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ゲームを終わらせろ

産業僧として多くの企業社員の方と対話する中で感じていることがある。それは、新卒から生え抜きでやってきた社員や、入社してから社歴が長い社員、年齢とポジションが上の社員ほど、「恐れ」が強くなり、萎縮したり忖度したり、方向性を見失ってしまいがちなのではないかということ。

以前、テンプルモーニングラジオの収録で、自死念慮者の電話相談の活動をしているお坊さんのお話を聞かせてもらった時に、「電話をかけてくるんだから、そのことを話したいはずなのに、なかなか自分からは言い出せない人もいる。なので、こちらから水を向けることもあるんです。”そんなに辛かったら、死にたくなることだってありますよね”とか」という話があった。それと同じではないけれど、僕も対話相手に「そんなにしんどかったら、転職とかも考えたことあるんじゃないですか」など、少し突っ込んだ質問をしてみることもある。

そんな中で、上術したような社員の方ほど、「恐れ」が強い傾向があるように感じられるのだ。

なぜそうなるのか。

企業組織で働くことは(というか、現代社会で「働く」ことをしようと思えば、公務員であれ、NPO職員であれ、僧侶であれ、否応なく同じ土俵に立たされることになるのだけれど)、経済社会のビジネスというゲームに参画し、xx株式会社というチームに属して、与えられたポジションでプレーすることに合意したことになる。チーム内でのポジション争いにも巻き込まれつつ、ビジネスのゲームで勝つことをチームで目指す。

当たり前だけど、他のチームでプレーしたことがなかったり、チームに在籍する期間が長くなったり、年齢を重ねて気力や体力が落ちてきたりすれば、今のチーム、今のポジションに「しがみつく」選択肢以外、考えられなくなっていく。一度、このチームから追い出されたら、人材としての市場価値などありそうもないし、もう自分には行くところがないんじゃないか、生きていくことができないんじゃないかと、思えてくる。今のチーム、今のポジションにいること以外の選択肢を考えられなくなると、今のチーム、今のポジションにいることを全力で正当化するための理由を考えるようになる。見るのが怖いものは見ないようにして、自分で自分を狭い世界へ追い込んでいく。

そうした「恐れ」が地雷となって、自分も周囲も地雷を踏まないように行動する。そのような上司を戴く部署は、チーム全体が何らかに抑圧されていて、機能低下に苦しんでいるように思う。

どうすればいいのか。『仏教思想のゼロポイント』(魚川祐司著、新潮社)で、「世界を終わらせろ」という表現が出てくる。それと同じことで、ビジネスというゲームから降りることが必要なのだと思う。何も、いきなり会社を辞めろとは言わないし、望むならばそこに居続けていい。しかし、あまりにも強くゲームにハマり込んでしまうが故に、自分がゲームに参画していることすら見えなくなって、そのチーム、そのポジションにいること以外に、自分の人生はないんだと思い込む状態は、洗脳状態と変わらない。


だから、その傾向が強い人には、他の選択肢を持つことをオススメする。例えば、会社を辞めて市長選に立候補する人生だってあるし、別の街や村へ移住して小商いを始める人生だってある。出家する道だって誰にでも開かれている。もちろん、そうした選択肢が簡単な道ではないことも、理解している。でも、この世界には、自分がプレーしているゲームとは全く違うゲームに身を投じている人だって思いの外いるものだし、ゲームに巻き込まれながらも没入せずに正気を保っている人もいる。会社を辞めなくてもいいけれど、ゲームから降りる視点、ゼロポイントに立ち戻る機会を持つことで、自分が今、はまり込んでいる場所から、一回プラグを抜いた上で、差し込み直すことが大切だと思う。コンセントも、時々抜き差ししてほこりを掃除しないと、錆びついて抜けなくなったり、ショートしてしまうものだ。

僧侶が企業組織(あるいは社会)に関わることの意味の一つは、そこにいる人がはまり込んで苦しんでいるゲームのリセットボタンを、一緒に押してみる機会を作ることだ。宗教団体よりよっぽど巧妙で見えにくい企業組織のカルト性から、その人が降りる糸口を一緒に作ること。無論、これは、自分自身が宗教組織など何らかのカルトにはまり込んでいる僧侶には、できる仕事ではないと思う。

産業僧をしながら、思うことがある。

日本企業、ひいては日本社会の停滞を招いている大きな原因の一つとして「企業が社員を解雇できない」法律があるのではないかと思う。このことだけ切り取られると、新自由主義者かとか、資本家の肩を持つのかとか、思われるかもしれないが、僕は資本家の理屈で大上段から主義主張したいのではなく、むしろ、その法律が、当の労働者自身の首を絞めてしまっているのではないかという懸念から、問題提起をしている。

奇しくも、社会学者の宮台真司が(口は悪いけれども)同様のことを考えていて、面白いなと思った。下記の動画の最後の方で、その話をしていた。


「企業は労働者(正社員)を解雇してはいけない」という法律は、一見、労働者を守るもののように見えるけれども、だからこそ正社員と非正規社員の格差を生み出すのだし、雇用流動性は低下し、産業構造の転換を阻み、社会全体が停滞していく。雇用側も雇用される側も、本来は、お互いにしがみつく必要などないのだ。しかし、正気を失って地雷を地中に埋め始めると、「しがみつこう」とし始める。お互いにそこに陥らないためにも、「しがみつける制度」を解いて、軽やかに社会(仕事)を横断できる雇用環境を作れるといい。そうすることで、社会全体の活気が出てくるだろう。もちろんそのためには、離職に伴うリスクを担保するベーシックインカム然り、社会保障の制度を整えていくことが前提となるけれども。今の状態は、言い換えると、経営者にとっても、労働者にとっても、失敗の許されない、再チャレンジのできない仕組みなのだ。

今の日本社会は、あまりにも恐れに溢れている。失敗が許されない(という思い込みによる)恐怖、このチーム、このポジションを失ったら他に生きる道はない(という思い込みによる)恐怖が、あまりにも強くないか。

これからの時代の生き方として大事になるのが、誰もが部分的に労働者であり、資本家であり、消費者であり、分解者であり、農民であり、発電者であり・・・というような、一人一人がちょっとずつ全部やるような、そんな生き方なのだろうと思う。日本人の多くはかつてはそうであった「百姓」とは、今では農業従事者を表す意味で使われているが、本来は「百の姓」、つまり社会(村)で生じる様々な役割を兼業的に担うことを意味する言葉であった。社会には、専門に携わるプロフェッショナルな存在がいながらも、人々はプロかどうかを問うこともなく、出来うることを何でもやっていたのだ。

難しく考えることはなくて、ほんの少しだけでもいいから、ちょっとずつやってみるような感じでいい。そして、そうしたたくさんの役割のベースに「誰もが部分的に出家者であり」というのが必要になるだろう。色々やるからこそ、全部のゲームから降りる機会も、大切になってくる。


心配しなくても、大丈夫だよ。困ったときは、うちに来なよ。そんな無畏施が、もっともっと、必要だ。仕組みの改革を待つよりも先に、どんどん動いていくのが菩薩行だと思う。

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このnoteマガジンは、僧侶 松本紹圭が開くお寺のような場所。私たちはいかにしてよりよき祖先になれるか。ここ方丈庵をベースキャンプに、ひじ…

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