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特別展 開館35周年記念 福田美蘭―美術って、なに?(名古屋市美術館)

はるばる来たぜ名古屋(来訪日9月末)。リニューアルなった名古屋市美術館は開場前からけっこう人が待ってた。

福田美蘭さんの作品を始めて見たのは

進化するだまし絵Ⅱ(ザ・ミュージアム Bunkamura)

が最初だと思う。ミッ●ー・マ●スとかをパロった危ない作品で、強烈に印象に残ったんだろう、10年近く前に見た一枚でしかないのにしっかり覚えている。

今回の企画展のお題は「美術って、なに?」 ふむ。

今日は写真撮影できるかな、福田さんのことだから大丈夫かなと思ってたらやっぱりね。

最初の一枚。

《志村ふくみ《聖堂》を着る》2004年

志村ふくみさん? 日本の染織家、紬織の重要無形文化財保持者(人間国宝)ということで、和服なんか超縁遠い私が知る由もないか。その作品が美術館入りするレジェンドらしい。もう着ることも触ることも出来ない着物だとか。

それが国宝だろうと飯を入れて食ってこそ茶碗、人が着てこそ着物だろうに。もう触ることすらも出来ない志村ふくみの着物を、それなら絵の中でご自分が着てみようかという試み。


《フランク・ステラと私》2001年

これは実際に取った記念写真を引き伸ばして絵として制作したという。それってゲルハルト・リヒターと同じことしてるね。

リヒターの考えも正直もうひとつよくわからないのだけど、現実を写真という所詮は光学によって集められた色ドットの集合体による科学的な虚構である投影物をまた人の手による絵の具を用いて再構成することで「現実」を人の手に戻す工程を踏むといったところか?

つまりは

現実→絵

現実→写真→絵

にしてみたってことかな。

この作品に付いてるキャプションで「この作品は美術を取り巻く様々な問題提起になるだろう」と書かれている。今回キャプションはすべて福田さん本人の手によるものと思われる。とても興味深いが、ゲージツ家の言葉ってめちゃくちゃ独特で意味を取りづらい。

展覧会の公式サイトでかなり読めるみたい。

と思ってたら、珍しく買ってきた企画展のブックレットに本人キャプションのフルバージョンが載っていた。

会場にあったのは要約されていたのね。買っといてよかった。

彼(フランク・ステラ)はアメリカを代表する。現代美術界の巨匠であり、すでに美術史の中に組み込まれた人である。彼と写真に収まることは刻々と流れる美術史とともに今の自分もあるという確かな記録になる。ここでは絵画に代わって引き継いだ写真の役割を再び絵画に描き起こしている。 一方絵画は創作であると同時に写真も今は簡単に合成ができる。そして見方によっては巨匠と私が並んでいるということの俗な点が美術の本質の一端であるように、この作品は美術を取り巻くあらゆる問題を含んでいると思って制作した。

福田美蘭展 ブックレットより

ここから更に引用

彼と写真に収まることは刻々と流れる美術史とともに今の自分もあるという確かな記録になる。

これってこの後の展示に出てくるあらゆる古典作品のパロディでも言えることで、福田さん自身はそれらの絵の中に出てこないが「美術史とともに今の自分もある」表現ではなかろうか。

絵画は創作であると同時に写真も今は簡単に合成ができる。

私なりに(余計な)解釈を進めると、

現実→絵
とした時、実は 現実=絵 ではない。描き手の主観が入るから「それってあなたの感想ですよね?」だ。現実≒絵 の方が正しいのは誰もが納得するだろう。

現実→写真とした場合は、いちおう 現実=絵(2D、3Dの問題は置いといて)とされよう。しかし福田さんも指摘するように昨今では写真も加工が随意にできる。

とするとひとの手による絵画と写真との差異はなにがあるのだろうか、が福田さんの問いである(かな?)。

更にややこしいことに、たとえ加工無し写真としても、写真は撮影者の主観や現実の改変が実はされている。

被写体が動くものなら時と共にそれは表情や姿を変える。被写体が動かないもであっても撮るアングルによってもまったくその姿は別物になってしまう。

写真作品とは、時間を考慮すれば事実上無限に近く存在する姿を変え続ける被写体の姿の中から「自分が作品として見せたいワンショット」を切り抜く作業。

写真の加工のみならず、更に今ではAIがあらゆる写真を生成できてしまう。中にはそれで(内緒でエントリーして)コンクールでトップを取ってしまうようなレベルまで出てきている。こうしたことに何かしら不気味なものを感じる人は少なくない。

現実の美人に恋をする、ブロマイドの芸能人に胸を熱くする、美人を描いた絵に思いを寄せる、萌絵のアニメキャラに恋い焦がれる…ここまでは普通に理解されてきた(最後はまだ微妙?)。それがAI生成写真だとなぜ「気持ち悪い」になるのか? アニメキャラも現実には存在しないのに?

