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Mindfulness for shameful evils

マインドフルネスが世界に広まって久しい。先行して広まったヨガが個人のエクササイズやウェルネスとして広まったのに対し、マインドフルネスは「生産性」や「集中力」といったキーワードとともにビジネスの文脈でより広く受容されてきた。しかし、マインドフルネス実践者が増えるにつれて、その副作用も認識されるようになってきた。

(オリジナルの英語記事)

(同内容の日本語記事)

このところマインドフルネスの負の側面に関する論文を読み込んでいたのだが、さまざまな調査研究が示すところによると、マインドフルネス瞑想によって、一定程度の人が、以前より自己中心性が高まったり、他者への関心や思いやりが低下したりするという結果が明らかとなっている。特に、もともと独立心が強く個人志向の高いタイプの人(independent)が実践すると、Prosocial Behavior(向社会的行動)が抑制され、より自分のことだけ考えるようになったり、より他者の苦しみに対して無関心になったりするようだ。一方で、もともと他者との関係性を大切にするタイプの人(interdependent)がマインドフルネス瞑想を実践する場合には、Prosocial Behavior(向社会的行動)はむしろ活発になるという。

言い換えると、エゴの強い人がそのことに無自覚なまま瞑想することにより、その人の「I(私)」性を強化してしまう一方で、自分自身のエゴをしっかり認識してうまく付き合えている人が瞑想すると、その人の「We(私たち)」性が広がっていくということだろう。つまり、マインドフルネス瞑想だけをツールとして切り出して実践するのは危険であり、もしそれを生活に取り入れたいのなら、そのベースとして「We are interbeing(私たちは関係性の中で成り立っている)」という仏教の縁起・空の思想に基づく世界観や人間観を同時に耕していくことが大切だ。そうでなければ、せっかくのマインドフルネス瞑想も、エゴを強化するばかりの「なま悟り」をもたらすことになってしまう。

そうした傾向は特に、知的レベルの高い層において、顕著であるとも言われている。マインドフルネス瞑想で強調される、「いまここ」への気付きと自らが置かれている状況に対する受容が、苦しんでいる他者を目にしたときの知識層の感受性を減退させ、結果、苦しむ他者が困難から抜け出すのを助けるアクションを妨げてしまうというのだ。恐ろしいことに、ビジネス世界でマインドフルネス瞑想に高い関心を持つ層とまさしく合致してしまっている。もしあなたが、マインドフルネス瞑想を始めた結果、いったんは生産性や集中力が高まって喜んでいたのだけれど、気づけば人間関係が希薄になり社会に関心が持てなくなったと感じているなら、もしかしたら原因はその辺りにあるのかもしれない。

“Present moment awareness and acceptance of the status quo may result in reduced arousal when witnessing others suffering, thereby preventing high intelligence individuals from helping the sufferers to get rid of trouble.”

仏教においては、いかなる宗派や伝統であれ、仏教であるかぎり、必ず「智慧」と「慈悲」が両輪でなくてはならない。

あらためて今こそ、親鸞という仏教者を世界に紹介したい。

親鸞は、今でこそ世界で最もsecular(世俗化)な宗派である浄土真宗(私調べ)の宗祖として知られているが、法然上人の浄土念仏門に入るまでは、比叡山で20年間も厳しい修行に没頭してきた人である。そこでは仏教の学問のみならず、多様な瞑想法にも取り組んだに違いない。親鸞も、今でいうところのマインドフルネス実践には十分に親しんでいたはずだ。親鸞の言行を収めた『歎異抄』で語られる「親鸞一人がためなり」は、親鸞の集中系マインドフルネスの発露のように、私には聞こえる。

しかし、だからと言って、親鸞は決して自己中心的な「なま悟り」には陥らなかった。いや、放っておけばそうした自己中心的な「なま悟り」には陥ってしまう自己の本性に、徹底的に向き合った人だった。マインドフルネスも十分に収めたはずの修行マスターの親鸞が、生涯問い続けたのが、罪業深重の凡夫であることを決して離れられない、自己の「悪人」性だった。そして、「恥ずべし、傷むべし」と、そうした自己の本性を嘆き悲しみながらも、だからこそ仏の声、自己の心の声、他者の心の声に耳を傾ける「念仏」と「聴聞」の仏道実践の道を開いた。

歴史的に、日本の幅広い知識層から時代を超えて親鸞が参照され続けているという事実は、ツールとしてのマインドフルネスの限界が見えつつある現在、何か大きな示唆を与えるものであるように私は感じる。

論文によると、集中系のマインドフルネス瞑想は「今ここ」を強調するがゆえに、自分が過去に起こしてしまった問題に対する罪の意識を軽くするがゆえ、通常であればそれに対して被害や迷惑を被った他者に対する謝罪やフォローが望まれるべきところで、そうしたアクションを抑制してしまう効果が見られるという。一方で、”Loving Kindness”と呼ばれる他者を思いやる種類の瞑想は、むしろその反対の効果につながるという結果も出ている。薬に作用と副作用があり、だからこそ適切な処方が必要になるのと同じように、マインドフルネス瞑想も人によって状況によって適切なものは変わってくるだろう。

ポジティブ思考全盛の現代では、罪の意識はネガティブ思考として片づけられてしまうかもしれない。しかし、仏教の根本的な考え方からすれば、私たち生き物は皆、関わり合いの中で相互依存的に成り立っているのであり、社会的生き物である人間はなおさらのこと、そのことに自覚的である必要がある。もちろん、ポジティブ思考の中にも「他者への思いやり」は含まれる。しかし、親鸞はそれを、明るく語らない。なぜなら、他者への思いやりを持ちたいと本気で願えば願うほど、根本的にはどこまで行っても自分勝手で中途半端な形でしか他者を思いやることのできない自己に、出会わざるを得ないからだ。

「生産性」や「集中力」を求めてハッピー&ポジティブにマインドフルネスを実践する私たちに対して、「恥ずべし、傷むべし」と水を差すように語りかけてくる親鸞の思想は、マインドフルネスがこれだけ広まった今だからこそ、響くものがあると思う。

“Mindfulness for shameful evils”

かつて世界に禅を広めた鈴木大拙翁は、実は念仏者でもあったのだけれど、大拙の時代にはそれが伝わるにはまだ早かったようだ。

今こそ、鈴木大拙が十分に伝えられなかったもう一つの日本仏教の側面を、世界に伝えるタイミングだと思う。


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