のテーブルをひっくり返して叫んだ。

「オレは悪くない!オレは妻と娘を殺された被害者だぞ!オレの何が悪いんだ!あいつとはもう5年以上も会っていなかったんだ!なんで今さら、なんで今さら、なんで今さら、、、」

すると、それまで無表情だった美久が突然大声で泣き始めた。慌てて茂の両親が子供部屋へ連れていき、なだめようとしたが、泣きつかれてはウトウトとして、しばらくするとハッと起きてぐずりだす、そんなことを繰り返し、一晩中熟睡することはなかった。

Ⅱ:2日目

喪失感

次の日、武井麻由子と武井知沙はまんじりともできないまま、朝を迎えた。6時半を過ぎて、昨夜の残りのカレーを温めて食べると、病院へ行くために支度をした。昨日は急なことで病院の事務に提出できなかったので、2人の健康保険証と18歳まで受けられる市の医療費補助証をバッグに入れると、麻由子は小学校へ知沙を休ませると電話を入れた。

身体はかすり傷だけだから、無理をさせれば行かせることもできるだろう。しかし、昨夜の様子だと精神的なショックは相当なものだ。とりあえず、今日は休ませて病院へ連れていき、児童精神科の受診について相談してみることにした。

家を出る準備をしていたら、家の電話がなった。小学校から、昨日の事故の件でスクールカウンセラーが手配されたから、今日これから面談してみないかとのことだった。すぐに来られるなら、午前9時に入れられるとのこと。

麻由子は佐江の様子も心配だったが、知沙にカウンセリングを受けさせるチャンスだと思い、準郎に遅くなるとメッセージを入れると小学校へ向かった。小学校の相談室にカウンセラーがいて、麻由子は廊下でドアから見ていた。カウンセラーは、レゴブロックの人物や風景などのパーツのようなものをたくさん知沙の目の前に用意して、好きなように並べてごらん、などと言っていた。

知沙は、かわいい犬や猫、赤ちゃんなどの人形を山積みにしたあとで、その上から大きなトラックや電車のおもちゃで押し潰していた。潰して崩すとまた積み上げて潰し、また積み上げては崩すをほぼ時間いっぱい繰り返すだけだった。昨日の事故を何度も再現しているようだ。

一通り知沙のセッションが終わると、カウンセラーは知沙に保健室で休んでいるように伝えてから、麻由子を部屋へ招き入れた。部屋のドアをしっかり閉じると、カウンセラーは、今日見せた行動は昨日受けたストレスを表現するために必要なことで、問題行動でもなんでもないことを母に伝えた。とにかく今は感情の吐き出しが必要だから、継続的なカウンセリングをおすすめすると伝えた。

麻由子は児童精神科の受診も検討していると伝えると、病院での治療とカウンセリングを並行しても大丈夫だとのことだった。病院でのカウンセリングは保険適用にならなければ高額になるが、スクールカウンセリングなら無料で受けられるので、希望するなら学校で予約をするようにとのことで、その日は終わった。

学校から病院へ向かう道中、昨日の事故現場を通った。事故現場となった商店のブロック塀には花束やぬいぐるみがいくつも手向けられていた。それを見た知沙の顔がまた険しくなっていくのを感じて、麻由子は車のハンドルを握りながら、母親として切なく複雑な気持ちに沈んでいった。

病院に着くと、佐江はすでに目を覚ましていた。準郎に聞くと30分ほど前に目を覚ましたという。まだ鎮静剤が効いているのか、頭がぼーっとしているようだが、会話をすることに問題はなかった。

まだ朝食を摂っていないという準郎がコンビニへ行くという。一緒に病室を出た麻由子は、足のことは伝えたのかと質問した。準郎はまだ伝えていないと言い、病院の出口へ向かって歩いていった。

麻由子が病室に戻ると、佐江が左足が痒いからかいてくれという。四肢の切断後に起こる幻肢痛だ。麻由子は何度か患者が幻肢痛を訴えるのを見たことがある。麻由子は長女に切断した左足のことをどうやって伝えればいいのか考えながら、布団の中に手を入れて左足をかく真似をした。真似だけでもなぜか痒みが収まったようだ。

準郎がサンドイッチを買って戻ってくると病室で食べ始めた。父親が食べているのを見ていたら、佐江がお腹が空いたと言う。考えてみたら、昨日の朝食以来、佐江は点滴だけで食事をしていない。

準郎は少し多めにパンやデザートを買ってきていたので、看護師に食べさせても大丈夫か聞いてみた。しかし、ドクターに確認するまで待っていてくれと言われた。

鎮静剤が抜けるにつれて、佐江は身体をモゾモゾと動かし始めた。左腕が痛くて動かないことに気がついた。肩を脱臼して、左上腕を骨折したことを伝えた。

足もモゾモゾと布団の中で動かし始めた。右足を動かしていたら、なにかおかしいことに気がついたようだ。いつもなら、掛け布団の下で右足にぶつかるはずの左足がない。右足を布団の中で左右にいくら振ってみても、左足がない。

「あれ?なんか、足、おかしい。どうしたの、左足、ないよ」

右足で切断面に触れたようだ。

「え?何これ?左足、太ももまでしかないよ、膝から下はどうなっちゃったの?」

佐江はパニックになり始めている。麻由子が口を開いた。

「昨日、登校途中のあなた達の列に車が突っ込んできて、左足がタイヤの下に巻き込まれて、切断せざるを得ない状態だったの。正直、命が助かっただけでもいいくらいの状態だったって。」

「え?うそ!何で?今度の日曜日、バスケの試合だよ!どうなるの?足切断って、もうバスケできないの?何で!嘘だ!」

準郎と麻由子はベッドの脇で佐江の手を握り、「大丈夫だよ、バスケができなくても大丈夫だよ」と、ひたすら伝えることしかできなかった。

看護師とドクターがやってきた。ドクターは担当医であることを佐江に告げて自己紹介をして、足を切断するしかなかったことを伝えた。佐江は泣き始めた。左足を失ってしまったショックに、ただただ涙をながすしかなかった。そんな姉の姿を見て、知沙も不安そうに身体を固くしていた。

父の準郎が佐江の手を握りながら、母の麻由子が知沙を抱きしめながら、その場にいる家族全員が、全くやるせない気持ちでただただ沈むばかりだった。

苦悩の決断

山田晋司と母は、朝7時頃に起きた。前日に晋司が買っておいたパンを食べていると、晋司のスマホが鳴った。妻の美由紀からだった。建設会社を営む美由紀の父とこれから相談するから、晋司と美由紀の自宅へ晋司の母と一緒に来るように言われた。

しばらくすると佐藤弁護士が晋司の実家へやってきた。昨夜、晋司は車を警察に置いてきてしまったので、警察まで送ってくれるという。母と一緒に家を出て、警察署で下ろしてもらい、自分の車に乗り換えてから自宅へ向かった。

自宅へ着くと、すでに美由紀と義父の松浦建三、佐藤弁護士がいた。簡単な挨拶を交わすと、佐藤弁護士から事件の概要と、今後予想される展開が3人に説明された。

まだ、警察からの正式な説明はないが、昨日からの報道をまとめる限り、晋也が酷いパワハラで恨んでいた村田家を狙った殺人事件になることで間違いなさそうだとのこと。計画性についても、2週間前に仕事を辞めると告げて、事件の前日に正式に退職していること、自殺用の薬剤を事前に用意していたことなどから、十分に認められるので、突発的な殺人よりも悪質性が高いと判断されるだろうこと。