このような時代に人が絵画を描く行為はいったい何を意味するのか? 絵画と写真とAI生成とそれぞれ何がどう違うのか。美術ってなに? 絵画ってなに? まだ誰も回答にたどり着いてはいない。たどり着けるのか回答を出す必要があるのだろうかとも迷う(なんてことまで福田さんが考えているかは知らないけど)。

《緑の巨人》1989年

福田さんの出世作らしい。緑の巨人(グリーンジャイアント)ってポパイとかみたいな野菜を売るためのCMキャラだったよね?

最近見ないなと思ったら日本市場からは撤退してるようだ。

この絵にはその後の福田美蘭作品の萌芽が詰め込まれている。古典であるミレーの絵、現代的なインスタントコーヒーの説明書イラスト(?)、デス・スター(?)…過去と現在と未来、現実と虚構、時空の入り混じった一枚。

写真ではよくわからないと思うが、ミレーの下がはめ込み画面みたいな画中画になっていて、しかもそれがジグソーパズルになってる。こんなのも初めて見た。芸術も分解すれば現実界のはめ込み部品で出来ている? つまり入れ替え可能?

伝統的絵画からコミックまで、視覚による情報として誰でも知っている既存のイメージで作品をつくっていこうとした。 そのイメージはすべて等価であり、何かを内包したり生み出したりすることもない。 映像というメディアによって私たちを取り囲む、現代のイメージの過剰とスピードを目に見えるかたちにしたかった。

ブックレットより

この絵の中でグリーンジャイアントは複数存在している。商標として大量生産されてるわけだし(アンディ・ウォーホルの缶詰?)  これが「イメージの過剰とスピードを目に見えるかたちにした」ものではと思われる。

現実にはひとつの何かが複数箇所に存在することはない。だがグリーンジャイアントのようなアイコンは人の頭の中で世に蔓延する。

これは商業的なアイコンだけの話ではない。例えば誰かの顔を見て昔の姿を瞬時に思い返しそれと比べて老いたことに気付く瞬間とか、イメージ的にはその人の存在が複数あることにならないか。

《涅槃図》2012年

この絵でもまた金太郎とか同じキャラが複数登場している。これはなんなのか。いろんなひとに幾たびも語られる金太郎さんは何体も同時にこの世に現れるということか?

《ぶれちゃった写真(マウリッツハイス美術館)》のぶれちゃった写真 by 少佐

もともとの《ぶれちゃった写真(マウリッツハイス美術館)》は福田さんがレンブラントの絵の横に立って撮った記念撮影がピンぼけになってしまったのをそのまま作品にしたと。なにやってんだよwww

それではと、こちらも負けずにぶれた写真の絵をまたぶれさせて撮ってみたのが上の写真(こんなの載せて怒られないかな…?)。指まで入った思いっきり失敗風ダメダメの一枚。いまスマホのオートフォーカス機能もすごいのでこれはこれで撮るのに苦労したよ。知らんがな?

《見返り美人 鏡面群像図》2016年

これぞアニメーション効果!! 分身の術! こうした古典絵画のアングルを変えた作品は多く続く。福田さんの持ちネタみたいになっている。

角度を変えた絵画。時間の推移を意識した作品も多い。ふと気付けばこれもというかこれこそキュビズムじゃないのか。いま「キュビズム展」が開催中なのでまたじっくり見てこよう。

《安井曽太郎と孫》2002年

これは見た見た、国立新美術館の大原美術館展で。

妖怪みたいなお孫さんを絵から抜き出してみたって感じ? だからあんたなにやってんだよ?!ww

にしても麗子像といい、身内を変な顔で描くの流行ってたのかな。ピカソに倣ったってこと?

