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リセットボタンか、巻き戻しボタンか

知事の勉強会、今回は自分の都合がつかなかったので録画視聴。お話を伺ったのはW先生。たくさんの人からの参照先となる賢人として著名な先生だが、コロナに関してはそれをどう評価するか沈思黙考されている最中で、今はまだあまり表では発言をされていないそうだ。SNS時代は特に、何か事件が起こると即レスが求められがちだが、そこから一歩引いて自分でよく考えることの大切さを教えていただいた気がする。

いくつかの注目キーワードと、自分のコメントを記す。

社会的共通資本

いわずとしれば宇沢弘文先生のコンセプトであり、資本主義が完全に行き詰まりを見せる中で、再び脚光を浴びつつあるように感じていた。2年ほど前から宇沢先生の娘さんで医師の占部まりさんと親しく交流させていただくようになり、宇沢先生の著作をいただいたりして読んでいたこともあり、個人的にも親しみがある。これにW先生が真っ先に言及されていた。

宇沢先生は、かつてモータリゼーションが加速する時代のまっただ中で、自動車の社会的コスト(道路建設、環境破壊、事故etc)を論じた骨のある学者だ。自動車会社はクルマを作って儲けているが、その儲けは間接的に社会的共通資本を犠牲にして成り立っているものではないのか、ということを鋭く指摘されていた。今、コロナだけでなく気候変動や様々な問題を前に、世界全体がこの社会的共通資本の重要性に気づきつつある。

お金さえあればなんでもできるわけではない。というかお金だけあっても何もできない。お金は人間社会のゲームを動かす道具に過ぎない。僕らの生活は太陽や、空気や、水や、森や、動植物や、エネルギーや、様々な資源によって成り立っている。資本主義をベースにこれからの社会を作るにせよ、それは金融資本主義ではなく、社会的共通資本主義、に修正する必要があるだろう。

仲買人

W先生は、外国のとある識者のメッセージ「Stay HomeからStay Safeへ」を紹介した上で、この危機は長期化することが明らかなのであれば、腹を括って、ずっと家にこもっていろというのではなく、どうやってより安全に外にも出ながら生きていくことができるか考えよう、という問いかけをされた。そして、滋賀県には近江商人の伝統があるが、商人はマーチャントだけでなくブローカーもいる。こんな時だからこそ「仲買人」が大事になるのではないかと。ブローカーというと、だいたい「暗躍」というような言葉と一緒に登場するような場面が多く、これまであまり良いイメージで語られることがなかったが、これからは「良い仲買人」が大事になるのではないかという話だった。

ここ最近(というかずっと繰り返されてきたことであるが)、電通やパソナ(竹中平蔵会長)による一般社団法人を利用した持続化給付金の中抜きが話題となっているが、そんなことが可能になるのも昭和の残り香が充満する霞ヶ関行政周辺だからであって、すでに世の中の大きな流れとしては、デジタル・トランスフォーメーションによって生産者と消費者がダイレクトに繋がれるようになることで、中間搾取が消えてコストが劇的に下がる現象が起きている。では、W先生がいう「仲買人」なんて要らないのではないか?という話も当然ある。

確かに、単なる仲買人は、もう要らない。生産者と消費者がダイレクトに繋がれて、価格に関する情報格差も限りなくゼロに近づいている時代に、その間でお金を抜くことはできない。しかし、そのような限界費用ゼロ社会が完成に近づくにつれ、今度は価格以外の要素が重要になってくる。スーパーで売っているミニトマトと、子供が自分で育てて収穫したプランターのミニトマトは、同じミニトマトでも価値が全く違うように、スーパーで売っているミニトマトでも、生産者の顔が見えるのと見えないのとでは価値というか、それを買う意味が変わってくる。「良い仲買人」というのがあるとしたら、ストーリーとか信頼とか「その人を通じて買うことそのものの意味」を付加する人だろう。これもまた社会的共通資本主義の表れの一つだろうか。

議論に加わっていた秋村さんの「Local to Localにおける”to”のところに、多様な人が入るべき。特に若い人がここを担うといい」という指摘もなるほどと思った。「良い仲買人」toの部分はとてもクリエイティブなものになる。

ディスタンシング

ソーシャル・ディスタンシングという言葉を「社会的距離」と訳すのは、どうかという話がある。まぁ、「Go to travel」キャンペーンを打ち出してしまう霞ヶ関英語ということで仕方ないのかもしれない。W先生が指摘されていたのは、ディスタンスを取ることは必ずしもネガティブなわけではなく、自然とうまく住み分けして、動植物と共存してきたのが、これまで里山に生きていた人間の知恵だったんじゃないかと。自然と、ウィルスと、あらゆるものと共生する「ちょうど良い距離」というのを、里山の暮らしに学び直す時期が来ているということをおっしゃりたかったのだと思う。

この話を聞いて、友人の井口奈保さんを思い出した。奈保さんはベルリン在住のアーティストで、環境活動や研究も行い、最近は「Give Space」というコンセプトを提唱している。動物の世界には、相手のスペースを大事にするという、共生のための大前提のルールがある。動物は、どう猛な肉食獣でさえ、捕食対象となる草食動物の生活スペースは尊重して、必要のない時には近づかない。しかし、僕たち人間は、動物を含めた他者が大事にしてきたスペースを、自分たちの都合でどんどん作り変えて、蹂躙してしまっている。人間はもっと、他のいのちへのリスペクトを持ち、それを尊重するスペースを確保すべきなのではないか、という提案だ。