殺人事件であれば自動車保険も健康保険証も適用されないので、加害者に治療費と損害賠償請求が直接やってくること。今回は、重症者が4名、内訳は足の切断をした児童が1名、手術が必要な骨折が1名、手術が必要ない骨折が2名、軽症者が10名以上、ということで治療費と慰謝料の請求額がかなりの金額に上るであろうことが予想されること。

事件の動機は晋也が受けたパワハラであり、晋也が裁判を受けることになれば情状酌量の余地はあったかもしれないが、晋也が自殺してしまったことで、被疑者死亡のまま送検で終わり罪には問えないこと。

しかし、経済的な損失の部分に関する請求には、動機となるパワハラは一切考慮されない。村田茂の言動が直接の引き金であったことを考えれば、村田家の2人が亡くなったことに対しての賠償請求がなされる可能性は低いかもしれないが、今回は全く関係ない児童を多数巻き込んでいるので、そちらへの支払義務が生じること。

ここまで佐藤弁護士は一気に説明すると、晋司に向かって一つの提案をした。それは、美由紀と離婚をすることだった。

離婚して、財産分与として、今は義父名義のこの自宅を晋司が譲り受けて売却して賠償金の足しにするということだ。また、貯金なども全て晋司にわたすとのこと。

また、晋司には全く過失がないということで、義父からも多額の離婚慰謝料を支払うとのことだった。

慰謝料の金額は、相手の不貞で離婚した友人から聞いたことがある相場の10倍もの金額だった。離婚理由は美由紀の不貞でもないのに、これは破格だと佐藤弁護士は言った。

松浦建三は、きまりの悪そうな顔で晋司に告げた。

「中学の時に付き合っていたときも、私が無理やり離れるように仕向けたのに、結婚するときもバツイチの娘を押し付けるようなことをして、それで君は何も悪くないのにこっちから離婚してくれっていうのは、本当に勝手な話だと思う。でもね、君が晋也君の弟だと知っている人も多い。美由紀もだが、孫たちが、これからここで暮らしていくのはかなり難しいと思うんだ。一度、離婚してもらって松浦姓にしてから、美由紀と子どもたちをしばらく遠方の友人の建設会社で預かってもらおうと思うんだよ。」

晋司と美由紀がはじめて付き合ったのは中学2年生になったばかりの頃だった。中学に入学してすぐに美由紀に一目惚れして、クリスマスくらいから勇気を出してアタックし始めた。そして、交際のOKをもらったのが2年生になってからだった。

2人の交際は順調で、なぜか2人とも未来まで予想できるような気がしていた。このままずっと、大人になるまで一緒にいるつもりでいたが、優秀な兄とは違い勉強の成績があまり芳しくない晋司との交際を父親の建三は嫌がっていた。

高校受験で美由紀は裕福な家の子弟が多い私立へ入った。美由紀の高校は少し遠方だったから、地元の高校へ入った晋司とは会う機会はほとんどなくなり、交際は自然消滅していった。

美由紀はそのまま高校の系列大学へ入り、大学生のうちに父が政略結婚を考えていた相手と見合いをさせて、大学卒業後すぐに結婚させた。しかし、相手が女にひどくだらしない男だった。建三は結婚すれば変わるだろうと踏んでいたが、結婚後も他の女との浮名を流していて、それはたびたび建三の耳にも入ってきた。

美由紀も父親の会社のためと思ってはいたが、それでも夫となった人に少しは期待する部分はあった。結婚すればせめて妻として尊重してもらえるだろうと。しかし、相手は政略結婚で好きでもないのにもらってやったという態度をあからさまにし続けて、あまりにも蔑ろにされる生活が耐えられなくなっていた。会うたびにやつれていく美由紀の姿を見て、結婚後1年で建三は離婚させることにした。

離婚後、美由紀は父の会社で事務として働いていた。そこには、ミケネコタケルの配送員として晋司が出入りしていた。

「お世話になりまーす!ミケネコタケルでーす!」

そう明るく言いながら、重い荷物をいつも運んでくる晋司に、あるとき建三が休みはいつなのか聞いた。

「オレですか?水曜日はいつも休みで、あとは不定休です。繁忙期は多く出られるように、暇な月にちょっと多く休んだり。シフト表はもらうんですが、前日に急に変わってくれって言われたり。水曜日なら必ず休めるんですが。」

そう聞いた建三は次の火曜日の夜に晋司を食事に誘った。

食事の場には美由紀もいた。建三は晋司に今彼女がいるのか聞き、いないと聞くと、

「オレのせいでバツイチにしてしまったけど、やっぱり美由紀はお前がもらってくれ」

と、テーブルに手をついて頭を下げた。

「お父さん、急に何を言い出すの。ごめんなさいね。」

美由紀は呆れたように言ったが、建三が続けた。

「いや、中学生の時には、晋司くんはお兄さんと違って成績もあまり良くないし、野球ばっかりやっているイメージがあったから、美由紀にはふさわしくないと思ってしまったんだよ。でも、高校からバイクに乗っていても、暴走族に入るわけじゃない、今まで無事故無違反だってね。商工会でも、ミケネコタケルの所長が、真面目でいいヤツ、周囲への気遣いもできるし、後輩の教育だってしっかりしているもんだ、っていつも褒めているんだよ。オレは、人を見る目が本当になかったね。オレが、こんなこと言える筋合いでもなかったら、彼女もいないなら、また、美由紀との関係、考えてくれないかね」

晋司はいきなり言われて面食らったが、悪い気はしなかった。美由紀と会わなくなってから、数人の女性と交際したが、どこかしっくりこなくて別れてきたからだ。

その場は、とりあえず連絡先だけ交換したが、すぐに連絡をとりあうようになり、1ヶ月もしたら交際を再開させていた。中学生の時のようなトキメキはなかったが、お互いに一緒にいるのが一番自然に思える相手だったのだ。

交際再開から2年ほどで結婚した。家は結婚時期に合わせて、義父が会社で所有していた生活の便のいい土地に建ててくれた。名義は義父だったが、全ておんぶにだっこだと申し訳ないと、固定資産税は晋司が払っていた。

結婚してもうすぐ10年、子どもも3人できて、晋司と美由紀はたまに口喧嘩をしながらも、昨日まで穏やかで幸せな普通の家庭を営んできた。

しかし、今回の件で、山田晋也の名前は全国に知れ渡ってしまった。近所の人も、ここが山田晋也の弟の家だと知っている人が多いだろう。子どもたちがこれから山田姓でここで生活をしていくのはとても難しいことは想像に難くない。

離婚して、松浦姓にして、違う土地でいったん美由紀と子どもたちの生活を建て直させたい、建三はそう晋司に言うのだった。また、事件のことが落ち着いたら晋司が婿養子になって復縁すればいい、山田姓では生活しにくいだろうから、君も松浦姓になって、一緒に暮らせる日が来たら、また一緒になればいいだろう、それまで、いったんは離れさせてくれ。もちろん、君は全く悪くない。でも、晋也の弟だということは、どうしても逃れられない事実なのだと。

また、今後、晋也の遺族として必要になるであろう弁護士費用も義父が持ってくれるとのことだった。佐藤弁護士では対応が難しく専門性の高い弁護士に依頼する場合でも全額必要な費用を支払ってくれるという。

そこまで言われて、晋司は何も反論することはできなかった。今後、請求されるであろう莫大な賠償金を考えると、義父の申し出はありがたすぎるものでもあった。晋司と母は、ただ頭をうなだれて、申し出を受け入れることしかできなかった。