《ミレー“種をまく人” 》2002年

これは「種をまいた人」。ホンモノがある山梨県立美術館所蔵らしい。ビフォーアフターみたいに並べることはめったにないと思うが、この作品を本物と同じところに所持する山梨県立美術館もさせた?作者も大したものだ。


伝フィンセント・ファン・ゴッホ《アルピーユの道》

ん?これもパロディ?と思ったら曰く付きのホンモノ?ゴッホ作品だったw
色が薄いのはいいとして、ゴッホ独特の奥行きがなく全体がペタンとしてるんだよな。本物のゴッホにもペタンとしてる作品はあるのかもだけど。なんか安っぽく見えるのは確かだこれって私の感想です。

《ゴッホをもっとゴッホらしくするには》2002年

で、偽物疑惑のある作品をまた福田さんなりに描写してみた偽偽物作品。私のほうがもっとゴッホっぽくできるわ!? わけわかめ。更に額はコピー紙かよ。

今回の展示にはなかったが、セザンヌ《リンゴとオレンジ》をおちょくった作品もあるらしい。
セザンヌの絵を美大予備校風に添削してみたということ。軸がぶれてる、質感がない、視点が定まってないとか、そりゃそうなんだけど「天下のセザンヌ大先生の作品をなんと心得るかっ!」と怒られそう。

でも、「セザンヌはよくてなんで私達がやるとダメなんですか?」とまっすぐな目で質問された時、予備校教師はなんと答えるのか?
偽悪者 美蘭 Miran は Villain なのかもね。

《湖畔》1993年

見えてない部分を広げてみる。こうしてみると素人風景写真かJRの観光ポスターだね。湖にネッシーくらい追加してほしかった🦕


《帽子を被った男性から見た草上の二人》1992年
《侍女ドーニャ・マリア・アウグスティーナから見た王女 マルガリータ、ドーニャ・イザベル・ベラスコ、矮人マリ ア・バルボラ、矮人ニコラシート・ペルトゥサートと犬》1992年
《幼児キリストから見た聖アンナと聖母》1992年

いずれもマネ、ベラスケス、ダ・ヴィンチの超有名作品のパロディ。「聖アンナと聖母」はなんだか女性誌の表紙みたいに見えてきた。

2Dの絵画作品を3D視点で別角度から見たらどうなるのかな?って試みはそういえばフェルメールで前に見たな。

今振り返ってもかなり興味深いセミナーだったね。必死のメモだったはずなのに今読み返すまでさっぱり覚えてなかったが…。


《テュイルリー公園の音楽会》2022年

マネの元ネタは

これ知らんな。やっぱりマネって日本であんまり紹介されてないのかも。福田版では現代の風景の中にマネの登場人物がチラホラ。これも共時性?時代が変わってもひとつ所に集う群衆は本質的に変わらない?

福田さんってマネに一番共感しているひとなんだろうか。作品へのアプローチの仕方が少し似ている気がする。マネって世間をアジるような実験作を出し続け、自分の絵画を極める気があったんだろうかとふと彼の晩年の静物画を見ていて感じたことがあったっけ。

福田さんはこのマネの絵に「完成を拒絶したような画面中央のグレーの荒々しい筆跡」を見るようで、私と似たようなことを感じるところもあったのかな。

会場二階は時事作品が多い。

《秋―悲母観音》2012年

狩野芳崖の観音さまの下に津波に沈む街を描いた震災直後の作品。なんかウルっときた。あの時の喪失感が甦ってくるのか。

《プーチン大統領の肖像》2023年

ホロッときた観音様の一方でプーさんの絵とかはあまり胸に響いてこない。モディリアーニ風に描いてみたらしい。時事を扱うならそれこそ報道写真でいいように思う。絵にするなら風刺画かな。何だこの違和感は?と自分でも思うが。数十年後、数百年後にこれらを見る人がどう感じるかはわからない。


今回の展示は千葉市美術館からの出典が多いから千葉でもやるのかなと思ったら21年にすでに千葉市美術館にある福田作品を集めた企画展的なのもうやってたんだ。私のアンテナに引っ掛かってこなかった。まああの頃は私もいろいろ大変な年だったしな。

朝イチから入館して、二時間くらいで見終わるかなと思っていたらあまりにおもしろくて13時過ぎまでいちゃったよ。モディリアーニ「おさげ髪の少女」なんかがある常設展も回りたかったし、せっかく名古屋にいるのでもう一箇所行きたかったんだけどやんぴ。疲れたし、この後の素敵なホテルステイの時間が短くなるのでまた次回と。

やっぱり悪漢の意識はあるみたい🎨


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