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百花春至って誰が為にか開く

坐禅ウィーク2日目!

今週は坐禅に専念するということで毎日、バーチャル坐禅会を開催しております。

初日のnoteはこちらから


百花春至って誰が為にか開く


今日は
「百花春至って誰が為にか開く」
(ひゃっかはるいたってたがためにかひらく)
という禅語を紹介させていただきました。


春になると美しい花が咲きます。お花見などではたくさんの人が花を見にいきます。
私たちはきれいな花を見ると幸せな気持ちになります。

しかし、花たちは私たち人間に見てもらうために美しい花を咲かしているわけではありません。

百花春至って誰が為にか開くとは
「春に咲く花々は誰かのために咲いているのではない」
という意味です。

花たちはただ一生懸命に自分に与えられた命を生きているだけなのです。

今の自分を懸命に生きている時が一番輝いています。

小学生の頃にカブトムシをとりにいったことがありますか?
まず、前日にハチミツとバナナで罠を作って、木にぶら下げます。
次の日の朝、早起きして罠を見に行ったり、樹液の 出る木の周りを探したりします。
小学生にとっては、前日の罠作りから、朝起きて準備をして、実際に探している時間のすべてがとっても楽しい時間です。

楽しいかどうかには、カブトムシが採れたかどうかという結果なんて関係ありません。

しかし、同じカブト狩りでも、小学生じゃなくて、カブトムシを販売する人だったらどうでしょうか? カブトムシを採るまでの過程よりも、実際に何匹採 れて、売れたということの方が大事になってきます。
もしもカブトムシが採れなかったり、せっかく採れても誰も買ってくれなかったりしたら、イラついてしまうことだってあるかもしれません。

夢中になってカブトムシを探している小学生のように、今の自分を生きることが大切です。

実際、この社会で生きていく上でどうしても「結果」というものは無視できないです。

しかし、結果ばかりではなく、起きる、食べる、歩く、座るといった生活の一つ一つも私たちの人生にとっては大切なことです。

今の一つ一つを大切にする。
今の自分、今の一瞬を大切に生きるということが禅の生きたかなのです。

「みんなに見られたい」なんて全く思っていない花だからこそ、きれいな花を咲かせるように、真剣に物事に取り組んでいる姿こそが周りの人に感動を 与えます。

リアルでもメタバースでも今のこの一瞬を大切に生きていききたいです。


ご参加していただきありがとうございました。


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