Ⅲ:新しく始まる日常

見送り

事件後、1週間ほどして村田百合と村田美咲、そして山田晋也の遺体はそれぞれの家族に返されて、葬儀が行われた。

事件の被害者ということで、村田家の葬儀は大々的に執り行われた。茂と百合のそれぞれの親戚や、百合の友人、茂の会社関係者、美咲の同級生や習い事の友だちなどが多く参列して、2人を見送った。

武井準郎は近所同士での手伝い、ということで参列した。しかし、村田茂を見ると憤りが多くを占める複雑な気持ちにしかならなかった。

山田晋也は事件の加害者であることがほぼ間違いないとして、今後、被疑者死亡のまま送検となりそうな見込みであった。体内からはサイン無しで誰でも購入できる農薬の成分が高濃度で検出され、これが死亡原因であると断定された。加害者ではあっても既に死亡していることから、それ以上のお咎めはなしだ。

遺体は遺族に引き渡されて、ひっそりと人目を憚るように家族と数人の親族だけが出席する密葬が行われた。

事件後、さまざまなメディアが、事件の背景として村田茂の山田晋也に対するパワハラを詳細に報じた。村田茂の会社では、社長から箝口令が敷かれたようだったが、既に退職している人には、社長のどんな脅しも効かなかったようだ。

語られる詳細

特に強烈だったのは、村田茂が務める会社で働いていたという、山田晋也の遠縁に当たる人の証言だった。

村田茂は入社後すぐに山田晋也の教育係となったが、「W大だから余裕だよな」といって、全く業務内容を教えようとしなかった。教わっていないので見よう見まねでやるがミスをする。ミスをすると言っても、大まかな方向性は全く間違えていない。会社独自の細かいルールなどを少しミスする程度で、会社の先輩が少し注意すればすぐに直せる程度のものだ。

しかし、村田茂は「W大のくせに、その程度のこともわからないのか!」と罵倒するばかりで、全く必要なことを教えようとしない。

証言者が見かねて、村田茂の血縁である社長に何度か話して注意してもらった。そして、仕事の方法は証言者や周りの人が詳しく教え込んだ。すると、やはり地頭がいいだけあり、すぐに飲み込んで村田茂よりも早く正確に仕事ができるようになった。

そうなると、ますます面白くないのか、どうでもいいような仕事をどんどんと押し付けていく。しかし、山田晋也は手際よく片付けていく。そのうち、仕事の流れをつかむと、エクセルを自分でいろいろと工夫して、さらに作業を効率化できるようにしていった。

しかし、村田茂は山田晋也が何をやっても、「おい、役立たずのW大!」「クズW大!」と罵倒するばかりで、山田晋也の仕事ぶりを一切認めようとしなかった。

しっかり仕事をしているのに罵倒するのは良くないと社長に告げたら、さすがに社長も強く注意してくれた。しかし、社長はほとんど外出していて会社にいない。村田茂も社長がいるときには罵倒しないが、社長がいなくなると全く態度が変わらなかった。

また、証言者は山田晋也が入社後数年したら母親からよく相談されるようになったともいった。山田晋也は、実家で脳梗塞で倒れた父親の介護を母と一緒にしていた。休日は母親を休ませるために、山田晋也が率先して介護をしていたという。

しかし、上司の家に頻繁に呼び出されて困っているという。呼び出されても、午後2時から5時位までで、昼食や夕食を振る舞ってくれるわけでもない。子どもたちの子守や家庭教師、時には家の片付けなどをさせられているという。もちろん無給だ。

帰ってきてから父親の介護を夜遅くまでやるので、身体を休める暇がない。上司の休日の呼び出しをなんとかしてもらえないか、そんな相談だった。もちろん、その上司とは村田茂のことだった。しかし、社長に伝えても、業務外のことは関係ないと言われるばかりだったという。

そして、一番強烈だったのは、父親の危篤の連絡が入ったときの話だった。会社に電話が入ったとき、上司である村田茂は帰宅を許さなかったのだ。それも、緊急の山田晋也にしかできない仕事が山積みになっていたわけでもない。ただの嫌がらせだった。

1時間近く押し問答をして、証言者が社長に言いつけると強く言ったらようやく帰宅を許可した。しかし、晋也は父親の死に目には間に合わなかった。

その後、父親の四十九日法要が終わったあたりで、山田晋也に限界が来た。突然、精神科に入院したという、会社に適応障害とうつ病の診断書が提出された。

当時、山田晋也の弟の義父がこの辺では中堅の建設会社経営していて、その父親から上司のパワハラが原因だということで労働基準監督署に訴えると言われた。しかし、社長が多額の慰謝料を支払う形で、労基への通報は免れた。

その後、社長は村田茂の下に別の部下を付けようとしたが、社員の多くが村田茂の下に付いてあんなパワハラを受けるのなら会社を辞めると言い出した。結局、村田茂はその後、1ヶ月間の10%の減給という、対してダメージにもならないような処分で、同じ地位のまま部下のいない名ばかり管理職となった。

村田茂はいざという時どこにでも入れる「ユーティリティプレーヤー」とのたまわっていたが、実際は社内全体のお荷物だった。山田晋也の方がまだ仕事がはかどる。山田晋也の復帰を望みながら、みんな村田茂との関わりはできるだけ社内で持たないように気をつけていた。しかし、晋也は復帰できずに退職してしまった。

証言者はここまで語ると、山田晋也の葬儀に社長を誘ったが断られたこと、山田晋也の行いは決して許されるものではないが、社長の親族であることを盾にしたパワハラがなければ、このような事件を起こすことはなかったこと。

もともと、山田晋也は大手総合商社も内定していたのに、両親から頼まれたわけでもないのに父親の介護のために蹴って学歴からはもったいない実家近くの会社に入り、自分のボーナスをはたいて家族を旅行に連れて行くような心優しい子だったことを語った。

そして、ここまで酷いことをするに至った原因は、この会社に入ったことで、村田茂の人間性を教育できなかった彼の親族である社長に一番責任があると断じた。

この証言者の語ることは、テレビでは全ては流れなかったが、ポイントがまとめられたものがワイドショーなどでは報じられた。また、文字起こしした全文が新聞やネットニュース、雑誌などに掲載されて、多くの人がそのパワハラの実態を理解した。

山田晋也が起こした事件は許せない、でもその背景を理解すればするほど、みんな複雑な気分になっていくのだった。

武井準郎もまた、山田晋也が抱えていた苦しみに同情はしても、やはり長女が足を失うという結果に対しては強い憤りしか感じなかった。そして、その遠因を作ったとも言える村田家に対しては、もはや何の同情もできないのだった。

再出発

しかし、そうはいっても新しい日常が武井家では始まっていた。

佐江のリハビリは事件の翌日から始まった。ベッドから起き上がることを嫌がる佐江を、理学療法士が無理やり、ベッドのハンドルを回して背もたれを起こして起き上がらせた。

何でもない体の右側を強引につかんでベッドに座らせて、右脇を支えながら無理やり立たせる。佐江は泣きながら抵抗していたが、それでも理学療法士は立たせて、右腕に松葉杖を持たせると、しばらくその姿勢で立たせていた。

