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The End of Tokyo

今、線路は途絶え、僕らは荒野に放り出された。

ポスト・コロナの世界について、ここ2ヶ月ほどで20名を超える多様な識者の方のお話に触れてきた。「ポスト・コロナの展望」にまとめたように、世界がどこに向かうべきかについては、すでにかなりはっきりしているように思える。

それが実現されるために決定的に重要なことがある。それは、この世界の今を生きる僕ら一人ひとりが、自分の人生の運転手にならなければならないということ。これからの世界では、クルマは自動運転になり、AIロボットで置き換えられるあらゆるものが自動処理されるようになっていく代わりに、自分の人生と、自分が生きる世界をどうするか、自分で主体的に決めなければならなくなる。レベル5のテスラは目的地まで自動運転してくれるかもしれないが、目的地をどこに定めれば良いのかまでは、教えてくれない。

あるいはこうも考えられる。ビフォアコロナでは、僕らはあらゆるタスクを人力で忙しく運行してきたかもしれない。しかし、自分の人生がどこへ向かっていくか、自分たちの暮らす世界をどうしたいのかについては、あたかも誰か知らない人がひいたレールを走る列車に乗っているかのように、レールの先にある目的地については自分には決める権能がないものとして、やり過ごしてきてしまったのではないだろうか。

今、線路は途絶え、僕らは荒野に放り出された。祖先と違って今は猛獣の脅威に怯える必要はないが、気候変動やウィルスの脅威はむしろ増している。そして、僕らにはテクノロジーがあるけれど、資源は枯渇しつつある。先人の知恵に学びながらも、まったく新しい時代環境を踏まえて、一人ひとりが自ら目的地を設定し、そして連帯しなければならない。それがなければ、仮にポスト・コロナ社会がどこに向かうべきか、すでにはっきりしているとしても、絵に描いた餅だ。

拗ねた人と火事場泥棒

翻って、僕らは。バルセロナ市民の対話プラットフォームをこの国に持ってきたところで、どう転んでも機能する気がしないのはなぜだろう。見る限り、「拗ね」というのは一つある。つまり、自己肯定感の低さだ。この国には、「どうせ俺は」「しょせん私なんか」といった「拗ね」が蔓延している。批評家の宇野常寛氏がいうところの「世界に素手で触れる感覚」を失うと、「拗ね」が生じる。特に、東京一極集中が構造的に生み出す勝ち組と負け組の構図の中で、周縁の人々ほどその心性に「拗ね」が染み渡ってしまっている。拗ねた人同士では、対話にならない。ましてや未来のことなど語れない。まず、人々の「拗ね」を解消することが先決だ。広く人々の「拗ね」を根本的に解消するには、結局のところ、食生活や住環境、家庭や職場の人間関係の向上といったウェルビーイングを高める方策を地道に積み上げていくしかない。一度拗ねてしまった人が気持ちを立て直すのに時間がかかるように、蓄積された集団的「拗ね」をほぐすには、相応の時間がかかる。

では、中央あたりにいる拗ねていない人たち、拗ねの軽度な人たちなら変革を起こせるかといえば、それも今のままではイメージが湧かない。既存のシステムの中で優位に立つ彼らには、変革を起こすモチベーションがない。むしろ、そのシステムを延命することに汲々とし、人によってはシステムの奴隷となっているようにも思える。考えてみれば当然だ。中央のエリートが革命を起こすはずがない。理由がないからだ。むしろ彼らは革命を恐れている。いわゆる勝ち組はたとえ社会システムが致命的なエラーを抱えていることに気がついたとしても、斎藤幸平氏が指摘するように「大洪水の前に」よろしく、自分たちだけは生き残ろう、あわよくば火事場泥棒を働こうとするだろう。やがて誰もが死ぬ存在であるという自覚が希薄化し、痩せ細った死生観が蔓延する今日では、なおさらその傾向は強まる。結局のところ、中央の人も拗ねている。拗ねているから火事場泥棒に走るのだとも思う。

大洪水の始まり

周縁部には拗ねた人々、中央には火事場泥棒。この絶望的な状況に、しかしやはり風穴を開けるのも、コロナではないか。今起こっている象徴的なこととして、中央の中でも最も力のある層に属する人たちが、東京を脱出し始めている。ある人は地方と東京の二拠点生活を、ある人は地方へ完全移住、ある人は会社ごと地方に移転。以前から気づいている人は気づいていたこの社会システムの致命的なエラーが、コロナのおかげで白日の元にさらされ、大洪水がぼんやりとした未来ではなく今すでにその入り口にあるものとして、認識されるようになってきた。もはや周縁部で拗ねている場合でも、中央で火事場泥棒している場合でもない。そういう共通の危機感が、未だ水面下ではあるが確実に感度の高い層に広がりつつある。オリパラ開催に関する世論の風向きを見ていても、感じられるところだ。

とはいえ、この国の人々が、危機感を背景によりよいシステムへと社会変革を起こすことは考えにくい。自然災害があまりにも多いからだろうか、自省心が育ちにくい風土でもあるのだろうか。喉元過ぎれば熱さ忘れるという言葉もある。どんなクライシスを経験しても、次に起こるであろうそれについて真剣に議論して準備することが、この国の人は得意ではないようだ。東京一極集中による確実で途轍もないリスクに対するこれまでの社会の対応を見れば、それは明らかだろう。社会変革をテーマに掲げた途端、拗ねた人々と火事場泥棒の目先の綱引きがすぐに始まってしまう。

では、どこに突破口があるのか。やはり、コロナによって明らかになった、「我々は本当はすでに大洪水の入り口にいる」という共通認識ではないか。皆、目先では綱引きをしたとしても、心のどこかで大洪水が来ることを確信し、恐れ、それに対する備えをしなければいけないことに気づいている。そうはいっても「綱引きをやめて、大洪水への準備をしようよ」という呼びかけはこの国で受け入れられにくい。しかし、「私たちはもう、大洪水の入り口に立っている」というところでの合意なら、取り付けられる可能性があるのではないか。

トーキョーの終わり

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