同じディスタンシングでも、自分を中心に考えるか、相手を中心に考えるかでは、確かに違いが生まれるように思う。W先生は「ディスタンシングの解除を待つのではなく、案外これは大事な概念なんじゃないかとポジティブに捉え直す必要があるのでは」とおっしゃっていた。ディスタンシングは分離ではなく共生で捉えたい。家畜の劣悪な飼育環境の話題も出た。現在の世界の環境運動は「未来の子供たち」をステークホルダーに含める流れとなっているが、人間だけでなく動植物も重要なステークホルダーに含めて考える(人間が生きるために利用する必要なものとしての位置付けではなく、動植物にも”人権”を設定するような仕方で)ことが大事になっていきそうだ。

生活そのものが資源である

コロナで一番怖かったのは、食べ物が手に入らなくなったらどうしようということ。今回のコロナで、いざという時に食料やエネルギーなどの生活必需品をできるだけ自給することの重要性が明らかになった。そのことを考える時、W先生は「都道府県よりも、昔からの藩を見直してはどうか。藩は水源を共有している集団であり、食材を共有している集団であり、言葉や生活習慣を共有している人の集団なので、県より藩の方が、危機対応のまとまりとしては、うまくいくのではないか」という提言をされていた。これは言い換えると、社会的共通資本をベースとした共同体のアイデンティティを再構築するということかもしれない。置藩廃県、は行き過ぎかもしれないが、東京都民と東北の原発の関係、京都市民と琵琶湖の関係などを見るにつけ、もう少し社会的共通資本を守っている周辺県へのリスペクトを特に大都市を要する都道府県は持った方がいいのではないかとも思う。

京都と滋賀の関係性の話題から、W先生のコメントは観光にも及んだ。これまでは観光において滋賀は京都に付随するポジションでしかなかったかもしれないが、これからは短期の集中的な観光は京都に任せておいて、滋賀県は滞在型の観光をアピールしていくのがいいという話だった。これについては、僕はその通りだと思いつつも、W先生よりももっとラディカルな進め方もできると思っている。以前にもこの方丈庵に書いた話を以下、引用する。


【Inside/Outside】観光の終焉を宣言したコペンハーゲンの歩き方 #3 一時的市民として体験するコペンハーゲン

「観光の終焉」というのは、その通りですね。
記事によれば、デンマークのコペンハーゲン市が発表した観光に関する新しい戦略のポイントは以下のようなものだとか。

・観光客として扱われたい観光客は激減した
・観光客は一時的な市民として接するべき、コミュニティに貢献できるはずであり、それがきっと魅力になる
・コペンハーゲン市民の生活こそが観光資源
・リトルマーメイドはなにも気持ち的なつながりを生まないが、市民は生んでいる
・マスメディアでキャッチコピーを届けることより、市民ひとりひとりからストーリーが伝わっていくことが大切
・ひとりひとりの体験が伝わっていくことがコペンハーゲンのブランディングの成功指標となる

そもそも「観光」という言葉は「国の威光を観察する」が語源ですが、今、日本という国の威光を観察しにくる人はいないでしょう。

確かにまだまだそれなりに、大型バスで団体が土産物屋に乗り付けて買い物、みたいな従来型の「観光」スタイルがなくなったわけではありませんが、日本人でそういうスタイルの「観光」を楽しむ高齢者世代は20年後にはいなくなるだろうし、主にアジアから来る団体旅行客もどんどん感覚が変わっていくはず。20年後に今と同じように消費型の「観光」を楽しむ人たちが存在するという前提でモノを考えることはできません。

今、インバウンド(訪日外国人旅行)の増加を神社仏閣がチャンスと言われますが、それも捉え方次第です。今、神社仏閣の「観光」を担う人たちが、未来を見据えて開発に携わっているのかどうか。ただ宿坊を作れば良いという話ではないし、もちろんアミューズメント的な要素を増やすことが正解でもないはずで。最近、仏教界を見渡してみると、けっこう大規模な開発がなされているところがあるので、長い目で見た時に、心配が残ります。作ったばかりの今は良くても、20年後、世の中のトレンドがすっかり変わった時、負の遺産になってしまわないかと。

去年書いたこの記事が言っていることは間違っていないけれども、こうして今コロナを経てみると、時間感覚が悠長すぎたことに気づく。コロナはこの分野に関して、時計の針を一気に20年進めたように思う。世の中のトレンドがすっかり変わるのは、20年後ではなく、今の話だ。

僕はこれから盛り上がっていくのは、滞在型といっても、観光というより生活であり、コロナを経験した今となってはリトリート(疎開的生活・退避・癒し・内省・リラックス)になるだろう。

市民が環境意識の高い生活を守ってきた滋賀なら、世界の里山リトリートの滞在地として魅力的な価値を提供できるはず。極端な話、今後のインバウンドは、田舎の里山リトリートが主な目的地となり、京都の有名寺社などは「日本に来た証拠写真を撮りに、一応寄っておくか」とおまけで立ち寄るものになるのではないか。

終わりに

三日前、世界経済フォーラムから「The Great Reset」イニシアチブ立ち上げが発表された。

それに合わせての動画では、英チャールズ皇太子を含む各界のリーダーが発言したが、IMFゲオルギエヴァ氏のスピーチがパワフルだった。

「Great Resetが必要だ。Great Reversalにしてはならない」

知事の勉強会で、複数の賢人たちから聴かせていただく方向性はだいたい共通している。目指すべきビジョンは明らかだ。あとはもう、僕らがリセットボタンを押して、そこへ向かっていけばいけるかどうか。巻き戻しボタンを押したい勢力とのせめぎ合いが続く。

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