立っていたのはほんの2、3分で、すぐに座らせて、ベッドをフラットにして寝かせた。しかし、この2、3分が重要なのだと、麻由子は説明した。

どんなに若くて元気な子でも、3日も一度も立たずに寝たままだと、本当に歩けなくなってしまう。1日に1回でも、こうして立つだけで、あとからの回復が全く違うのだと。

リハビリをする理学療法士は、患者がどんな気持ちでも、身体を動かせるようにすることが仕事だから、特に甘えが出そうなときにはあのように厳しく当たるのだと。

しかし、一度、立ち上がってみたことで、少し佐江の心境にも変化があったのだろうか。次の日からは、最初のときのような抵抗は見せずに、少しずつリハビリに前向きに取り組むようになっていった。

病院からは佐江の今後についての見通しも伝えられた。病院での治療中心のフェーズが終わり、本格的なリハビリに入ったら、院内学級とリハビリ環境が揃っているこども病院への転院がいいのではないか、完全に入院治療が必要なくなったら、一般の小学校に戻るのではなく肢体不自由の特別支援学校がバリアフリーで安心だとのことだった。

こども病院と特別支援学校で義足のリハビリを行い、義足で普通に階段も上り下りできるようになれば、希望すれば一般の学校へ戻ることも可能だろうとのこと。ただし、今の状態から義足で階段を上り下りして、他の子供と同じペースで普通の学校で生活出来るようになるには、1年以上かかるだろうと。

退院後にどうしても一般の学校への復帰を希望するなら、無理強いはできないが、安全面からおすすめできないとも伝えられた。

入院治療はまだ半年程度必要だから、ゆっくり検討して下さいとのことだった。

麻由子は、義足にするつもりなら、しっかりリハビリできる環境を選んだほうが良いと伝えた。

事件から1週間後、佐江の誕生日だった。もう、何を食べてもいいし、差し入れもOKとのことだったので、病院でみんなでケーキを食べて祝った。とは言っても、病院ではホールケーキは切れないので、それぞれの好みのケーキを買って来て、それぞれが味わいながら佐江の11歳の誕生日を祝った。

ケーキは、佐江は事件の朝リクエストしていたフルーツタルト、知沙はいちごショート、準郎がレアチーズケーキで、麻由子がモンブランだった。

バスケをやっていたことを知った理学療法士が、車椅子バスケの動画を見せてくれた。なんとなく存在は知ってはいたが、この状況になると見方が前とは大きく違う。

佐江はタブレットを使ってYouTubeの障がい者スポーツの動画、特に車椅子競技や片足を切断した人の陸上などを見入るようになった。

知沙の方は、佐江が入院している病院と、麻由子が勤めている病院の児童精神科に問い合わせをしてみた。しかし、どちらも予約が1ヶ月待ちになるとのことだった。

どうしたらいいのか困っていたら、市内に個人開業のクリニックがあるという。初診の待ち時間は長いが予約なしでも診てくれるとのことで、武井麻由子は次の日に知沙を連れて児童精神科のクリニックへ行ってみた。

ドクターからは精神的なショックが強く、ショックな記憶を吐き出させることが重要だと言われた。現在の知沙の症状は、事故や災害などに遭遇したときの人の当然の反応だとのこと。大人でもこのような状況になることもあるそうだ。まだ、完全なトラウマになっていないが、カウンセリングを適切に受けさせないと、完全にトラウマになってしまい、将来的に心理的な問題になってしまうとのことだった。

学校でスクールカウンセリングを受けられるのなら、継続してショックな記憶を表現しながら外に出していくことが重要だとのことだった。児童精神科でできるのは薬物療法だとのことで、不安を和らげる薬と、事件当日に処方されたものよりも強めの睡眠薬が処方された。

「カウンセリングと薬物療法の両軸でしばらく進めていきましょう。時間はかかるかもしれませんが、ちゃんと対処していけばいずれ回復しますから、安心してください。」とドクターは言ってくれた。

しかし、知沙は学校に行けなくなった。事故から5日ほどして登校してみたが、教室で泣き出してしまい、その日は精神的に不安定になってしまうことが多かったという。その日は大半を保健室で過ごし、帰りは麻由子が迎えに行った。

次の日からは、学校へ行きたくないとぐずるようになった。事故現場を通るのがとにかく怖い、教室からも見えるから嫌だと。どうしたらいいのか悩んだ挙げ句、麻由子は学校を休ませることを決断した。

武井準郎と武井麻由子は、仕事について話し合った。子どもたちのサポートが必要になった現在、2人とも正社員で働き続けるのは限界だった。どちらかが自分のキャリアを諦めなければいけないだろう。

麻由子はしばらく休む許可を病院からもらえたので、事故から5日目から準郎は出社した。上司と話し合いの結果、現在、中核メンバーとなっているプロジェクトはサポートメンバーになることになった。子どもたちの状況から、今後、急な呼び出しなどが増える可能性が高い。チームに掛ける迷惑を考えると、主要メンバーで居続けるわけにはいかないだろう。出世は遠のくが、会社に自分の代わりはいる。子どもたちの親は自分と麻由子しかいない。準郎は受け入れるしかなかった。

事故から2週間ほどたったある日、夜、知沙を寝かせると、麻由子が準郎にある提案をした。

「ねえ、この家を賃貸に出して、パパの会社の近くに引っ越さない?」

「急に何だよ、都内の23区内だぞ、家賃いくらだよ」

「あのさ、これ見てよ」

というと、麻由子はスマホで地図アプリを開いた。

「ここがパパの会社でしょう。」

次に少し離れた場所にある建物を指差す。

「ここにこども病院があるの。児童精神科も、リハビリ環境も、院内学級も、今のうちに必要なものが全部あるのよ。近くに特別支援学校もあるのね。小学校も中学校もね。スクールカウンセリングは転校しても同じように受けられるんだって。ちゃんと引き継ぎもしてくれるって。パパの会社からは普通電車でも15分くらい。家賃相場も都内でもここは市部だから、23区内ほどじゃないのよ。今のローンの返済額から少し無理すれば払える感じ。新しいマンションならバリアフリーなところが多いから、佐江が退院してきても車椅子で生活できるでしょう。」

準郎はうなずいた。

「それで、不動産会社に問い合わせて、この家を賃貸に出した場合の家賃の相場を聞いたの。そうしたら、このあたりは自衛隊の転勤族の需要があるんだって。異動の時期には、官舎に入りたくない、家賃を払っても広めの一戸建てがいい、って家族からの問い合わせが絶えないそうよ。空き家はたくさんあっても、ちゃんと手入れして住めるような家が少ないんだって。だから築5年ちょっとで今も住んでいる家なら、必ず借り手がつくって。それで、この家のローンの支払と将来的な修繕費用の貯金くらいはできそうなのよ」

そこまでいつの間にか調べていたのか。準郎は思わずうなった。確かに、自衛隊の迷彩服を着て出勤する人が多い地域だ。

「あ、でも、賃貸に出したら住宅ローンじゃなくて、事業用ローンに切り替えなきゃいけないって。金利は少し高くなるけど、借り手が付けば問題ない。自衛隊限定にすれば、きれいに使ってもらえるって。2、3年の短期間の人限定に貸し出せば、自分たちが戻りたくなったときに新しく契約しなければいいだけだから、出ていってもらうのにも苦労しないって。それで、佐江が普通の学校に戻れるようになって、知沙もここに戻って大丈夫そうなら戻ってくれば良いし、もしも知沙の精神状態が無理そうなら、私達の老後の住まいにしようよ。」

確かに、この家を手放すのは惜しい。でも、知沙のことを考えたら、今はここで住み続けるわけにはいかない。また、佐江が戻ってくるときにはバリアフリー化も必要になる。

この家をバリアフリー化するよりも、すでにバリアフリー化が済んでいるマンションでも探したほうが確かに早いだろう。準郎は麻由子の手際の良さに思わず顔を見つめた。

「それで、私、フリーランスか在宅ワークの看護師になろうかな、って思っているの。」

「看護師にもそんなのがあるの?」

「うん、うちの病院でも時々入ってもらうんだけど、急な欠勤を埋めなきゃいけないときとかにね。あとは、健康診断のお手伝いとか人手が必要なとき。急な欠勤って、当日にならないとわからないから、当日の朝登録しても、オファーが来ることが多いらしい。特に、都内なら需要は必ずあるって。知沙の状況を見て、その日働くかどうか決められるでしょう。」

「在宅ワークって何だよ」

「電話やチャットでの健康相談とか、オンライン診療の補助とか、時給もフリーランスとほぼ同じくらいみたい。でも、私は現場が好きだから、どっちかっていうとフリーランスのほうがいいけど、知沙が学校に通えない状況が続くなら、在宅ワークでもいいかな。」

「でも、看護師長になるのが夢だったんだろう?」

「そうだけど、子どもたちがこうなってしまった以上、どうにもならないじゃない。どっちかは今は正社員を諦めて子どもたちのサポートに専念するべきでしょう?出世の夢は諦めても、将来的に正社員でバリバリ働きたければ、看護師ならいくらでも復帰できるし。パパはそういうわけにいかないでしょう。」

そうだ、準郎は経営学部卒業の金融関連会社。今の会社のシステムの中にいてこそのキャリアアップであり経験の蓄積だ。もちろん、準郎も会社で順調にキャリアを積み重ねてきたが、会社の外に出て通用するかどうかはまだわからない。看護師という全国どこでも通用する鉄板の資格の麻由子とは状況が違うのだ。

「佐江は事故の記憶がないから、その辺は心配ないけど、知沙はとにかくここから離れないと。無理やりあの小学校に行かせるわけにもいかない」

そうだな。準郎もそれは漠然とだが考えていた。それなら、麻由子のいうエリアに引っ越すことも検討してもいいかもしれない。

「私もどのくらい稼げるかわからないし、世帯年収はかなり減るから、パパにはとにかく頑張ってもらわないと。子どもたちの高校は公立でお願いしない?」

そうだな、今まで2馬力だったのが1.5馬力、知沙の様子によってはもっと少なくなる可能性もある。

「でも、私、扶養の範囲に収めようとは思わないから。働けるときにはガンガン働く。」

とにかく麻由子は頼もしい。というか、マグロのように常に動いていないと息が詰まってしまうタイプなのだ。

「話は変わるけど、村田さんのご主人、発狂しちゃったんだって。精神病院に入院したけど、完全に頭の回線がおかしくなっちゃったらしい」

麻由子の同僚の親戚が、村田茂の会社に勤めているのだそうだ。山田晋也の親戚の証言が会社のフロアでつけっぱなしになっていたテレビで流されたときに、突然「オレは悪くない!オレのせいじゃない!」と叫びだして、頭を抱えてブルブルと身体を震えさせていたとのこと。

目つきが尋常ではなく、話しかけても目を見開いたまま震えるばかりで反応しない。様子がおかしかったことから、社長が数人の若い社員に抱えさせて連れ出し、自分の車に乗せてそのまま精神病院へ連れて行き、入院させたとのことだった。看護師ネットワークで、その病院に勤めている人からの情報も得られて、完全に精神のタガが外れてしまったようで、今後の回復が望めるかどうかわからないとのことだった。

自分の妻と娘が殺された上に、犯人に対して行っていた自身の酷い仕打ちが全国に垂れ流しにされたわけだ。尋常の精神状態ではいられないだろう。

村田美久は葬儀後、一度も登校することなく、クラスでのお別れ会もなく転校したとのこと。父親か母親か、どちらかの祖父母宅へ預けられたそうだが、その後はわからなかった。

事故後に被害者の保護者で作ったLINEグループでは、その後、何度か会合を持った。

メンバーには、当日病院での治療は受けなかったものの、その後、精神的なショックが強く、スクールカウンセリングだけでなく、本格的な治療が必要と診断された児童が数人加わった。

最終的に被害者の会を結成して、あの時の弁護士が格安で代理人を勤めてくれることになった。弁護士が格安で引き受けてくれたという話だが、弁護士を呼んでくれた社長であるという保護者が、差額を負担しているのではないかとも噂された。

「まあ、うちが儲かれば顧問料もたっぷりお支払いできるんで、ご贔屓にしてくださいよ」と社長さんは人の良さそうな笑顔で言っていた。フランチャイズの飲食店を数店舗経営しているとのことで、武井家では今後はその店を重点的に使おうと決めていた。

弁護士が、山田晋也の母親に連絡を取ったところ、代理人弁護士から連絡が来たという。山田晋也の遺産と、母親と弟の財産と弟の自宅の売却金を賠償金として支払うことができるとのことだった。それで足りなければ、母親が暮らしている実家も売却するが、あまり良い価格にはなりそうもないことと、高齢の母親の住処まで奪わないでほしいとのことだった。

裁判してもらうのは構わないが、無い袖は振れないので、これ以上の金額は無理だとのことだった。

不動産鑑定士に山田晋也の弟の自宅を鑑定してもらったところ、立地の良さと土地の広さ、建物の大きさから1億円以上の価格で売却できるだろうとのことだった。佐江など、入院が必要なこどもの治療費を支払っても十分にお釣りは来るだろうとのことだった。

通常、自動車保険で支払われる賠償金までは足りないが、これ以上相手を攻め立てても、ないものは支払われないことや、裁判費用がかかれば売却益から差し引かれるので、手にできる金額はもっと少なくなる。相手の申し出を受けることが最良だとのことだった。

そうこうしているうちに、村田茂の勤めていた会社の社長から、私財からの治療費の全額支払いの申し出があった。村田茂の山田晋也へのパワハラの事実を認めて、自分の教育不足によりこうした事態を招いたことの責任を取るとのことだ。

村田茂の発狂を教えてくれた麻由子の同僚からの情報によると、村田茂のあまりにも酷いパワハラと、それに対して真摯に対処しなかった社長の悪行が報道されたことで、取引停止が相次いでいるらしい。もちろん、村田茂の名前や会社名は出なかったが、妻と長女の名前から知っている人なら簡単に特定はできた。

無関係である多くの被害者の治療費を自分で負担することで、なんとか誠意を見せて取引再開を申し出ようということのようだ。

「まあ、今はどこもコンプラが厳しいからね」

麻由子は苦笑しながら言っていた。準郎の会社でもそれは同じだ。お互いに就職した頃に比べると、さまざまな制約が厳しくなりつつあるのは、実感している。

大なり小なり、どこにでもパワハラはある。しかし、村田茂がしていたことは度が過ぎていた。

村田社長からの申し出により、山田家からの賠償金は全額慰謝料に充てられることになった。被害者の会の弁護士の提案により、まず、精神的慰謝料として半額を被害児童の人数分で割って分配し、残りの半額を怪我の程度によって分配することになった。

佐江は一生背負うことになる障害が残るとのことで、その半額が支給されることになった。

佐江と知沙に支払われた慰謝料はそれなりに高額な金額となり、武井家では麻由子が病院を辞めても当面の経済的な不安は大きく払拭された。

何はともあれ、武井家は前に進みつつあった。

家族である呪縛

「ネコのマークの配達の山田晋●に気をつけろ!」

「殺人者のくせに、ネコのマークでいい気になって山田晋●が仕事してるよ!」

山田晋司は兄の葬儀も終わり、警察からの聴き取りもなくなった。美由紀との離婚手続きや賠償金の支払いについての交渉は佐藤弁護士に全て任せており、仕事を休み続ける理由もなくなったために、兄の葬儀から1週間ほどして仕事に復帰した。

最初はいつもどおり、トラックに荷物を載せて荷物の配達をしていた。しかし、ミケネコタケルではドライバーの名前がトラックの外側に明記されている。

自分の恨みを晴らすために故意に登校中の児童の列に車を突っ込ませた山田晋也の事件は、事件の背景となったパワハラから晋也に対する同情の声も上がった。しかし、上司本人ではなく妻と娘を殺したことと、無関係の児童を多数巻き込んだことから、山田晋也に対する非難の声も多いのも実情だった。

そんな中、ネットの掲示板やSNSでは、伏せ字にはしてあるが、明らかに晋也の弟の山田晋司をターゲットとしていると思われる投稿が見られるようになった。

また、山田晋也と山田晋司、名前が最後の1文字しか違わないということ、この兄弟は一卵性双生児ほどではないが、誰でも人目で兄弟だとわかる程には顔がよく似ていたことも、晋司には不幸なことだった。

「ミケネコタケルでーす!」と配達先に出向くと、胸の名札を見た受取人から「どうして人殺しが?」と罵倒されたり、警察に通報されたりすることが相次ぐようになった。

ミケネコタケルのコールセンターや営業所にも苦情の電話が多くかかってくるようになった。ネット上では、山田晋司のトラックが通った場所の投稿までされるようになり、ミケネコタケルの配達業務全般に不都合が出るようになってきた。

配送センターの所長は申し訳なさそうに、晋司に宅配ではなく、センター内での仕分けに回るように伝えた。「決して晋司のせいではない、晋司がこれまで10年以上無事故無違反を貫いて、真面目に今まで働き続けてくれたことは私達が一番良くわかっている」と言って。

しかし、社内の晋司に対する同情的な雰囲気も1ヶ月も持たなかった。なぜか、配送センター内での仕分けに回ったあとも、コールセンターや営業所には「殺人者を雇うな!」「ここは殺人者をかばう会社だ!」と電話が頻繁にかかってきていた。

また、ネットでの投稿も、山田晋司の雇用を続けるミケネコタケルへの非難の声が繰り返し書き込まれるようになった。

「山田晋●は殺人者の弟だ。そんなやつを雇っているなんて許せない!」
「ミケネコタケルは殺人者をかばう会社だ!不買運動しよう!」

営業所は配送センターに併設されているために、応対している人の声は仕分けをしている場所まで聞こえてくる。申し訳ないと思いつつ、晋司はそれでも母と自分の生活のために働き続けていたが、周りの雰囲気がすっかり変わって、同僚から避けられるようになるのに、そう時間はかからなかった。

また、山田晋也の弟が働いているということで、わざわざスポットバイトで仕分けに入ってくるような人もいたようだ。山田晋司のことを盗撮してネット上に上げるようなこともあった。仕事後に後をつけられたのだろうか、自宅も特定されて、玄関前にゴミをまかれたり、昼間、母が一人でいるところを何度もピンポンダッシュをされたりした。

警察や佐藤弁護士にも相談したが、警察は殺人者の家族ということであまり取り合ってはくれなかった。佐藤弁護士も損害賠償についてあらかた片付いたら、あまり話を聞いてくれなくなった。

晋司は夜、考え込んで嘆息することが増えた。オレは、ただただ真面目に、毎日一生懸命、荷物運び続けてきただけなのにな。何でこうなっちゃうんだよ。兄貴、どうしてオレをこんなに苦しめるんだよ。

兄を責める気持ちと同時に楽しかった思い出も次々と頭をよぎる。「あの時、兄貴はどうして...」と何度も問いかけるが、答えは返ってこない。涙が静かに頬を伝い続けるのだった。

それでも我慢して晋司は働き続けたが、3ヶ月後、所長に呼び出されて辞めてほしいと言われてしまった。もちろん、君には何の罪もない。しかし、現在の状況では全体の業務に支障を来してしまう。そもそも、事件を起こしたのは君のお兄さんだ、なぜ我々がそこで不都合を被らなければいけないのだ。本社からも早くどうにかしろと強く言われている。頼むから辞めてくれ、そんな調子だった。

晋司と母は生活に必要な最低限の金額だけを残して賠償金に回している。相手方と長く争うことなくそれができたのは、晋司に仕事と実家の建物があるという安心感があったからだ。

仕事を辞めるということは、すぐに餓死するわけでもないが、母と自分の生活が数カ月後には破綻するかもしれないことを意味していた。

佐藤弁護士に相談したところ、解雇予告手当と退職金の増額が提案された。仕事をこのまま続ける方法は佐藤弁護士は考えてはくれなかった。とりあえず、佐藤弁護士による交渉でお金だけ割り増しでもらい、晋司は仕事を辞めた。

翌日から、山田晋司はハローワークに通い出した。しかし、相談員も「山田晋 」を見ると表情を固くした。それでも、建前上では公的機関では人をそのバックグラウンドで差別したり排除したりしてはいけないので、配送関連や中型トラック免許を生かせる仕事を紹介してくれた。

しかし、山田晋也と一文字違いの名前とよく似た顔で、事件を起こした晋也の兄弟だとわかると、なかなか紹介状を持っていっても雇ってはもらえなかった。また、ときどき、そんな背景など気にしないという感じで、「明日からよろしく」と言われても、なぜかその日の夕方には、「やっぱりなかったことに」という電話がかかってくるのだった。

後でわかったことだが、晋司の就職が決まりそうになると、何故かその会社に猛烈な抗議の電話がかかってきたとのことだった。

ミケネコタケルの退職は佐藤弁護士のおかげで会社都合での退職にできたので、すぐに失業保険の給付を受けられた。解雇予告手当も退職金も割増されたので、1年間は経済的な不安はない。しかし、何度も何度も再就職を断られ続けるうちに、山田晋也の心は折れ始めてしまった。

そして、長男が起こしたとんでもない事件で次男の晋司がやつれていく姿を見ていた母も、気力を徐々に失っていったのであった。

「お父さんのところに逝きたいね」

半年経っても仕事が見つからず落ち込んでいる姿を見て、母がそうつぶやくと、晋司は答えた。

「一緒に、逝こうか」

母と息子は顔を見つめ合うと、お互いの決心をしっかりと確認し合った。

その頃、晋司と別れて、関東から遠く離れた九州で生活基盤を構築していた美由紀は父から晋司の苦境を伝え聞いていた。

その時だった

それから、数日かけて、晋司は母と最期の整理をした。家の中のものをあらかた捨てて、遺書を書き、残された僅かな財産についての処理を佐藤弁護士にスムーズに任せられるように、預金通帳や家の権利書をまとめた。

そして、2人の最期の場所へ家を出ようとしたときだった。玄関のチャイムが鳴った。出てみると、美由紀が立っていた。美由紀は「ちょっといい?」というと、家の中に上がり込んできた。

父親から、晋司が仕事を首になったのに、再就職できなくて、ネット中傷で大変だって聞いて心配していた。ちょうど子どもたちも学校が休みになったから、仕事の休みをもらって様子を見に来たとのこと。

部屋に入った美由紀は、机の上に置かれた「遺書」と書かれた封筒を見つけてしまった。急いで隠そうとする晋司からその封筒を奪うと、中身を出して読み始めた。

読み終わると晋司のところへ行き、思い切り頬をビンタした。「バカじゃない!バカじゃない!バカじゃない!」晋司の胸を叩きながら泣きながら何度も叫んだ。

「子どもたちはどうするつもり?伯父さんのことが落ち着いたら、またパパと一緒に暮らせるって、我慢してるのに、あなたまで死んじゃったら私たち、どうしたらいいのよ!」

そして、晋司の母の前に座ると、手を握りながら、

「私達の晋司、連れていかないでください。子どもたちから父親を奪わないでください。つらい気持ちもわかりますけど、お願いですから、まだまだがんばりましょうよ。」

「本当にすまないね、すまないね」

晋司の母は泣きながら何度も美由紀に謝るのだった。

美由紀はその場で自分の父と佐藤弁護士を呼び出した。

「お父さんのせいでもあるんだからね!」

美由紀は本気で怒っていた。

「私との結婚も離婚も、お父さんが勝手に晋司を振り回しているんだから!晋司がこんなに困っているなら、どうしてお父さんのところで使ってあげないの?うちの会社には、どこから流れてきたかわからないような人だって何人もいるじゃない。お義兄さんがやったことはともかく、晋司のことなんか、本当に小さなことじゃないの?」

「それから、佐藤弁護士も、どうしてしっかりと晋司をサポートしてくれないんですか。再就職が潰されることや、ネット中傷に弁護士として対処してくれないんですか。冷たすぎませんか?」

美由紀の剣幕に2人とも何も言い返すことができなかった。

美由紀は早速どこかに電話をかけ始めた。

「すみません。社長、前から話している私の旦那、今は元旦那ですが、社長のところでドライバーとして雇ってもらえませんか?こっちでは、事件の影響で再就職が難しくて。名前は、すぐに私と入籍して私の姓にするので大丈夫です。」

しばらく話して電話を切ると、

「大型免許取れば、いくらでも雇えるって。お義母さんも、ここじゃ肩身が狭いでしょう。ここを売って一緒に九州へ行きましょう。」

「それから、お父さん、お金貸してください。向こうで今住んでいる寮では、お義母さんと晋司は一緒に暮らせないので、みんなで暮らせる家を探します。晋司が免許を取って働き始めたら必ず返すので。あと、大型免許を取るお金も貸してください。それから、この家の売却もお願いします。」

それから、またスマホで何かを検索し始めてどこかへ電話をかけ始めた。ここに来る新幹線の中でいろいろと調べていたらしい。

「あの、すみません。そちらで犯罪加害者の家族の支援をしているとのことなんですが。●●市で登校中の児童の列に車を突っ込ませた事件の加害者の遺族です。弟がネット中傷とか、誹謗中傷の電話で仕事を首になってしまって、再就職もできなくて困っているんです。助けてもらえませんか。」

すると、ネットの投稿はまずはスクリーンショットを保存しておくことを勧められた。電話での誹謗中傷は対処がしにくいが、希望するのであれば誹謗中傷問題に詳しい弁護士を紹介できるとのことだった。

そこまで一気に美由紀は片付けた。その場にいた全員、ただただ唖然として美由紀の行動を見つめているしかなかった。

意外な人物

それから、美由紀と晋司はすぐに婚姻届を出して、晋司は松浦姓になった。晋司との離婚後、美由紀が引っ越して働いている九州のとある町で、晋司の母も含めた家族6人で住める家を見つけて、あの後すぐに引っ越した。晋司は美由紀の父から費用を借りて大型免許が取れる教習所へも通い始めて、生活再建のために動き始めた。

晋司は晋也と顔がよく似ていたが、遠く離れた町ではそれほど気にされなかった。最初は伊達メガネをしていたが、何もしないで外を歩いても、後ろ指を刺されることがないことに気がついてからは辞めた。

それから、2人でネットでの誹謗中傷の証拠集めを始めた。SNSや掲示板で「山田晋」と検索すると、山田晋司を狙ったと思われる投稿がたくさん見つかった。それを1つ1つ画像としてキャプチャして保存する。晋也が起こした事件から、晋司はネットをあまり見ないようにしていたが、必要な作業として腹をくくって行った。

自分への誹謗中傷を目のあたりにするのはかなり辛かったが、その作業を進める中で、本気の嫌がらせの投稿や拡散をしている人はそう多くないことに気がついた。

世間全般が敵に回ったように感じていたが、よく見てみると、誹謗中傷に対する反論や、パワハラの内容から犯人の家族に対する同情の言葉もかなり書き込まれている。

最終的に、ひどい投稿を何百回と行っているのは3人だと断定できた。そのうち1人は場所の特定や晋司の決まりかけた再就職先の特定などを行っているので、近隣に住んでいる人だと予想できた。あとの2人は、ただただ面白がって投稿を続けているだけのようだ。

それから、こちらも愉快犯と思われる、投稿を拡散するインフルエンサーが2人。自分では具体的なことは書き込まないが、拡散するときのちょっとしたコメントに、犯人の家族はこの世から抹殺するべきだ、というようなことを必ず入れる。

それを何百万人というフォロワーに拡散するのだ。その影響力はどれほどのものだろうか。

しかし、晋司は自分を苦しめていたものの正体が見えてきたことで、こんなものに負けて命を絶とうとしていた自分がバカらしくなってきた。そして、美由紀のお陰で戦う勇気が湧いてきた。

スクリーンショットを集め終わると、それを加害者家族のサポート団体から紹介してもらった、ネット中傷専門の弁護士に送った。美由紀はその費用を父に求めた。近所にいて、晋司の苦境を知りながら放置したことの罪滅ぼしをしろと。

ネット中傷専門の弁護士は速やかに発信者開示請求を行い、少し時間はかかったが人物が特定された。そして、松浦建設のホームページ上で美由紀の父、松浦建三の名前で声明が発表された。

山田晋也が起こした事件で被害にあった人への心からのお見舞いを述べたあとで、声明の内容は次のようなことを伝えた。


  • 山田晋也の兄弟は松浦建三の娘婿であることは間違いないこと

  • 娘婿は加害者の遺族として私財を投じて賠償金を支払っており、被害者とも全員和解が成立していること

  • 娘婿は酷いネットや勤務先への電話の誹謗中傷に苦しんでいたこと

  • 勤務先への誹謗中傷の電話により解雇されてこの地では再就職も叶わなかったこと

  • 娘婿自身が加害者本人ではないのに誹謗中傷の電話への対応をしなかった元勤務先の対応には大いに疑問を感じていること

  • ネット中傷については書き込んでいる人を特定するための発信者開示請求を行い、娘婿に対して発信者の個人情報が開示されたこと

  • 松浦健三としては、今後、誹謗中傷と戦うという娘婿をサポートしていく所存であること

  • 示談に応じるつもりはなく裁判で名誉毀損と損害賠償請求について時間と費用をかけても最後まで争うつもりであること

この声明が出されると、ネットでの投稿はピタッと止まり削除された。

しかし、既に発信者情報は山田晋司のもとに伝えられていた。

裁判所から送られてきた名前の1人を見て、美由紀と建三はびっくりした。なんと、晋司の居場所や再就職先を特定する投稿をしていたのは、美由紀が最初に結婚した元夫だったのだ。

建三は元夫の父親が経営する建設会社へ連絡をして、どういうことかと問い詰めた。父親が息子を連れて謝罪に来て、土下座をして裁判だけは勘弁してくれと頼み込んでいた。

動機を聞いてみると、美由紀と離婚後、女遊びが激し過ぎたことと美由紀との離婚の経緯から、結婚相手を見つけることができず、幸せそうな美由紀を妬んでいて、美由紀の再婚相手を不幸に突き落としてやろうとしていたとのことだった。

あまりにもアホらしい子供じみた回答に、美由紀は父親に、いくら会社のためとは言え、どうしてこんな奴と結婚させたのか、また強く問い詰めるのだった。

さらに、決まりかけた再就職を阻んでいたのも元夫だった。中傷専門の弁護士が、一度採用を決めたのにすぐに取り消した会社に直接出向き話を聞いたところ、すべての会社で、直後に猛烈な講義の電話がかかってきて怖くなって取り消したとのことだった。

相手の電話番号が残っていたところがいくつかあったので、弁護士が入手した。すべて違う番号だったが、かけてみると全員元夫の父親の会社の従業員で、そのときに元夫に頼まれてスマホを貸したという。

そのへんも問い詰めると、単なるゲームみたいなつもりだったという。会社の若い衆を使って晋司を尾行して行動を監視していたそうだ。

遊び半分で、こっちの生活を潰すつもりだったのか?晋司の心のなかには怒りが湧き上がって来るのだった。

他にネットに投稿をしていたのは、遠方に住んでいる、どちらもお互いに関わりのない30代の主婦と独身男性だった。他の投稿から見ると、とにかく人を貶めることが好きでやっていただけの愉快犯だったのはわかっていたが、今まで発信者情報開示請求を受けたことはなかったという。裁判はなんとか避けてほしいとこちらも懇願された。もう、二度とこのようなことはしないという約束で、こちらは示談にした。

2人のインフルエンサーの本名と住所も開示された。開示請求に裁判所が応じたということは、インフルエンサーの影響の悪質さを裁判所も認めたということだろう。

インフルエンサーは、開示請求までは強気の姿勢だったが、こちらが示談する気はないとはっきりと態度を示したことで、弁護士を通しての示談請求をしてきた。いつの間にか晋司の件に関する投稿も削除されていた。

しかし、晋司の行動を監視して個人情報を垂れ流しにしていた元夫と、遊び半分で人の生活を乱すことに喜びを感じているような強い影響力を持つ2人のインフルエンサーは、どうしても晋司は許すことができなかった。

また、インフルエンサーはどちらも晋司の件に関する投稿だけは削除したが、他の目に余る投稿はそのままだった。

費用はどれだけかかっても美由紀の父が持ってくれるという。また、実家を売却したお金も入ってきたので、費用の余裕はある。

晋司は名誉毀損を訴えるための刑事裁判と民事の損害賠償請求裁判をこの3人に対して起こした。

また、事件の犯人でもないのに弟を解雇したミケネコタケルの対応への疑問の声もネットでは上がった。美由紀の父は声明でミケネコタケルとは書いていないが、ネット上で断定できる情報が多く書き込まれていたことで、無実で真面目に働いていた従業員を守らずに解雇に追い込んだ会社の対応に疑問が呈された。

元従業員などからミケネコタケルでの晋司の真面目な働きぶりも拡散されたことから、ミケネコタケルも事実を認めて謝罪の声明を出さざるを得なくなった。また、世間体からドライバーとして戻ってくるようにと言われたが、晋司はもう戻るつもりはなかった。

Ⅳ:それでも時間は流れて空はどこまでも続いている

誹謗中傷と戦うための裁判を起こしてから半年後、晋司と美由紀、3人の子供たちは日本海側の有名な観光地にいた。夏は海水浴客で賑わうが、その他の季節は景勝地としても有名な場所だ。晋司の母は九州の家で留守番している。

海水浴ができる季節ではなかったが、波打ち際で子どもたちは遊んでいる。晋司はその様子を見ながら、あの日のことを思い出していた。

兄の晋也がボーナスで家族旅行に連れて行ってくれたときのことだ。すでに足腰が弱り始めていた父親のために、座席が回転する福祉車両を借り、車いすをトランクに積んで、晋司の運転で家族全員とすでに晋司と結婚していた美由紀の5人でここに来た。

最初にこの場所を見つけたのは晋司と美由紀だった。交際を再開させてから、子どもができるまで、晋司の大型バイクで2人はあちらこちらに出かけた。その一つがこの場所だった。

始めてのバイクでの旅行の日、迎えに来た晋司が、

「ミケネコタケル無事故無違反、超優良ドライバー、5年連続表彰の山田晋司、お義父様の大切な美由紀さんを安全に3日後にお届けに参ります!」

と晋司がおどけて言ったことを思い出し、美由紀は微笑んだ。

この場所の景色があまりにもきれいだったので、それを何度も実家で話していたら、両親も行ってみたいと言い、晋也が旅行を企画したのだった。

駐車場には砂浜に下りられる車いすが貸し出されていたので、父をそれに乗せて、この砂浜へ下りて景色をみんなで楽しんだ。波打ち際で晋也が仁王立ちになり、海を嬉しそうな顔で眺めていた。晋司は手を海水で濡らすと、しずくを晋也の顔にかけた。晋也が「何を」と言って、海水を手ですくって晋司にかけてきた。波打ち際で水を掛け合う兄弟を、楽しそうに両親は眺めていた。

晋司が起こした裁判はまだ続いていた。元夫に対しては和解勧告が出そうだった。元夫は全く無名の一般人だ。最後まで追い詰めても仕方がないと晋司も考えている。義父が地元の建設業界で、美由紀の元夫の所業を語ったため、父親が経営している会社との取引は減っているそうだ。

父親の代まではなんとかなりそうだが、跡継ぎがそのような男なら、将来的に不安だということのようだ。父親もそれなりに高齢なので、代替わりの時期は遠くない。そう考えて、事情を知った多くの地元の企業はその会社との付き合いを徐々に減らしていくようだ。

インフルエンサーに対しては、社会全体が裁判所の審判を求めている。表向きは最高裁まで戦うと宣言しているが、裏では和解を何度も申し出ている。しかし、晋司は妥協するつもりはなかった。

「あの日さ、お前が来てくれた日、ここに来ようと思っていたんだ」

「そうなんだ」

美由紀との思い出を作り、山田家の最後の思い出の地ともなったここで終わろう。そう思った晋司と義母の気持ちが美由紀には痛いほどわかった。でも、、、

「もう、あの日のことは忘れよう。お義兄さんのことは消せない事実だけど、子どもたちのためにも、未来を見なきゃ」

「そうだね」

美由紀にそう答えると、晋司は空を眺めた。最後の家族旅行から数カ月後に父が亡くなり、それからすぐに晋也がうつ病で倒れた。あの頃から長い時間がたち、とにかくいろいろなことが起きてしまった。今でも、母と2人になると、晋也をどうして救えなかったのかと話してしまう。

それでも、時間は前へ流れ続けていく。空もその日によって色を大きく変えるけど、どこまでもどこまでも広がっている。

晋司の今後には、まだまだ困難がつきまとうかもしれない。なんといっても、あれだけの事件を起こした山田晋也の弟であるという事実は決して消えない。しかし、これから先、あのときのように変なことを考えることだけは決していない。

「この空って、どこまで続いているんだろう」

「どこまでって、ずーっと向こうまででしょう」

波打ち際で遊ぶ子どもたちの向こう側に広がる広大な空を見つめながら晋司はつぶやき、美由紀が答えた。


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